第15話

「おじい様の具合はどう」


店員にコーヒーを頼むと、立花さんは首を斜めに傾けて訊いてきた。


微笑む立花さんの目を見つめる。目もとの輪郭が柔らかくなった気がする。


以前みたいな計算高さも打診も感じられず、本当にただの世間話なのだと確信できたので、言ってしまった。


「あの……実はあの話は三年前のことで、勧誘を断る口実だったんです。すみません」


立花さんはまた高い声を出して笑った。大方予測はできていたという。


「あなたの、そういうところがいいのよ」


「どういうところですか」


「素直で純粋。全然すれていないの」


「それは多分、社会に揉まれていないからだと思います……」


コーヒーが運ばれてくる。口をつけた瞬間、いつかの時と同じ連鎖反応が始まった。


働かなくちゃという強迫観念からくる、激しい緊張。カップを持つ手が震え始める。


「どうしたの、急に。具合でも悪いの。顔が青白い」


心配そうに顔をのぞきこまれたので、私は首を振った。力を入れて、震えを抑え込む。


「どうして断る口実に、祖父の話を出したかわかりますか」


訊くと立花さんは不思議そうな顔をした。私はあの時の、もう一つの本音を正直に話した。その勢いで、十六社クビになったトラウマから働けなくなってしまったこと

も、ニートと呼ばれて追い詰められていたことも、全部話してしまった。


立花さんは真剣に耳を傾けて頷き、そして小さな声で言った。


「ねえ、若葉さん。率直に訊くわ。あなた、あの日死のうとしていたでしょう」


詐欺師というのはどこまで人を見抜けるのだろう。私は驚いて、思わず立花さんの顔をじっと見つめてしまった。立花さんはこちらの思っていることを察したかのように首を振った。


「見抜いたわけじゃないわ。あの時偶然、バッグの中が見えちゃったの。信じられなくてなにか別のものに使うのだろうと思ったけど、あの日も顔色悪かったし、なんだかとても思いつめていた様子だったから」


「……当たりです。失敗しましたが」


立花さんは深刻な表情で長い溜息をもらした。


「正直ね、あなたにビラを渡した時、この子は簡単に騙せる、言い方は悪いけれどいいカモだと思ったわ。誘導してさっさと契約させて、こちらの利益にしようとした。でもね、どうしてかあなたの話を聞いているうちに、長い間忘れていた良心みたいなものがふと蘇って、自分に抑制がかかったの。ああ、この子は騙しちゃいけないのだって」


まさかこんな話を聞かされるとは思ってもみなかった。突っ張っていた肩から力が抜けていくのがわかる。


「あなたにはそうさせるだけの不思議な力があった。最後に『お仕事頑張ってください』と言われたとき、自分が今までやってきたことが馬鹿みたいに思えてきて、あの日の夜は眠れなかったわ。縁って不思議なものね。たかが数分会っただけの子なのに、あなたが忘れられなくなって。まさか亡くなったのではないかと不安にもなったし、あの仕事に手を染めた自分を責めた。それで、また初心に戻って一からやり直そうと思ったのよ。悪い人はたくさんいるわ。一生変わらずに悪行を続ける人もいる。でも、あなたは私を変えてくれた」


「大袈裟です。私には人を変える力などないです。立花さんがたまたま悪い人の中の、いい人だったのだと思います」


「そうだとしてもこうして会えたことに、とても感謝してる。あなたが生きていてよかった」


震えが自然とおさまっていた。どこまで嘘でどこまで本当かわからないけれど、立花さんの気持ちはすごく嬉しかった。


人からこんな風に言われたのは初めてだ。どう答えていいのかわからずに、私はカップの中を見つめていた。


「……苦しかったでしょ」


立花さんのゆっくりとした言葉が、私の精神に同調するかのようにすっと入りこんで

きた。


「苦しいのは、多分みんな同じです」


「でもあなたも苦しかった」 


感情が揺れる。一言一言が、今まで隠し通してきた私の一番壊れやすい部分に寄り添ってくる。


「まともに働いている人から見たら、私の苦しみは甘えだと思うんです。納めるものもろくに納められないのに衣食住はなんの不足もない。それなのに苦しい、辛い、死にたいと弱音を吐くのは、やっぱり弱さなんだと思って……」


「そうやってあなたは誰にも言えずに、一人で頑張ってきた。個人をちゃんと見もせずにニートなんていう言葉を勝手に一人歩きさせて、皆、情報に操られる。優越感というか……これも一種のいじめよね。働く、働けないという問題より、もっと大事なことがあるのよ」


「大事なことですか」


立花さんはええ、と頷いた。


「私が言えた義理じゃないけど、組織で長く働いているとね、特に数字ばかり追い求めている時代じゃ、皆どこかしら精神が病んでくるのよ。なにか変だ、どこかおかしいと潜在的には気づいていながら、意識では世の中こんなものだと言い聞かせて、いつの間にか人が人を言葉や暴力で攻撃している。私なんか、気がついたら情も良心もなくなって、人が札束にしか見えなくなってた」


私は一度も笑わなかったスーパーバイザーや、帰りに電車で乗り合わせたユニバーサルエースのなんとかさんを思い出していた。


あの日は世界が真っ暗に見えた。彼女が笑わなかったことに、彼が人を罵っていたことに、そしてそれらが人間じゃないものに感じて、とても悲しい思いをしていた。


「会社というものが、私にはとても息苦しいんです。どこもせかせかしていて余裕がないというか……ただ虚しいんです。ただでさえ頭が弱いのに、精神まで壊れそうで」


「先の見えない時代だものね。だけどあなたは頭が弱いわけじゃない。組織に向いていないだけなのよ。私みたいな生き方は許されないけど、あなたみたいな生きかたは誰も責めるべきじゃない。企業で働くという観念を捨てて、自分のペースでできる仕事を探してみたらどうかしら」


「それができたら理想的ですが、取り柄もなくて……。正直、まだ気持ちの整理がつかなくて、働こうというより、消えてしまいたい気持ちのほうが強いんです」


「なら、しばらくはこう考えてみない?」


立花さんは両手を軽く組み、笑顔を向けて続けた。


「生きていることが、働いていること」


「生きていることが……」


思わず半分復唱していた。新鮮で不思議な空気に触れた気がする。


「作業をして賃金を得て税金を納めてどうのということじゃなくてね。生きているだけで、あなたはなにかの役目を果たしている。二酸化炭素を自然に供給することも、植物に水を与えることも、こうして私と会話していることも、働いていることになるの」


寄り添ってくる言葉は垂直に心に響いて、ぐらつく私の精神を倒れないようにそっと包みこんでくれた。狭い視野の先に空が広がる。


私も、少しはなにかの役にたっていたのだろうか。


「そんなこと考えてもみませんでした……」


「人間の基本よね。今の時代、みんなそれを忘れてしまっている。それにあなたに取り柄はある。あなたがそばにいるとね、なぜだか癒されるの。あなたはずっと初々しい緑のままでいてほしい。ねえ、若葉なんて、素敵な名前じゃない」


――あなたの話し方、ほっとして好きだわ。 


――若葉はわしの癒しだ。


記憶の中の優しい声が蘇る。太陽みたいな温かさが胸に染み込んできて、私はつい泣いてしまった。


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