第25話 新居の夜
アンが木窓をじっと見つめている。
もちろん寒いので窓はピタリと閉じている。
だが、アンの赤い瞳は、厚い木板の向こう側を見通しているかのように、はるか遠くを見つめている。
その先はやはり――森だ。
「気になるなら、少し散歩してきたらどうだ?」
「……フーは、ここにいるのよね?」
「ああ、クリスがこんなだしな」
「ふふふっ」
クリスティーヌはフガフガ言いながら、俺にしがみつくようにして首に噛り付いている。
本当のクマなら今頃首がもげているだろう。
もちろんそんなことはなく、じゃれつくように甘噛みしているだけだが、相変わらずよだれでべちゃべちゃにされる。
はやめに風呂場を作りたいな。
「じゃあ……、ちょっとだけ行ってくるわね」
「ああ、朝方までに戻ればいい。ゆっくり楽しんでこいよ」
「悪魔に出会ったら逃げてくるわね」
「ははっ、まぁ~変なモンスターもいるらしいから、一応気をつけてな。心臓を用意するのが面倒だからな」
アンはそう言い残すと、するりとベッドを抜け出し、薄手のワンピースを羽織る。
やはり靴は履かないようだ。
この暗闇の中、あらためて彼女の姿を見るとまさに幽霊のようだな。
子供たちが見れば悲鳴を上げそうだ。
音もなく扉を開け、最後にこちらへ振り向くと、小さく手を振る。
こちらが頷き返すと、背景に溶けるように姿を消し、静かにドアが閉まる。
まさに森の悪霊と呼ぶにふさわしいな。
しかし……やはり夕方の散策だけじゃ物足りなかったようだ。
俺も森を散策するのは嫌いじゃないが、夜は暗くて寒い。
夜目は効くようになったし、この体は少々寒くても動けはするが……、やはり森に行くのは日が出ている時が良い。
気が滅入る。
しばらくクリスティーヌの耳やら顔やらをもみほぐして気を紛らわせていたが、冷え込みがきつくなるにつれて小便に行きたくなってきた。
「クリスティーヌ、便所行ってくる」
「んふぇ……?」
布団の上で膝を抱え込み小さく丸まったクリスティーヌを刺激しないよう、静かにドアを開けるとキーキーと派手な音が鳴る。
アンはどうやって扉を開けたのだろうか……。
そのまま廊下を歩いていると、どこかの部屋から話し声が漏れ聞こえてくる。
まだ女たちは話したりないのだろうか。
あれほど追い詰められていたのに……意外に元気だな。
まぁ、暗くふさぎ込まれるよりはいい。
外に行き用を足し、ついでに建物を一周見回る。
はるか遠く森の方から、甲高い鳥の鳴き声のようなものが聞こえる。
変な声だな。
アンが何かしてるのだろうか……。
まぁあいつなら多少のことがあっても大丈夫だろう。
それに、多少負傷してたとしても、首さえ繋がっていれば俺の力で何とか出来る。
そんなことより薄着で出てきたせいもあってクソ寒い。
寝る前クリスティーヌに変身おいてもらえばよかったな……ふかふか暖かい子熊の姿が恋しい。
そんなことを考えつつ家に入ると、思いがけない人物に出会った。
「フーさん、散歩ですか?」
「ん……ネリッサか。いや、小便だ。ついでに見回り」
「そうだったんですね。誰か出て行った気配がしたので、少し心配になって……」
「よく気が付いたなぁ」
アンほどでは無いにしろ、俺もそれなりに気を使って出て行った気になっていたが、どうやらうるさかったようだ。
あるいはネリッサがとりわけ敏感なのか。
いずれにしろ、彼女の表情は、言葉以上に不安そうに見える。
癖のない黒髪がサラサラと落ち着きなく揺れる。
「フーさん。正直なところ私はやはり不安なのです。あんな大金まで払って……、私達を助けてもフーさんには何の利益もありませんよね? あなたが……私を抱いてくれれば、どれほど気が楽だったか」
「あ~、まぁ俺もそう思うぜ」
「でも! あなたは、私にまるで執着していませんよね……やはり私では女として魅力が……アンさんがいれば当然ですね。いえ、すいません。助けてもらっておきながら、馬鹿なことを言いました。ごめんなさい……」
「いやぁ、俺は立たんのだ」
「え? たたん? あっ、そういう……」
「いろいろあってな。ネリッサはなかなかいい女だと思うぜ。白い肌に映えるその綺麗な黒髪は好みだし、少したれ目なところも色っぽい。俺の趣味的に言えばもう少し太らせたいところだがな。まぁ欲情はせんが、むっちりした尻見て楽しんでるから気にすんなよ。ははっ」
「え、えぇ……そ、そうですか」
「俺も昔は多分娼婦を買ったと思うが、ネリッサほどいい女は抱いたことは無かったんじゃないかなぁ。だからそう自信なさそうな顔をするなよ」
「信じがたいですが……嘘をついているわけでも無いようですね」
「そんなわかりやすいか?」
「ふふふっ、それはとっても」
ネリッサは俺の答えに次々に表情を変えている。
戸惑いが大きいようだが、先ほどの思いつめたような顔よりはマシだろう。
少し嬉しそうにも見えるから、これでもう面倒くさいことは言ってこないと思いたい。
実際春までの付き合いかもしれんし、変に情が移っても厄介だ。
多少よこしまな気持ちで、尻でも眺めているくらいが、むしろ健全というものだ。
「しかし……なんでネリッサは普通に雇ってもらえなかったんだろうな。男好きするいい女だと思うのだが……」
「私の考えが甘かったようです。よその町から来た娼婦なんて、怪しすぎてまともな人は誰も相手にしたくはないようですね」
たしかに、戦争があったとはいえ、本当にそれが理由で街を出たかはわからない。
元の雇い主の所から黙って逃げだしたようなやつだっているだろう。
変な病気を持っている可能性だってある。
場合によっては犯罪者かもしれない。
「そんなもんか……。あっ、そうだ――もし、変な病気持ってる奴いたら言えよ。多分なんとかできると思うぞ」
「えぇ!?」
「じゃあ、まあ明日な」
「え、あっ……は、はい……おやすみなさい」
最終的にネリッサは、毒気を抜かれたようなキョトンとした顔で立ち尽くしていた。
いい女なんだけどなぁ……。
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