影の国のお姫様と優しい吸血鬼

モニカ白兎

影の国のお姫様と優しい吸血鬼

 春が来ました。

 影の王国にいる、十五人のお姫様の内の十二番目のお姫様が、ようやっと旅立てる日です。

「ピィピ、いいですか」

「はい、お母さま!」

 王妃様が、何度目か分からない忠告をピィピ姫に言います。

「あなたはまだ未熟なのですから、動きの早いモノはおやめなさい。お花さんから始めるのがよいでしょう。カタツムリさんやダンゴムシさんなんかの、動きのゆっくりな虫さんでもよいですね」

 

 いやです、そんなの退屈です!

 

 と、幼い頃のピィピ姫は言いました。

 けれど、その後の王妃様の、お話の長いこと! ピィピ姫は、その内にここは黙っておくのがよいのだと知ったのでした。

「お母さま、よぅく分かりました。大丈夫です。きっとすてきな魂の住処を見つけます!」

 ピィピ姫は、王妃様の目を真っ直ぐに見つめて、そうはっきりと言いました。

「ピィピ、あなたは姫達の中でも一番のお転婆だから、母は心配です……。まずは、寿命の短い住処を見付けるのですよ。お花さんか虫さんですよ。そしたら、すぐに国へ帰って来られますからね。母が初めて旅に出た時は、それは美しい白百合の花の……」

「これこれ、いつまで経ってもピィピが旅立てないではないか」

 王様が、優しく笑ってピィピの頭を撫でました。

「ピィピなら大丈夫さ。さぁ、行って来なさい。そして、素晴らしい魂の住処を見付けるんだよ」

「はい! お母さま、お父さま、行ってまいります!」

 はらはらと涙を流す王妃様を振り向くことも無く、ピィピ姫は旅に出たのでした。

 いいえ、ピィピ姫にとって、これは旅ではありません。何が起こるか、どんな出会いがあるか分からない、楽しい冒険の始まりなのです。


 スルスルと、地面の薄い膜の下を縫い進みます。そうすると、地面も、地上も、よく見えるのです。

「さーて、どこから行こうかしら! そういえば、デルリちゃんはニンゲンのいる街へ行くって言ってたな」

 お友達の影の子の言葉を思い出し、ピィピ姫も街を目指すことにしました。

 

 草原の影は、動きを合わせて優しく揺れます。小石の影は、誰かに蹴られるまで、雨に打たれるまで、静かにそこにいます。

「退屈じゃないのかな」

 仲間たちを横目に、ピィピ姫はぐんぐん進んで行きました。

 

 街に着くと、たくさんのモノと影が暮らしていました。家の大きな影、看板の真っ直ぐした影、ニンゲンの動きまわる影。

「わぁー!」

 初めて見るモノ達に、ピィピ姫の心は踊ります。

「ピィピ姫!」

 呼び掛けられて振り向くと、そこには犬の影がいました。

「あら、ペリナンさん! 犬の影が住処なのね」

「姫様も、ついに住処探しの旅に出られたのですねぇ。私も、この犬の影を住処にしてもう五年が過ぎましたよ。早いものです。……おっ、とっと!」

 伏せていた犬が、急に立ち上がり走り出しました。

「姫様、またいつか〜……」

 ペリナンさんは、犬と共に遠くへ走って行きました。

「うふふ、犬の影かぁ。楽しそう!」

 空高く飛ぶ小鳥の影は、薄く薄く大きくなって、地面を素早く動きます。魚の影は、海や川の深く深くを潜って、ゆったり泳ぎます。好きなニンゲンや虫や動物を探して、そのモノの寿命と共に過ごす影もいます。

「みんな、いいなぁ! 私も早く住処を見付けなくちゃ!」

 

 そうは言っても、なかなかピィピ姫が気に入るモノがありません。街を探索している内に、当たりがどんどん暗くなってきました。陽の光を浴びていた黒い影達は、月明かりに照らされてほんのり青い姿に変わりました。

 

「はぁ、夜になっちゃった。」

 ニンゲン達は家に帰り、小鳥や魚も眠ります。あんなに賑やかだった街は、すっかり静かになりました。

 公園に行って、ベンチの下で寝ようかな、そう思った時。屋根の上に、人影が見えました。月が、そのニンゲンの形をくっきりと浮かび上がらせます。

「あんな所で、何してるんだろう?」

 ピィピ姫は、地面から家の壁を伝ってスルリと屋根に登りました。街を見下ろすニンゲンは、綺麗な顔をした男の人でした。彼の足元を見ると、なんと影がありません。

「あらら? 影がないわ!」

「誰だ!」

 ピィピ姫の声が聞こえて、そのニンゲンは辺りを見回しました。

「あら! あなた、私の声が聞こえるの? ここよ、ここ!」

 ニンゲンが見下ろします。とても目のいい彼には、ピィピ姫の姿がうっすらと見えました。

「なんだ、お前は。影の国の者か」

「よく知ってるのね! 私、影の王国の十二番目の姫のピィピよ! あなたは?」

「……」

 彼は、ピィピ姫の問いかけには答えず、屋根からぴょんと飛び降りました。

「あら!」

 そして、鳥より速く、魚より優雅に飛び去りました。

「名前くらい、教えてくれてもいいじゃない!」

 ピィピ姫は、プンプンと怒ると、そのまま屋根の上でふて寝をしたのでした。


 あくる日。ピィピ姫は、また新しい街を目指そうと出発しました。

 いくつかの草原を抜け、あちこちの川や海を眺め、それでも魂の住処は決まりません。そして何より、あの影の無いニンゲンのことを忘れられずにいました。

 

 ある夜ある街で、ピィピ姫は屋根に登りぼんやりと月を眺めていました。

「あーあ。早く住処を見付けなきゃいけないのに……」

「なんだ、お前。こんな所までウロウロしてたのか」

 いつの間にか、ピィピの後ろに立っていました。

「あ! この前のニンゲン!」

 びっくりして振り向きましたが、ピィピは何だか嬉しそうです。

「俺は人間ではない。吸血鬼だ」

「吸血鬼! 私、知ってるわ! 王国の図書館で読んだの。書いてた通り、吸血鬼って綺麗なのね。……それにしても、本当に影がないわ」

 ピィピは、吸血鬼の足元をまじまじと見ました。

「決めた! 私、あなたの影になる! 住処を見つけるよりずっと楽しそうだもの!」

「勝手に決めるな」

 吸血鬼は、またひらりと屋根から飛び降りると、華麗に舞いました。

「名前の通り、ピーピーとうるさいヤツだ」

 吸血鬼は飛びながら、一人言を言いました。

「私の名前、覚えててくれたのね!」

 吸血鬼は、聞こえるはずのない声がして驚きました。見ると、マントにピィピ姫がしがみついているではありませんか。

「離れろ!」

「いやだ!」

 吸血鬼が、マントをバサバサと靡かせますが、ピィピ姫は決して離れません。その戦いは吸血鬼のお屋敷まで続き、最後は、ピィピ姫が勝ったのでした。

 

「わぁ、すてきなお屋敷ね!」

 疲れきった吸血鬼の一方、ピィピ姫は元気です。お屋敷のあちこちを見回しながら、やはり吸血鬼の足元を見ます。

「お屋敷のモノには影があるのに、誰も住処にしてないわ」

「わざわざこんな所まで来るやつなんか、お前くらいだ」

 吸血鬼は、不機嫌そうに言いました。でも、ピィピ姫は自分が初めての来訪者だと知って、嬉しくなりました。

「それにしても、どうやったらあなたの影になれるのかしら」

「知らん。お前のせいで食事をし損ねた。もう寝る」

 言いながら、吸血鬼はカーテンを締め切った部屋にこもってしまいました。

「もうすぐ夜が明けるって言うのに。お昼は寝てるって本当なのね。じゃあ、やっぱり人の血がご飯なんだわ」

 ピィピ姫も、夜通しの攻防戦に疲れていたので、一番古そうな柱時計の下で眠ることにしました。


 それからというもの、二人の奇妙な生活が始まりました。

 夜になると、ピィピ姫は街へ出かける吸血鬼のマントにしがみつき、着いて行きました。

 屋根の上に立つ吸血鬼にピィピ姫が話しかけ、吸血鬼はそれに気まぐれに返事をします。

 いつも吸血鬼は誰の血も吸わず、夜が明ける前に必ず花を一輪手折って帰るのでした。

「美味そうな人間がいなかった」

 と、吸血鬼は毎度そう言っていましたが、ピィピ姫は知っていました。人の血を吸わない優しい吸血鬼なのだと。血の代わりに、いつも一輪の花の蜜を飲んでいたのです。

 

 ピィピ姫が国を出てから、季節が一巡しました。いつまで経っても吸血鬼の影にはなれませんでしたが、ピィピ姫は毎日楽しく暮らしていました。

 無愛想だった吸血鬼は、たまに笑うようになりました。ピィピ姫も、吸血鬼の真似をして花の蜜を飲んだり、そばで眠ったりして、二人はとても穏やかでした。

 

 そんなある日。

 まだ陽も高く、吸血鬼もピィピ姫もぐっすり眠っている頃に、それは起こりました。

「ここだ! 早く斧を持って来い!」

「あたしの娘を返しておくれ!」

「恐ろしい悪魔め! 殺してやる!」

 街のニンゲン達が、お屋敷の門に大勢押し寄せて来ました。ピィピ姫が起きるより先に、吸血鬼は起き上がり、身支度を整えていました。

「ど、どうしたの!?」

 うろたえるピィピ姫に、吸血鬼は落ち着いて言いました。

「お前の姿は人間には見えない。ここに残っても逃げてもいい。俺は行くが、お前はもう着いて来るな」

「行くって、まだお昼よ! 陽に当たると……」


 バァンッ!!


 勢いよく、扉が開けられました。

「悪魔め! ここにいたな!」

「今殺してやる!」

 ニンゲン達が、銃を構えて吸血鬼を狙います。

「やめてっ!! この人は誰の血も吸ってないのよ!」

 ピィピ姫が一生懸命叫びますが、ニンゲンの耳には入りません。吸血鬼が窓から飛び降りようとした時、


 バンッ!

 バァンッ!!


 銃声が、お屋敷中に響きました。吸血鬼はよろめき、そのまま落下しそうになります。ピィピ姫が、必死にマントの裾にしがみつきました。

「やった! 悪魔に当たったぞ!」

 ニンゲン達が喜ぶ中、吸血鬼は必死に体勢を整え、高く飛び上がりました。左肩と脇腹から、血がどんどん溢れてきます。陽の光が、吸血鬼の白い肌を焼き焦がします。

「ちっ! 仕留め損ねた! どこに逃げるつもりだ!?」

「いや、見ろ。今は昼だ。放っておいても死んじまうさ」

「それもそうだな。……皆! 街の仲間を食い漁る悪魔を殺したぞー!」

 飛び去る背後から、ニンゲンの歓声が上がります。

「ああ、どうして、どうして!? あなたは誰も殺してなんていないのに!」

「……俺以外にも……吸血鬼や……本物の悪魔は……いるからな……」

 言いながら、吸血鬼の飛ぶ力はどんどん弱くなっていきます。そして、どこか分からない森の中に、転がるようにして落ちてしまいました。

「しっかりして!……あっ! あそこにお家があるわ! きっと日陰になるはず!」

 ピィピ姫が指さした先には、もう随分と長い間忘れられたような、古い古い小さな建物がありました。ピィピ姫は、必死に吸血鬼の体を起こして、連れて行こうとします。

 

 ほとんど這うようにして、二人はその建物の中に入りました。所々、屋根も床も崩れています。けれど、椅子だけは整然と並べられたままです。窓ガラスも割れてしまっていますが、部屋の中央に大きく飾られた、美しい色とりどりのガラスだけは綺麗に残っていました。

「教会……か」

 吸血鬼は、少し笑うとステンドグラスの前で止まりました。もう、手も脚もほとんど崩れかけています。

「ここじゃ、陽に当たってしまうわ! もっと奥に……」

「もう、ここで……いいんだ……」

 吸血鬼は、ステンドグラスを見上げました。美しく柔らかな光の影が、吸血鬼を七色に染めます。

「ピィピ……俺の影に、なれ……なかっ……。ふっ……。俺の……勝ち、だ」

 喋るそばから、吸血鬼の唇の端がぼろぼろとこぼれます。それでも、吸血鬼が微笑んだのはピィピ姫にも分かりました。

「喋らないで……。死なないで……」

 ピィピ姫が、大粒の涙を流しながら、もう指先のない吸血鬼の手をそっと握ります。

「ずっと……陽を浴びて、みたかった……」

 吸血鬼が、ステンドグラスを見ました。そして、少しだけ眩しそうに目を細めると、そのままゆっくりと閉じ、もう二度と開くことはありませんでした。

 吸血鬼が死んだ後も、体はみるみる崩れ灰になり、そうして、服とマントだけが残ったのでした。

 

 ピィピ姫は、ずっとずっと泣きました。もうはためかないマントにしがみついたまま、何度も日が登り月が沈み、それでも泣き続けました。

 そして、何度目かの晴れた昼に、自分の体が七色になって、そのマントを優しく照らしている事に気が付いたのです。

「……ああ、そうなのね」

 ピィピ姫は、その温かな光を全身で感じました。そして、吸血鬼がいた所を、その光でそっと覆いました。

「私の冒険は、ここで終わりなのね。私の魂の住処は、ここなんだわ」

 ピィピ姫は、そのマントを、その美しく温かい光の影で、ずっとずっと照らし続けたのでした。

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