時計になった男(すこしふしぎ文学)
島崎町
時計になった男(すこしふしぎ文学)
テト氏は正確だ。なにをするにも几帳面で、間違いのない男。
きっちりした性格で、かっちり動く。時間どおりに動き、一秒の狂いもなく日々をすごす。
朝起きて、歯を磨き顔を洗い、朝食を食べ仕事に向かう。玄関を開ける時間、広場を歩き、市場を抜ける時間、乗車する路面電車も毎日おなじだ。
テト氏は毎日決まった時間に出社し、たくさんの書類を正確にさばき、正午きっかりに昼食をとる。
テト氏が書類を横に置き、手作りの弁当をカバンから取り出すと、社内の人たちもお昼休憩になったのだとわかる。テト氏がいれば時計いらずなのだ。社内から、時報のチャイムや時計はなくなった。
テト氏が今日の分の仕事を終えたときが終業の時間で、カバンを手にすっくと立ちあがると、みなホッとした表情で一日の労働から解放される。
帰りもおなじ経路だが、夕刻の市場によって食材を買って帰る。おなじ時間に帰宅し、おなじ時間に食事し、入浴を済ませ、ベッドに入り、本を読み、毎日おなじ時間に寝る。
テト氏の家の電気が消えると、一日が終わったとみんな思う。
もう何十年もそんな生活で、人々にとってテト氏は時計代わりだった。時間のズレもなく、電池の交換もなく、おまけに無料なのだから、この町で時計は売れなくなった。
駅や街角にある時計も廃止され、テト氏の生活圏内のみならず、まわりの地域でも時計はすたれていった。「テト氏を見て時刻を知る人々」を見れば時間がわかる。そういう人をさらに見れば時間がわかり、さらにさらにその人をまた見れば……とテト氏の時間の波が何重にも広がっていったのだ。
かろうじて時計の意味があるとしたら待ち合わせのときで、そういうときも「テト氏が広場を通りすぎてから半刻後」などとテト氏基準で言葉が交わされた。
この町を中心とした一帯は、テト氏を基準に動いていた。〈テト氏時刻圏〉とのちに言われることになるが、そこに着目したのが行政だった。
おりからの不況により予算は削減される一方だったので、一帯の自治体は時刻に関するものすべてを廃止した。
苦情は一件もなかった。そうなるよりはるか前から、人々はテト氏を時計代わりにしていたのだ。
行政が時間管理を放棄したこの時期が、〈テト氏標準時間〉の誕生であるという説があるが、じっさいのところはもっと前だろう。テト氏が規律正しく正確に行動しはじめた日から人々は彼の時間に従ってきたのだ。
テト氏誕生の瞬間こそが標準時のはじまりであって、誕生前、時間がまだ不正確だったころを〈前テト氏(BT)〉、誕生後すべての時間が正確に統一されて以降を〈後テト氏(AT)〉と呼ぶ学派もある。
そんなテト氏の時間が狂わされたことが一度だけあった。例の事件である。
その日テト氏は職場に向かうため、いつものようにいつもの時刻、おなじ路面電車に乗ろうとした。が、テト氏の行く手をさえぎる者が現れた。
男はテト氏の前に立ちふさがり、中身のない話を繰り出した。元来温和なテト氏であるから、不快な顔もせず男の会話につきあった。
そして男の陰に隠れるようにして、路面電車はテト氏を乗せずに発車した。テト氏がひとつあとの電車に乗ったとき、車内は混乱した。乗客たちは自分が一本はやい電車に乗ったのだと勘違いし、運転手さえもそう思った。職場までの道中、すべての人が時刻を誤った。
テト氏は一〇分遅れで会社に到着したが、午前中の働きぶりにより一〇分の遅れをあっという間に解消して、正午には正確な時刻にもどった。
この話には後日談がある。となりの町で殺人の容疑で男が捕まった。共犯としてテト氏を妨害した男も捕まったのだ。
男たちの目的はアリバイ工作であった。テト氏をさまたげ、一帯を一〇分遅れにする。その間に殺人を行いアリバイを作る。犯行時間にほかの場所で別の人間と会っていたと。
一〇分のずれをついた犯罪であった。
迷宮入りになりそうだったこの事件を解決に導いたのもテト氏で、となり町の殺人が世間をにぎわせるなか、その日の時間のズレを即座に計算し、あらゆる遅れを書類で訂正した。
テト氏が時刻のずれと世界のゆがみを正していく姿は、神々しさすらあったという。けっきょく時刻のずれは解消され、アリバイは成立しないと立証され、ふたりの男は死刑になった。
テト氏は正確だった。寸分たがわず一秒のずれもない。完璧に構築された不変のシステム。この世界はテト氏で回っていた。
正確さにほころびがではじめたのは、いつごろからだったのだろう。
長い間、テト氏はもとより人々も気づいていなかった。いまでもまだ、気づいていない者は多い。
はじめは経済調査だった。ほかの地域にくらべ、この町と周辺は不況回復の速度が遅かった。非常にゆっくりなので、一〇年単位で見たときにはじめてわかった。
ほかの項目も見てみると、驚くことがわかった。平均寿命がゆるやかに伸びているのだ。医療も福祉もほかの地域と変わりはない。食べているものも調査したが、特別なものはなかった。
花の開花がこの一帯だけ遅れていることに気づいた研究者が実験を行った。この町と、離れた町で、通信をしながら時間を計った。離れた町が計り終えたあと、ずれてこの町から計り終えたと連絡が来た。
研究者は気がついた。この町は時間が遅れている。この町と一帯は、見えないほどだが確実に、どんどん時間がゆっくりになっている。
原因はテト氏だった。
長い年月、正確に生き勤勉に働いたテト氏も、年を重ねていた。自分では気がついていないが、起きる時間、朝食の時間、家を出て広場を歩き、市場を抜けて路面電車に乗る時間、少しずつゆっくりになっていた。
時間の基準はテト氏だったから、遅くなってもだれも気がつかない。路面電車に乗る時間が遅れても、テト氏が乗る時間が定刻なのだ。
出社し、お昼を食べ、終業し、市場によって帰宅し、テト氏の家の電気が消えるとき、町の一日も終わる。
時間の遅れはすこしずつだが長い年月積み重ねられ、人々が夜寝るとき、ほかの地域では朝を迎えていた。
日の出も日の入りも、この町ではテト氏が基準だった。テト氏が起きれば朝なのだ。
そうしてテト氏の遅れとともに町も人も遅延していき、この町では鳥もゆっくり飛ぶと言われている。川の流れも風のそよぎも、町の速度がどんどん、どんどん……
テト氏とこの町の研究は、何世代にもわたっていまだ継続している。多くの研究者が時間をついやし、次の世代にバトンを渡していた。解明されるのはまだ先になるだろう。
いまでもあの町はテト氏を基準に動いている。老いたとはいえ、テト氏はいまでも職場に行き、ほかの者とおなじ時間だけ働いている。
最近の報告では、遅延の速度が日に日に増しているという。このままいけば、いつしか町も人も静止に近い状態になるのではないかと言われている。
あるいはテト氏がその活動を止めたとき、テト氏の死が周囲にどんな影響を与えるのか、研究者には予想もつかない。
テト氏の死は時間の死なのだ。そう言う者もいる。
あるいは新たな時間が生まれるときなのだと言う者もいる。
あの町では、いまもテト氏は決まった時間に起きている。歯を磨き顔を洗う。朝食を食べ、玄関を開ける。おだやかな、いつもと変わらない朝だ。道ゆく人がテト氏にあいさつをする。
テト氏は歩き出す。時間どおりに。
時計になった男(すこしふしぎ文学) 島崎町 @freebooks
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます