5.雪の結晶
「持ってきたよ」
待ち合わせの公園で会って早々、鮎美ちゃんがピンク色のマフラーの上で白い息を吐きながら、手に持ったルービックキューブを見せてくれた。小さくてふっくらした手に似合わない、カラフルで四角い物体。
「あのね、こうすると動いて……、まず一列だけ色を揃えるの」
「ん……、難しくない?」
「そうなの、あたしまだちょっとうまくできなくて。一面か二面くらいしか」
鮎美ちゃんは懸命にルービックキューブを動かし、青だけを揃えようとする。
「あ、ここに青あるよ」
「わー、反対側かぁ。もうっ、ほんと、なかなか上手になれないや」
「何でこんなの流行ってるんだろうね」
世間で大流行中のルービックキューブは、私たちのような女子には向いていないのかもしれない。学校に持っていくのは禁止されているけれど、クラスで「俺、三分もあれば全部できる」と自慢していた男子がいたなと思い出す。
「できるようになったら、手紙にやり方書くね」
「鮎美ちゃん、全部できるようになりたい?」
「だってせっかく買ってもらったんだもん。今度は赤にしようかな」
今日は朝からとても寒い日で、空は曇っている。厚着してきても寒くて凍えそうだ。それでも鮎美ちゃんは、指先を面に這わせて赤がどこにあるかを確認する。ルービックキューブは冷たくないのだろうか。そんな四角より私の体のほうが――
「……雪?」
「あ……、ほんとだ……!」
私がそう言うと、鮎美ちゃんが一列だけ揃えた赤いパネルに小さな雪の粒がふわりと乗った。
「望美ちゃん、知ってた? 雪の結晶って目でも見えるんだって。それでね、一つ一つ、形が全部違うんだって。この間テレビで言ってたんだけど」
「そうなの? 見てみたい!」
「……ほら見て、赤のところ……ああ……溶けちゃった……」
「溶ける前に一瞬だけなら見えるんじゃない? もっと降らないかなぁ、見たいな」
私はどうしても雪の結晶が見たくて仕方なかった。あまり雪が降らない地域だから、今日を逃すとまたしばらく雪なんか見られなくなってしまう。
鮎美ちゃんはそんな私に少し驚いたような顔をしてから、ポケットのハンカチで赤いパネルを拭いてくれた。公園には私たち以外誰もいない。こんな寒い日には、いつも元気な近所の子供たちも家にこもっているのかもしれない。
「……ん、これで、だいじょ……あ! 見えた!」
「ほんと!? ……あー、溶けちゃった……」
思わず覗き込んだ鮎美ちゃんの手元から視線を上げると、口唇裂の跡が目の先十五センチくらいのところにあった。彼女がはぁ、と吐く息は白かった。そうしてなぜだか、懐かしい気持ちが湧いてくる。いつも見ているのに。
「望美ちゃんの耳、冷たいね」
ショートヘアの私の耳に、鮎美ちゃんが手を当てた。ゆるゆると温度が移ってくるのが気持ちいい。
「ん、鮎美ちゃん、あったかい」
「仲良くしてくれるのうれしかった。ありがとうね」
鮎美ちゃんの唇が、苦手なイ段とウ段をしゃべっている。
「……ん」
「ルービックキューブ、いつか全面揃えられるようになろうよ」
鮎美ちゃんの唇が、またたどたどしいイ段とウ段をしゃべる。
「……うん」
「手紙、書くから」
「う、ん」
目と鼻の奥が詰まったような感覚で、泣きそうになる。でも涙は出ていない。我慢できている。あったかい鮎美ちゃんとは、あったかい別れをしたい。私は泣かない。いま、決めた。
「ありがとうね」と、そっと抱きしめたら、背が高い私の頬が鮎美ちゃんの後ろの髪に触った。ここなら、泣いてもバレない。そんなことを考えて、内心で少しだけ笑う。さっき見た鮎美ちゃんの白く湿った息は、私のコートの腕にかかっているはず。そのことがうれしい。
本当は、もう一つ約束したいことがあった。きっと鮎美ちゃんも同じことを考えている。でも、口に出せない。出したらきっと雪と一緒に溶けてしまう。
『ずっと友達でいよう』
言えないから、せめて心の中で言う。
『ずっと友達でいよう』
何度でも、私は言う。
『ずっと友達でいよう』
鮎美ちゃんの髪についたひとひらの雪が、精巧に形作られた結晶を私に見せてくれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます