リノリウム

風何(ふうか)

短編小説「リノリウム」

 めをひらいて当たり前みたいにぼくはぼくの部屋にいるはずなのに、まるで眠ってめを瞑っているときのリバーシブルみたいな白で、からっぽ。いやからっぽというよりは真っしろ、飾りのないことをからっぽと云うならそのたとえもあながち間違ってないのかもしれないけれど、もしそうでないのだとしたら、真っしろ、真っさら、誰の筆跡も感じられないほこりかぶったキャンンバス、みたいな、味気ないくすんだ白、虫の死んだ匂い、リノリウム、とそこまで想起して、ぼくはここが病院だと思い出す。

 そうして、ぼくはとっても自然なながれで、どうしてぼくがこんなところにいるのか、どれくらいここで眠っていたのか、とそんなことを考え始めるのだけれど、分からない、なんだかあたまは痛いし、からだも思うように動かない。からだぜんぶがじとっと汗ばんできもちわるく、その内側から溢れんばかりの毒素のようなものをきれいに拭い去ってしまいたいのに、なぜかぼくの意思と関係なくほとんど動くことができなくて、そのうち、きれいになりたいという人間がほとんど原初に近いところで抱くような感情、よごれを消し去ってしまいたいという礎みたいな心境、そういうもののすべてが霞んでいくように薄れていって、なんでかな、なんでだろうとか、そんなことさえ考えるのもおぼつかなくなって、ただ点滴がゆっくりゆっくりおちていくのをぼくはみているしかなかった。その事象は、観念的に秒針が進みゆくみたいだな、とか無秩序なことをぼくはぼうっと思っていて、すると「○○さん、面会に○○さんが来てくださいましたよ。」といきなり近くにいた看護師がなかば叫ぶみたいにぼくにむかって言ってきて、ぼくは内心びっくりして、からだを一時びくっとさせながら、けれどもあたかも平然をよそおうみたいに「うん」とだけおさない子どもみたいに頷きながら言って、面会に来た○○さん(名前はよく聞こえなかったし、聞こえなかったから誰かも分からなかった)に部屋に入ってもらった。

 そうして入ってきた女の子は、おそらくぼくと同じくらいの年で、濃紺のブレザーに赤色を基調としたリボンをしていて、襟元には蝶々を象った校章が反射するみたいにぴかぴか光っている。たぶんだけれど、彼女は学校帰りにそのままぼくのところにやってきたのだろう。彼女は急いでやってきたのか少し息を荒げていたけれど、しばらくして落ち着きを取り戻したようにぼくの寝ているベッドの横に置いてあった丸椅子に腰かけた。ぼくはそんな彼女のことをどこまでも不審に思ってまじまじと見つめていたけれど、それでも彼女は、そんなぼくのことをいやがる素振りひとつ見せることなく、見つめ返しては笑顔を浮かべていて、なんだか秋みたいだなと思う。もみじが散っていくのを思い起こさせる陰影のある表情で、ひかえめな笑みを浮かべ、そして、そんなことなんてあるはずないのにその佇まいからは金木犀のかおりがする。揺れる長い黒髪は窓から差し込む斜陽を反射し、暗く朱くひかっていて、あ、ゆうがた、もうゆうがただったんだ、と思って、帰る時間がせまった学童の生徒みたいになんだか昏い気持ちになった。

 そもそもどうして彼女がいきなりぼくのところにやってきたのか、こんな見ず知らずのぼくのところに来なければならないのか、ぼくにはほとほと理解できず、けれどそれにもきっと理由があるはずで、でもその理由をわざわざ考える気にもならなくて、ぼくはただ固いベッドに横たわったままで、風景の一部として彼女をみている。彼女はぼくのところにいきなり来たわりにはなにもしゃべらないし、鞄からいっさつの小説、とりだして読み始めるしまつ。けれどもその光景は、絵の具が紙に染み込んでいくみたいによく馴染んでいて、ぼくは初めて会うはずなのに、彼女に得体のしれない懐かしさみたいなものを感じはじめて、まさに前世で会ったことがあるみたいな感覚のなかで、溶けていくみたいだった。そう、ようかいする。水彩画のなかの世界みたいに、ようかいするということ。ぺらぺらめくる頁の音で呼び起こされる、それは耳朶を経由し、耳管を経由し、脳をしげきする。ぼくがここでなにもしゃべらずに、彼女が帰ってしまったら、ぼくはかならず後悔する、そんな予感があった。

「なに読んでるの?」

そうしてくちをついた言葉は、思ったよりもたどたどしく、自分の想像の何倍も嗄れていて、いったいいつのまにぼくのからだはこんなになってしまったんだろう、と一瞬思ったけれど、そんなことなどすぐに忘れてしまうくらい、理由もわからず彼女のことを突き止めたくなった。

 すると彼女はゆっくりと、読んでいた小説から顔をあげて、またぼくのことをみつめてほほえんだ。

 すると彼女は、その風貌に違わない落ち着いた声で今しがた読んでいた小説のタイトルを呟いて、それから「わたしの一番好きな小説。」と付け加えた。ぼくもその小説を知っていたけれど、彼女がどうしてその小説が好きなのか、それは考えれば考えるほど分からない。そしてぼくは、気がついたらこう言っていた。

「よかったら、そのはなし、ぼくに読んで聞かせてくれないか。」

それがほとんど告白みたく思えたのは、ぼくの感性がおかしいからだろうか。でもぼくからしたらその言葉は、まるで彼女の人生そのものを聞きたがってるみたいで照れくさく、彼女にそんなぼくの所在ない感情が知られてないだろうかとか、ぼくの言葉に引いたりしてないだろうかとか、いろいろ思考が川を泳ぐ魚の群れみたいにぼくの脳裏をかけめぐっていったのだった。

 けれども彼女は特にぼくのことをわらったりすることなく、「わかった」とだけ、まるで彼女までもがぼくと前世で会ったことがあるようなそんな自然な口調で言って、それからそのはなしを朗読しはじめる。

 そうして物語を読み上げる彼女の声はとても静謐としていて、病院から漂うシロップの匂いに混じるようにぼくの耳に届く。そんな彼女の声からは、冒険するみたいな大きな感情の揺れ動き、それはたとえば激しい怒りとか、舞い上がり踊り出すみたいな楽しさとか、そういったものを感じることは出来なかったけれど、そのぶん、より切実に震えているように感じられて、ぼくもまた共感覚のごとくその感覚のなかに呑み込まれて、ぼくはただ彼女の声に聞き入っていた。

 物語の内容は、戦後、権力を失い没落した貴族の家族の行く末を描いたもので、主人公は三十手前の女性だったけれど、なぜかそれが他人事みたいに思えず、ぼくはあるひとつの情景を思い浮かべる。それは、教室の一番の後ろの席で、ひっそり目立つことなく丸眼鏡のレンズを光らせながら、古びた小説に読み耽っている少女、望遠鏡みたいに遠くを見通したような目でぼくを見ていた少女。

「私は確信したい。人間は恋と革命のために生れて来たのだ。」

そう、まさに、内にあるひめごとに駆られて革命を企てる少女みたい、そうだ、ぼくも革命を起こしたかったんだ。起こしたかった?起こしたかった???

 そうしてぼくがあまりにもじっと彼女のことを見つめていたものだから、彼女は途中で物語を読み進めるのをやめて、ぼくに向かってまたやさしい笑顔でほほえんだ。そんな笑顔を見るだけで彼女の顔を真面に見つめていることが出来なくなり、心拍数はあがり、血圧が上昇し、息が苦しくなる、けれどもその感覚がここちよく、冬の交差点を全速力で走り抜けるみたいな清潔さが、ぼくのからだを徐々に満たしていくみたいで、ああ、ぼくたちはやっぱりどこかで会ったことがあって、それが前世なのか遠い故郷でのことなのか、それは分からないけれど、どこまでも切っても切り離せない輪廻のような繋がりを感じる・・・、なんてそんな恥ずかしいこと口が裂けても言えないけれど、運命というものを理由につながりを主張するなんてぼくにはそんな気障なこと出来っこないけれど、だからぼくはひとことだけ呟いたのだ。

 彼女はその言葉を聞いて、一瞬時が止まったかのようにぼくのことを見つめていた。傾く西陽はすでに雲間に隠れ、病室はさっきとは打って変わって暗がりに満ちている。彼女がどんな表情をしているのかもよく分からない。朝が来なければ、太陽が傾くことも沈むこともないのに、と思って、ずっと暗闇ならきっとそのなかでもお互いのことが分かるように人間は進化して、今、彼女がどんな表情をしているのかもわかるかもしれないのに、と思って、けれどもみんなが夕陽を見て黄昏るのは、いつか来る終わりに向けての準備をしているからなんじゃないか、とそんな風に思うと、陽が傾くのもまた愛おしく思えてくる。終わり?終わり?って?

 すると彼女は持っていた小説をぼくの寝ているベッドに置き、途端に顔を両手で抑え、泣き始めた。そこでぼくは直感する。そして直感した直後から、彼女の声はどんどん遠くなっていく。

「ありがとう。」

彼女は啜り泣きながらなんとかそう言った。そうしてぼくの人生初めての告白は真空に散り散りになって、ぼくは、それが人生初めての告白ではないと思い出す。

 そうだ、ぼくも革命を起こしたかったんだ。ずっと特別ではない人生のなかで恋をしたかった。

「昨年は、何も無かった。一昨年は、何も無かった。」

そんな風に呟く彼女の声。遠い日の記憶。太宰が好きだった彼女。そんなことを呟く彼女を盗み見るぼく。「まさに更級日記の少女みたいだ。」と返して、笑い合うぼくたち。革新的なものを生み出せないぼくたちは、近い感覚を物語を介して共有し、既存のものを使って理知的なふりをして、けれどもそれでも楽しく笑い合って、何者かになれると思い続けて、けれども、ぼくはなにもかも思い出してしまった。

 心拍数が上がる、血圧が上がる、息が苦しくなる、のどが渇く、痰が絡んで咳き込む、あ、おしっこ、おしっこが我慢できない、けれども、「ルイ王朝の頃の貴婦人たちは、宮殿のお庭や、それから廊下の隅などで、平気でおしっこをしていた」らしいから、ぼくも貴族ってことで、ベッドの上で無為におしっこしてしまっても、いたって普通で、それは決して年老いているからではなくて、そういうことにして最期まで誤魔化させてくれないか。ぼくがもう九十歳とかそんなこと、知らないままでいたいのだ。

 けれどもこれだけは言っておかなくてはならない。目の前から彼女と生き写しの彼女が居なくなる前に。

「ありがとう。元気で」

けれどもやはり声は掠れて真面にでてはくれない。実際にはほとんど声になっていなかっただろう。でも彼女は笑顔で言った。

「じゃあね、おじいちゃん。」

それからどれくらい経ったか。視界は緩やかに暗くなっていって、しばらくすると再び明るくなることはなくなって、でもずっと夜のほうが太陽は傾かないし、太陽は沈まないから、やっぱりぼくにはこっちのほうが合ってる、その暗闇にしばらく身を置くことにして、暗闇のなかでも恋は出来るし、つまり、ぼくはいつからだって革命家になれる。

 そうしてぼくは束の間の眠りにつく。どこかにいる彼女に向かって、来世でまた会おうと約束して。


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リノリウム 風何(ふうか) @yudofufuka

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