あなたの目の中にいたい
aoiaoi
第1話
高校2年の夏。8月1日。
夏休みがスタートしてからほぼ毎日、私は美術室で過ごしていた。
この高校の美術部の顧問は、とても指導力の高い美術教師が担当している。基礎の基礎からみっちりと技術を身につけ、少しずつ作品の質が上がっていく喜び。私にとってこの上なく充実した時間だ。今は、コンクールに出品する石膏デッサンに打ち込んでいる。
といっても、こんなふうに情熱を注いで制作に没頭する部員は多くない。気が向いた時にふらっと来て気の向くままに筆を動かし帰っていく、そんな生徒がほとんどだ。いつも部室の隅で黙々と絵を描く私を「暗い」と思っている生徒も多いはずだ。
けれど、別に構わない。私は元々社交的でもないし、夏休みだからと友達とワイワイあちこちに繰り出したいという欲求もない。ひとりで好きなことに向き合うのが一番幸せだ。
あまり暑くならないうちにと今日は9時頃家を出たが、それでも学校へ着く頃にはダラダラと汗が流れる。人気のない美術室の大きな木の机にリュックをどさりと下ろし、ペットボトルのお茶を大きく呷るとふうっと息が漏れた。
ふと、部屋の隅にひとりの男子部員が来ていることに気づいた。
「あ……!」
イーゼルに小ぶりなキャンバスを置き、黙々と筆を動かすその様子に、私は思わず息を呑んだ。
確か、霧島……
クラスは違うが、同学年。ほぼ幽霊部員と化している状況だったが、あっさりと風景を描く油彩はいい雰囲気を出していた。
7月の初めに交通事故で入院し、数日間意識が戻らなかったと聞いた。退院後も体調が思わしくなく、自宅で療養中という話だった。彼はどうなっただろう、と時々思い返していたのだ。
「霧島……くん、だよね?」
「久しぶり」
キャンバスから顔を上げないまま、彼は一言ぼそりとそう答えた。
「よかった……体調、回復したんだね! 思ったよりも元気そうで、安心した! 顔や身体に大きな怪我とかもなかったんだね」
特に親しい間柄ではなかったが、またこうして元気な姿を見せたその嬉しさに、思わず声が弾んだ。
「頭打っただけだから」
「……」
以前から、こういう無愛想な人だっただろうか? 何となく、もっとお喋り好きな陽っぽい男子で、大勢の友人といつも連んでるタイプだった気がする。
……まあいいや。まだ体調が万全ではないのかもしれないし。
私は自分のリュックを部屋の後ろの棚へ移動させながら、何気なく彼の背後を通ってそのキャンバスをちらりと覗いた。
その瞬間、私の息は思わず喉元でぐっと詰まった。
彼のキャンバスが、以前のあっさりとした雰囲気とはあまりにも違う気配を発していたからだ。
濃紺や紫を幾重にも帯びた空。その下に鬱蒼と広がる、尖った木々の突き立つ黒い森。森の上には細い三日月が青く輝いている。
何頭もの白い鹿たちが、光を放ちながら森の奥へと吸い込まれるように駆けていく——。
「何ガン見してんだよ?」
黙々と筆を動かしていた背中が急にそう声を発し、私はビクッと我に返った。
「あ——ご、ごめんなさい、つい」
「絵に見惚れた?」
「……」
こちらを振り返った目が、私をまっすぐに見つめた。
黒目がちなその眼差しを、初めて正面から受け止めた。
——やはり、以前の霧島くんとはどこか違う気がする。
「真田さん、だよな。真田
不意にはっきり名を呼ばれ、どきりと心臓が強く打った。
「え……
知らないと思った、私の名前なんか」
「知ってるよ」
そこで彼は初めて、口元に浅い笑みを浮かべた。
「朝から描いてたら疲れた」
ふーっと大きな息を吐き、パレットに筆を置いて木の椅子から立ち上がると、彼はぼそりと呟いた。
「真田さんの絵、見せてよ」
「えっ……な、なんで」
「あんまりちゃんと見たことないから」
何だか不思議なことを言う。やっぱり今日の霧島くんは変だ。
「いや、ちょっと、いまいち自信ないんだけどな」
「俺の絵、無断でガン見したくせに」
「……」
そう言われたらもう返す言葉もなく、私は準備室から制作中のキャンバスを運び出した。
「へえ……いい感じだな、すごく」
私の石膏デッサンを真剣な目で見つめながら、彼は小さく呟いた。
「あの……」
「ん?」
「今日、霧島くん、なんかいつもと雰囲気違わない?」
「——ばれたか」
「え?」
「俺は、舜じゃない」
「…………」
キャンバスから静かに目を逸らし、再び私をまっすぐに見つめる霧島くんを、私は奇妙な思いで見つめた。
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