Scene.5 一宿の恩

 気がつくと俺は鏡の前に立っていた。

 一枚や二枚じゃない。上下の感覚のない真っ暗闇に、暗灰色の光を湛えて無数に浮いている。そのどれもが、俺の姿を映さなかった。

 手のひらを掲げてじっと見る。身体の輪郭は残っているから、これは鏡の方が正しくない、ということになる。

 ああそう。そういう世界なんだね。

 拳を握って開いて、不確かな感触の明晰夢に囚われたらしいことを知る。大抵の夢は「これは夢だ」と認識すれば醒めるけれど、今回はが俺の意識をこの鏡の世界に引き留めているようだった。

「俺に何か用かい?」

 見回してそう問いかけたが、応える者はいなかった。人の気配はしないわけではない。むしろそこら中から無数に視線を感じる。刺すように、吟味するように、じっとりと胸の内を見透かそうと睨まれている。歓迎ムードではなさそうだ。

 ひたり、と冷たい手のひらが背中に触れる。

 肋間をなぞり、胸骨を伝って後ろから抱き込むように伸ばされた何者かの腕は、明確な殺意をもってやがて喉笛に辿り着いた。

「█████████?」

 ガラスを引き裂くような耳障りな声音が、耳朶で揺れる。

 冷たい指先が喉を掻き切ろうと爪を立てたところで――俺は背後から迫るの腕を掴み、力づくで引き寄せながら振り向いた。

「――!」

 そのまま相対し、両腕を掴んで相手の自由を奪う。俺を襲ったそれは影で塗り固めたような、人の形をした何かだった。細い腕の感触は、元が女性だったからかもしれない。

 抵抗されると思っていなかったのか、影はびくりと肩を震わせた。俺が触れた部分から、それはさらさらと音を立てて崩れていく。

 ごめんね、黙って殺される筋合いはないからさ。

 仄かな光を放ち、空気に解けて消えていく砂粒と化すそれを冷めた目で見下ろしていると――突如、別の誰かが後ろから覆い被さってきた。

「ん――?」

 子供のような小さな手のひらに額を触れられるのとほぼ同時に、全ての知覚が消え失せる。

「……油断したな」

 次第に曖昧になる意識の中、虚空に浮かぶ無数の鏡たちは音もなく揺らめいていた。



 ――――

 ――



 知らない部屋で、俺は目を覚ました。

 何か夢を見ていた気がするが、思い出せない。覚醒する意識と引き換えに有耶無耶になってしまった。

 重怠い身体を起こすと、視界が遅れてぐらりと揺れた。全身が熱っぽい。完全に風邪を引いてしまったようだ。

 ここは何処だろう。一応手足を確認したが、縛られた様子はない。監禁されたわけではなさそうだ。

 どうも誰かの部屋で寝かされていたらしい。額に貼られた冷えピタを剥がし、首を捻る。

 らしい、というのは俺が昨夜以降のことを何も覚えていないからだった。分厚い掛け布団も、肩から落ちる半纏にも全く身に覚えがないところが何とも奇妙だ。

 泊まり歩く家はいくつかあるが、ここはそのどこでもない部屋だった。

 ワンルーム……いや1LDKか。三方を白い壁に囲まれたリビングに、腰高窓には飾り気のない紺のカーテンが一対。そのレールには俺のコートと、もうひとつ知らないコートが掛かっていた。家主は男性か。

 真四角のカーペットの上に簡素な座卓がひとつ。天板が外れるタイプのようだから、多分俺が被っていた布団とセットで炬燵になるんだろう。誰かが急拵えで寝床を作ってくれたのだろうか。

 昨夜の記憶を呼び覚まそうとするが、雨宿りするために駅近くのコンビニに行こうと足を向けたところまでは覚えているものの、それ以降のことはすっかり抜け落ちていた。

 道端で倒れて親切な誰かが拾ってくれたのだろう。恐らく。

 熱で軋む膝を何とか立たせ、カーテンレールのコートから自分のスマホを抜き出した。白い液晶に「一月二十日」の文字が浮かび上がる。時刻は朝四時半。眠っている間に日付が変わっていた。



 さて。ここは何処だろう。

 改めて誰かの部屋を見回すと、背後の壁……いや隙なく閉じられた引き戸か。その向こうから微かに、衣擦れと呻き声がした。

 家主だろうか。寝言にしては穏やかじゃないな。

 静かに戸を引くと、和室らしい畳の匂いに乗って濃い霧のような気配がリビングへ流れ出してきた。普通の人間には視えも触れもしないのだろうが、それでも体調を害するくらいの影響があることは容易に想像できる。こんなもの、どこから湧いてくるんだろう。

 よく目を凝らすと、四畳半ほどのそこに布団が敷かれており、誰かが仰向けで眠っていた。

 淡く短い茶髪に、実年齢より随分若く見える精悍な顔立ちには見覚えがある。

「圭一くん……?」

 それは昨夏のこと、曰く付きの映画館に囚われていた青年に間違いなかった。俺の探し物を見つけるため、街一番の大屋敷へ共に不法侵入した仲でもある。彼と見上げた晩夏の夕暮れに消えていく線香の煙は、今でもありありと思い出せるほど鮮やかだ。


 久しぶりに見た圭一くんは、胸を掻きむしってうなされていた。良く見なくても分かる。光のない和室の闇を凝縮したような黒檀の霧が、彼を組み敷くように覆っていた。これは苦しいだろうな。

 俺を拾ったのは彼らしい。お人好しの圭一くんならば、たとえ転がり込んだとしても文句を言いつつ家に上げてくれそうではあるけど。

 昨夜彼と会ったことも覚えていないほどに意識が混濁していたつもりはなかったが、まあ感謝はしておこう。

「ありがとうね、圭一くん」

 そっと屈んで、こちらに向けた背を撫でる。すると彼にまとわりついていた嫌な気配は霧が晴れるように消えた。と同時に幼い寝顔から険しさが徐々に抜け、荒かった呼吸が穏やかな寝息に変わる。これで一宿の恩は返したからね。

 和室に立ち込めていた嫌な気配も、ひとまずは一緒に散っていったようだ。とはいえ元を断たなければ、何度散らしたところで同じことになるだろう。

 一体何が、と立ち上がろうとし、ぐらりと視界が傾いて畳の上に膝をつく。

「……まだ本調子じゃないな」

 無理に後追いして取り殺されるわけにもいかない。本意ではないが今はまだ、見逃す他なさそうだった。

 和室を後にして炬燵布団に戻ると、意識はすぐに頭痛と高熱の狭間に溶けていった。

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