第3話 ……何だってするよ――あの母親から逃れられるなら。

「……承知致しました。失礼します」



 力なくそう口にして、とぼとぼと不動産店を後にする私。これで、七軒目――そして、その全てでほぼ同様の対応を受けることとなった。……いや、もはや対応すらされていないという方が正確かな。七軒全てで、ほぼ取り合ってすらもらえない始末だったし。


 そして、理由も全て同じ――まだ学生である私では、経済面において信用が出来ないという理由もの。親に契約してもらうか、それが無理なら一定の経済力を有する人に、連帯保証人になってもらう必要があるとのことで。……そんなの、どっちも出来るわけない。


 ……そもそも、どうして気付かなかったのだろう。私がその支配下から逃れることなど、あの母が許すはずないことに。あんなにも悠然と私を送り出すという、平時の母を鑑みればまずあり得ないその寛容な態度が――最初からこうなることを確信していた故の態度ものだと、どうして気が付かなかったのだろう。


 いや、それ以前に――どうして、知らなかったのだろう。法律上は可能であっても、学生の身分で誰にも頼らず一人で契約を成立させるなんて実質ほぼ不可能であることくらい、本来なら言われるまでもなく事前に容易く知り得たはずなのに――


 ……まあ、どうしても何も、今となれば理由は明確かな。一人暮らしを計画するにあたり、自分なりに色々と調べていた際、きっと上記のような情報も何処かで目にしていたことだろう。だけど、恐らくは――目に入っていても、脳が認識していなかった。人間ひとは、自分の見たいものだけを認識するようにできている。だから、学生では実質一人で契約できないなんて都合の悪い情報は、きっと無意識の内に脳がシャットアウトしていたのだろう。


 ……さて、ここからどうしようかな。空には、既に夜の帳が下りている。もしも、今家に帰ったなら……それこそ、あの人の思惑通りだろう。一応は形ばかりの心配を示しながら、心中ではしてやったりとほくそ笑む母の姿がありありと目に浮かぶ。そして、今後はよりいっそう支配的に――うん、それは絶対に駄目だ。それに、そうでなくてもあの家に戻るつもりなんて微塵もない。


 ……まあ、今日のところはこれ以上どうしようもないか。明日のことは明日また考えるとして、ともかく今日のところは――



「――あの、すみません。少し、宜しいですか?」




「…………え? あっ、いえすみませんすぐ帰りますのでどうか家には連絡しないで――」

「……えっと、あの……別に、連絡しませんよ?」

「……え? あ、そうですか……」


 卒然、後方から届いた声に慌てて振り向き捲し立てる私に対し、呆気に取られた様子で答えるのは中性的な顔立ちの若い男性。服装は……ああ、良かった。警察の人じゃなかった。


 ……それにしても、何とも不思議な人だ。何と言えば良いのか……容姿は非常に整っているんだけど……何処か、かげがあるというか……でも、むしろそれがいっそう神秘的な魅力を醸し出しているというか――



「……ところで、もしやと思われますが――貴女は今、ご自宅に帰りたくないと思っているのではないでしょうか?」

「…………えっ? ……なんで、それを……」

「……何となく、分かるのです。そういった苦悩を抱えた方は、そういった独特の雰囲気を纏っていますので」

「そ、そうなんですね……」


 不意に図星をつかれ呆然と尋ねる私に、穏やかな微笑で答える美青年。……えっ、そういうものなの? まあ、全く以て事実なわけだし、そう言われてしまえば信じる他ないのかもしれないけど。



 ――ただ、それはそれとして。


「……それで、結局私に何のご用で……?」


 そう、おずおずと尋ねてみる。結局のところ、どうしてこの人は私に話し掛けてきたのだろう。先ほどのことをわざわざ伝えるため、とは流石に考えづら――



「――はい、そのことですが……もし宜しければ、貴女に部屋を一つお貸ししようかと。もちろん、賃料などいりません。ただし、一つ私のお願いを聞き入れて頂きたいのです」

「…………」


 そう、柔和な微笑で告げる美青年。……うん、怪しいなんてものじゃない。その手の経験のない私でも、容易に察せられる。この人の狙いは、きっと――


 ……ただ、それにしても、なんで私なんかを――それに、そもそもこんな方法を使わずとも、この人ほどの美形ならそういう相手なんて簡単に見つかりそうなものだけど……まあ、事情なんて何でも良いか。今重要なのは、私がどう答えるかだけだし。


 とは言え……まあ、常識的に考えても私自身の感情きもちに照らし合わせても、ここは拒否一択――それ以外の選択なんて、当然ながらあるはずもない。



 ――今、この状況でなければ。



「――分かりました。それで、お願いとはどのようなものなのでしょう?」


 さしたる躊躇もなく、彼の目をじっと見つめそう問い掛ける。……何だってするよ――あの母親ひとから逃れられるなら。

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