迷子の悪魔と森の悪霊~いかさまテイマーは煩悩に迷う~
あいおいあおい
第1話 洞窟
音が聞こえる。
静かな闇の中、薄紙をゆっくりと破くような、とても小さな音だ。
どこか遠く、あるいは体の深いところからやってくる。
なんだろう?
ああ、これは――小さな咀嚼音。
食べているのだ。
とても、とても美味しい。
わずかな隙間、そこへ向けゆっくりと染み込むように、混ざり込み、食べていく。
いや――、違う。
食べられているのは……、俺?
だが、たしかに今は俺が食って……、なのに食われて……。
頭が混乱する。
だがもう、やめなければ。
このままではまずい。
取り返しのつかないことになる気がする。
気が付いてしまったからには、食事はおわり。
少々物足りない気もするが、実際は食べ過ぎてしまったようだ。
色々なものがおぼろげになってしまった。
もう、あまり思い出せることもない――。
大きく息を吸い込む。
湿った土、そしてカビた干し肉のような匂いがする。
何も見えない。
ここは……とても暗いようだ。
そう、ならば――、目を食えばいい。
眼球を握りこむように強く、まぶたを閉じる。
視界が燃え、光が明滅する。
目の奥に一瞬、冬の夕日に真っ赤に燃える森が浮かぶ。
あまりの眩しさに、鼻の奥がツンとする。
そうして目を開けると――洞窟だ。
荒れた岩肌が目の前に青白く浮かび上がる。
どうやら、ここは行き止まり、最奥部のようだ。
巨大な卵型の空間で、自然にできた地形にしてはあまりに整いすぎている気もする。
まるで邪教の祭壇のようでもあり、巨大な竜の胃袋のようでもある。
そして足元には――人が敷き詰められている。
老若男女が床一面にびっしりと。
そして誰もが、まるでこの洞窟の一部であるかのように、完全に沈黙している。
死んでいる。
だが、人形のようにも見える。
衣服を着ているものはいない。
丸裸だ。
その中には腐敗しているもの、白骨化しているものもある。
そして……俺の足元だけ、人一人分の黒い土が露出している。
不快だ。
腐乱死体以上に、この人一人分の余白を見ていると、吐き気がしてくる。
一刻も早くここから立ち去りたい。
それなのに、どうにも体の動きが鈍い。
節々が痛む。
あれほどたくさん食べたというのに……どういうことだろうか?
「老人の手……。これが――俺の声……?」
やせ細った手には無数のシミ、張りの無い肌、浮き出た骨と血管、そしてしわがれた声……。
俺はどうやらけっこうな老人らしい。
こんな有様では、この洞窟から出られそうにない。
「……また、食うか。いや……、食べ過ぎると戻れなくなる。俺が俺を保てない……それは、惜しい。慎重に――」
目を閉じ思い浮かべる。
身体の記憶――。
明るい夏の日、湖……煌めく水面。
そう、俺は泳ぐのが得意だった。
腹が水を打つ、火照った体を冷たい水が通り過ぎていく。
全身を抑えつける力、水をかく手応え。
水面を突き破るように顔を出す解放感。
身体へ入ってくる新鮮な空気。
体の輪郭を感じる。
そう、これが俺の身体。
さらに、記憶を手繰る――。
凍えるような森。
今にも雪が降ってきそうな曇天。
手には斧。
そうだ、斧――俺の斧だ。
頭を落とすのには、あれが一番手っ取り早い。
大丈夫、この森のモンスターで、俺が断てない首はない。
腰を入れ、しっかり意識する――。
断つべき皮を、肉を、骨を……その手ごたえを、俺のこの手はよく覚えている。
「そうか……、そうだな。そういや傭兵だったな……俺の斧は何処だろう。あれを握れば、こんな陰気な洞窟でも、少しは安心できるのだが……」
傭兵だった頃の記憶を手繰り寄せる。
喉を焼く酒、カビた干し肉、虫の湧いたベッド、娼婦達の不健康な体、吐き気のするモンスターの匂い、返り血の温かさ……。
そして、ああ……、好物のチーズだ。
カビの生えたやつがうまい。
しょっちゅう腹を下した。
「なんだか、しょうもないことばかりだな……。だがまぁ――これで、ここから出られるようになった」
目を開く。
岩から削りだしたような手だ。
厚みがあり、力強い。
そうだ、これだ――誰でもない、これが俺の手だ。
これなら、あの重い斧をもう一度振るえるだろう。
「すまんな、俺は行く。恨んでくれて構わんよ」
冷たい死人を遠慮なく踏みつけながら俺は歩きはじめる。
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