二話 初めての魔法(後)


 魔法協会支部の共有スペース。

 そこで机を挟んで向かい合って座るルピスとアセビ。

 

 騒ぎを起こした張本人であるが、それを全く気に留める様子のないアセビが、

「よし、準備はいいか?」


 ルピスは大きく頷いてこれに応えた。


 すると、

 《これが念波だ》

 突如としてアセビの声が直接的に脳裏へ響いた。


 ルピスは目を丸くして、アセビの口元へと意識を向けた。

 その視線の先では、アセビの口を閉ざされており、ただ不敵に彼女の口角が持ち上がっていた。


《お前がまず最初に覚えるべき魔法は<念波>だ》


 再び脳内にアセビの声が響くが、やはり彼女の口はまったく開いていなかった。


 この魔法が使えれば意思疎通も――ルピス側から意思疎通を図ることができる。

 そう考えると、思わず前のめりになる。すでにやる気は十分だった。


《魔力に意識をのせろ。私に向かって魔力を吐き出せ》


 吐き出せ、というアセビの声に応じてルピスは力を込める。


 ――聞こえている?

 

 しかし、眉間に皺がよるいっぽうでアセビに声が届いている様子はない。

 ただただ、力を込め過ぎていつの間にか息を止めた結果、ルピスの顔が次第に赤く染まっていく。

 

《力を込めるんじゃない。魔力を込めるんだ》


 それは生家のファトス家の屋敷でも聞きなれた言葉だった。

 しかし、その違いがルピスにはよくわからなかった。

 

 片眉を顰めるアセビに、ルピスは冷や水を浴びせられた気持ちになる。

 

《魔力の流し方がわかっていないのか?》


 屋敷では魔法の発現に失敗するたび、決まって罵声や折檻がルピスを待ち受けていた。

 アセビもやはり怒るだろうか失望させただろうか、とルピスは俯く。


 しかし、アセビがとった行動はどちらでもなかった。

 

《手を貸せ》


 ただそう言って、アセビは背もたれにもたれてかかっていた体を起こすと、俯くルピスの小さな手をとった。


 柔らかく弾力のある肌と、ルピスより高い体温。

 その手の感触に意識を奪われていると、ナニカがルピスの体へと流れ込んでくるのがわかった。


 ひどく熱いナニカ。それは表面的な熱ではない。ぐつぐつと煮え立つような熱さをもつナニカ。

 それがアセビの握りしめた手を通して、ルピスへと流れ込んでくる。

 

《念波を使うことができれば、例え言葉が使えない状況でも意思疎通が可能になる》


 指先から手首、前腕から二の腕へ。その流れんでくる熱は徐々にルピスの体を侵食していく。


《感覚的には自分の魔力を相手へとぶつける感覚が近い》

 恐くなって握られた手を引っ込めようとするが、がっしりと掴んだアセビの手がそれを許さない。


《その状態で何か強く念じてみろ》


 真っ直ぐにルピスの瞳を捉えて離さない。

 その赤と黄のオッドアイはルピスに逃げることを許さなかった。

 

《何かって……》

《あぁ、聞こえているぞ》


 勢いよく顔を上げると、アセビが笑っていた。


《これが念波による会話だ》

 

 ルピスの目頭が熱くなる。

 受け身ではあるが人生で初めて魔法が成功した瞬間だった。


 ――これが魔法……!

 

 いつしかアセビから与えられる熱は全身へと及んでいた。

 

 体が燃えるように熱い。

 

 それと同時に眩暈のような感覚と、風邪を引いたときのような悪寒も感じた。

 熱いのに寒い。高ぶっていた感情の影から、徐々に負の感覚が頭をもたげる。

 

《今おまえの体内を私の魔力が蹂躙している。自分以外の魔力に晒されると体は拒絶反応を示す。それが一般的に魔力酔いと呼ばれるものの正体だ》


 耳鳴りと頭痛が始まった。呼吸は粗くなり、体が小さく震えはじめる。

 体が重たい。一度そう認識すると加速するように体は重たくなる。まるで自分の体ではなくなったみたいだ。

 

 俯き始めたルピスへアセビは、

《魔力を流す感覚がわかったな? 次は肉体的な接触なしでその声を届けてみせろ》

 

 アセビがその手を離すと、熱がスッと引いていく。

 しかし、すぐには俯いた顔を上げることはできそうになかった。


 体内に残っていた熱を感じなくなるとともに、体調も回復する。

 最後に一度深く呼吸をすると、再びアセビの顔を見上げた。

 

《聞こえている?》


 ルピスは口を一文字に結ぶと、両脚の腿の上を両手でぎゅっと握りしめた。


 アセビの赤と黄の宝石のような輝きを放つオッドアイを見つめる。

 切れ長のその瞳もまた、ルピスの瞳を真っ直ぐに見抜く。

 

 そして――

 

 

《……あぁ、聞こえている。ちょっと声が細いが上出来だ》


 

 ――はじめてルピスに魔法を成功した瞬間が訪れた。

 

 

《これから念波を完璧に扱えるまでは筆談は禁止だ。死に物狂いで覚えろ》


 何てことはない初級魔法。

 多少なりとも魔法に心得があるものであれば、誰でも使えるような基本中の基本。

 魔法使いを志す者であれば、気にも留めない初歩の魔法。

 

 それでも、ようやく踏み出した初めの一歩に対して、言いようのない気持ちがこみあげてきた。

 こみ上げてきた想いには熱があった。その熱は逃げ場を求めて、目頭へと押し寄せた。


 視界があっという間ににじむと、目の前の赤と黄の宝石も見えなくなる。


 押し寄せた熱は雫へと変わり、鼻筋をつたう。それはこれまでの想いを閉じ込めたような熱さをはらんでいた。

 ルピスは何も言わない。それを見たアセビも何も言わない。ただ小さな嗚咽だけが二人の間に流れる。


 ルピスは言葉が話せたとしても、きっと何も言わなかっただろう。

 もしいま言葉が話せたとしたら、もし口を開いてしまったら、きっと声をあげて泣きじゃくっていただろうから。


 顔をつたう熱量の重さに負けるように顔を下げると、腿の上に置いた両手の甲を燃えるような熱が濡らした。

 

 二人の間には沈黙が訪れた。

 それはきまずい無言の時間ではなく、想いを噛み締める時間。


 周囲の喧騒は騒がしいが、そんなことは気にならなかった。

 

 むしろ、時間が経つにつれ、周囲の冒険者たちから注目を集めつつあった。

 嗚咽が治まるころ、顔をあげると周囲の冒険者たちが興味深そうにルピスたちを見つめていた。

 

 雫のあとを拭って不思議そうにアセビを見つめると、

《どうかしたの?》

 気になってそう問いかけた。


「念波での会話は周りには聞こえないからな。何も知らない奴らからすれば、いきなりおまえが泣きだしたように感じたんだろう」


 アセビがそう口に出して説明すると、周囲も納得したようで各々の会話へと戻って行く。


 たしかに周囲の冒険者たちからすれば、いきなりルピスが泣きだしたように感じたのかもしれない。

 アセビが今二人の座っている席を強制的に確保したことも、周囲の注目をひくことに一役買っていた。


「励めよ」


 アセビは何をとは言わなかった。

 ぶっきらぼうな口ぶりだか、そこには確かな期待の色があった。


 誰かに期待されるということは、ルピスにとってすごく久しぶりのことだった。

 胸の奥に先ほどとは違った熱い気持ちがこみ上げてくる。


 期待には応えたい。魔法は使えるようになりたい。


 ルピスを大金で買い取ったアセビは、少し乱暴で怖いところがある女性。

 それと同時に、ルピスに初めて魔法を使える感動をもたらしてくれた優しい女性でもある。


 彼女は家事と炊事などでアセビに貢献すれば、また魔法を教えてくれるという。

 魔法使いの名家であるファトス家が大金を払い、数年がかりで高名な魔法使いたちに魔法を師事させてもできなかったことを、アセビはいともたやすくもたらした。


 それ自体がまさに魔法のような出来事だった。


 朝目覚めたときに抱いていた憂鬱な気分は、欠片も残っていなかった。

 憂鬱な気分を抱いていたことさえも、もう記憶には残っていなかった。

 

 いまルピスの胸に残っているのは新生活と将来に対する希望と期待。


《ぼく、がんばるよ》


 そう言って笑うルピスを包み込む世界は今や輝いていた。

 

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