リグレット

@agloo

リグレット

 テレビニュースで「会議の最後では、引き続きアメリカの代表はアメリカ合衆国の大統領ということが確認されました」という女性アナウンサーの言葉でイタリアで行われているG6プラスCのニュースが締めくくられ、天気予報に変わってしばらくすると、きみの携帯に釜山から電話がかかってくるだろう。こんにちわ、鄭です、お変わりありませんでしたかという声は聞き慣れた女性の声で、彼女はきみの小説の韓国語版の翻訳者だった。

「アニョンハセヨ、ぼくの方は変わりないです。鄭さんこそお変わりありませんでしたか」

「はい」そう答えると鄭は思わずため息のような笑いをこぼし、声色に明るさを滲ませて言うだろう。「今日は嬉しい報告があるんです。『城北洞の花園 2』、増版が決まりました」

「それはそれはありがたい」きみは頭の中でざっと金額を計算しようとするが、途中で止めてしまう。いくら現金を、たとえそれがウォンでもユーロでも買えるものは限られている:豚の屑肉、萎びた野菜といった「高級品」の数々。

 韓国ではきみはいわゆる“純文学作家”だと思われていたが、自身ではそう見做していない。きみの書くものは少々のポルノを混ぜたミステリー仕立てのジャンル小説ーーその結末を曖昧にすることで何か重大な意味を暗示しているかのように見せかけているーーで、現在のハーレクイーンロマンスなどよりもはるかに前時代的な価値観に基づいて書かれたものだった。そのことをきみは日本の経済破綻でそうせざるを得なかったと自分を納得させたのだったが、一方できみは自身に“純文学作家”の才能がないことも無意識に受け入れていた。そして、そのことを自覚したとき、きみは大衆文学の道を“選択”したわけだが、結果的にその決定は君にとって幸いした。韓国でーー小規模にだがーーヒットして経済的に困窮していたきみを経済的に救ったからだ。

「不思議なものですね。日本ではほぼ全部の出版社が倒産してしまって、小説どころか書物自体が出版されなくなってしまって、知り合いは全て職を失いました。中には行方が分からなくなった者もいるほどです。それなのにぼく個人の暮らしぶりは以前より良くなっています。夢でも見ているようです、日本では売れない小説家だった人間が生活できているなんて」

 実際きみの小説はほとんど売れなくてエッセイストモドキの仕事をこなしていたのだった。その仕事の量も年を追うごとに減ってゆき、完全に職を変えざるを得ないところまで来ていたのだった。もし鄭がきみの小説を読まなければ、きみは職を変えていただろう。そしてその頃、日本の財政破綻とハイパーインフレが起こったのだった。

「ええ、ええ」鄭は神妙な相づちを打つ。それから「現実ですよ。そしてこれからもっとお金持ちになることができます」と予言のようなことを言うだろう。「ドイツでも出版が決まったと聞きましたよ」

「ええ、ぼくもそう聞きました」と言って、続く言葉が見つからない。財政破綻後に出版社から海外の出版社を紹介する斡旋業へと転身した、地元の元出版社社長からそのことを聞いたのは半年も前のことだ、にもかかわらずそれ以来その話題を切り出そうとする気配すらない。楽しみにしているところです、ときみは不安を悟られないように鄭に言うだろう。

 少し間があったあと、「そろそろ、韓国に引っ越してきませんか?」心配そうに鄭は言う。誘いは有り難かったが、言葉の問題をいつも考えしまうのだった。きみにできるのは日本語とせいぜいアヤシイ英語だけだった。壁に貼ったハングルの表を眺めながら言う。

「ええ、そろそろ」

「いつもそう言って、いらっしゃらない」

「すみません。いつもタイミングを逃してしまって…」

 鄭が大きく笑う。「いいんです。いいんです」

 きみは話題を釜山の小さな書店で行われるというサイン会の話に切り替え、鄭とその打ち合わせをした後電話を切るだろう。きみはテレビを着け、長い間眺める。テレビ局はNHKしか存在せず、それも短いニュース番組を日に何回か、あとは唯一の娯楽番組『やっぱり凄いニッポン!』しか放送されていなかった。テレビには砂嵐が流れているだけだろう。何を知りたくてアナウンサーが政府から許諾を得た原稿を読むだけのニュースを見始めたのか思い出せないまま、きみはテレビを消す。マンションを出た後のことを考えると、きみは少しうんざりした気分になるが、そのような気分になる自分自身にもきみはもう慣れてしまっている。日本の財政破綻後、きみはあらゆる物事に慣れてしまっていることに驚く。慣れていないのはそのようなきみ自身だけだ。きみは財布にウォン札が入っているのを確かめ、台所から買い物カゴを拾い上げると、玄関へ向かう。

 エレベーターはきみがこのマンションに引っ越して来たとき既に「故障」していた。きみは階段を伝って3階から1階に降りるだろう。下に行くにつれて空気が淀んでくる。さまざまなものが混じった臭いがするだろう。生きている人間だけではなく死んだ人間の臭いも含んでいる独特の臭気だ。吐き気がこみ上げてきて鳥肌が立つ。きみは握りしめていたハンカチで鼻と口を押さえる。マンションのエントランスはガラス張りで、ガラス張りのドアの向こうには2人の警備員の後ろ姿あり、その先ではきみの姿を認めた売春婦の集団に静かなざわめきが拡がりつつある:男女含め売春は国内最大の外貨外貨獲得手段となっていて、「シン・経済活動」と呼ばれていた。何日も身体を洗っていない人間たちの異臭がエントランス全体に薄く漂っている。きみがドアの前に立つと、微かな機械音とともにドアが開く。

 様々な薄い色彩の汚れが迷彩のように染みついるTシャツを着た20代半ばと思われる女が「40,000ウォンでせんねえ」と言ってきみに寄って来るだろう。すぐさま隣の30才にも40才にも見える女は「わたしは30,000ウォンでよかよぉ」と言う。すると周囲の男女合わせた人間も一斉に自分の価格を叫びながらきみに群がってくるだろう。中には小学生にしか見えない少女もいた。きみが「臭かろうもん、どかんか乞食ども」と怒鳴り、正面に立っていた女を足で蹴飛ばすと瞬間的に静寂で固まるだろう;女が力なく地面に転がる。警備員2人がやって来て、1人は女を起こしに、もう1人はきみのために空間を空ける。きみは買い物カゴを拾い上げ、かつては「ホームレス」や「乞食」と呼ばれていたシン・日本人兼売春婦たちの焦点の合っていない視線を浴びながら、彼らの間をゆっくり通り抜ける。

 コンビニエンスストアへの途上にある公園では炊き出しが行われているだろう。黄色い蛍光色のタスキを掛けた、福岡県の県職員による豚汁を作り配っていて、多くのシン・日本人が集まっている。経済破綻後もベーシックインカム制度は施行されていたが、支払いが円のため、現実的に無意味な政策に変容しており、代わりに各都道府県自治体が発行するフードスタンプと引き換えに豚肉が入ってない豚汁とおにぎり1つ、それから放射能汚染水を浄水器で濾過した「ALPSのおいしい水」で割ったチューハイが1杯もらえるという、福岡県ではそのような制度に変わっていた(事実上システムは年金制度や生活保護から、ベーシックインカムを経由することなく、フードスタンプ=炊き出しへと移行したのだった)。佐賀ではおにぎりが2個貰えるという嫉み交じりの噂もあったが、「福島県産」のラベルの上に「佐賀県産」のラベルを張っているところを目撃されるという事件があってから、おにぎりは「ラドン饅頭」とあだ名がつけられ、あまりありがたがられることもなく食べられていた(おにぎりの効果があってか、福岡・佐賀のシン・日本人たちは血行が良く、肩こり・腰痛・シモヤケ・冷え性・擦り傷・ニキビ等に悩まされることはなかった)。

 2011年の春の大地震の後、福島で原発事故が起こったと言う噂があった。というより、動画投稿サイトには海外のテレビ局が撮った、原子炉が爆発する様子がはっきりと写っている動画が無数にあったが、しばらくするとそれらの動画は日本では視聴できなくなった。それからSNSでは「原発事故デマは日本を陥れるための中国の工作」と一斉に言われるようになり、原発事故は起こってないことになった。一方で全国の農家のほとんどは農作物を外貨獲得のため「安い高級品」として中国を中心に輸出しており、国内で流通する農作物はフクシマ産か、地方自治体が半ば強制的に確保した物資しかなかった(NHKで放映されている日本で唯一の娯楽番組『やっぱり凄いニッポン!』では、日本の米は「1ユーロで買える20kgのダイヤモンド」と「ヨーロッパでは評判になって」いて、「ますます、Sushiブームが過熱してい」るそうだ)。

 公園の奥は小さな森、と言うか手入れのされていない雑木林のようになっていて、木々が瑞々しい緑の葉を垂らし濃い影を作っていた。公園の敷地内にはいくつかのテントが張られていた。雑木林を抜けたところに池が見えるだろう。湖面が陽の光できらめき、数人の身体を洗う人影があった。麦わら帽子をかぶった老人がプラスチックの青いバケツを片手に池から帰ってくる。老人はオレンジのテントの前にバケツを置き、入り口を這って中に入る。中から蚊除けの白いレースが締められる。公園全体に糞尿の臭いが立ちこめていた。空気が酸性の物質を含んでいるようで刺々しかった。きみは眼をしばたかせながら池を見つめる。

 炊き出しの列から少し離れたところに3人の男が集まっているだろう。頭の中央がすっかりハゲてしまっている男がひと束の、チューハイ用フードチケットを黙って若い男に渡すと、若い男は地面に置いたズタ袋からマルボロを1つ取り出してハゲの男に渡すだろう。きみはその様子を見て驚愕する:財政破綻後、タバコは恐ろしく値の張る、円では買えない嗜好品となっていて、農業地帯や運よく外資の工場を誘致できた地方の工業地帯でしか出回っておらず、かつての都市部にはまったく流通していないはずだった。きみは急いで若い男、水色のTシャツの袖から入れ墨が覗く男に近づき、話しかけるだろう。何箱か売ってくれんね?ウォンならあるけん。

「よかよー」男はニヤニヤ笑いながら言った。

「何箱持っとる?」

「こんぐらい」そう言って、ズタ袋開いて見せた;2カートン分ぐらいありそうだった。

「全部くれ」きみは焦りながら言う。

「全部はやれんばい、先客のあるけんね。5個ぐらいにしとかんね」

「じゃ、5つでいい」きみがそう言うと、男は5箱のマルボロを渡すだろう。きみは財布に入っているウォン紙幣の半分を男に渡す。「足りるね?」

 男は素早くウォン紙幣の枚数を数え、頷き、「来週ここに来んね、5箱ぐらいならなんとかするばい」と言った。

「ああ、サンキュサンキュ」

「あんた、世間でよういうとるシン・富裕層ね?」男は眩しげにきみを見ながら言うだろう。

「まあ、そうなんやろうね」ときみは答える。シン・富裕層とは日本の財政破綻後に以前の暮らしを維持している、昔風の中流層のことだった。頭では自分がそれに属していることは理解できても、「富裕」という言葉は大袈裟で、手応えのようなものがまるで感じられずにいる。確かにそうだが、ときみは思い、その先は言葉にするのが億劫だったので「それじゃ、来週よろしく頼むね」とだけ残して公園を出るだろう。

 公園の入り口の近くには組み立て式の露店の建材がブルーシートに包まれて置いてあった。以前はタコの入ってないタコ焼きを売っていたのだが、小麦が入手できなくなったのだろう、いつの間にか閉店していた。ふときみは歩きにくさを感じて下を見ると、靴底に泥に汚れ、塊になった1万円札が張り付いていた。きみは靴をアスファルトに何度か擦りつけ、1万円札を剥がして、再び歩き始めるだろう。少し先の元はセブンイレブンだった店舗のあとに、「なんでんかんでん100円ばい! おおもり屋」とういう看板を掲げている、いわゆる「100円ショップ」があった。経済破綻後、大手のコンビニチェーンが相次いで倒産し、その跡地に全国で同じような「100円ショップ」ができていた。そのほぼ全てに暴力団が関わっているという噂があったが、必ずしもただの噂と断定できなかった:大手コンビニチェーンでも確保できなかった物流経路をなぜか「100円ショップ」は持っていて、毎日どこかからか物資が届いていたからだ。

 ドアは黒いフィルムが貼られて中は見えないだろう。北側の窓は全てシャッターが下ろされており、その上には男性アイドルグループが写った色褪せたポスターが貼ってあった:大きく「デマに負けずに食べて応援」と福島原発爆発事故の噂を消すためのプロパガンダの文字が印刷されていて、その下には「被爆して応援!」「死んで応援!」と落書きされていた。ドアを開けると独特の臭気がきみに向かって崩れ込んでくる;中には7・8人の客がいた。きみの住むシン・富裕層向けの賃貸マンションの住人も1人見つけることができた。30才そこそこの男で、面識だけがあり、向こうもきみの顔は分かった様子だった。きみたちはお互い軽く会釈を交わすだろう。今の日本に残っている人間は相手国のビザを取ることのできない経歴の持ち主に限られている。少なくともきみはその若い男をそう見ていたし、相手もきみをそう見ているだろう。国内の外資の建てた下請け工場に工員として職を得ることできた日本人はごく稀で、数千人規模といえど、全体からするとほんの 0.1パーセントにも満たなかった。たいていの日本人はベトナムやタイの工場にブルーカラーとして出稼ぎに行っていた(それでも、賃金は日本に残るしか能が無かった元ホワイトカラー(国外脱出に成功した日本人たちからは「日系残留孤児」とか「地元土人」と嘲笑われていた)の軽く3・4倍はもらえた)。日本人の元ホワイトカラーは中国や韓国での就職を希望する者が最も多かったが、実際に職を得ることができる人間はほとんどおらず、極一部の、何かしらのパテントを持った者だけだった。そういった人間でも与えられる地位は低く、中核部の仕事には関われなかった。また一方で、低賃金で雇える日本人ブルーカラーは、現地での雇用機会の低下や、賃金の上昇を妨げる要因になっていたので、中国や韓国はもちろん、アジア全域で「彷徨える日本人」は社会問題化していた(アジア各地で毎週のように日本人排斥のデモが起こっていた)。ヨーロッパや、オーストラリア・ニュージーランド諸国は、アジアほどではなかったが、入国規制を厳しくして、事実上日本人は到着先の空港から外には出ることができないようにしていた。いずれにしろ、今どき日本の都市部に残っているのはきみたちのような胡散臭い人間だけだった。

 かつての雑誌コーナーにはかつては高級品として嗜食されていたであろう魚の干物から小銭で買えた駄菓子のスルメまでが幾重にもぶら下がっていて、外側のガラスはシャッターで閉じられているせいで店内は暗く、切れかかった蛍光灯が点滅しながら店内の光景を浮かび上がらせたり消したりしている。かつてアイスクリーム類が占めていた冷凍庫は電気が切られ、キャベツやニンジンなどが乱雑に置かれている。きみはニンジンとジャガイモを手に取り、向かいの棚に置いてあった賞味期限切れのホワイトシチューのルウの箱をカゴに入れる。もう1度冷凍庫を見てタマネギを探してみるが、どこにも見当たらなかった。きみは棚の裏側に回り、米5kgが入ったビニール袋を買い物カゴに入れ、レジの横の棚まで進む。かついては缶コーヒーの類いが置かれていた棚に肉が並んでいるだろう:灰色がかった豚の細切れ、灰色がかった小さな手羽先。きみは手羽先を買い物カゴに入れ、レジに置く。小太りの中年女性が椅子から立ち上がり、その時始めて「いらっしゃいませ」と小さく声を出すだろう、「140円になります」。

 きみはレジの横に置いてあるザルから100円玉と10円玉を4枚取り、女の前に置く。女は、ありがとうございますと言ったあと、「寄付の方はどうなされますか?」と訊く。きみが「ウォンで」と答えると、女はレジの上のそろばんを引き寄せ、珠を弾き計算し始める。少し間があって女は言うだろう、「20,800ウォンになります」。きみは財布から10,000ウォン札を取り出し、2枚と硬貨を「寄付箱」に入れると釣りはもらわずに足早に「おおもり屋」を出る。

 店を出るなり、きみの額に蠅が1匹止まるだろう。きみは軽く頭を2・3度振って先を急ぐ。歩くにしたがってハエの数が増えてきて、覚えのある独特の異臭が濃くなってゆく。案の定少し先に死にたての死体が横たわっているだろう。新聞紙が1枚上半身を覆っていたが、乾いた木材のように色を失い、硬くなった脚が2本突き出ていた。靴は履いておらず、蝋細工のような両足の親指が反り返っていた。

 マンションの前の売春婦たちは道路挟んだ向かい側で屯しているだろう:ある者はブロック塀の陰に座り込み、ある者はブルーシートの上で寝そべっていた。彼らは虚ろな眼できみの姿を一瞥しただけで、再び背中を丸めそれぞれ沈黙の中へ沈みこんでいく。マンションの屋上から発電のためのディーゼル発動機が唸り、空気を小刻みに震わせている。

 玄関の正面から少し離れたところに唯が立っていた。

 黄色いシミで斑になったワンピースを着た唯は小さな紫のジニアの花を3本両手で抱えながら、少し強ばった顔できみに微笑みかけているだろう。肩ほどまであった髪は短く切られていて、横から少し耳が出ていた。きみはが引き寄せられるようにゆっくり唯に近づいてゆくと、売春婦たちの視線がつかの間生気を取り戻し、きみと唯を追いかける。アスファルトから蒸発する熱気が小さな渦を巻きながら昇っていく。唯の姿が細かく揺れている。

「久しぶりやね。元気やった?」

 唯は小さく頷く。うん。そして言う。「このあいだ見たよ、『やっぱり凄いニッポン』。韓国じゃベストセーラー作家やてね」

「あげんかとば信じたらいけん。本当にベストセラー作家やったら韓国に引っ越しとるくさ」きみは苦笑いを浮かべて首を振る。「オレの小説読んだね?」

「昔のなら」唯が頷く。「新しかつは、スマホもパソコンも持っとらんけん、Amazonで探せんかった」

「Amazonならとっくに日本から撤退したばい。それに俺はもう日本じゃ出版しとらん」

「今もあげんかとば書きよっと?」

「あげんかとてどげんか意味ね?」ときみは笑う。

「セックスシーンが多いやつ」

「今書いとるやつはもっとスゴかばい。そのせいで中国じゃ検閲通らんかった。失敗したなあ。中国で売れてたら今頃大金持ちやったのにな」

「大金持ちて…」と一瞬、唯は絶句し、「大金持ちになり損ねたね」と笑みを作り直し、そして愉快げに言う。「大金持ちになったら、なんばするつもりやったと?」

 今度はきみが言葉に詰まり、なんとか「…さあ、何ばしようか」というセリフを口から絞り出すのがやっとだった。おまえに会いに行くつもりやった、とはきみは言えなかった。

「近所に咲いとった」と唯はジニアの花を差し出す。その腕が病人のように青白く細っているのを見て、きみは軽く衝撃を受けるだろう。

「ありがとう」きみは何事も無かったように3本のジニアを受け取ると、買い物カゴを揺すって見せて「腹減ったなあ。何か食べていかんね?」と言う。

 唯は黙って頷く。きみは彼女の左肘を軽く突き、エントランスへと通じる階段へ促す。きみは2人の警備員に軽く会釈をすると、入り口手前で金属製のオートロック装置に暗証番号を打ち込みドアを開ける。エントランスに入った瞬間、汗を吸ったシャツが背中に張りつく重さを感じるだろう。

「エレベーター、故障しとるけん、使えんもんね」

 階段を上り、きみたちが3階の部屋にたどり着くと、きみは玄関のドアを開いて唯を先に促す。土間で唯が色褪せて朱色のなごりがかろうじて残っている、履き潰したサンダルを脱ぎ始めるだろう。彼女の踵の縁が赤くこわばっていて、それが色を薄くしながら足の裏へと続いている。唯は裸足のままフローリングの床の上に立つ。きみは3足ある灰色のスリッパの1つを唯の足の横に置き、自分の分も1足床に置く。唯はきみがスリッパを履くのを立ったまま見ている。きみはスリッパに足を入れると、唯に微笑みかけ、奥へと促す。

「ああ、暑かったねえ」と独り言のようなことを呟きながら、きみは冷蔵庫から麦茶ポットを、シンクの横の水切りカゴから大きめコップを、戸棚からは砂糖とポーション、スプーンを2つずつ取り出してテーブルに置く。2つのコップに麦茶を注いで、1つを唯の前に置くと、「ありがとう」と唯は小さく言う。きみはエアコンのスイッチを入れにリビングまで行く;スイッチを入れると、エアコンが機械音立て始め、外気より比較的涼しい風が吹き出してくるだろう。

「クーラーね? やっぱり金持ちやね」と唯が言う。

「クーラーぐらいおまえも持っとろうもん」

「暑かときだけ、扇風機ばつけるだけやね」

「そうね」ときみが曖昧に笑みを浮かべながら麦茶に砂糖とポーションを入れ、かき混ぜると、続いて唯も同じように麦茶に砂糖とポーションを入れ、麦茶をかき混ぜ、一気に器に入った半分ほどを飲み干し、ふうっと息を漏らすだろう。

「それにさ、この季節、窓ば閉めとらんと死体の腐臭が酷かけんね」と言い訳じみたことを言って、きみも麦茶を飲む。「タバコ吸ってよかね?」きみは立ち上がる。

 最後にタバコを吸ったのはいつだろうと考えながら、きみはマルボロの封を切るだろう。マッチで火を着け、肺の奥まで煙を吸い込む。全身に心地よい痺れが行き渡っていくのを感じながら、きみは自分がシン・富裕層であることの幸運をしみじみと噛みしめる。それから、ゆっくり時間をかけて肺の中の煙を換気扇に向かって吐き出すと、麦茶をひと口飲み、タバコをひと口数という動作を何回かくり返すうちに1本まるごと吸い終わるだろう;きみはベランダに出て吸い殻をシン・日本人たちがいる路上に放る。

「俺はシチューば作りよっけん、米ば研いどってくれんね」唯は黙って頷く:彼女の顔には明るい表情が浮かんでいるだろう。「ばってんそれタイ米やけん、水ばすすぐらいでよかもんね」

「輸入品?」

「うん、ちょっと高かばってん、安全やしね」

 きみはジャガイモとニンジンの皮を剥くと、続けてぶつ切りにし、熱しておいたフライパンに手羽先と一緒に入れて軽く炒め始める。その様子を唯が水を切ったタイ米の入ったボウルを持って眺めている。きみはフライパンに水を注ぎシチューのルーを3個ほど入れ、菜箸でかき混ぜ、ルーが溶けたところで「そのまんま入れて」と唯を促す;彼女がフライパンに米を入れるだろう。きみは火を強くし、長く息を吐く。しばらくしたら沸騰するけん、と誰に言うにでもなく、ひとり言のようなことを呟き、きみは椅子に座る。唯は外を眺めている:カーテンの合間から薄汚れた窓ガラスに白い光が溢れており、その向こうで微かに鳥の声が聞こえるだろう。唯が麦茶の入ったコップを口に付け、半分ほど残った麦茶をゆっくり啜る。

 3分ほどしてフライパンの中身が沸騰すると、きみは火を弱め、塩とコショウを加えてから再び椅子に座る。

「あと5分ぐらいでできる」きみがそう言うと、唯は微笑みながらうなずくだろう。

 そして、小粥ともリゾットとも取れる得体の知れない食べ物を柄杓で掬って味見をした後、塩と胡椒を少々 加え味を整え皿に盛る。きみは唯にレンゲを渡し、「熱かけんフーフーして食べて」と言う。唯は頷き小さな声で、いただきますと言って、小粥シチューをひと掬いし、きみに見せるように「フーフー」して口に運ぶ。

「どうね、まあまあ食べられるもんやろ?」

「 うん、おいしいかね」

「今は何ばしよると?」

「大家さんの知り合いが中国製のスマートフォンのネジば作る下請け工場をやっていて、毎日そこの工場の掃除ばしてなんとか」

「ああ、この間やっとたね、『やっぱり凄いニッポン!』で。「世界で唯一日本でしか作れないネジ」とか「あのXiaomiが採用したネジ」とかね」

 唯は笑い「あげんかと、どこでも作れるよ。ただのネジやもん」と言い、もう1度大きく笑った。

「給料はウォンで貰いよると?」

「うんまあね、最初円で1万もらって、それば工場の出口のところにある工場専用の交換所で2800ウォン交換してもらう。ユーロとか元でもよかとばってん、此処ら辺じゃね、ウォンが強かけんね」

「 雄一くんは元気にしとるね?」

「 うん」と言いながら 、唯の表情にはわずかに陰りが差す。「 今は旦那のとこにおる」

「そうね」

 唯はレンゲを使って皿に残ったシチュー風小粥をきれいに平らげ、レンゲを静かに皿に置いてから、麦茶をひと口飲んだ:コップを握る彼女の細い指には青い血管が浮き出ていた。ごちそうさま、と唯が言う。

「足りたね? ジャガイモばやろか?」

「ううん、ごちそうさま」そう言うと唯は立ち上がり、皿をシンクに運ぶために立ち上がる。きみも残りを丁寧に掬って食べると、麦茶を飲む。彼女は皿を置いたまま、居間に移り俯いて何をするでも無く立っている。きみも皿をシンクに置き、彼女の前に立つだろう。すると唯は「お礼という訳じゃなかとばってん」と呟き、上着のボタンに手を掛けて1つ外そうとするだろう。きみは彼女の手を押さえ、骨張った身体をやんわり抱く。また来てくれるやろ? 唯はきみの胸の中で小さく頷く。

 きみは携帯で白タクのタクシー会社に電話をかけてタクシーを呼ぶ。しばらくすると地上からクラクションが鳴るだろう。さあ、行こうか。部屋を出てきみは唯の手を握って階段を降りてゆく。マンションの出口には白いメルセデスのSクラスが横付けされているだろう:きみが呼んだ白タクだ。きみは唯に少し多めに1万ウォン札を20枚ほど渡し、今度はカツ丼でも食いに行こう、と付け足す。

「今日はありがとう」と唯が言う。

 きみは頷き、「また今度」と返す。

 ドアが閉まると、メルセデスは静かに走り出す。きみは車の後ろ姿を見えなくなるまで目で追う。次の瞬間ガソリンの匂いを含んだ排気ガスの向こうに見慣れたシン・日本人たちを見つけて、きみは一気に甘美な夢を見ている途中で目が覚めたときのように、小さく舌打ちするだろう。

 Sクラスのメルセデスは主に外国人観光客向けの白タクとして使われていた。世界のEV化の流れで余った世界中の中古のSクラスが大量に日本に「輸出」という名で廃棄されていた。数年前までは、EV開発で世界に後れを取っていた日本の自動車メーカーはマーケットを中国やアメリカの自動車会社に奪われるのでないか、と恐怖を覚えていたのだが、その心配は杞憂に終わった;EVどころか中古の軽自動車さえ、日本人たちは買えなくなっていたからである。そして、世界で雪崩を打つように内燃機関者がEVに置きかえられていく中、日本の自動車メーカーは次々に倒産し、TOYOTAでさえEVも含めた自動車の開発も販売も終了した。

 だが、TOYOTAが次に打った手は世界をあっと言わせた。なんとTOYOTAは世界に先駆けてシン・経済車第1型 HPV 、第2型 HPV と立て続けに発表したのだった。シン・経済車第1号 Human Power Vehicle はかつては「自転車」と呼ばれていたものと非常によく似たもので、全日本的に大ヒットし、TOYOTAの経営の中心を支えることになった:とりわけ愛知県ではモヒカン刈りにした若者たちが奇声を上げながらシン・経済車で暴走するシン・太陽族が問題になっていた。シン・経済車第2号 Human Power Vehicle はかつては「人力車」と呼ばれていたものと非常によく似たもので、こちらも観光業界隈で大ヒットした。

 TOYOTAがシン・経済車シリーズを発表した頃には、日本はーー『やっぱり凄いニッポン!』によればーー「30年近く「不況だ、衰退国だ」と謂れのない風評被害を受け続けていた期間中に、また世界の環境危機が大きく叫ばれる中、日本は世界初の脱成長国家へと成長・変貌することに成功していた」のであり、「SDGs国家指数で世界1の座を奪い取るまでになって」いたのだった。実際、当時の日銀総裁は、「あらゆる経済学の定説を覆し、現在の人類には到底理解不可能なメカニズムを駆使してハイパーインフレなる事象を美しくかつ精巧に実現させた功績」によって見事イグノーベル経済学賞と新設されたイグノーベル地球環境賞をW受賞したのだった:欠席した日銀総裁の名前が呼ばれると爆笑の波が一瞬にして会場に拡がり、それが5分間も続くと、笑いすぎてゲロを吐く者が続出して、この賞に新たな崇高さを与えた。



「暑かったやろ?」

 きみがそう言うと、唯は頷き、頭から被っていたタオルを取って額の汗を拭った:彼女の被害が一瞬だけ、艶を失うと、すぐに小さな汗の玉が滲んでくるだろう。唯が吐く息が途切れること無く微かに空気を揺らす。きみはそそくさと靴を脱ぎ、唯の右肩を軽く押す;湿った肩甲骨の感触がきみの左手に残るだろう。

「もうすぐ来るけん、ちょっと待っとかんね」ときみは言う。「俺も天神に行くとは久ぶりやな」

「わたしも久しぶり」

「メシ食い終わったら、あそこら辺ばぷらーっと歩いてみるね?」

「そやねぇ」

 10分もしないうちにインターホンが鳴るだろう。モニターには礼節をわきまえてはいるが、チンピラ風の男の顔が写っている:男の顔は日に焼けて硬い皮膚で覆われていて、職業的な笑みを浮かべている。

「スルガ運送です。ご依頼をいただいたヨシオカさんでしょうか」

「はい吉岡です。すぐ行きますんで、ちょっと待っとってください」

「かしこまりました」

 来たばい。唯が頷き立ち上がると、きみも続く。

 白いメルセデスのSクラスはこれから行く天神地下街と反対の方向を向いて、右側後部座席がちょうどマンションの出入り口と接するように横付けされているだろう。男は落ち着いた紺色のスーツを着て、ドアノブを引いてきみたちを待っていた。その眼はきみたちに注意しながら、視線を合わせないようにやや俯いて地面を見ているだろう。彼は「こんにちわ」と頭を下げる;きみも軽く会釈する。

 唯が左奥に座り、きみがその隣に座ると、男は「閉めます」と言ってドアを静かに閉めた。男は歩を速く、フロントから運転席側にまわって音も立てずに運転席に滑り込むと、エンジンが始動させて車を発車させた。

「何処まで行きますか?」

「天神の地下街、岩田屋のあったところらへん」

「はい」

 福岡市がまだ回収に来ていないらしく、道路の両側にはシン・日本人たちの死体が放置されていた。それらを轢かないように、車はタイヤで小石を静かに踏み潰しながら蛇行して行く。車の窓は閉め切っていたが、ケミカルな匂いのする消臭剤の向こうから微かな腐臭がきみの許にも漂ってくるだろう。フロントガラスから見える風景は明るかったが、後部席の窓には濃いスモークフィルムが貼られていたので、きみは殆ど温度を感じない薄い光を右半身に浴びながら前を黙って見据えている。角を何度か曲がり、窓が割られたまま放置されている雑居ビルの多い通りを越えると、以前はテナントが入っていたビルが並んでいる:シャッターは全て閉じられ、その前でシン・日本人たちが通り過ぎる車を漠然と見ている。

 裏路地にもかかわらず、天神駅の近くはYATAIが並んでいた:国が「福岡名物」として外国人観光客向けに設置したもの(直接の管理者は福岡市だったが)で、日本政府らしく「準基軸通貨」のドルしか使えなかった(「基軸通貨」は一応円である)。散在する客の背後をきみたちを乗せた車は通り過ぎるだろう;少し離れた場所でそれは停まる。きみはウォン札を入れた封筒を取り出し、その半分ほどを掴んで運転手に渡した;運転手は急いで枚数を数えたあとに言うだろう。あと4枚ほど…。きみは4枚のウォン札を運転手に差し出し、窓の外を見ている唯の肘を突いて言う。行こか。

 地下街の入口には列ができている;その最後尾にきみたちは並ぶだろう。きみたちの前には男の2人連れが並んでいる。きみは、彼らをシン・富裕層に属している人間だろうと見当をつける:彼らが話している言葉は九州地方の日本語のようなイントネーションを持っていたし、そもそもこの地下街に外国人観光客が紛れ込むこともないこともなったが、まれに珍スポット愛好家のような人間はいて、というより、今どき日本を訪れるのはその類いの人間と買春目的の観光客だけだった。きみは唯と自身の「入場料」を合わせた60ドル払う。手をつないで階段を降りながら、きみは唯に訊ねる。

「今日は何ば食べるね?」

「何ば食べるって、この間カツ丼って言いよったやん」

「ああ、そうやった、そうやった」

 唯が笑う。きみも苦笑いをする:約束のことはすっかり忘れていたのに、きみも何故かカツ丼を食べるつもりだったのだ。ここの地下街の飲食店も生卵を扱っている市内では数少ない店の1つだった。少しずつ食べ物というより、醤油とミリンの匂いが濃くなってゆく;久しぶりに嗅いだ醤油の匂いのその生臭さにきみも一瞬気後れするだろう。使われている日本産の醤油はほぼ輸出向けで国内ではマーケットなるものは存在しなかったが、シン・富裕層の中には醤油を懐かしがる人間も多く、殆どのヤミ日本料理店は化学調味料と香辛料などを加えた醤油を使っていた。

 低い天井のどこから流れてくるのか、抑制的な低さで流れているクラッシク擬きのBGMが地下街で起きるすべての音をくぐもらせているだろう。地下街の中は人がまばらに歩いていた。アパレル店はショーウインドウの中身を流行の服から古着を着たマネキンに変えて並べている。ガラスに映ったきみたちはBGMの拍を外しながら脚を前後に動かしている。やがて「しの山」と書いてある幟の前に来る。ひと昔まえの寿司屋のような名前だ、ときみは思う。「しの山」の看板には「ル・フランス・デリ 」というロゴが剥がされた跡が残っている。

「美味しそうな匂いのするね」唯が言う。

「何か甘か匂いやね。入ろか」

「うん」

 きみたちは自動ドアが開くのを待って中に入るだろう。席は半分ほど客で埋まっていて、小さなざわめきが店内に低く淀んでいた。インテリアはフレンチレストランだった頃の姿のまま傷つき、色褪せていっていた:ヤニで黄ばんだ壁、白い塗装が剥げて木材が剥き出しになったテーブル、ワインクーラーに束ねて突っ込んである昔の写真雑誌。きみたちはガラスの壁に面している4人用テーブルに座る。白く厚い布のエプロンと薄いグレーの長袖のシャツを着た給仕がきみたちのところへ注文を取りに来るだろう。きみはカツ丼2杯と瓶ビールを1本注文する;1分もせずに給仕がビールを運んでくるだろう。

  きみは2つのコップにビールを注ぎ、半分ほど飲み干す;唯も続いてビールを口にする。

「財政破綻まえやったら小物も一品頼むところやね」

「そうやね」

「漬物もなか」

 卓上には箸を束ねた筒がるだけだった。:箸はプラスチック製の使い回しができるものだった。カツ丼は10分程できみたちの席へ届くだろう。

 唯は一瞬呼吸を止めてドンブリが自身の前を横切るのを見つめた後、目のまえに置かれたカツ丼を強い眼差し向けながら「カツの乗っとるね、卵も乗っとるね」唯が独り言のように呟くだろう:カツはシュニッツェル程の厚さだったが、駄菓子のような代物が出て来ると予想していたきみにとっては充分に「カツ」と呼ぶことのできる物だった。きみは唯と自分の前のコップに再びビールを注ぐだろう。いただきます、と唯がきみを見て言う。きみも手を合わせて「いただきます」と呟き、カツ丼の香りを吸い込む:香りだけは昔ながらの香りだった。そしてビールの入ったコップに口をつける。

 ひとくち口に含んだ米とカツをビールで飲み下すと、きみはカツを当てにしてビールを飲み始める。唯の食べ方は遅く、カツ丼を半分程食べる頃には、きみはカツを食べ切ってしまう。きみは給仕を呼んで空き瓶と米が盛ってある丼を下げさせ、新たに串カツと瓶ビールを注文する。

「キャベツって書いてあるばってん、千切り、タレ?」

「両方でくるですよ」

「じゃタレばくれんね」それからきみはもう1度メニューを見て言う。「ラーメンば1つ」

「ラーメンって、わたし食べきれんよ」

「よかよか、俺ひとりで食う」

 きみはぬるくなったビールを飲み干し、コップをテーブルに置いて、唯がカツ丼を食べるのを眺める。彼女の食べる姿からは慌ただしさがなくっており、時折コップに半分ほど残っているビールに少し口を付け、再び静かに喰い進めているだろう。その時、店の隅に置いてあるテレビからJアラートがけたたましく鳴る;店の中の人間は誰も反応しない;女性アナウンサーが「北朝鮮が謎のミサイルを発射しました。繰り返します。北朝鮮がミサイル…」と興奮気味に語る:ここのところ毎日のように北朝鮮が日本に向けてミサイルを発射していた、続報が報じられることはなかったが。給仕が注文した物を持って来る:瓶ビールは左手に、右手でをキャベツの乗った皿を持ち、右の肘窩に金属製のフライバットに挟んで。給仕はそれらの物をテーブルに並べると、エプロンのポケットからキャベツのタレが入った小瓶を取り出して皿の横に置こうとするだろう;きみは手を伸ばして瓶を直接受け取り、まんべんなくキャベツにタレをかけて2切れほど口に入れる。ビールをひとくち飲むと、少し酔いが回ってきて、きみは酒を堪能した気分になるだろう。串カツはソースの味しかせず、これだったらカツ丼を2杯頼んで醤油と出汁で煮込み、グダグダ担ったカツの方がマシだったと思わせるものだった。唯はカツ丼を食べ終わっていた。

「まだ腹減っとるやろ? ラーメン要るね、まだ半分ぐらい残っとる」

 唯はゆっくり首を横に振りながら、ビールをひとくち飲む。きみもビールを飲み干すと、立ち上がってレジに行き代金を払う。

「280円になります」

「寄付は?」

「どれがよかですか?」

「ウォンで」

 給仕は電卓で計算し、「5万600ウォンです」と言う。きみは1万ウォン札を彼に6枚渡し、釣りを受け取る。唯が呟くように「ありがとう、ごちそうさま」と言う。店を出たきみは唯を古着を扱っているテナントに連れて行くだろう。50mほど離れた所に古着店があった:店の前のケージワゴンには下着類が山積みになっていて、ここでも「どれだけ買っても140円!」という幟が店先に立っている;きみは唯が持った買い物カゴに女性モノのパンツをワシづかみして入れてゆく。店にはTシャツやワンピースも飾ってあって、それらの内のいくつかもきみは腕に抱え会計を済ます。きみたちはそれぞれ紙袋を持って店を出るだろう。

 昭和通りはシン・日本人たちが乗ったシン・経済車がまばらだったが、途切れることなく走っていた。それを舗道の外国人観光客たちが立ち止まってスマートフォンで撮影していた:彼らの中には中国からの老齢の観光客もいて、まるで自分たちの80年代を見ているようだと感極まって涙をこぼす人もいたが、たいていの観光客とっては物珍しさと笑いの種でしかなかった:SNSでは世界の珍奇モノ愛好家や廃墟マニアから日本の写真は JRP Japanese Ruin Porn と呼ばれ、一定の人気を持っていた。渡辺通を過ぎて少し歩いた歩道橋の下に人だかりができている:全員外国人観光客で、一様にここでもスマートフォンのカメラで歩道橋の中央あたりを捕らえている。きみたちが後ろに回って覗いてみると、通称「ミノムシ」(首つり死体)が3体ぶら下がっていた:痩せた下着姿の男、Yシャツと黒いズボンを履き、肉付きもよく体重で首が長く伸びている男、その2人から5メートル程間隔を空けて若い女。市の死体運搬車は到着していないようで(自殺者の死体の処理は警察から市役所に委任されていた)、死体は昼の光に晒されたまま放置されていた;きみも唯も死体には興味が無かったので、一瞥だけして黙って立ち去るだろう。

 数年前から日本の自殺者の死体処理は警察の人的能力を超えており、かねてから対策を練られていた。その結果、シン・身を切る改革で死体処理事業は民営化されることになり、第3セクターを設立することを目指したものの、日本の民間企業のほとんどは倒産しており、いくらシン・談合をくり返しても第3セクターに参加する企業は現れなかった。そこで登場したのがシン・技能実習生制度で、本来法律で禁止されている外貨の市場での使用及び流通を許可する「指定外通貨使用免許」の制定が「超法規的処置」としてシン・閣議決定され、各地の地方自治体(竹中シン蔵関連企業も1度は参加したが、様々な外貨で支払われる給与の98%が竹中シン蔵にピンハネされるという噂があって人員が集まらなかったので、早々に退却した)がシン・技能実習生をシン・忖度を通じて、強制的に募集させられ、参加させらることとなった:これがシン・第3セクターの始まりである。

 小さな公園があった:公園の入口でアルミ製の古い冷水ケースの氷水に沈められた原産地の分からない瓶コーラを売っていて、シン・富裕層と思われる数人がそれを買っていた。どうやら「寄付」は元で払うようだった。きみも少額なら元を持っていた;きみは2本コーラを買い、1本を唯に手渡す。少し休んでいこか。木陰になっているベンチにはシン・日本人たちが座っていたので、きみは、どの通貨で代金を払って欲しいか訊き、彼らの要求する元を払ってベンチ1つ分の場所を譲り受け、そこに唯と2人で座る。ここでは炊き出しは行われていなかったが、設営されたテントの中で週に1度流水シャワー浴びられる日らしく、シン・日本人たちが大勢集まっていた;テントの前に並ぶシン・日本人たちに市の職員がひとり一人にタオルと石鹸を手渡していく。流水シャワーに使われている水は福島の原発事後で生じた放射能汚染水で、正式には「ALPSのおいしい水」と呼ばれているものだった:汚染水問題では中国や香港が日本産の水産物の輸入を全面禁止したことに対し、シン・科学(日本の科学者が唱える科学)的に問題ないと1度は海洋放出を強行したものの、アメリカの共和党のジョン・ドー上院議員が「世界の井戸に毒を投げ込んだ日本に制裁を加えることを検討する」と発言したと報じられた途端、海洋放出は中止になり、こうして日本全国でしぶしぶシン・海洋放出されているのだった(もちろんこれらのことは『やっぱり凄いニッポン』では放送されなかった)。

 唯が目を細めて遠くを見ている:その視線の先にはシン・日本人たちと撤去途中で放棄された遊具のが点々と並び、公園を囲むケヤキの間から人が居なくなり徐々に鉄筋とコンクリートに塊に戻りつつあるビル群が見えるだけだろう。唯がひとくちコーラを飲んで言う。わたしね、もう何もなくなった。

「しばらくまえ、裁判で負けて雄一も元旦那のところで暮らしよる」

「そげんかごたね」お互い離婚したのは同様だったが、きみの場合は慰謝料と養育費を払い続けている。しかしそのことを唯の前で話すことはしない。そして、いま思いついたかのようにきみは言うだろう。

「俺の部屋に来んね?」

「よかと?」

「もう一度やり直したい」

「わたしは」と言ったまま唯は黙り込み、それから吐き出すように言った。「あの日のこと忘れたこと1日もなかったよ」

「ごめん、2度とあげんかことはせん、もう1度俺とやり直してくれんか」

 きみは同じ言葉を何度もくり返したのだった;きみがこの言葉を口にする度ごとに唯の表情は硬くなり、舞の妊娠が判明してからは携帯も不通になった。きみもあの日のことを忘れたことなどなかった;12年前、きみたちは週末に半休を取って佐賀の山々にサイクリング旅行の計画を立てていた:山の1つにはスキー場もあったものの、季節はもうその時期ではなく、ゲレンデでも雪は溶けて所々地面が見え始めている頃だった。唯はまだ春日市の実家に住んでいて、きみは約束の14時まえにその家のチャイムを鳴らす。奥から大きな返事が聞こえるだろう;妹の舞が玄関の引き戸を開ける。

「あら、ヨシオカさん」と彼女は鮮やかな口紅を塗った口を大きく開けて言う:その彼女の茶色に染めた髪はウェーブがかかっていて、先端は肩まで伸びていた。ぴったりとしたカーキ色のセーターは彼女の乳房をより大きく見せていた。「お姉ちゃんやったらまだ帰ってきとらんよ」

 きみは、姉ならすぐに帰ってくるだろうから上がって中で待てという舞の言うまま居間まで連れて行かれる。アルミの引き戸から日の光が差し込み、部屋全体が輝いているだろう。部屋の隅にテレビが置いてあり、薄茶のソファーの向かいには背の低い戸棚があった。きみがソファーに腰掛けていると、舞が木製の盆に載せてオレンジジュースの入ったコップを2つ持ってくる。彼女は盆をソファーテーブルに置くと、きみに顔を近づけ、

何度も唇を押し付けるだろう。姉からきみを奪いたかったのだと言う。そう言いながら彼女はタートルネックのセーターを脱ぎ、胸を露わにするだろう。きみの手をつかみ自身の乳房に押し付けたあと、手を口元に持ってくると、紅く艶のある唇で人差し指をしゃぶりだす;上目使いで微笑みながら。きみは彼女の身体を引き寄せ、乳房を鷲づかみして吸い、唇の隙間に舌を入れ彼女の舌と絡ませる。止まることのない喘ぎ声が家の軋みのように居間に響く。きみも彼女も下着を脱ぎ、肌を重ねる。きみが硬くなったペニスを彼女のヴァキナに挿入し、快感が頂点にまで達しつつある時、きみはツイードのスーツを着た唯が居間に立ってきみたちを冷たい眼差しで見ていることに気づくだろう。きみと目が合うと、唯は歩み出てきみの左頰を思い切りビンタし、無言のまま背を向けて居間から出て行く;きみは唯の後ろ姿を見ながら何度も射精したのだった。


 ほぼ3分の2が閉鎖されている福岡空港を通り過ぎて少し緑が濃くなったところで、そこを右に曲がってと唯が言うだろう。以前は住宅地だった場所の1車線の道路を走っているだけなので、マニュアル車の操作に慣れてないきみには有り難かったが、古い軽トラックは何もなくてもつっかえるように震え、悲鳴のように車体が軋んだ。ステンレス製の雨戸が閉じられた家が続く;ここに住んでいた人間がどこに行ったか知らないが、廃れると言う言葉とは少し違う整った空疎さだけをきみは感じる。道路を1つ横切ると住宅地は終わり、古い家屋が散在していた。やがて2階建の家が見えてくるだろう:そこが唯が下宿しているという家だった。きみは慎重に車をバックさせ、家の外壁に沿って横付けする:外壁は塗装されたニスが黒ずみ、杉の板が少し反っているだろう。きみたちは玄関へ回り、唯が引き戸を開き、「ただいま帰りました。大黒です」と言うと、奥から「おかえりなさーい」と年を取った女性の声がして、白い割烹着着た老婦人が現れる。

「先日お話しした引っ越しを今日しようと思って、知り合いを連れてきました」

「はじめまして吉岡です。今日はよろしくお願いします」ときみも会釈をする。

 土間できみたちはサンダルに履き替え、玄関に上がる。そして土間と漆喰の壁1枚で隔たった狭い階段を登って行く。唯の素足が上下する:くるぶしからアキレス腱まで薄い肌が真っ直ぐに張っているだろう。唯が部屋のドアを開ける;夏の光が溢れるとともにかすかに汗の匂いがする風がきみの横を通り過ぎる。部屋の窓は半分ほど開けられていて、網戸の向こうに隣家の青い瓦が見えた。畳敷きの居間には小さなローテーブルが置いてあり、奥の部屋には折りたたんだバスタオルが置かれたマットレスが横たわっていた。扇風機はどこにもなかったが、きみは何も言わない。

「これとこれはここに置いて行こか?」きみはローテーブルとマットレスを指差す。

「そげんかわけにはいかんよ」と唯は即座に首を横に振る。「また後から取りに来んと」

 唯は衣類の入った段ボール箱を両腕で抱え、きみは食器の入った箱を抱えて部屋を見渡す。

「積めるかな」

 きみたちは階段を下り、それぞれ持った物を軽トラの荷台に積むと、再び2階に上り、君はマットレス、唯はローテーブルを抱えて地上に戻るだろう。荷台の後ろに立った唯がきみを見て言う。後は自転車があるだけやね。きみは頷き、庭の方に向かって歩き出す。

 庭は雑木林じみていて種類が判然としない無数の植物が繁殖していた;唯のシン・経済車は入口に停めてあるだろう:カゴの前部でレクサスのロゴマークシールが半分剥がれて風に揺れていた。きみはそれを剥がしてカゴに投げ入れ、シン・経済車に絡まったドクダミを引きちぎって、庭から運び出す。荷台の前で待っている唯に「ちょっと持っとって」とシン・経済車を渡すと、きみは荷台の金具を外して後部のあおりを開けるだろう。そしてきみたちが荷台にシン・経済車を積み込んだとき、背後で自動車が止まったのに気づく:それはメルセデスのSクラスで、こんなところまで白タクがくるのかときみは少し驚く;唯は緊張で表情が硬くなっているだろう。後部座席から黒い花柄の半袖シャツを着た男が降りてくる。男は車の横に立つと薄い灰色のサングラスの奥から黙ってきみたちを見つめる。唯がきみの手をつかんで引っ張っぱりその場を離れようとするが、男が落ち着いた声で言うだろう。

「雄一がおまえに会いたがっとる」

 男はサングラスを外し、目を細めて唯を見据える。唯の男に向けた顔はさらに厳しくなっているだろう。メルセデスの後部座席のドアが開き、中から小学生位の少年が現れてくる:彼は青いスポーツ用のハーフパンツを履いていて、細い脚の先にあるスポーツシューズの紐をきちんと締めていた。少年は前に数歩進むにつれ少しづつ表情が崩れ始め、「ママ」と吐き出すように言って涙をこぼし始めた。

「雄一」

 唯は駆け寄って少年の頭部を腹で抱き包めると、彼の頭部に顔を埋めて「雄一、雄一…」と嗚咽しする。男は空を見上げサングラスを振ってきみを呼ぶだろう。こっち来んですか? きみは軽く首を振って、軽トラックに戻る;日の当たる場所に放置していたせいでシートが堪え難いほど熱くなっていた。きみはドアを開け放しにしたままシートに座る。ズボンのポケットから平たくなっているマルボロを取り出し、1本を口にくわえてマッチで火を点ける。

「俺にも1本くれんですか?」

 きみはマルボロの袋から1本だけ出して男に差し出す。男は太い指でタバコをつかみ、ライターを手で覆い火をつける。「フーッ」と音を立てて大げさに煙を吐くと、きみに問いかけるだろう。あんたシン・富裕層でしょ? きみはサングラスをかけ直した男がきみを見ているのを知っている。いやいや、普通ですよ、ごく普通の普通。

「今のご時世何ばしよるとごく普通に生きていけるとですか?」

「苅田にBYDの工場のあるやなかですか。あそこで期間工の仕事ばしよります」と嘘を言う。男は表情を崩して笑い顔を作り「ヘッヘヘ」と笑うと、突然「懐かしかなあ、苅田」と言い出す。

「金融崩壊以前、20年以上前になるですかねえ、工場の近くの津田食堂によう行きよりましたよ、まだありますかね」

「あるみたいですねえ」ときみは適当なことを言う。「工場の近くはどこも栄えとりますけんね」

「うどんばよう食いよったとですよ」と男は言う。「ばりデカかエビ天がご自慢で、3本乗せて食うたりもしよりましたな」

「うまかですもんねえ」

 男は何度も頷く。ラジオから80年代のゆったりした歌謡曲が流れてくるだろう。

「暑かですねえ」ときみはひと口タバコを吸って煙を吐き出す。

 きみは吸殻を道に投げ捨てる;タバコの煙が道端に生えたネジバナ薄い茂みを通って雑草がいち面を覆っているかつては水田だった空き地の方へ流れてゆく。所々アスファルトが剥げて地面が露出している道路の上で蒸気が渦を巻いているだろう。きみが首に巻いたタオルで汗を拭う。男が「暑かですねえ」と相づちを打つ。どうにかならんもんですかねぇ。男は最後のひと口を吸い、吸殻を足元に落としてサンダルの底で踏みにじる。

「アイス要らんですか? ソーダとバニラのあるとですよ」

 いやいや結構、ときみは断るが、男はメルセデスから小型のクーラーボックスごと持って来る。男はしゃがんでクーラーの蓋を開け、アイスキャンディーの1本をきみに渡す:ソーダ味だった。

 風はなく、路上ではぬるい空気の塊が静かにたゆんでいた。きみたちがアイスキャンディーを食べている横を灰色の雑種猫が君たちを覗いながら通り過ぎてゆく。きみは端の方からアイスに齧りつく;溶けたアイスの滴がフロアマットに点々と落ちる。男が小さな悲鳴ような気の抜けた声を上げる:アイスキャンディーの半分ほどが地面に落ちて黒い染みを作っているだろう。きみは笑いながら「何ばしよるとですか」と言う。あ〜落ちてしもた。男はアイスの棒を投げ捨て、きみを見ながら歯を見せて笑う。男はそのままなにも言わずに微笑みを浮かべながら数秒間きみを見据えると、「マタイツカ!」と言いメルセデスの方に戻って行くだろう。


 ハイパーインフレが起こる数年前の2020年、次々とコロナの被害が本格化するにつれ、世界各国が東京オリンピックへの不参加を決定していった。日本人たちはその様子を「コロナ脳」と呼んで笑っていたが、アメリカが不参加表明した時はまったく違っていた。その報を聞いた日本人たちは続々と赤坂のアメリカ大使館前に集まり始めたのだ。大使館前の群衆は大規模なデモ隊の様相を呈していた。彼らは星条旗と共に「MAGA」と書かれたプラカードを持ち、彼らの中のそこかしこから「トランプ大統領 日本を救ってください !」と悲鳴が上がっていた。そこにデモの主催者らしき人物が現れるだろう。

 濃赤のバンダナを巻き、袖を切ったGジャン姿のその男は一同を見渡し、小さく咳払いをすると、「それでは皆さんアメリカ合衆国国歌『星条旗よ永遠なれ』をご唱和ください」とデモ隊に向かって呼びかけ、The Star-Spangled Banner を歌い始めたのだった。最初は戸惑っていたデモ隊からも次第に声が上がるようになり、第1番を10回歌ったところで、それが「U.S.A.」コールに変わり、最後には「ジェイ・エイ・ピー」コールに変わったのだった。そして、高揚したデモ隊のうちの数人、大使館前で正座していた男3名・女2名・子供1名がジャパネットたかたで買ったセラミック包丁でハラキリしてしまう有様だった(O川R法の霊言によれば、その切れ味たるやM島Y紀夫も嫉妬していまうほどのものだったらしい)。その様子を撮影した動画は"Japanese Authentic HARAKIRI"として YouTube で800万再生されるなどバズりにバズったところで、残虐シーンが映っていること理由にたった21時間で管理者に削除された。

 日本ではコロナ禍で中止になった東京オリンピックの代わりにアジアのオリムピックが開催された。聖火リレーの代わりに、伊勢神宮でお祓いをうけた7本の聖矛を、東海道筋の神社に奉納しながら東京・国立競技場までの500キロ超の道のりを駅伝方式で走るシン・聖矛継走が行われた。

 最終ランナーが会場に入ってきたときは観衆は大いに盛り上がった。しかしやがてランナーの異変に気づくと静かなどよめきが広がった:ランナーの足元がおぼつかなく、ふらふらと蛇行していたからである。ランナーはゴールまで約100メートルのところで1度転び、立ち上がって5メートル程歩くと、今度は脱力して倒れ込み、動かなくなった。緑のウインドブレーカーを着た大会役員たちが走り寄り、2人が腕を、2人が脚を持って、その時は既にコロナ性の風邪で息絶えていたランナーの死体をずるずるゴールまで引きずっていき、大会は無事終了したのだった。


 きみは静かに手を伸ばし、隣で天井を見ながら寝ている唯の手を握る;彼女もきみの手を握り返すだろう。マンションの外では福岡市のトラックが数メートル走っては停車し、アルバイトの職員が声を掛け合いながら餓死した日本人たちの死体の回収をしていた。きみは唯の手を顔の近くまで引き、手の甲に口づける。唯が小さく息を漏らす:それはきみには小さく笑ったように聞こえ、彼女を抱き寄せ、まだ完全に乾いていない髪に顔を埋める。きみはシャンプーの匂いを髪そのものの匂いのように吸い込み、乳房を掴もうとする。唯はその手を押さえるだろう。今日は疲れとるから…。ここから、日本から出ていこう。出て行ってどこかで一緒に暮らそう。唯は笑いながら、どこかって?と訊く。


 公園のマルボロ売りの男はその日もマルボロを売っていた。きみは5箱買い、さっそくベンチに座って、公園の入口で買った東南アジア産の炭酸ジュースを飲みながら、吸い始める。清涼飲料水など嗜好品が3000ウォンで買えたことをきみは訝しく思い、缶の裏側を見てみると、賞味期限は1年以上前に切れているだろう。炊き出しに並ぶ人の列を見ながら、フクシマ産のALPSの美味しい水で作られた酎ハイを飲むよりずっとマシだと自分を納得させる。

「こんにちは」

 北の方からきみより若い30前後の男がきみに近づいて来るだろう:初めて見る顔で、約束していた元出版社社長ではなかった。男は「これはどうもヨシオカさん」ともう何度も話したことがあるような口ぶりで話しかけてくる。きみは立ち上がり、挨拶する。すると男は、高坂の使いのワタナベですと名乗るだろう。わざわざ呼び出してすみません。ワタナベを名乗る男は路上で寝ているシン・日本人と同じくらい痩せ細っていたが、目には力があり、しっかりとした呂律で話した。きみは何も気にならないふりをして訊くだろう。

「ドイツ行きの話はまだ生きてますか?」

「興味出て来ましたか?」

「ええ」

「条件は先日高坂からお話ししたままです。フランクフルト大学で週3コマの日本文学史の講義やって頂きます」

「はい」

「分かりました。了解された、と先方にそう伝えておきます。近いうちに電話がかかってくるでしょう。ドイツとの時差があるので気をつけてください」

 しかし、次の週に電話をかけてきたのはワタナベだった。電話の相手はドイツ人だと思っていたきみはワタナベの声を聞いて軽く驚く。しかも話を聞いてみると、職場もフランクフルト大学ではなく、ルートヴィヒスハーフェン経済社会大学という単科大学だった。きみは黙って彼の話を聞く:給与は贅沢ができるほど貰えそうになかったが、金が問題ではなかった:唯と新たな生活を始めることだ。週1コマの日本文学史と実践的な小説ライティングの講義。年俸は3万ユーロを少し超える額だった。きみは電話を切り、ふり返って唯を呼ぶ。しかし彼女の返事はなく、センターテーブルのガラスの上には彼女の赤い携帯電話が放置されていた。

 きみは夕食の準備を始める;すると玄関で音がし、ただいまと声がするだろう。居間にタオルで顔を拭きながら唯が入って来る。おかえり。今日は卵が手に入ったばい。きみは卵を手に取って小さく振る;そして卵を4個ボールに割って、卵を溶く。フライパンに油を入れ、熱したところで卵を注ぐ。菜箸で素早くかき混ぜ、きみ風のスクランブルエッグにする。それを皿に移すと、再び油を少量足し、薄切りにしたスパムを軽く炒める。スクランブルエッグの横に添えて、自身の席と唯の前に置く。何を飲むかと聞くと、彼女は何でもいいと言う。きみは冷蔵庫から韓国ビールを出し、グラスに注ぐ。唯はひと口でビールを飲み干し、大きく息をつく。あっさりした味やねえと呟きながら、瓶を手に取りラベルを眺めるだろう。きみはジャーからご飯を2人分よそおいそれぞれの席に置き、椅子に座る。

「まえ話しとったドイツ行きの話あったやろ? あれ、少し進んだ」ときみが言うと、唯は視線をわずかに落とし、うんと答えるだろう。

「ルートヴィヒスハーフェンという町にあるって」

「どこ?」

「ドイツの西の方にある町」

 唯は小さく何度も頷きながらスパムとご飯を口に入れるだろう。きみもスパムとスクランブルエッグを一緒に口に入れ、口の中に塩辛さが残っているうちにご飯をかき込む。スパムもドイツのソーセージも似たような食べ物だろうが、その中にも違いというものがあるだろう;こんな場所でスパムなど食っていたくない、ときみは強く思う。

 きみは立ち上がり、冷蔵この上のラジオを手に取る。スイッチを入れると、大衆音楽が流れ出す。以前にも聞いたことのある曲だった:日本が金融破綻してからは、NHKのラジオ放送局は「高度成長期からバブル経済期まで」の歌謡曲を何度もくり返して流していた。曲が終わり、女性アナウンサーがしゃべり出す。バブル経済全盛期には、「東京の土地の値段でアメリカが、あのアメリカが2つ買えると言われていたんですよ。そういう時代もあったんです。全ては気の持ちようです。円の価値を信じましょう!」と何度もくり返した。きみはデタラメにチャンネルをひねる:天気次第で韓国からの電波が届くこともあった。しばらくすると電子音楽じみたダンス音楽にたどり着くだろう。歌い手は英語で歌っているが、K-POPだった:食事の時に聞く音楽としては卑猥過ぎる歌詞を持っていた。きみは唯の表情を覗う:もし彼女が聞いていたら歌詞の内容が分かったはずだ。きみはチャンネルをさらにひねり、どこでもよいのでクラシック音楽をかけているラジオ局に周波数を合わせるだろう。

 食器を洗い終わった後きみはベランダに出てタバコを吸う。ところどころ路上で火を焚く者がいてその明かりが夜の闇の広がりの中に点在していた。日が落ちて空気がだいぶ涼しくなっていた。唯がグラスを2つ持ってベランダに来るだろう;1つをきみに渡す:以前買った中国製の高級ウイスキーが氷と共に入っていた。ありがとう、と言ってきみはグラスを受け取る。

「飛行機の飛んどるね」唯が遠くを見ながら微笑んで言う。

 おそらく中国人観光客を乗せた飛行機が小さな赤いライトを点滅させながら空を横切ってゆく。彼らは福岡で一般の日本人は入ることもできない高級レストランで夕食を済ませたのだろう。きみはタバコを大きく吸い、煙を吐き出す。そしてウイスキーをひとくち口に含む。

「私にも1本ちょうだい」

 きみは箱から1本差し出すだろう;唯がそれをつまみ、きみがライターで火をつける。彼女は吸い慣れた様子でタバコを深く吸い、ゆっくりと煙を吐き出す。きみは部屋に戻り、酒のアテを求めて冷蔵庫の中を探す;紙の箱にチョコレートクッキーが何枚か残っているだろう。手すり壁の上にそれを置き、1枚取って唯に渡そうとする;彼女はそれを手のひらで遮り首を振って「もうお腹いっぱい」と断るだろう。きみはそのクッキーを囓り、ウイスキーをすする。煙草をひと口吸って煙を吐き出すと、きみは吸い殻地上に投げ捨てる。

 きみは唯を抱き寄せる:唯はふふふと笑みを溢しながらきみに身体を預けるだろう。低空を再びジェット機が飛んでいる。酷い耳鳴りのようなエンジンの音が辺り一帯から降り注ぐ中、いつまでもきみは細い唯の身体を抱き締めているだろう。


 翌日きみは、これからメールで原稿を送ると電話で鄭に伝える。きみは部屋を出て地下駐車場まで歩いて下りるだろう:50ccのスクーターにはまだガソリンが残っているはずだった。地下駐車場にはきみのスクーターの他には車はなかったが、入り込んできたシン・日本人たちが集団で段ボール紙の上に寝ていた。地下駐車場は異臭が充満していた。きみに気がついた1人がきみを見据えたまま近づいて来る:白髪をこめかみから垂らして、糞尿で汚れたズボンを履いた男性だった。

「ニイちゃん、何か食べ物ばくれんね?」

「臭えんだよ、近寄んな。日本人のくせになんでここにおっとや?」

 きみはスクーターに被せていたカバー取り去り、シン・日本人に投げつける。あっち行け。

 きみはキックペダルを何回か踏むが、エンジンがかかる気配はない。きみは荒くなった呼吸が静まるのを待って額をTシャツで拭う。そして、疲労とスクーターに未練を持ったまま歩き出すだろう。地上ではほぼ垂直に日差しが降り注いでいた:暑いというより痛かった。汗がにじみ、粒になってきみの身体中から溢れ出る。人はまばらだったが、九州電力の営業所に近づくにつれ、シン・日本人とは違った空気を漂わせた人間が増えてゆく:きみによく似ている得体の知れなさ、胡散臭さ、換金屋だ。その内の1人からきみは声を掛けられるだろう。

「ドルと換金するよ、元? ウォン?」

「ウォン」そう言ってきみは50,000ウォン札を2枚見せる。そして、くしゃくしゃになった10ドル札を2枚受け取る。今ドルにそんな価値があるとは思えなかったが(法律でドル以外の外貨では商行為は禁止されており、また為替レートは固定されていた)、きみは無言で九州電力の営業所に入って行く。室内で涼もうと中に入ろうとしたシン・日本人の女が2人の職員に外に連れ出されていた。中にはパソコンが3台置いてあり、脇に係の職員が立っていた。それぞれのパソコンの前に3人から5人ほどの人間が並んでいた。きみは小さいホールの横長の折り畳みテーブルのチケット売り場で20ドルで黄色いプラスチック札を買い、パソコンの前の列に加わる:札の色は10分使用可という意味だった。汗で染みたTシャツが背中に張り付いて冷たかった。きみは前の中年男の肩越しに政府の官報を覗う:「円ますます安定感を増す」という既視感のある見出しだけが見え、その下には「日本堂々とIMF脱退」とあった。きみの番がくる;きみは黄色の札を職員に渡し、パソコンの前に座る。ブラウザーを最小化し、メーラーを立ち上げる。送信先に鄭のアドレスを入れ、予め用意していた挨拶の言葉をメールにペーストしてUSBスティックのテキストファイルを添付する。そしてきみは何か見落としがないかと全体をざっと眺めてから「送信」ボタンを押す。時間が5分ほど残っていた。YouTubeで音楽でも聴きたいところだったが、あいにくパソコンにはスピーカーがなかった。きみは立ち上がり、周囲を眺める:暗い室内、人の群れ、窓際は陽の光で大きく膨らんでいた。

 建物を出て数歩歩いた瞬間きみは身なりのいい男2人に両脇を捕まれるだろう。きみの背中に緊張感が走り、全身が硬く強ばる。なんすっとか。離さんか。さっきの換金屋が目の前に立って言う。

「さっきウォンばドルに替えとったよね?話ば聞かせてもらってよかね?」

 きみは焦って「あんたら誰ね」と何度も口にする。男たちは力が強く、きみは無理やり引きずられて古いセダンの日本車に押し込まれる。男たちは車が走り出してから初めて警察手帳を見せるだろう。車は東の方向へ向かって走り、警察署の敷地内に入る。きみと男たちはエレベーターで3階まで昇り、窓のない小部屋に入る。きみは男の1人と机を挟んで座る。もう1人の身なりのいい男とニセ換金屋が背後に立ってきみを見下ろしている。

 男が訊くだろう。「ヨシオカさんは仕事は何ばしよらすとですか?」

「小説家です」

「小説とか書いてどこで売るとですか?日本には本屋とか無かですよ」

「東アジアとかヨーロッパで」

「印税は円かドルで貰ろうとらっしゃるんでしょうね?」

 嫌なことを訊く、ときみは緊張感を増す。ええ。すると男は裏返していた書類を表にするだろう。

「あなたの過去3年の納税申告書です」男は書類を上から下まで眺める。「去年は6500ドル。一昨年は7000ドル。その前は6000ドル。この年から所得税が上がったとは御存じでしょう?」そう言って男はきみを見る。「吉岡さんの本は韓国でえらい売れとるらしかじゃなかですか。あなたのお知り合いの高坂さんがおしゃってましたよ」男は書類を机の上に置き、大袈裟にため息をつくだろう;そして独り言のように「少なかなー、少なかな−」と言う。「これだと所得は2万ドルから2万5000ドル程度しか貰ろうとらっしゃらんということになるとですよ。少なかな−」男の背後に立っている2人は薄笑いを浮かべている。

「そげなもんですよ、アメリカがあげんかことになって世界中が景気が悪くなっとうとでしょう」

「そうですか。いやねー、何ヶ月に1回かウォン札の敷いてある菓子箱が釜山から送られてくるとですよ」男はきみの目を見据えている。「日本はあなたの好き勝手をしていい国じゃなかとです。法律ちゅうもんがあるとですよ。日本に住んでる人間はその下で初めて生きることが許されとるだけなんです。日本にいる人間は好き勝手はしたらいけんとです。シン・外為法は御存じでしょう? 日本は円の国だというのはご存じでしょ。ウォンとか元とか好きかってに使っていい国じゃなかとです。日本で許可されている通貨は円と友好国アメリカのドルだけなんです。」

 男が話を終えると、沈黙が取調室に広がるだろう:きみから男に言いたいことはなかった。男はその間もじっときみの目を見据えたままだ。相変わらず背後の男たちは薄笑いを浮かべたままきみを見下ろしている。

「吉岡さん」男が書類を指先で軽く叩きながら言う。「お菓子箱の件について、何か説明したいことはありませんか?」

 きみは一瞬、何も言わないか、嘘を言うかで迷う:きみは嘘を言う方を選ぶだろう。「釜山からの荷物は、知り合いが送ってくれたもんです。ウォン札は使うためじゃなく、友人達に見せる見本みたいなものとして貰ろうたとです」

 男は軽く鼻で笑う。「そうですか。その知り合いとはどんな関係ですか?」

「昔からの知り合いです。昔、韓国に旅行したときからの知り合いです」

 男はあからさまにバカにした顔できみを見て、「ウォンの札束を見本として送ってくれる知り合いってえらい景気の良い話ですな。韓国の警察とも連絡取りました。チョン・ギョンジュさんもご無事だと良いですね」

 鄭の名前を出されて、一瞬息が詰まる。きみは途端に喉が渇いてきたのを感じ、ペットボトルの水を飲むだろう。

「ねえ、吉岡さん」男は低い声で言った。「洗いざらい喋ってみんですか。シン・外為法違反は重罪ですが、態度次第で執行猶予の付くかもしれんですよ」

「私は逮捕されとるとですか?」

「逮捕はしとらんです、正式には」と男は言う。

「では、もう話すこともなかです」

 きみには彼らが何を知りたいのか分からなかった;彼らは既に鄭の名前まで把握しているのだ。男は少し顔を歪めて、背を後ろに反らして薄笑いしながら言った。「今から黙秘してみますか? 今日で終わりじゃなかですよ。明日も明後日も、その次の日も。今は逮捕しとらんですが、どげんでんでくるとですよ、警察ちゅう組織は」

 きみは男の胸あたりの見つめ、何も答えない。男は後ろをふり返って2人に笑いかける;2人も、声は出さなかったが、笑みを作る。その時きみは思い当たるだろう、ドイツ行きのことに。男はドイツについては全く触れてなかった。高坂が何も言わなかったのかもしれない。だとしたら、これだけは喋ってはダメだときみは自分に言い聞かせる。きみの心中の変化に気づいたのか、男は芝居じみて目を大きく見開いた。きみは男の胸を見つめたまま視線を動かさなかった。

「よかでしょう。今日のところは泊まってもらいましょう」

 きみの両脇を再び男2人が力強く抱え、無理やりきみを立ち上がらせる。取調室のドアが閉まる音を背中に受けながら、きみはそのままの格好で廊下を歩かされるだろう。すぐに階段があり、1つ上の階にきみが今夜泊まる予定の留置所の房があった。階段を上りきったきみたちはからの房の前を通り過ぎて、鉄の格子戸の前で止まる。男は腰の鍵束から一つを取り出し、格子戸を開ける;格子戸は音も無く開く。きみを抑えていた両脇の腕が抜け、背中を軽く押されるだろう。房の中には低いベッドがシーツ1枚敷かれた状態で設置されていた。

「必要なもんは後で渡す。夕飯はもうすぐや」

「連絡をひとつさせてください」きみは言う。

「小川唯さんにだったら、我々の方から連絡しとくけん、心配せんでよか」

 男たちが去ると、ベットに腰掛けるしかなかった。きみは5分ほどのその状態に飽きてしまうが、他に何かをする術はなかった:きみは読む物など持ってきていなかった。きみはベッドに横になり寝ようと試みる。が、神経が高ぶって寝れるような状態ではなかった。留置所には外の光が入ってくることも無く、時計すらなかった。天井の蛍光灯が、微かな音を立てながら点滅を繰り返している。無為の時間が余計に長く感じられるだろう。食欲などみじんもなかったが、きみは「もうすぐ」来るという夕食をいつの間にか心待ちにしている自分に気づく。

 無限に続く貨物列車のような単調で鈍重な時間の流れを散々眺めた後、突然夕食の時間が来るだろう。長身の若い男がアルミのトレイに乗せてやって来て、ベッドの上に置く:冷や飯にナスの煮物に牛乳。きみが小さなナスの切れ端が3切れ入っているだけのナスの煮物の容器を手に取ると、微かに熱が伝わってくるだろう。いちおう調理したものだと知ってきみは感心する:外の世界では飢え死にする人間が多いのだ、まだマシというべきだろう。きみはナスをひと切れ口に入れ、冷や飯をひと口食う:ナスという「高級食材」を使っていたが、炊き出しでも出てこないような酷い味だった。きみはトレイを床に置き、再びベッドに横たわる。牛乳には手も付けなかった。しばらくすると夕食を運んできたのと同じ男がやって来てトレイを持ち去っていった:終始無言で残り物には全く関心を示すことはなかった。

 翌日は朝早く起こされ、長く待たされた後、再び男2人に両脇を抱えられて前日と同じ窓のない小部屋に連れていかれる。同じ刑事が机の向かいに座っている:軽く冷笑を含んだ視線で椅子に座るきみを眺めているだろう。椅子に座り、きみは刑事の胸元に視線を固定する。刑事はきみの上空を見て鼻で笑う。

「吉岡さん、今日も喋らんつもりのごたるですね? よかですよ。何日でん付き合いますよー」そう言ってけ維持は続けた。「ねえ、吉岡さん、サンマって魚いるでしょ? いや、「いた」と言うべきか、今はどこにも売っとりませんもんね」

 いちおうきみに問いかけているが、刑事はきみの存在を無視して話し続けた。

「サ・ン・マ、細長くて銀色の、まるで刀みたいな魚ですよ。吉岡さんも知っとるあのサンマです。一度くらいは焼いたサンマを食ったことあるでしょ? 晩夏から秋にかけて、ちょうど今頃が旬のやつですよ。脂が乗って最高の季節です」

 刑事は長いため息をつきながら顔を天井に向けた

「私の親父がサンマの塩焼きにうるさい男やったとです。サンマの良し悪しってのは、焼いてる途中に脂がジュワッと溢れ出すかどうかで決まるというのが口癖でした。新鮮なサンマほど脂が乗って、焼き網の上で踊るように揺れて、皮がパリッと弾ける。そこに大根おろしと醤油をちょろっとかけて……どうや、たまらんやろ?と子供の頃よく聞かれたもんです。 そんじょそこらのステーキなんかより、いや今はステーキもサンマも日本じゃ手に入れられん「高級品」やったですね。吉岡さん、あんたなんば隠しとっとですか? 話してみらんですか。私もこんなどうでもいい話をせずに済む」

 そう言うと、刑事は目を細めて天井を見つめる。

「サンマって魚はちょっと変わっとって、旬の時期になると海を大移動するとです。北の海で育ったやつが、夏の終わり頃から南下してくる。そうすると、脂がたっぷり乗った状態で人間様に捕まるとやんな。皮肉なもんでしょ? その魚が一番頑張って、栄養を溜め込んだその瞬間に、網にかかって焼かれるわけですから」

 刑事は不意にきみの顔を見つめ、軽く笑う。

「なんだかあんたとよう似とる気がせんですか? こうやって踏ん張って、何かを溜め込んでる。必死に抵抗してるその姿が、今のサンマみたいに見えてくるとですよ」

 きみは微動だにせず、目線を下げたまま聞き流す。刑事の言葉はただの風だと自分に言い聞かせる。彼は自分の話に興味がないことを隠しもせずに続ける。

「それに、サンマって面白いことに、焼くだけじゃない。刺身でも旨かとです。知っとりますか? 旬のサンマは、新鮮なら刺身にするとトロみたいに脂が口の中で溶ける。あれを初めて食った時は私も驚いたとですよ。ああ、魚ってこんなに甘くて旨いんだってな」

 刑事は煙草を一本取り出し、ライターで火をつける;口の先で軽く煙を吸い込みながら、呟くように「訊問」を続けるだろう。

「ただですね、サンマってやつは足が早かとです。足が早かって何と言うか、すぐダメになるとです。旬のうちに食わないと、脂も抜けて、身はパサパサで食えたもんじゃなくなるとです。ああいうのを見るとさ、人間も同じだなって思うとですよ。タイミングを逃すと、何もかも手遅れになるって」

 刑事はゆっくりと煙を吐き出し、机に肘をついた。

「吉岡さん、あんたも同じですよ。今があんたの「旬」というやつです。今のうちに口を割っとかないと、後で後悔することになりますよ。ま、旬を過ぎたサンマは、それはそれで哀れなもんですがね」

 刑事の笑い声が、静まり返った部屋に低く響く。きみはただ目を伏せたまま、何も言わない。サンマの話がいつ終わるのか――そんなことを考える気力すら、もう消えかけていた。

 その時、制服を着た初老の警官が取調室に入って来て、訊問していた刑事の肩を軽く叩いた。刑事はふり返り、慌てて立ち上がる。2人は部屋を出て行く。しばらくして刑事が部屋に戻って来る。そして「もうよか、帰ってよか」と言うだろう。「時間の無駄やった、なんでもっと早めに言うてくれんやったとですか」

 恨みを含んだ視線を感じながらきみは刑事の横を通り過ぎ、部屋を出て行く。外できみを待っていた身なりのいい刑事はホテルのアテンダントのように腕で階段の方向を指し示しながらきみを導くだろう。「あんたは一体なんば隠しとっとですか? 今はまだ証拠はなかですけど、あんたからは胡散臭か臭いがプンプンする」刑事は立ち止まり、言う。「次は必ずそれば突き止めますけん。よう覚えとってください。では、私はここまで。好きに帰って下さい。」

 入り口近くのロビーチェアに男が座って待っている:唯の元夫だ。男は黒いサングラスを外し、大きく笑いかけ、「何か誤解のあったごたですな」と言ってきみの肩を揉む。きみは卑屈な作り笑いを浮かべ、頭を下げる。

 男ときみは駐車場の白いSクラスの後部座席に隣り合って乗る。男が運転手に、きみのマンションまで行くように言う。車が静かに走り出す。短い期間だったが、暗いところにいたきみには日の光で廃墟になった街がきらめいて見える。通りで自転車が通り過ぎる待つために停止すると、一斉にシン・日本人の子供たちが車に群れて、勝手に窓ガラスを拭き始めたり、駄菓子の入った籠を見せながら窓を叩いたりするのが続いた。運転手が何度もクラクションを鳴らすが、子供たちは群がったままだ。彼がドアを勢いよく開け、「轢き殺すぞ、ガキども」と怒鳴って、ようやく子供たちが去って行く。

 マンションの前に着くと、そこでもシン・日本人たちが群がってくる:主に女だ。きみは男に礼を言い、車を出る。守衛2人がきみの横に来てシン・日本人たちをきみに近づけないようにする。何ヶ月も風呂に入っていないシン・日本人たちの体臭が充満していて、きみは閉口する。きみは急いで建物の中に入り、階段を上る。

 玄関にはボストンバックとキャリーケースが置いてあった。唯は食卓の椅子に座っていた;きみを見て立ち上がるだろう。

「たのむ、行かんでくれ」

 唯は悲しげに笑みを作り、「雄一には私しかおらんけん」と言う。

「俺にもおまえしかおらん」

「何ね、子供のごたること言うて」とまた笑う。

「雄一くんのことなら何とかするけん」きみは唯の両肩をつかみ軽く揺さぶる。彼女も揺さぶられたままにする。「オレとドイツに来てくれんか?」

「ドイツは遠かねえ」と唯は気の抜けた調子で答える。そしてしばらくうつむいて沈黙した後、「いろいろ、ありがとう。じゃ、下で車が待っとるけん」としっかりした調子で言うと、ボストンバックとキャリーケースをつかみ、きみの部屋から出て行くだろう。


 フェリーのベンチに座り、きみはしばらく外の景色を眺めていたが、気がつけば福岡ドームも街の景色も水平線の向こうに行ってしまい、灰色の海と空を覆う雲しか見えない単調な景色に変わった。きみは立ち上がり、レストランへ行く。中はまばらに食事を取る人たちがいた。きみは4人がけのテーブルに座り、タブレット型PCモドキのメニューを手にする。タッチパネルの表示は韓国語、中国語、英語に切り替えることができた。きみは少し寒かったので、「순두부」と表記してあった「Korean Hot Soup」を注文することに決め、ウエイターを呼ぶ。エクスキューズ・ミー! するとすぐウエイターが静かにやって来る:若い東アジア人だった。

「Yes, how can I help you?」

「I'd like to order soup.」

「Which soup would you like?」

 きみはタッチパネルを指しながら、「One Korean Hot Soup, please」と言うだろう。

「Yes. Would you like anything else with that?」

「No, just the soup, thank you.」

「Alright, one Korean Hot Soup coming right up. Would you like some rice or bread with your soup?」

「No, thank you.」

「Very well. Enjoy your meal!」

 10分も経たないうちに同じウエイターが「Korean Hot Soup」を運んでくるだろう。なるほど辛かったが、舌が痛くなるほどでもなかった。スプーンをスプーンレストに置くとどこからともなくウエイターがやって来て「Are you finished with this?」と訊くのに対して、きみは「Yeah.」と頷いてミネラルウォーターを口に含んで立ち上がる。レジでスープ代を精算し、揺れるフェリーを苦労して酒に酔ってでもいるかのように自分の部屋までたどり着く。タバコが吸いたくなってズボンのポケットに手を入れた時、きみは売店で買ってこなかったことに気づく。きみは苦々しい気持ちでベッドに横になる;そして夕食の時間まで昼寝をするだろう。


---END---

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