第35話 秘密の恋の甘い味

 二十五日のクリスマスも終了した。この日も前年比百二十パーセントの売り上げである。深見店長のよく考えられた発注に感心した。


「お疲れ様、みんな。今年はクレームもなかったし、みんなよくやってくれたよ」

「深見店長が普段から厳しいからですよ」

「私たち、鍛えられていますからね」


 クレームがないクリスマスなど珍しい。みんなの接客態度はスムーズで素晴らしいものであった。深見店長が頼んでくれたピザを食べて解散となった。


 翌日の二十六日はお休みである。お昼まで眠ってから、私は拓也くんとの待ち合わせ場所へ向かった。

 先日二人で歩いた銀杏の並木道。彼は車に乗って待っていた。


「お待たせ。結構待たせちゃったかな?」

「そんなことないですよ。待ち合わせ時間十分前です」


 拓也くんが助手席に誘ってきたので、扉を開けて座る。シートベルトを着用すると、すぐに車は発進した。


「どこへ行くの?」

「着くまで内緒です」


 秘密めかした拓也くんの物言いに、私は行き先が気になってしまう。車は段々と都心部から離れて、郊外へと向かっていた。三十分ほど走ると、誰もいない海へとたどり着いた。


「寒いですけど……ここから見る海は綺麗なんです」


 拓也くんの言葉に、私は海を見つめた。沖縄の海とは違う青さの海。十二月の海は浜辺に冷たそうな波が押し寄せていたが、それでも拓也くんの言う通り、あちこちに滑らかな岩場があって美しい光景だった。私は上着を羽織り直して、車から降りる。拓也くんが私の手を取り、ともに浜辺を歩いた。


 足跡のない砂浜。しばらく歩いたところで拓也くんは立ち止まった。


「本当は夏にこの風景を見せたかったんですけど……冬でもそれなりに趣がありませんか?」

「そう、だね。冬の海って来たことなかったけど……綺麗だと思うよ」


 波が打ち寄せる白い浜辺は、寒いけれど気持ちがすっきりする。拓也くんが私と目線を合わせた。くっきりとした双眸。私が惹かれた──黒い二重の瞳。


「俺は……、前から浅岡さんのことが好きです。浅岡さんが入社して、一生懸命働いている姿が好ましく思えて……。いつの間にか、恋へと気持ちが変わっていました。……俺の気持ちに応えてくれませんか?」


 視線に絡み取られ、そのまま頷きそうになり──私は動きを止めた。私の中にはまだタクヤくんが存在する。その存在を無視することはできなかった。拓也くんは溜息をついた。


「いったん車まで戻りましょうか」


 再び手をつないで来た道を戻る。私は俯いて、手の温もりだけを感じていた。

 拓也くんは車に戻ると後部座席の扉を開ける。そこには黒いヴァイオリンケースがあった。見覚えのある高そうなヴァイオリンケースはタクヤくんのものと同じ。彼はヴァイオリンと弓を取り出し、チューニングした。


「前に俺のヴァイオリンが聴きたいって言っていましたよね」

「うん……」


 肯定すると、彼はヴァイオリンを弾き始めた。私はその美しい音に耳を傾ける。どこかで聴いたことのある曲──私は曲名を思い出そうと必死になる。弾き終わった拓也くんが楽しそうに笑った。


「エルガーの『愛の挨拶』という曲ですよ。知りませんか?」

「聴いたことはあったけど……曲名までは知らなかったよ。とても上手だったね」

「そうですか? ありがとうございます。ではもう一曲弾きますね」


 始まった二曲目を聴いて、私は驚きに目を見開く。

『秘密の恋の甘い味』のオープニング曲──「スイーツブーケ」が奏でられたからである。



『あなたと甘いお菓子が食べたいの

 秘密の恋の甘い味

 二人きりで煌めくケーキを食べる

 あなたの綺麗な瞳に見つめられながら食べると

 恋の魔法で何倍も美味しくなるの

 ずっと私の側にいてね

 砂糖を溶かしたような甘いお菓子を一緒に食べましょう』


 私はその旋律を聴いて──ぼろぼろ涙をこぼしていた。タクヤくんが弾いてくれた思い出の曲。もう二度と聴くことはないと思っていたのに、何故か拓也くんが素敵な音色で弾いてくれた。


「な、んで、この曲……」


 知っているの? という疑問は涙で封じ込められ、言葉にならなかった。拓也くんは『恋甘』は知らないはずなのに、どうしてこの曲を演奏したのだろう。


「浅岡さん。浅岡さんは俺のことが好きですよね」


 言い切られて、私は涙を流しながらも笑ってしまう。拓也くんの自信溢れる姿が嫌いではない。むしろ──「好き」である。


「……そうだね。好き、だよ」

「でしょう。でも、浅岡さんは別の男に気を取られているようです。どうか俺だけを見てください」


 大きな両手で顔を仰向けさせられ、拓也くんはハンカチを取り出し、私のとめどなく流れる涙を拭ってくれた。


「俺以外の誰を見ているか教えてもらえませんか?」


 拓也くんの問いに、私は笑みが浮かんでしまう。私が本当に好きなのは拓也くんなのに、タクヤくんに妬いている彼が微笑ましい。


「秘密」


 そう答えると、拓也くんはじっと私を見つめた。


「『秘密の恋の甘い味』──浅岡さんの部屋にあったゲームですよね。俺、少し気になって買ったんです。ゲームに浅岡さんの秘密が隠れているのかなと思って」


 拓也くんの口から『恋甘』の話題が出るとは思わず、私は驚いた。しかしながら先程弾いてくれた曲は「スイーツブーケ」。──ゲームを知っていなければ、知らないはずの曲である。


 ゲームと現実を行き来していた話を、景歌は信じてくれた。拓也くんに話したら信じてくれるだろうか。先刻は「秘密」にしたけれど、隠し事はしたくなくて、私は『恋甘』で体験したことを拓也くんに話すことにした。


「『恋甘』は好きだよ。今までプレイしたどの乙女ゲームよりも。だから──拓也くん。この話を聞いてくれるかな……?」


 私は彼の手をぎゅっと握った。


「いいですよ。浅岡さんには何か秘密がありそうですからね」


 私は『恋甘』でのことを、拓也くんに全て話した。タクヤくんとのことも。彼はそれを聞いて──私を抱きしめた。


「なんですか、それ……。俺はもしかして、ゲームの中の男に嫉妬していたんですか? しかも俺の分身?」

「ふふ……」


 拓也くんの嫉妬に私は嬉しくなる。『恋甘』は終わってしまった。残ったのはタクヤくんとの思い出のみ。それを胸に抱えて、私は拓也くんの身体の温かさを楽しんだ。


「こんな夢みたいな話なのに、信じてくれたの?」

「信じますよ、浅岡さんの言うことなら。だけど、自分の分身でも浅岡さんと恋愛していたのは許せませんね」


 そっぽを向いた彼の首に手を回し、私は頬に口づけた。


「ゲームのタクヤくんも好きだったけど……。私が本当に好きなのは杉浦拓也くんだよ。大好き」


 拓也くんが二重の黒い瞳で私を見下ろす。そして、意地悪そうに笑った。


「大好きなのは知っていましたよ。ゲームの中だとしても、もう、俺以外の男に惑わされないでくださいね」

「うん!」


 私が元気よく返事すると、拓也くんは感極まったように私の唇に熱いそれを重ねた。私は彼の背中に腕を回し、目を閉じて彼のキスに応える。気持ちが通じ合った口づけは、なんて心地いいのだろう。


 拓也くんとの初めてのキスは涙の味がした。

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