そこにあるものは何者なのか①
小さな窓から降ってくるのはわずかな光。小さな冷たい石の部屋にあるのは、静かな時間。何も変わらないはずだった。それなのに、……。
彼女の周りにあるものは、静寂からは程遠い物。
静かな時間は、過ぎ去ってしまった。
男が二人壁に打ち付けられて、頽れている。頭を打ち付けてしまったのか、全く動かない。よく見れば、手足も不思議に曲がって見える。
ただ、今のワカバにはそんなことどうでも良かった。
彼女の手の中には、小さな赤と白の肉の断片が……。
「……きんぎょちゃん……」
それは、返事ではなく、促されるのではなく、ワカバが初めて自らから発した言葉だった。
そして、涙がこぼれる。
踏み潰されたのだ。赤い小さな金魚は、ワカバにとってとても大切な友達だったのだ。とても小さな命が失われた。
失神している男達がやったのだ。しかし、彼らの様子にふと痛みを覚える。
ワカバ自身が痛かった記憶。
痛くしたのは、わたし?
震えが止まらなくなった。同じだ。わたしは、彼らと。だけど、あの人たちが悪いのに。
ワカバは混乱に頭を抱えた。違う、望んだのはこんなことじゃなくて……。そして、ひとつの答えにたどり着く。
痛いことばかりの、こんな世界、いらない。
そう思おうとした瞬間に、別の声が聞こえた。
「泣いて、いるのかい?」
彼はこのリディアス国立研究所で魔女を研究しているひとりだった。忙しくて遊びに来なくなったランドの友達。
涙を湛えた新緑色の瞳をその彼に向けたワカバは、彼に抑揚なく一言告げる。
「金魚ちゃんが……」
彼は初めて聞いた彼女の言葉と声に驚き、彼女を魔女以外の者として初めて認識したのだった。
とても騒がしい夜だった。リディアス国立研究所で極秘裏に監禁されていた魔女が逃げ出したのだ。そして、キラもその捕獲要因として組み入れられていた。
しかし、それは同時に、キラにとって打ってつけの機会でもあった。
彼はこの国立研究所へ入るための特別な鍵を手に入れるために、名を偽って配属されている便利屋。特に殺しすらも請け負うジャックという者。
どさくさに紛れて、上級兵からその鍵を手に入れることはできないだろうか。
しかし、難儀なことに、その任務が無線越しに伝えられた時には、片手には以前拾ってしまった捨て犬がいて、その上級兵である先輩衛兵の彼と共に見回りをしている最中だったのだ。
「おい、マイアード」
「はい」
共に見回りをしていた先輩衛兵の一人が、外灯の下でキラに声をかけた。
「その犬のチャンスになるかもしれないな」
あぁ、確かに。
この国の情勢に腹を立てた酔っ払いの飼い犬。
とても賢いその犬は、飼えなくなってしまった酔っ払いの元から、キラの元へ来たいわゆる研修中の衛兵犬なのだ。
「俺は向こうへ向かう。お前はこの城壁回りを続け、見張っておけ」
「はい」
キラのその返事になま笑いをした先輩衛兵が「やる気のないお前は、ここで良いだろう」とキラの背を叩いて行った。
やる気も糞も……。
「お前はやる気を出さなくちゃな」
先輩衛兵の言葉をキラはそのままその犬に向けた。
魔女が逃げたという報告が周知されたのは一刻ほど前だった。
研究所で魔女の番人をしていた衛兵二人に重傷を負わせ、そのまま逃走したらしい。今頃こんな場所にいる訳もない。
そういう意味でもキラのやる気につながることはなかった。
ただ、キラはここの正規の兵ではない。傭兵であり、姿をくらませなければならない立場だ。いつまでもこの犬と共にいるわけにもいかない。
餌にありつく場所であり続けることが出来ないのだ。
「確かに、株を上げるチャンスだ」
空にはそんなすべてをうすら笑うような三日月が、夜空に浮かんでいた。
しかし、こんな嵐の過ぎ去った場所で、どうやって彼の株をあげてやれるのかもまったく分からない。
「見回りを続けるぞ」
主人の次の言葉を待っていた忠犬は、そんなキラの言葉に頷くようにして歩き出した。
一刻前は熱した油でも被ったのかと思えるほどの、騒がしい城壁回りだったが、今は静かなものだった。おそらく今は城下町の辺りで家探しをしているのだろう。
この厳戒態勢は逃げた者が危険すぎたせいだ。
そう思えば、家探しも強盗かの如く行われるのかもしれない。リディアス兵は、リディアス王に忠実に働く犬であり、リディアスという国自体がそういう雰囲気を纏っているのだ。
しかも、ここはリディアスの首都ゴルザムである。
お膝下という免罪符が、民に対して高圧的にさせる。
魔女が逃げたとなれば、その魔女が以前の魔女狩りで殺されたとされていた魔女ともなれば、なりふりなど構わなくなるのだろう。
そう、逃げた魔女はトーラを持つ魔女。
人の記憶と過去を変え、世界の在り方すら変化させてしまう者だ。
そんなことを思い浮かべたキラは、右腕に嫌な痛みを感じた。
医者にまで悪魔の呪いと匙を投げられてしまった、決して直らない古傷だった。
そのじんわりとした痛みがキラを過去へと誘う。
暗闇に光る切っ先が、キラの右上腕の皮膚を切り裂いた……。
右腕に負荷がかかった。
「どうしたんだ?」
犬がキラの持つリードを引っ張ったのだ。そして、唸りをあげる。
もう片方の手に持つ電灯を前方に出して、道を照らす。犬は次の外灯へと体重をかけながらキラを引っ張ろうとする。
嫌な影がある。
できれば、近寄りたくない。
そんな風に思う。
それは、相反するものが無理に距離を詰めた結果、反発するような。あれに近づいてはいけない、そんな、拒絶によく似た。
そんなキラに構うことなく、犬が唸り声を深める。
その声に身を竦める魔女がいた。
凶悪なとは正反対の場所に入るような、そんな魔女だった。
そんな彼女に、キラは確かめるようにして問うた。
「お前が逃げた魔女か?」
犬に怯えつつ視線をあげた彼女の瞳は新緑色。
それは確かに魔女のものだった。
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