ドロシーの伝説

藍銅 紅(らんどう こう)

第1話

 これは、伝説の魔導士ドロシー・エリザベス・レッドグレイヴが、未だ単なる侯爵令嬢であった時の話である。




「ドロシー・エリザベス・レッドグレイヴっ!私はこれ以上貴様のジーナに対する横暴を許すわけにはいかぬっ! 貴様との婚約などこの場で破棄し、これからはこのジーナとの真実の愛に生きるっ!」

「……ストルアン様」


 昼食後、学園のカフェにて友人たちとお茶を嗜んでいたドロシーは、突然なされた婚約破棄宣言に驚いて、椅子から立ち上がるのも忘れた。


 ストルアンの言をきちんと聞いているとの意を示すために、何とか彼の名を呼ぶが、正直なところ、ドロシーはストルアンが何を言って散るのかさっぱりわからなかった。淡いヘイゼル色の瞳を二度三度しばたたかせ、きょとんと首を傾ける。さらり、と温かみのある焦げ茶色の髪が揺れた。


 婚約を破棄

 真実の愛


 その言葉を頭の中で何度か繰り返す。


 ようやく理解が追い付いて、ストルアンを見上げれば、そこにあったのは、ただただ、恐ろしい形相をしたストルアンの青い瞳。

 ドロシーに対する憎みや蔑みといったマイナスの感情がその瞳には浮かんでいた。


 ドロシーに同席していた友人たちも同様に、座ったまま、あるいは紅茶のカップを手にしたままだドロシーを擁護することも出来ず、ただストルアン・デュ・ペンドルトン……この国の王太子の発言に困惑をしていた。


 そして、座ったままではストルアンに不敬であると考え、そろそろと立ち上がる。ドロシーも困惑と動揺を抱えながら、なんとか紅茶のカップを置いた。淑女にあるまじき、音を立ててしまったことを恥ずかしく思いながら、それでも、すっと背を伸ばし、立ち上がる。


 窓の外は青く晴れ渡り、雲一つない晴天だ。昼食後という時間帯のこともあり、カフェは大勢の生徒や教師が食後の満腹感を堪能するように、ゆったりと茶を嗜んでいた。


 そこに突然の婚約破棄。


 皆一様に、ストルアンとその腕にしがみ付くようにしている華奢な女性……ジーナと、そして、婚約破棄を叫ばれたドロシーを、少々の緊張と、多大なる興味で、伺うようにして見た。


「あの……、横暴とは何のことでしょう?わたくし身に覚えがありませんが……」


 蚊の鳴くような小声を出したドロシーを、ジーナと呼ばれた娘が睨む。


「嘘っ!あたしにいつもいつも惨い仕打ちをしてきているのにっ! ドレスに紅茶をかけたり、突き飛ばしてきたりっ! ストルアン様の婚約者だからって、嫌がらせばっかりしてきて……謝ってくださいっ!」


 目に涙を浮かべて叫ぶジーナ。そんなジーナの肩をストルアンはそっと抱き寄せる。


「私の婚約者であることを笠に着た横暴。恥を知るがいいっ! レッドグレイヴ侯爵家は財産を没収した上で取り潰し、だ。お前は家族共々追放とするっ!」


 横暴に、財産没収。更には追放。


 ここにきてドロシーはようやくストルアンが何を言っているのかを理解した。


「ああ……つまりは冤罪なのでございますのね? 行ってもいない罪を着せ、わたくしに婚約破棄を告げられただけではなく、何の間違いも犯していない我がレッドグレイヴ侯爵家までをも陥れる……。わたくしが本当に行ったことにより罪を申しつけられるのであれば、粛々と受け入れますが……、してもいない罪を捏造することは王太子殿下として如何かと思いますわ」


 理解が出来れば対応は可能だ。凛として、ドロシーは反論した。


「何が捏造だ。お前がこのジーナをイジメていたことなどはもはや明らかだっ!」


 はあ、とドロシーはため息をついた。


「ここで『やった』の『やっていない』だの、『証拠を出せ』だの『その証拠はそちらの方の自作自演でわたくしが行ったことのではありませんのよ』だの、小説や演劇でよくある『悪役令嬢の婚約破棄』定番の流れをなぞってみても時間の無駄ですわね……。かしこまりました、ストルアン様。そこまでしてわたくしとの婚約を破棄したのであれば、そんな不確かな理由ではなく、ここで、大勢の皆様の前で、今からそちらの方を貶めさせていただきます。そうすればストルアン様に正当な婚約破棄の理由を作って差し上げることができますわ。それでよろしいですか?」


「は?」

「へ?」


 きょとんとした顔をしたのはストルアンとジーナ。


「お、ま、なにを……?」


 二人はドロシーの言った意味が理解できなかった。目が点のようになっている。


「ですから。わざわざわたくしの罪を捏造せずとも、今この場で、わたくしが『悪役令嬢』となって、そちらの方を貶めて差し上げます、と申し上げました。ええっと、そちらの方……お名前は何と仰られましたかしら。申し訳ないのですが、廊下などですれ違ったことはありましたけれど、面と向かってお話しすることは初めてですので、名前も存じ上げなくて……」

「名を知らぬだと?名も知らぬまま、横暴を繰り返してきたというのか?」

「ですから、わたくしが行ったことではございません……などという無駄なやり取りは省きましょう?ええと、そちらの方、お名前は?」

「……ジーナ・ポートマンよ」

「ああ、貴女が平民にもかかわらず、特待生で学園に入学したという。……初めまして、ジーナ・ポートマン様。わたくしはドロシー・エリザベス・レッドグレイヴ、レッドグレイヴ侯爵家の娘であり、今の今までストルアン・デュ・ペンドルトン王太子殿下の婚約者であったものですわ」


 ドロシーは、自然に聞こえるように、ジーナ・ポートマンの名を呼んだ。

 これから行うことを、成功させるには、対象者をしっかりと認識する必要がある。ドロシーはジーナの可愛らしい顔とふわふわと揺れる桃色の髪をじっと見る。


「では、お望み通り、この場でジーナ・ポートマン様を貶めて、ストルアン様に婚約破棄の理由を作って差し上げますわね」


 ドロシーは、皆が注目する中ゆったりとジーナに近づき……そして、右手をジーナの頬へと伸ばしていった。


 ドロシーの友人たちや周囲の者は、ドロシーがジーナの頬を打つのかと思った。

 が、しかし。ドロシーが行ったのは、頬を打つことではなかった。

 そっとジーナの頬に触れ……そして、鈴を転がすような声で言った。


「豚になあれ」


 ぼん、という破裂音がカフェに響いた。


 そして……ジーナの顔は、豚に変わった。品種でいうのなら、ランドレースに近いだろうか。白に近いピンク色の耳は、細い目に覆いかぶさるようにして下へと垂れている。突き出た楕円の中に小さな丸が二つあるといった特徴的な鼻。

 つまりは、ジーナの顔は食用豚のそれに代わっていた。ただし、フワフワの髪や華奢な身体はそのままだった。

 ドロシーは「あら?」と首を傾げた。


「お顔だけしか変えることが出来ませんでしたわねえ……。やはりわたくしの魔法は半端ですわ……。全身、可愛らしいミニブタちゃんにして差し上げようかと思いましたのに」


 残念そうに、ドロシーは言った。が、気を取り直して一つ頷く。


「ま、半端な結果で申し訳ないのですが、そちらの方を貶め、ストルアン様に婚約破棄の理由を提供して差し上げるという目的は果たせましたから、ご容赦下さいませね?」


 ドロシーはにこりと笑むが、ストルアンは口を開けたまま、固まった。


 豚だ。まごうことなくブタの顔をした最愛のはずのジーナがそこにいた。ジーナはストルアンの視線を受け、自身の手で顔をペタペタと触り……、驚愕の叫びを上げた。


「ぶ、ぶひいいいいいいいいっ!(な、なんなのよこれえええっ!)」


 しかし、その叫びはどう聞いても人語ではなく、豚の鳴き声。


 周囲の者たちは、笑っていいのかいけないのか判断が出来ずにただ傍観した。


「も、戻せっ!ジーナを元の顔に戻せっ!」


 ストルアンが叫ぶ。ドロシーはのんびりと「こちらの書類にサインを頂ければ、今すぐに元に戻す方法をお教えいたしますが……」と言い、これまた魔法で一枚の羊皮紙と一本のペンと取り出した。さらさらさらと、自動的にペンが動く。これもまたドロシーの魔法だった。


 カフェテーブルに置かれた羊皮紙を、ストルアンは奪うようにして掴んだ。そこには一体いつ書かれたのか、ドロシーの美麗な文字でいくつかの条項が記載されていた。


「契約書。婚約破棄に当たり、以下の項目の履行を約することとする。

 1、 婚約は破棄ではなく白紙撤回とする。


 2、 婚約を撤回するにあたっての賠償金に関しては、婚約破棄による精神的苦痛に対する損害賠償、公衆の面前にて婚約破棄を申し付けられた精神的苦痛を加味した上で、持参金として支払った金額及びここまでの后教育にかかった費用を合算して、ペンドルトン王室からレッドグレイヴ侯爵家へと支払うこと。


 3、 この婚約の撤回はストルアンの側から一方的になされたものであり、すべての咎はストルアン・デュ・ペンドルトンにあること。


 4、 ドロシー・エリザベス・レッドグレイヴおよびレッドグレイヴ侯爵家には一切の咎はないこと」


 ストルアンがつかんだ用紙に書かれている内容を読み上げた。


「はい、読み上げていただいた通りですわ。ストルアン様……いいえ、婚約が撤回されるのであれば名をお呼びするのも失礼ですわね、王太子殿下。さあ、そちらの余白に貴方様のお名前を記していただけますか?」


 既に書面にはドロシーの名がサインされてあった。


「ふざけるなっ!」


 ストルアンは激怒した。が、ドロシーは涼しい顔だ。


「ふざけててなどございませんわ。わたくしは真剣です。婚約を撤回とあらば、ふざけるはずなどございませんでしょう?」

「私はジーナを元に戻せと言ったはずだっ!それなのに何なのだ、これはっ!」

「ですから、先に申し上げました通り、こちらの契約書にサインを頂ければ、ジーナ様を元に戻す方法をお教えいたします。ご理解できませんか?まあ、ご納得いただけないのであれば、そちらの契約書にサインをせずともよろしいですわよ。まあ、ジーナ様のお顔は一生そのままになりますけれどね?」


 ドロシーは、敢えて『悪役令嬢』を気取り、ふふふと笑ってみた。いつもいつもストルアンを立てて、そばに控え、ストルアンの意に添うように振舞っていたから、こんなふうにストルアンを振り回すのがちょっと楽しかった。

 親と国王からの命でなされた婚約というだけで、ストルアンに対する思慕などない。むしろ、婚約を撤回してくれたほうが嬉しかった。


(わたくし、王太子妃や王妃になるよりも、魔道学院に進み、この魔道を極めてみたかったのですわ。独学ではやはり、今のように半端な結果にしかならないのですもの。我がレッドグレイヴ侯爵家に咎めがないようにしてもらえれば、婚約などどうでもよろしいですわ)


 ドロシーは笑顔で未来に思いをはせているが、渦中のジーナは必死になってストルアンの腕にしがみ付いた。


「ぷぎいいいい、ぷぎいいいいい!(ストルアン様、おねがいいいい!)」


 大きく口を開けるブタのジーナに、ストルアンは一歩引いた。


「わ、わかった。わかったから腕を離せ。さ、サインをするから……っ!」


 いくら愛しているとはいえ、豚顔のジーナにしがみ付かれるのは正直気持ちが悪く、サインをするのを言い訳にして、ストルアンはジーナから離れようとした。


 さささと契約書に自身の名を記載して、手にしたペンをテーブルに叩きつけた。


「これでいいんだろうっ!」


 ドロシーは、契約書をしっかりと受けとり、そうして記載内容を確かめる。


「はい、確かに」


 ドロシーは控えていた侍女に手渡す。侍女は契約書を恭しく受け取ると、ドロシーのカバンにしっかりと仕舞う。


「では、ジーナ様のお顔を元にお戻しする方法をお教えいたしましょう」

「さっさと教えろっ!」

「はい、申し上げます。魔法を解くのは真実の愛。彼女を愛し、愛おしくお思いであるのなら、彼女の唇に熱いくちづけを、今すぐに」


 満面の笑みで、ドロシーは答えた。


「こ、このブタの唇に…ば、馬鹿なことを言うな…っ!」


 公衆の面前で豚の顔をしたジーナにキスをするとは……と、ストリアンの背に冷や汗が流れた。


「先ほど殿下は『ジーナ様との真実の愛に生きるっ!と仰いましたでしょう?真実の愛……美しいですわね。もちろん顔が異なるくらいで壊れるものではありませんでしょう、真実の愛なのですから。どうぞこの程度の困難に負けることなくその愛を貫いてみせてくださいませ。この場にいる皆様方も、真実の愛が輝く瞬間を待ち望んでいらっしゃいますわっ!」


 舞台俳優のように大げさに、更には両手まで広げてドロシーは言う。


(大勢の前で婚約破棄などということを仕掛けてきたストルアン様とジーナ様に対する、軽い嫌がらせですわ。ふふふ)


 キスをして、ジーナの顔が元に戻ろうともうどうでも良かった。婚約撤回における瑕疵はこちらにはないと書面で確約を取ったのだから。


 ジーナは神に祈るように胸の前で腕と組み、ストルアンを見上げる。うるうると瞳が潤んでいるが、その顔は食用豚のそれだ。

 ストルアンはさっとジーナから顔をそむけた。


「む、無理だ……っ!」

「ぶひいいいいいいいいいいいいいっ!(ストルアン様ひどいいいいいいいっ!)」


 ジーナの、いや、豚の叫びがカフェに充満した。


 ジーナが一歩ストルアンに近づけば、ストルアンは一歩ジーナから離れる。

 じりじりと近寄り、離れ……、そうしてストルアンは駆けだした。


「ぶ、ぶたにくちづけなどできるかあああああああっ!」


 必死になって逃げるストルアンと、それを追いかけるブタ顔のご令嬢。


 カフェにその場にいた者たちは笑いをこらえて肩を震わせていた。もはや悲劇ではなく喜劇にしか見えない。


「あらあら……真実の愛とやらは、かくも弱いものなのですわね……」


 ふうと息を吐くドロシーに、同席していた友人の一人がぼそりと聞いた。


「あの……ドロシー様。あの様子では殿下は、その、ジーナ様にキスなど無理でござましょう?でしたか、あの方、本当に一生あのままのお顔で?」


 流石にそれは可哀そうだという友人に、ドロシーはウインクをした。


「うふふ。どうでしょうね?まあ、わたくしの弱い魔法など、所詮一刻もしくは二刻ほど保てば良いほうですのよ?もしかするとすぐにでも、何もしなくとも解けるかもしれませんね。うふふふふ……あら?」


 見ればドロシーが、全速力でストルアンに迫り、捕まえ、押し倒し……、床に倒れたストルアンに馬乗りになる。


「ぎゃあああああああああああああああっ!やめろおおおおおおおっ!」



 ストルアンの叫びもむなしく、ジーナは無理やりにストルアンにくちづけていた。


 恐怖もしくは嫌悪のあまりか、ストルアンは気絶した。

 元の顔に戻ったジーナは喜ぶのもつかの間、自分から逃げたストルアンを睨みつけ、か弱い足で蹴飛ばした。


「何よっ!あたしのこと愛しているとか言っていたくせにこの程度で……っ!」


 もはや、ジーナにはストルアンに対する愛などなかった。


「ちょっとそこの悪役令嬢っ!」


 ぎりっとした目つきで、ジーナはドロシーを睨んだ。


「『悪役令嬢』とはわたくしのことでしょうか?」

「そうよあんたよっ!あたしに何てことしてくれたのよっ!」

「はあ、王太子殿下のご要望通り、わたくし、あなたに嫌がらせをして差し上げたまでですわ。ジーナ様、貴女が仰られた『ドレスに紅茶をかけたり、突き飛ばしてきたり』などという所業はわたくしにはとてもとても……できませんので、」

「顔を豚にする方がよっぽどひどいじゃない」

「そうですか?紅茶をかけられれば火傷を負いますし、突き飛ばせば怪我や捻挫をするかもしれないでしょう?幻視をかけてブタの顔に見せる程度でしたら実害はないですし……」

「実害っ!?あったじゃないのっ!」

「はあ、そうですか……。では何か一つ、お詫びでも致しましょうか?そう、例えば……そちらに寝転がっていらっしゃる殿下も……、貴女と同じように顔を変えて差し上げるですとか……」


 ジーナは少し考えた上「じゃあ、蛙で」ときっぱりと言った。


 倒れたまま、蛙の顔にされたストルアンを助け起こすものなど一人もおらず、蛙顔のストルアンはその場に放置された。

 幸いと言っていいのかわからないが、その蛙顔は、ストルアンが気絶から覚めるまでに元に戻っていた。


 だが、この件により、ストルアンは「カエル王子」と呼ばれると共に、学園中の笑いものとなった。その顛末を知った国王により、後に廃嫡される。

 ジーナは、学園を辞め、この件など知らない他国の裕福な商人に嫁いだ。

 ドロシーは、賠償金を手に、隣国の有名な魔法学校に入学を果たし、数々の新しい魔法を開発し、その名を後世に伝えることとなった。


 そうして、「安易な婚約破棄はブタのもと」、「豚に仕返しされれば蛙になる」という言葉と共に、この喜劇が国中に、果ては隣国まで広まった。


 その結果、婚約破棄などという事態の時には、公衆の面前で……ではなく、誠意をもって、双方の話し合いのもと行われるようになっていったのだ。


 これも、魔導士ドロシーの功績の一つである。






 終わり


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