第5話 『久城 征紀』-1

毎晩鬼がやってくる。

むせ返るほどのアルコールの臭いと共に。

俺の名前を何度も呼びながら。

鬼に見つかるとまずは髪を掴まれて床に何度か叩きつけられる。

この時に気を失えた日は幸運だ。

少しでも抵抗すれば、動けなくなるまで全身を蹴られて踏み潰される。

そして、しばらくすると飽きたようにまた酒を飲みに行く。


「いらねぇんだよ、てめぇは」


鬼が俺によく吐くセリフ。

いらないのか、俺は。

何度聞いたかわからないセリフをぼんやりと頭で反芻する。

知ってるよ。

別に俺だって必要とされたくて、ここにいるわけじゃないんだ。


母は何もしてくれなかった。

最初は俺を守ろうとしていたが、かえって守る方が2人とも酷い目に遭うと知ったから。

だから鬼が現れた日の母は、キュッと体を丸めて部屋の隅で微動だにしなかった。


一番辛いのは、気を失えない時だ。

痛くて痛くて苦しいのに、意識が飛ばない。

皮膚は裂けて、骨も何度も折れた。

その度に幼稚園の先生から心配されたが、母はやんちゃだからよく怪我をするんだと説明していた。


鬼は俺が声を上げて痛がる様子が特に好きだったみたいだ。

だから、俺はまだ耐えられる痛みでも大袈裟に痛がってみたりした。

だけどそれは失敗だった。

鬼はそんな演技を見抜いていた。


ある日、鬼は散々殴り終えた俺の手首を掴むと台所へひきづった。

そして、俺の左手はまな板の上に置かれた。

殴られて意識は朦朧としていたから、鬼がしようとしていることはわかったけど、どう抵抗することもできなかった。


母のけたたましい叫び声をひさびさに聞いた。

ドクドクと体中の液体がかき混ぜられて飛び出ていく。

痛みはなかった。



小学校に上がってからも、鬼からの暴力は続いた。いつも、どこかに痣をつくって登校する俺に、誰も話しかけては来なかった。

俺の斬られた小指を見て、クラスメイトたちは「ヤクザ」だと噂していた。

そんな中で、1人だけ俺に話しかけてくる奴がいた。

フワフワした雰囲気の少年だった。

同級生の中でも、一際背が低くて弱そうだなと思ったのを覚えている。

フワフワは俺の傷を見て「痛そうだね。大丈夫?」と聞いてきた。

俺が何も答えないでいると、ポケットから絆創膏を取り出して俺の手に握らせた。

こんな小さい絆創膏で傷が隠せるわけがない。


フワフワはことあるごとに、俺に話しかけてきた。授業で2人組になれと言われれば俺のところへやってきた。

フワフワはちょっと抜けている。

そして、喋る速度が他のクラスメイトたちよりも遅い。だから、仲間に入れてもらえないんだろう。


聞いてもいないのに、フワフワは自分のことを語る時があった。テストで悪い点をとったから、怒られてずっと正座をしていたとか。昨日はお皿を割ってしまったから、夕飯が抜きだったとか。

フワフワの家にも鬼がいるらしい。

そう気づいた時、俺はなんだかフワフワを近くに感じた。


そう感じたのは大きな間違いだった。

フワフワの家はこの辺の地主の一家で、大きなお屋敷に住んでいた。

そういえば、服だっていつも綺麗なものを着ていた。

あいつは俺を見下していたんだろう。

俺と一緒なんて、とんだ勘違いだった。

それから、自分でもなぜかわからない怒りが湧いてきた。

教室でいつも通り話しかけてきたフワフワの顔面を殴りつけた。

フワフワは複数の机を巻き込みながら教室の後ろの方へと転がっていった。

静まり返った教室で、俺はフワフワを殴り続けた。誰も俺を止めることなく、呆然と眺めているだけだった。

背中を丸めて必死に身体を守ろうとするフワフワの怯えた目を見て、俺ははじめて鬼の気持ちがわかった。

自分よりも弱いものを殴るのがこんなに気持ちのいいことだなんて思いもしなかった。

やっぱり俺にも鬼と一緒の血が流れているらしい。




フワフワが遠足中に崖から落ちて死んだ。

その事件は世間的には事故ということになった。

だが、みんな気づいていた。

俺が殺したんだと。

そしてそれは真実味のある噂話として、近所に広まった。

中学に上がっても噂は消えることはなく、誰も俺に近づこうとはしなかった。

無意味に俺に群がっていた連中もいつの間にかいなくなっていた。俺は徹底的に悪になりきった。

道端で目があえばそいつを殴りつけ、話しかけられようものなら蹴りをくらわした。

中学校からは無期限の謹慎をくらい、その謹慎は卒業まで解かれることはなかったが、しっかりと郵送で卒業証書は送られてきた。

そうして中学時代を終え、俺は高校に上がった。

万年定員割れで、名前を書けば受かると噂の高校だ。こんな犯罪者でも入れてくれる高校があるなんて驚いた。


高校に入っても中学とほとんど変わりなかった。

俺のことを知らない他地区の生徒たちが入学式の日に話かけてきたりもしたが、少し大人になった俺はすぐに殴ることなくただ睨みつけるだけにとどまった。

それだけで、相手はすぐに去っていく。

1週間もすれば同じ中学の奴らからの噂は広まって、誰も俺に話しかけてくる奴はいなくなった。

また同じ3年間だ。

誰とも口を聞かず、遠巻きにされる。

それが罰なら生温い。

火に落とされて一瞬で焼け死ぬのではなく、生温い罰を一生浴び続ける。それが俺の人生なんだろう。

そんなことを考えながら、俺は先日見つけたちょうどいい喫煙場所へと向かった。


そこは部活棟の近くにあるゴミ捨て場の裏だった。生徒はほとんど来ないし、授業中なら教師も来ない。

放課後になると、部活をしている生徒たちが通るが、例え見られたとしても誰も密告なんてしないし目も合わせやしない。

そこには誰もいなかった、自分は何も見ていない。そんな表情で通り過ぎていく。


ゴミ捨て場のフェンスを乗り越えようとすると、微かな煙の臭いを感じた。

俺の煙草ではない。甘ったるくてむせ返りそうな香りの煙。そっと煙の先を覗くとそこには、1人の女子生徒がいた。

制服を着崩し、ワイシャツのボタンは胸まで外れている。切れ長の目を伏せ目がちに、憂鬱な表情で窄めた唇には細い白い煙草。


俺は息を呑んだ。

その女の顔が一瞬だけフワフワに見えたからだ。

だが、それは勘違いだった。

フワフワは男だし、もう死んだ。

よく見れば、女の顔はとても整っていた。

テレビとかに出ているような芸能人みたいにハッキリとした顔立ちだ。

俺が黙って観察していると、女はこちらをふと横目でみた。

俺に喫煙がバレたことを慌てる様子もない。


「君もここ使うの?」


女が発した言葉が俺にむけられたものだと気づくのに一瞬、時間がかかった。


「……」


俺は女の言葉に答えることはなく、無言のまま、壁に背を預けて自分の煙草を取り出した。

ライターを取り出し火をつけようとするが、燃料切れなのかなかなか火がつかない。


「ほら」


女はいつの間にか俺の横に来てライターの火を差し出していた。


「……」


別につっぱねる理由もなかったので、俺はその火に煙草の先端を向けた。

苦くてまずい空気を一気に肺に吸い込み、ゆっくり吐き出す。肺が汚れていくのが気持ちいい。


それにしてもこの女は、なんなんだろう。

もはや全校生徒に知られているような犯罪者に話しかけてくるなんて。


「何年生?」


そう尋ねられ無視しようかと思ったが、火を借りた恩で一言ぐらい返してやる気になった。


「……一年」


「へー、同じだ」


切れ長の目を細めて、女は笑った。

同じ学年だったら、なおさら俺の話は知っているはずだ。もしかして、知っていて話しかけてきているのか?

女の表情からは人を弄んでいるような、そんな雰囲気も感じられた。


「……なんのつもりだよ」


俺が問うと女はキョトンとした。


「何が?」


「俺に話しかけてくるとか」


俺がそう言うと、女は首を傾げた。


「話しかけたらいけないの?」


心底、不思議そうな顔をする女。

何かを隠しているようには見えない。

本当に俺の噂を知らないのか?


「俺のことしらねぇの?」


「うーん。知らないなぁ。有名な人?」


女に嘘をついてる様子やとぼけているような様子はなかった。


「あー、有名な人だよ」


俺は皮肉を込めてそう言った。

すると女は目をまんまるにして、驚いたような顔をした。


「あー、そうなんだ!私、そういう情報疎いんだよね。小中と引きこもりしてたからさ。友達もいないし」


女は明るく自分のことを語った。


「あっそ」


「で、どんな風に有名なの?」


「人を殺してる」


隠すことなく俺はシンプルに事実のみを告げた。

いずれは知れることだ。

俺は空に向かって肺に溜まったタバコの煙を吐いた。女の顔は見えなかったが、きっと引いているんだろう。


「へー、じゃあ君は悪い奴なの?」


女の声は俺が想像したよりも平然としていた。


「そうだな。悪い奴だな」


「じゃあ、私と一緒だ」


は?と思い女の方を見ると、女はニコニコと笑っていた。何を笑っているんだ。

まぁ、どうでもいい。

きっとコイツは頭の弱い女なんだろう。


「小中引きこもりで、よく高校入れたな」


俺は皮肉を込めて女に言った。


「だって、ここ殺人犯でも入れる高校でしょ?」


確かに。

あっけらかんとした女の返しに思わず笑いそうになった。


「そうだな」


ジリジリとタバコは燃えて灰になっていく。

女は咥えていた煙草を地面に落とすとローファーで踏みつけた。


「ね、連絡先教えてよ」


「は?」


女の突然の提案に俺は耳を疑った。


「殺人犯くんも、どうせ友達いないんでしょ?私も友達いないんだよね」


そう言いながら女は自分のポケットを探り携帯を取り出した。


「だから、私が殺人犯くんの友達第一号。で、殺人犯くんは私の友達第一号」


ニコニコと笑ってQRコードを差し出してくる女。


今思えば、どうしてあの時自分がこんなバカな提案に乗ったのかはわからない。

結果として、機械にめっぽう弱い俺はその女に言われるがまま連絡用のアプリをインストールさせられ、友達登録とやらをした。


「はい。これで私達は友達。よろしくね。クジョウ ユキノリくん」


久城 征紀。

女は先ほど自分の携帯に登録したらしい俺の名前を呼んだ。同世代に名前を呼ばれるのは何年ぶりだろう。


「じゃあ、また連絡するね。あ、この場所は2人の秘密だよ」


女は唇に人差し指を当てて「しーっ」と言うと、さっさとどこかへ去っていった。

嵐のような女に絡まれて、俺はしばらくその場で呆然としていた。

携帯の画面には、まだ登録されたばかりの女のプロフィール画面が写っている。

俺は表示された女の名前を口に出してみた。


「花山……明良」

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