第20話 『花山 明良』-2

夜中に私は宮家を飛び出した。

裸足で一心不乱に走る。

雪が降りそうな凍てつく寒さだったが、必死に走る身体は火照っていた。

どこへ向かえばいいのかはわからなかったけど、私が向かえる場所はひとつしかなかった。

きっと助けてくれない、そう思う気持ちと、もしかしたら抱きしめてくれるかもしれないという気持ちが共にあった。



団地の階段を駆け上がり、見慣れた部屋のドアを叩く。


「お母さん!お母さん!開けて!!」


夜中で周りは静まり返っていた。

私の声だけが大きく響く。

何度もドアを叩いていると、部屋の電気がつきドアがゆっくりと開いた。


「どうしたの……こんな夜中に」


中から恐る恐る顔を覗かせたのは知らないおばあさんだった。


「お嬢ちゃん、ひとり?」


心配そうに私を見る目。


「……お母さんは」


私が尋ねると、おばあさんは首を傾げた。


「さぁ?前ここに住んでいた人かしら?おばあちゃんも最近引っ越してきたばかりだから……」


私はその場に呆然と立ち尽くした。


「お家は?」


おばあさんが膝をつき私の目線に合わせて問いかける。


「……ない」


私がそう答えると、おばあさんは一層困ったような顔をした。


「あらまぁ、どうしましょう。そんな薄着で寒いでしょ。何か貸してあげるわ。その後おまわりさんにお母さん探してもらいましょうか?」


私はおばあさんの言葉を最後まで聞かずに、その場から逃げ出した。

おまわりさんにお世話になんかなったら、宮家の人にどんな仕打ちを受けるかわからない。

ご飯ももらえなくなるかもしれない。

もしかしたら、殺されてしまうかも。

私は走った。

どこへも行くあてはない。だけど走った。

走って走って走って、凍てついたマンホールで足を滑らせた。

勢いよく全身を地面に打ち付ける。

私は大きな声を出して泣いた。

痛かったからじゃない。

なんで泣いているのかもわからなかった。

だけど涙がとまらなかった。


『にゃにしてる』


突然の声に私は息が止まりそうになった。

声の方を振り向くと、小さな三毛猫がいた。


「……にっち」


『ご近猫めいわくに』


「にっち、喋れるようになったの」


『猫の成長ははやいんに」


そう言ってにっちは小さな鼻をふんっと鳴らした。


『アキラ、今日のネドコを探してるにか?』


にっちの問いかけに私はコクリとうなづいた。


『ついてくるに。特別におらのネドコをかしてやる』


と言って、にっちはくるりと背を向け小さな尻尾をゆらゆらと揺らしながら歩いていく。

私は立ち上がり、にっちのあとをついていった。

にっちに連れてこられたのはいつも猫集会が行われている公園にある街頭の根元だった。

夜の公園を照らす薄暗い明かり。


『ここがあったかいに』


そう言ってにっちは街頭の根元を前足で軽く掘ってくれた。


「ありがとうにっち」


私は、にっちが掘ってくれた小さな穴の上に横になりうずくまった。

確かに、少しだけ暖かかった。

心許ない灯りがこんなにも暖かく感じるなんて。


『よっせっせ』


にっちがよじよじと私のお腹に登ってきて、くるりとまるまった。にっちの身体があったかい。


「にっち、あったかいね」


『アキラの腹もあったかいに』


「私も猫に生まれたかったな」


『いいことないに』


「そうかな?だって自由じゃん」


『そんなことないに。いつもサバイバルだに』


にっちは不満そうにそう言った。


「そうなんだ」


『おらは人間になりたかった』


「そうなの?人間になって何がしたいの?」


『まいにちにゅーるが食べたい』


「にゅーるって猫のおやつだよ……」


お腹でにっちの呼吸を感じる。

人間より少しだけ、速い鼓動も。


『人間は長生きできるから、うらやましいに』


「猫は寿命短いもんね」


『そうだに。すぐお星さまになっちまう』


「お星さま?」


『知らないに?死んだ魂はお星さまになるんだに』


「へー、知らなかった」


私は寝転がったまま、目の前に広がる空を見上げた。星は見えなかった。


「今日は星が見えないね」


『この街は明るすぎるんだに。だから星が見えないんだ』


にっちはまた不機嫌そうにそう言った。


「にっちは星が見たいの?」


『ああ、星のどれかに死んだ母ちゃんがきっといるから』


「そっか」


『ボスが教えてくれたに。あの山は星が見えるって』


にっちが首をあげて、公園から見える遠くの山を指した。

確かにあの山はこのあたりでは1番背が高いから星も近くに見えるのかもしれない。


『でも、おらはあんな遠くまで行けない』


「いつか連れて行ってあげるね」


『約束だに』


「うん、約束」



優しく身体をゆすられて、目が覚めた。

目の前に、心配そうにこちらを覗き込むにっちゃんがいた。


「あきちゃん、探したよ!」


「にっちゃん……どうして」


「夜、あきちゃんがいないことに気づいて。街中探し回ったんだよ」


にっちゃんはこの寒さなのに汗だくだった。

朝日はまだ登っていなかった。

蒼白い光がにっちゃんの背後から見える。


「あきちゃん、よかった」


そう言うと、にっちゃんは私の身体を起こして抱きしめてくれた。暖かいにっちゃんの体温。

気づけば、にっちはいなくなっていた。

にっちゃんが来て逃げたんだろう。


「誰かに何かされたの?」


にっちゃんは自分の着ていたコートを私にかけながら、心配そうに尋ねる。

私は昨夜、おじさんにされたことを話しかけてやめた。言いたくなかった。

にっちゃんに、知られたくなかった。


「猫に会いたくなったから、ここに来ただけだよ」


私がそう言うとにっちゃんは困ったような呆れたような顔をした。




私はにっちゃんに連れられて宮家に帰った。

にっちゃんにはあの日のことを何も言わなかった。だけど、にっちゃんは夜になるといつものように私の部屋に来てくれるようになった。

そのおかげで、あの日以来おじさんに呼ばれることもなかった。


「あきちゃん、今日は算数しよ!」


にっちゃんは、私の部屋に来る時にいつも学校の本を持ってきて、私にその内容を教えてくれた。

文字の読み方や書き方。数字の数え方や足し算、引き算。にっちゃんに教えてもらうことはどれも面白かった。


「あきちゃんはすごいね!僕なんかよりずっと頭がいいや!」


にっちゃんはそう言ったけど、私にとってはにっちゃんの方がすごかった。

にっちゃんは教えるのが上手だ。


「学校では、こういう勉強をしているの?」


私が尋ねるとにっちゃんはコクリとうなづいた。


「あきちゃんも学校いけたらいいんだけどなぁ」


にっちゃんが何度か、おばさんに私のことを学校に通わせられないかと頼んでいるのを見たことがある。だけど、その度におばさんは怒り狂ってにっちゃんを罵倒していた。

そんなにっちゃんの姿を見るくらいなら、私は学校になんて行けなくてもよかった。


「私はにっちゃんに教えてもらうのが、好きだから学校行きたくなーい」


にっちゃんは私の言葉に困ったように笑った。


「そうだね。僕も、あきちゃんと一緒に通えない学校なんて行きたくないや」


にっちゃんはそう言って、悲しそうに目を伏せた。


「にっちゃん、学校嫌いなの?」


「うん。あんまり、好きじゃないよ」


「そうなんだ」


にっちゃんは学校から帰ってくるたびに小さな擦り傷を増やしていた。

学校はきっと危険なところなんだろう。




ある週末、おばさんは1日家を留守にすると出て行った。その代わりに一郎お兄ちゃんが帰ってきてご飯を作ってくれるらしい。

いつものように自分の部屋で夕飯を待っていると、トントンと襖を叩かれ一郎お兄ちゃんが顔を覗かせた。


「おいで、一緒にご飯食べよう」




食卓には一郎お兄ちゃんとにっちゃんがいた。


「さーちゃんは、先に食べてお風呂入っちゃったんだ。あきちゃん、ここ座って」


にっちゃんがうきうきと食卓の椅子を引いて、私に座るよう促した。


「はい!今日はいち兄ちゃん特製のスペシャル生姜焼きだ!ナスのお味噌汁もあるぞ〜」


そう言って、一郎お兄ちゃんは私の前にまだ湯気の立っている生姜焼きと白いご飯、お味噌汁をおいてくれた。


「いち兄ちゃんの生姜焼きはすごく美味しいんだよ」


と、隣でにっちゃんがニコニコしていた。


「さあ、召し上がれ!」


一郎お兄ちゃんに促されて、私はおそるおそる箸を持った。

湯気の立っているお味噌汁のお椀を持ち、一口すする。暖かいお味噌汁が喉の奥を通り過ぎていく。


「どうだ、明良。美味しいか?」


一郎お兄ちゃんに尋ねられ、私はこくこくと頷いた。


「あったかい」


「お味噌汁はあったかいのが1番美味しいからな!」


そう言って一郎お兄ちゃんは笑った。

生姜焼きも柔らかくてとても美味しかった。

いつも冷たかったけれど、それでも美味しいと感じていた。

あったかいご飯がもっと美味しいだなんて知りもしなかった。

私が一口づつ、噛み締めながらご飯を食べていると一郎お兄ちゃんがふと私の頭を指して言った。


「明良、髪切った方がいいんじゃないか?」


「え?」


「前髪長くて邪魔だろ?さーちゃんがお風呂出たら切ってあげるよ」


一郎お兄ちゃんの言葉に、にっちゃんが賛同する。


「そうだね。あきちゃんがイヤじゃなかったら、髪切ってもらおうよ。どうかな?」


私は戸惑った。

髪をお母さん以外に切ってもらったことなんてない。


「いち兄ちゃん、寮の奴らの髪も切ってるから腕に自信あるぞ〜」


そう言って一郎お兄ちゃんは、チョキチョキと手でハサミの真似をしてみせた。




お風呂場で待っていると、一郎お兄ちゃんがハサミとクシを持ってやってきた。


「洗濯するから、服はそのままでいいか」


そう言って、一郎お兄ちゃんは私の目の前にしゃがみこむと、私の前髪に触れた。

ビクッと身体がこわばる。


「ごめんごめん、ハサミ怖かった?」


私は首を横に振る。

ハサミが怖かったわけじゃない。

どうして、身体が強張るのか自分でもよくわかなかった。


「リラックスしてね。目瞑って」


私は言われるままに、目を瞑る。

一郎お兄ちゃんの指が再び額に触れるのを感じて、また身体をこわばらせる。

イヤな汗が出る。動悸がする。

身体がムズムズと疼く。

全身にミミズが這っているかのような不快感。


「明良」


一郎お兄ちゃんに声をかけられ、ふと目をあける。


「何かあったのか?」


私は首を横に振った。


「切っていいか?」


そう問われて、ゆっくりとうなづく。

手汗を服で拭い、ぎゅっと目を瞑る。

チョキチョキというハサミの音が聞こえる。

一郎お兄ちゃんの手が素肌に触れるたびに、ドクドクと心臓が痛いほど脈打つ。

人に触れられるのがこんなに怖い。

今までこんなことはなかった。

にっちゃんに手を繋いでもらったり、ほっぺたを触られるのは平気だったのに。

どうしてだろう。

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