第3話 癒えない心の傷

 土曜日の朝、私は由良ちゃんと淡々と早番の仕事をした。

 

 お店の開店は九時からなので、八時までに出勤をして、本店に併設されている工場から送られてきた洋菓子を冷蔵ショーケースに陳列したり、焼き菓子やクッキーなどの箱詰めの贈答品を棚に並べたりする。


 ケーキの箱や袋、リボンなどの包装材料も同時に送られてくるのでそれも棚や引き出しに片付ける。一時間でそれらの仕事を行うのは、初めて働いたときはスムーズにできなかった。しかし今では、陳列や片付けとともに掃除も開店前に終わらせられるようになった。


 仕事を滞りなく進めるには、一緒に働いているアルバイトやパートさん、社員などの協力も必要になる。


 その点、平日早番の依子さんは仕事が早くて私と息が合っていた。土日早番の由良ちゃんは、まだ働き始めて一年未満だが、非常に要領がよく仕事上で文句のつけどころがなかった。


「浅岡さん。包装材料の発注のやり方を教えてもらえませんか?」


 由良ちゃんから声をかけられ、私は僅かにびくりとなった。

 彼女はケーキの箱や袋を眺めて、昨日のことが何もなかったような風情で自然に私に接してくる。──それでも私は彼女といると、やや身構えてしまう。


「ほ、包装材料の発注のやり方だね。由良ちゃんはアイスの発注ができたよね。今のところそれで十分だよ」

「そうですか……?」


 由良ちゃんは不満げに唇を尖らせた。


 包装材料は種類も多く、それぞれの数を数えて発注するのが難しい。

 その点アイスは六種類しかないし、数を数えて発注することは慣れれば簡単である。由良ちゃんはアイスの管理を任されていた。


 でもそれ以上の仕事を覚えようとする彼女は、要領がいいだけではなく向上心もあり、そこは感心するところであった。


 土曜は朝からたくさんのお客さんが洋菓子を買い求めにくる。忙しく働いているうちに、気づけばお昼を過ぎていた。


 十三時になって、由良ちゃんは岩波英二副店長と入れ違いに仕事を上がった。岩波さんは基本的に優しいが、どうしても由良ちゃんの派手な髪の色が気になるらしい。


「由良ちゃん。もう少し髪の毛、抑え目な色にして」

「は~い。考えま~す」


 彼女はあまり聞き入れた様子もなく、適当な返事をしていた。


 深見店長は言い方きつく注意するが、由良ちゃんはいつまでも金褐色の髪色のままである。

 このお店は髪の毛の色にうるさいので、私は黒髪を後ろでひとつに結んでいた。


 由良ちゃんは化粧も濃く、それについても注意されている。歳の割には化粧が上手で、彼女が化粧を落としたらどんな顔になるのだろう、と想像すると少し愉快な気持ちになった。


 きっと瞳が二分の一の大きさに変化すると意地悪く思ってしまう。自分に自信がないから、髪の色や化粧にこだわるんだろうなあ、と考えて由良ちゃんを今までとは違った感情で眺めてしまった。


 岩波さんとの仕事は楽しい。おしゃべりしているのも面白いが、彼は丁寧に仕事を教えてくれるので、一年目のときは相当お世話になった。


 今でこそ私は早番の八時から十七時の勤務で固定されているが、初年度では早番だけでなく、中番や遅番の仕事も行った。私の教育係として、一から実務指導してくれたのは岩波さんである。


「岩波さん。母の日は、どれくらいの売り上げになるでしょうね?」

「そうだな……。前年と同じくらいだとすると、普段の日に比べて約二倍の売り上げだろうな」

「それは……やっぱり忙しそうですね」


 このお店の売り上げは、一日平均約五十万円である。

 そのうち実演販売とカフェスペース合計で二十万円、売店売り上げが三十万円であった。


 母の日が二倍の売り上げだと想定すると、売店のみで六十万円の計算になる。五月の第二日曜日に向けて、私は気合いを入れた。


「そんなに今から張り切ることはないよ。母の日の前に飲みに行こうな」

「いいですね。たまには飲みたいです」


 岩波さんと母の日前に、飲みに行く約束をした。彼はビールが好きらしいが、他にもお酒なら種類を問わないと言っていた。


 やがて十七時になって杉浦拓也くんがきた。彼の髪も茶色がかっているが、目立たない色なので、特に指摘はされない。

 私は拓也くんから借りていたハンカチを返した。もちろん洗濯は済ませ、アイロンもかけている。


「これ……ありがとう」


 彼は受け取るのに多少困ったように見えた。それでも手を出して、ハンカチをポケットにしまいこむ。ハンカチを渡したときに微かに手が触れて、拓也くんの温かさを思い出し、少し和む気持ちになった。


「返してくれなくてもよかったんですよ。あげたつもりでしたから」

「そんなわけにはいかないでしょ。あのときは、本当にありがとう。拓也くんは優しいね」


 微笑んでお礼を言うと、彼は黒い瞳を逸らした。


「別に……。俺はそこまで優しくないですよ。たまたま浅岡さんが泣いているのを見て、放っておけなかっただけです」


 私より若いからか、多分照れているのだろうと思うと、おかしさが込み上げる。十分拓也くんは優しいと思うが、素直に認めたくないのだろう。


 彼と仕事の引き継ぎをして、深見店長に挨拶してから、私は仕事を上がった。




 次の日も、さらにその次の日も職場へ向かう。由良ちゃんは仕事の話しかしてこなかったが、それ以外の仕事仲間やお客さんとはたくさん世間話をした。依子さんや深見店長、岩波さんや拓也くんとは色々おしゃべりをした。


「そのバッグ、ケーキの絵が描いてあっていいですね。どこで買ったんですか?」

「ああ、これはおまけでもらったバッグなの。可愛いでしょう」


 拓也くんが乙女ゲームの店舗特典でもらったバッグを褒めてくれた。自分でも気に入っているバッグなので、褒められると嬉しくなる。


 職場で話していると、みんなが私を元気づけてくれようとしていることがわかった。接客も好きな仕事であるし、このお店で働いていてよかったと心底思った。




 峰岸航希に婚約破棄された私の心の傷は、まだ完全には癒えない。とにかく仕事に集中して航希のことを忘れよう。そうでないと、彼との思い出が鋭い棘のように、心の中の柔らかい部分を容赦なく突き刺す。


 こればかりは時間が解決してくれることを祈るのみであった。

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