シナリオ開始直後:上泉道場 【戦国統一オフライン:補遺短編】

友野 ハチ

シナリオ開始直後:上泉道場 【戦国統一オフライン:補遺短編】

 稽古場の奥の間に置かれている刀に向けて、少女の手がじわじわと伸びる。けれど、触れるかどうかのところで動きが止まった。


 廊下からその様子を見つめていたこの道場の主、上泉秀綱は声を出さずに見守っている。


 朝顔という名のその少女は、上泉一門の正式な門下生ではないが、出入りの薬草園を預かる農家の娘で、日頃からこの道場に出入りしている。


 少し震えた手が、ついに刀の柄を握る。少女が握ったのは、剣聖と呼ばれる新陰流の開祖、上泉秀綱の愛刀だった。自らの刀を握る少女の姿に、道場主は満足げに頷いて自室へと向かった。


 自らの震える手を叱咤するように叩いて、刀を胸に抱いた少女は歩みを進めた。戦場へと向かうために。




 四半刻も立たぬうちに、朝顔は両親に引きずられるように道場へと連れてこられた。胸には刀が抱き竦められている。


「秀綱様、申し訳ございません。娘が、大事な刀を持ち出したようでして」


「けど、蜜柑様のところに行かなくちゃ」


「どうしても行くというのなら、それはかまわん。だが、盗人になるのはいかん」


「でも、それじゃあ戦えないの」


「鍬でも手槍でも持って行くがいい。さあ、謝れ」


 農夫が娘の頭を床に擦り付けるのを、上泉秀綱は少し困ったような表情で制した。左右には、高弟の神後宗治と疋田文五郎が控えている。


「まあ、待て。剣士として行くのであれば、勝つ余地を広げるために得物を選ぶのは、むしろ当然だ。……朝顔よ、だが、お主が行って、蜜柑のためになるのか?」


「ですけど……、鬼幡が攻め込んでいるのです」


 額に微かな擦り傷を付けた少女が、必死な声音で応じる。国峯城を領する堂山氏が、同じ箕輪衆に属する鬼幡氏に攻められ、合戦で大敗を喫したとの情報は既に入っている。蜜柑というのは堂山家の娘にして、上泉道場の正式な門下生となっている人物である。戦場に出ているはずはないので、国峯城にいると思われた。


「堂山家は苦境にある。蜜柑は、どのように身を処すか……、逃げ落ちるか、殉じるか、降伏するか。ぎりぎりの判断を迫られるだろう。そこにお主が現れれば、余計な考えごとを増やすかもしれぬ」


「では、このまま傍観せよとおっしゃるのですか」


「いや、覚悟を固めて選択せよと言っておるのだ。行くと言うなら、その剣はやろう」


 朝顔の目からは涙がこぼれ落ちた。彼女も戦国に生きる者として、戦さに敗れた者の運命については把握している。当主が討ち死にしたらしい状況で、攻め落とされる城にいる若い娘の運命が、穏やかなものであるはずもない。


 刀が少女の母親の手に渡り、一家は剣豪の前から辞去した。


 髪をかきむしって立ち去ろうとしている師匠に目線を投げながら、神後宗治は同格の高弟に呟くような問い掛けを投げた。


「堂山勢は全滅に近かったようだな。今後をどう見る」


「城は空っぽに近いだろう。嫡子はまだ幼いが、降伏して生かされる目があるとは思えぬ」


「ならば、籠城するか、あるいは一戦して散るか、しかないわけか。いずれにしても蜜柑に生き残る目はないな」


 どこか突き放したような響きがある若き剣士の言葉に、文五郎が痛々しい表情で応じる。


「父親が存命であれば、あの御仁は娘だけでも落ち延びようとさせたかもしれぬが……」


 道場に入り浸って剣を振るう堂山蜜柑は、通常の武家の娘の概念からは外れた存在となる。母娘の間の隔意を母親の無理解と決めつけるのは、一面的に過ぎよう。


「あやつが先頭に立って抗戦すれば、また違う道が見つかるかもしれんのにな」


「当初の戦さに参加していればそうだったかもしれぬが、ことここに至ってはなあ。仮に押し戻せたとして、援軍の当てはあるまい」


「箕輪の殿が、滅びつつある堂山に心を配るとは思えんしな。それにそもそも……」


「散々、女の身で剣術など、と責め立てておったからな。ここで言葉を翻すようなら、あそこまでこじれてはいなかっただろう」


 道場主の甥に当たる又五郎の口調は苦々しいものとなった。


「生き残る道があるとしたら、今からでも違う家に入るしかないのかもしれぬ。そう思わんか?」


 神後宗治が兄弟弟子の瞳を覗き込む。


「それはそうだが……。もっとも気安く接しているのはお主だろうに」


「バカ話をするのと、夫婦になるのは違うだろう」


「では、相手が見つかりそうにないな。師匠の後添えというわけにもいかんだろうし」


「だなあ」


 大仰に頷きながら、神後宗治は改めてこの文五郎と妹弟子の間に脈がないことを確認し、苦い嘆息を漏らした。彼からすれば、堅物そのもののこの人物と、意外と堅いところのある堂山家の娘は似合いの二人に思えていた。だが、この逃げ道も開かれてはいないようだ。


 単身で逃げてくるようなら、師匠の後添えに入る言い張る手は妙案だとは思うが、彼の知る蜜柑がその選択をするとは思えない。もうひとつ息を吐き出した若き剣士は、素軽い所作で立ち上がった。


 


 道場の屋根の上には櫓状の物見台が設置されている。新陰流の道場がある八幡八幡宮辺りから見たときの国峯城は、丘陵地と平地を経て至る南方の山中にある。城の構造物までは見えない位置関係となるが、朝顔は国峯城の方角を把握していた。


 夕刻から、朝顔が櫓の上で膝を抱えていた。その後の情報で堂山の当主の妻……、蜜柑の母が自害したらしいことが聞こえてきた。いよいよ厳しい状況となるだろう。


 既に空は暗くなり、東方からは白く大きな月が顔を出している。星の散る空を仰いだ朝顔の胸中には、蜜柑の笑顔が浮かんでいた。


 朝顔は上泉道場の正式な門下生ではない。農家である両親が道場の薬草園の管理を任されている縁で、幼い頃から出入りしていて、古参とは顔馴染みの間柄にある。


 彼女が剣術に興味を持ったのは、自然の流れだったろう。ただ、弟子入り志願は本気にはされず、棒振り遊びの域に留まっていた。当時、実際にどこまで本気だったのか、今となっては朝顔自身にも確信はない。


 そんな折りに登場したのが蜜柑だった。数年の年齢差はあったものの、真剣に弟子入りを願い出て、上泉秀綱と剣を交わして入門を勝ち取った彼女を、朝顔は眩しく感じていた。


 当初は自分の立ち位置が取られるような気がして反発していたのだが、自らの剣術修業を進めながら、手ほどきまでされてしまえば、懐かざるを得ない。


 やがて堂山家の娘である剣術少女は、彼女の崇拝めいた感情の対象になっていった。


 表情が曇るときもあったにしても、農家の娘から見た蜜柑は、輝くような笑みを振りまき場を明るくする、太陽のような存在だった。


 同じようになりたいと思ったことは、朝顔は一瞬もなかった。本来なら許されない道場への立ち入りも、蜜柑が稽古をつけるならと容認された。その時間は、彼女にはとても貴重なものだった。


 朝顔からすれば、自分は蜜柑の付属物に過ぎない。太陽に照らされる月のようだとは、未来世界の天文知識の持ち合わせのない少女は捉えようがないが。


 月が世界をほんのりと白く照らす中で、国峯城の方でちらちらと火影が動いたのを朝顔は視認した。よい兆しとは捉えられず、彼女の胸は苦しくなり、頬を涙が伝った。




 朝顔が櫓の上で目を覚ましたのは、駆けてくる者の気配を感じたからだった。彼女とも面識のあるその人物は、新陰流門下の堂山家の家臣に仕える、自身も道場に出入りしている小者の若者だった。


 櫓にいる少女に気付いて発せられた声は、風で途切れ途切れとなりつつも、勝ち、蜜柑、無事と聞き取れた。


 悲鳴のような叫びを発した彼女は、転がるように梯子を降り、道場へ走り込んだ。帷子を着込んでいた神後宗治に抱きつくが、言葉にならない。


 やがて転がり込んできた小者からの聞き取りは、疋田文五郎が顔を出すまでうまく進まなかった。




「結局のところ、堂山が勝ったということか。にわかには信じられんが」


「蜜柑を焚きつけた誰かがいたのは、間違いなかろう。二人の一騎討ちなら、鬼幡の当主は討てるだろうが……」


「騙し討ちとまでは言わないが、尋常な勝負ではなかったようだな」


 勝てばよいとの考えから、闇討ち上等とする流派もある中で、上泉秀綱率いる新陰流は正々堂々とした勝負をする傾向にある。創始者の甥として、将来的な後継者と目される疋田文五郎の声にはやや苦味があった。


 対して、神後宗治は口許を歪ませて吐き捨てる。


「生き死にを賭した戦いで、正々堂々もあるまい」


「そうなのかもしれんな。……しかし、箕輪衆はいったいどうなるんだ?」


「さあなあ、蜜柑が率いる堂山が、鬼幡の所領を呑み込むとは思えん。そして、長野の殿の意向がなあ」


 国峯城と松井田城、安中城辺りの豪族は、箕輪城を領する長野業正に従属しており、総じて箕輪衆と呼ばれている。


 本来であれば、婚姻の網が張り巡らされた一族に近しい関係性で、互いに闘争する事態は想定しづらい。だが、この世界ではそうだった筈の在りようとのずれが見られるのだった。


「それにしても、お主が戦さ仕度を整えているとは思わなかったぞ」


「文五郎こそ、酒を飲まずに待機していたそうじゃないか。まあ、蜜柑からの助けを求める声が届かないのはわかっていた。それでも、もしも届いたなら……」


 親しい存在の言葉を聞きながら唇を噛んだ疋田文五郎の沈黙は、重いものではなかった。


「それにしても、介入したという奴は何者なんだろうな」


「ふむ。……場合によっては、叩き出すしかあるまい」


「だな。まあ、状況によっては師匠も動くだろう」


 鬼幡勢を押し戻したのであれば、蜜柑の去就の選択肢は広がる。堂山の家の存続にこだわらなければ、との限定こそつくわけだが。




 翌日の早朝、八幡八幡宮近くの新陰流道場に姿を表したのは、堂山蜜柑とその連れ合いになった人物だった。


 蜜柑は自らの名乗りを新田蜜柑と改めることを宣言し、連れ合いである新田護邦が勢力の当主を務めると述べた。


 上泉秀綱による心根を確認する雑談めかした問い掛けに、元の時代で中学生だった人物は自然体でありながら真摯に応じた。


 結果として、剣聖による誅殺は行われず、蜜柑と師弟間の刀を通した語らいの後に、二人は送り出される形となった。


 祝言を挙げたばかりの夫の方は、鬼幡の勢力圏の様子を見たいとのことで、神後宗治が案内をするとの話がまとまった。顔の知られている蜜柑ではなく、素性の知れぬ夫の方が偵察に赴くというのは、剣豪勢からすれば理に適った話として受け止められていた。


 護邦を送り出した新妻が外に出ると、待っていたのは朝顔だった。


「おお、朝顔。心配させたようですまなかったな。どうにか危機は脱せられたようじゃ」


 無言で抱きついた少女の背を、蜜柑がぽんぽんと叩く。


「心配していたどころじゃないぞ。師匠の刀を盗み出して、助太刀に参じようとしていたんだからな」


「文五郎さま、しーっ」


 笑いの輪が広がる中で、朝顔だけはふくれっ面をしている。


「わたしは、昨日の朝までは行く末の定められぬ武家の娘じゃった。けれど、昨夜からは夫と共に家を束ねるべき存在となった。……実感はないのじゃがな」


 親しい少女の頭をわしゃわしゃと撫でながら、蜜柑の表情は引き締まった状態を維持していた。




 護邦への案内を終えた神後宗治の戻りは、高弟仲間によって待ち構えられていた。


「あの護邦という御仁をどう見た?」


「さあなあ。だが、蜜柑は好ましく思っていそうに見えたな」


 その答えに、文五郎はやや不満そうである。


「父母と弟を一度に失ったことで、藁に縋ろうとしているだけなのではないか」


「蜜柑が守りたいものを守ってくれるなら、藁でもいいじゃないか」


「絶望までの時間を引き伸ばすだけかもしれん」


「鬼幡の連中に殺されていた方がよかったとでも言うのか。ただ死なせてくれていたかどうかわからんぞ」


「ふむ……」


 この頃までには、鬼幡勢のしでかしたことの詳報が入ってきていた。撫で斬りというのは、彼らの許容できる範囲からは大きく外れている。


「まあ、箕輪衆再編の動きの中で、城を返上する形であの者とこの西上野から離れるのが理想の流れなのかもしれんな」


「そうか……。せめて見守るとしよう」


 文五郎が幾度も頷いているのが、自分を納得させようとするときの癖だと知る宗治は、微笑ましく感じつつも気を引き締めていた。


 そこに駆け込んできたのは、朝顔だった。


「たいへんです。長野の殿様が、国峯に攻め込むようです」


「なんだとっ? どうしてだ」


「知りませんって。でも、百人以上が出ています」


「それで城攻めは無茶な気もするが……」


「先遣隊かもしれんな」


 二人の剣士も、朝顔に続いて櫓に上がる。


「狭いですってば」


「そう言うな。……あれか。確かに、長野の殿の旗印だな」


「向かっているのは国峯城でしょうか?」


「間違いないだろうな。鬼幡の城を接収する気ならば、西へ向かっていなければおかしい」


「なら、蜜柑様に伝えてきます」


 するすると梯子を降りた朝顔は、宣言通りに走り出した。間にある丘陵地を迂回する道もあるが、足先の向きからして、突っ切るつもりであるようだ。


「あの娘、足が速かったのだな」


「しかも、疲れ知らずとの話だぞ。馬がいない際の連絡役に向きそうだ」


「そうなると、話に聞く忍者のようでもあるな。技量だけで見るものはないと判断するのは間違いなのかも」


「ああ、剣技を究めたいわけではないのなら、話も変わってこよう」


 そんなやり取りのうちにも、少女の体は豆粒大から、さらに小さくなっていった。


「しかし……、長野の殿がいきなり攻め掛かるとは、なにがあったのか」


「さすがに、単に攻め込んだだけではあるまい。なんらかの交渉の結果か」


「あの御仁は、まだ城には戻ってない時分よな」


「ああ。……となると、蜜柑が交渉したわけか」


「あやつに、長野の殿とは面識はあったかな」


「いや、母御が表舞台には出さなかっただろう」


「蜜柑は、まっすぐだしなあ。こじれたわけか」


 この時点で二人は、蜜柑の暴走を想定していたが、後にこの時に長野側から提示された条件を知って憤慨することになる。


「しかし……、本格的な攻勢を招けばひとたまりもないだろう。堂山の戦力は、鬼幡との野戦でほぼ壊滅しているはずだ」


「それなんだがな。鬼幡の当主を討ったのは、攻めかけてきた者達を打ち破り、撤退と主力の進軍が交錯したところを仕掛けた結果らしい。少なくとも一翼に攻められたのを押し返す程度の戦力はあると見るべきだが……」


「考えづらいな。あの御仁が師匠を越えるような腕前ならまだしも」


「城の攻防で、護邦殿は得物を振るうことはなかったそうだぞ」


 同輩の言葉に、文五郎が腕組みをして考え込む。


「なら、蜜柑が覚醒したとでも言うのか……。たが、しかし、」


「なんにしても、それは不毛に過ぎるというものだ。どうにか、師匠に仲裁に入ってもらうことはできないかな」


「政事とは距離を置いてきたからな。とりあえず、箕輪勢の門下生に探りを入れてみるか。本腰を入れた攻勢でないのなら、すぐに決着というわけではなかろうし」


 近隣でのいざこざ的な紛争は、彼らが認識する通り、攻めかける振りをしながら交渉に入る場合が多い。いくら戦国の世だとは言え、いきなりの全面攻勢は通常の展開ではない。堂山が隣接勢力の侵攻を受けてすぐに応戦に向かったのも、実際は交渉含みだったと思われる。それだけに、鬼幡による一連の堂山領侵攻の異常さが際立つわけだが。


 二人が梯子に向かったとき、少女の姿は既に丘陵の中に溶け込んでいた。




 八幡八幡宮近くの街道を新田勢の騎馬の小隊が通り抜け、程なく箕輪落城の報が入った。


 へし折られ、血に塗れた長野業正の大将旗が、箕輪城の門前に置かれていたという。


 箕輪城が堂山改め新田によって陥落したというのは、箕輪衆の勢力圏に暮らすものにとっては大いに驚くべきことだった。


「それで師匠。去就はどうなさるのです」


 神後宗治の問い掛けが、腕組みをしている剣豪に向けられた。


「どうと言ってもなあ。昨日の今日、いや、今朝の今だぞ。今晩には事態がどう変わっていることか」


「箕輪城を取り返さんとする動きは生じましょうや」


「それが、業盛殿も藤井友忠殿ら重臣勢も残らず討たれたようでなあ。旗頭は見当たらんのだ」


 業盛というのは、長野業正の嫡子である。箕輪長野勢は堂山侵攻に際して、一族、武向きの家臣のほとんどを同行していたらしい。弱小勢力が相手だとしても、山城を攻めるには動員人数が少なかったようだが、そもそも抵抗されるとはまったく考えていなかったのだろう。


 業正が討たれたことで、箕輪長野勢が総崩れとなる中で、多くの有力者が先行する新田の騎馬隊に射られ、兵の多くが騎馬隊を追う徒士勢によって蹴散らされていた。


 新田勢が、長野方の武将を狙ったのは確かだが、敗走と進軍の速度が似通っていたために、長野側の被害が大きくなったという面もあった。


「奪回戦が生じなければ、他の敵対勢力は……、厩橋長野と和田くらいか」


「両者の連携はありえましょうか」


「仲がよいという話は聞いたことがないわなあ」


 和田城域を領する和田業繁は、長野業正の甥にして娘が嫁いでいるという血縁から、箕輪衆と強い連携関係にあった人物である。対して、厩橋城の長野道賢は、遠めの同族に当たる箕輪長野氏と明確な闘争こそしていなかったものの、勢力争いは行われていた。となれば、互いに出方を窺うことになるのは無理もない。どちらか片方とだけ接していたならば、新田が急襲される流れも考えられたろう。


 いずれにしても、新田は国峯城を空にする勢いで箕輪城を制圧している。戦力を分散させるつもりは皆無なのだった。


「このまま堂山……、いや、新田勢が箕輪城を押さえたとしても、一門として全面的に与するのはな……」


 門下の武家には、箕輪衆の各勢力のほか、厩橋長野家、和田家、赤石城域の那波家からの者も含まれる。長野業正に従うことで周囲が得る納得感と、旧主を打倒した何者かわからぬ存在に肩入れするのとでは、重みがだいぶ異なる。


 そこで、次の間で控えていた朝顔がたまらずといった風情で声を発した。


「ですけど、長野の殿には仕えていたじゃないですか」


「これ、口出しをするでない」


 道場の薬園を預かる農夫が娘をたしなめるのを、上泉秀綱が手を振って制した。


「いや、かまわん。……関わりようが異なっているため、同じには扱えん。護邦殿とは、今朝一度顔を合わせただけだしな」


「でも、蜜柑様は、ずっとこの道場にいたじゃないですか」


「そうよな。あの夫婦はもはや一体としてもよいのかもしれん。……ひとまず、支持を表明するところまでだ。現状では、それ以上はむずかしい」


 まだ不服そうな朝顔だったが、歩み寄った神後宗治が肩に手を置いてなにごとか囁くと、頷きを返した。




 落城の翌日、箕輪城で催された会合に赴いた剣豪達が戻ってきた。


 待ち詫びた朝顔が三人に纏わりつく姿は、仔犬のようでもある。


「後見というわけではないが、家中に出入りする形でまとめてきた。土豪勢との関係性は微妙そうだが、村の実力者達とは友好関係を築いたようだった。箕輪城を守りきれるかが鍵だろうな」


「守れましょうか」


 文五郎の問いに、剣聖が首を傾げる。


「どこが攻めるかだなあ。蜜柑と、あの……澪と言ったか。あの者の弓は戦力となりそうだ」


「我らが味方すれば、防備は固められるでしょうな」


「それはそうだろうが……、自力で生き残れないならば、むしろ助力はすべきではないだろう」


 神後宗治は、その反応に唇を尖らせる。上泉一門による支援の話は、箕輪城での会合の中でも話題に出たのだが、新田姓で堂山家に入った婿殿からは謝絶された形となった。


 名高い剣豪の道を狭めたくない、との新米当主の意向は笑顔の若妻によって同意を得ていた。


 それでも、強く加入を求められていれば、また違ったのかもしれない。けれど、豪族の当主となった少年が、本気で剣豪という存在を尊重しているのは三人には伝わってきていた。


 この戦国の世で、個人の剣術の技量にはもちろん意味がある。けれど、実際に勢力の興亡を左右するのが、従属豪族を含めた動員力の多寡と束ねとなる指揮役の能力であるのも、また間違いのないところだった。


 上泉秀綱らが箕輪長野に仕えていたのは確かだが、戦事や政事に関わることはほぼなく、剣豪が家中にいること自体に意味がある、という方向性から扶持が渡されていたに過ぎない。


 一方の上泉一門の方でも、よそからの勧誘といった煩わしい働き掛けを防止できるとの効果があり、ある意味で利用し合う関係性だったと言えるだろう。


 対して箕輪城の新たな主は、その口振りからして仮に主従となってしまえば、そういった関係性には留まらないのではないかと思える節があった。


「まあ、ひとまずは様子を見ていくしかあるまい。殊更に距離を置くことはしない」


 高弟二人は頷いたが、蜜柑を慕う少女は唇を噛み締めていた。




「よう、朝顔。蜜柑はなんと言っていた」


 彼女が敬愛する人物の元へ仕官に向かったことは、本人から明言こそされなかったが、神後宗治にとっては自明のことだった。


「帰されました。両親とよく相談するようにと」


「諦めるのか」


「いいえ、決して」


「では、師匠と話すか。身の処し方を相談するとよい」


「宗治様は、どうすればよいと思われますか」


「お主がどうしたいか、それに尽きるだろう」


 若き剣士にこの時点で、さらなる問答を重ねるつもりはなく、会合が設定されることになった。


「蜜柑は、まず帰るようにと求めたわけか。あいつらしいな。……それで、朝顔。お主はどうしたいのだ」


「蜜柑様のお役に立ちたいのです」


「どんな形で役立ちたいのだ」


「それは……、どんな形であれ、役に立てさえすれば」


「お主は、剣士としての活動を考えているのかな。だが、侍女や小者として助力する道もある」


「蜜柑様の力になりたいのです」


「剣の道でか……? これから腕を上げたとして、蜜柑が繰り広げる攻防にお主が絡めるか」


「それでも、不意に飛んでくる矢を防ぐ、矢盾のような存在にはなれると思います」


「身を捨てて、か」


「はい、この身に替えても」


 新陰流の創始者が、ぽんと膝を打った。


「その意気やよし。ならば、稽古をつけてやろう。警護に特化していくとなれば、また話は別だ。お主の持久力も、よい方に作用するだろう」


 頷いた少女の瞳には、決意の色が浮かんでいた。


 彼女が橙袴を身に着けて新田領内を闊歩するようになるのは、しばらく先のこととなる。


 その頃、この道場はひとまず閉ざされ、別の土地に移転することになるのだった。


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