ウォーカーズ・ビトウィン・ザ・ワールズ ~ 下っ端魔女のヤサグレ放浪奇譚

稲羽清六

事の始まり。

第1話


「……な、何やねん。この暑さわぁ」


 思わず飛びでる関西弁。


 とある七月。とある日中。


 授業の終わった門の前、あたしは溶けてバターになった。


 ブラからシャツまで汗だくになり、楽しげに下校する制服の群れを恨みながら、アメのようなアスファルトの道を這うように歩きつづける。カバンが鉛のように重たく、ジー、ジーと、あふれ返るセミの鳴き声が神経をムシャクシャにする。


「何で、あたしには雨乞いの術がないのよ」


 そして黄色く輝く太陽を仰ぎ、


「……いつか、呪ってやる」


 人知れぬ殺意に身を焦がすのだった。


 あたしがとりわけ夏に弱いのは、四分の一くらい混じっているというヨーロッパ人の血のせいらしい。母方が代々魔女を生業にし、西洋中世にさかのぼる由緒正しい家系なのだ。そして火あぶりにされた先祖でもいたのだろう、遺伝子的にアツイものに弱いのである。おばあさんは猫舌だったし、お母さんは風呂嫌いだったし、妹はアツ揚げが大嫌いだった。でも、なぜよりによって、七代目の魔女であるあたし――、久良岐祥子がアツイもの選びで夏に当らなきゃいかんのか。


 と、そんなことをグダグダ考えていた時、


「お姉さまァー、大変ですぅ、大変ですぅ!」


 学生服の人海が割れてひとつのセーラー服が駆けてきた。


 ヤバッ!


 と物陰に隠れようとするが、その娘は稲妻のように早く、二メートル手前からサイドタックルで跳びこんでくる。あたしは両足を刈られてマドンナもかくやという恰好で転倒した。頭を打って薄らぐ意識が肩を揺さぶる振動で無理やり引き戻される。


「大変です、お姉さま!」


 綾下文。


 あたしにいつもつきまとう、鬼のような運動神経の持ち主である。彼女は長い髪を頬に張りつけたまま訴えた。


「お姉さま、お姉さま、眠ってる場合じゃないです! 大変なんです。大変なんですったらっ!」

「……で、今日は何。フミちゃん」


 くわんくわんと鳴る頭を押さえて、あたしはどうにか笑みを作った。事情を知るクラスメイトたちがこちらを指差してヒソヒソ話している。


 フミはあたしに抱きつくと、ずりずり顔を胸に擦りつけて叫んだ。


「お姉さまのお胸、日に日に磨耗してますぅ!」



 散々あたしに殴られた後でも、フミはホクホク顔の夢心地だった。糸目をさらに線のように細め、女子高生にはあるまじきことを妄想している。あまねく男子を引きつける端正な顔の造りも、こう中身が邪では台無しだった。


 あたしは杖にすがって、やけに遠くなった家への道を歩いている。


「あんたねぇ。暑いってのになにバカやってんのよ」

「お姉さまのお汗はミントの香り」

「てめぇ」

「愛は地球を救いますぅ」


 バシッともうひとつカバンで殴ってから、


「でさぁ。あんた、じゃれつくのはいんだけど、ものごとには代価ってものがあるのよ、代価ってものが。世の中すべてはギブ・アンド・テイク。あたしがただで、あんたにつきあってると思ってもらっちゃあ困るわ」


 そう説教すると、


「もちろんです。わたしだっていい子を見つけましたわ」


 と白い面にうっすらとした笑みを浮かべる。


「今朝、お姉さまがわたしを撒いた後のことです。わたしが力なく肩を落として世にも惨めな姿でとぼとぼ歩いていると、黒い影が空を過ったんですわ。見ると、西の住宅地に飛んでゆくじゃないですか。どんな怨みがあるんでしょうかね。元気そうな方でした」


 あたしは思わずフミの襟首を掴んだ。


「な、なにーっ! それを早く言わんかっ!」

「だってお姉さま、ノルマが終わったら相手してくれないじゃないですか。わたしにだってプライドがありますもの。素っ気なくされたら、傷つきますわ」

「あー、分かった、分かったから。で、どこよ、それ」

「はしたないですわよ。髪もぼさぼさでそんなに大きく目を開けるなんて、お姉さまの器量じゃまるでおさ」


 おさ?


 彼女はけしからんことを口走ろうとして止めると、妖しげに光る唇をあたしの耳元に寄せた。


「夜にご案内します。焦らなくても、わたしたちは逃げませんわ」


 漆黒の瞳の中に狐のるい独特の青い炎が揺らめいていた。





 生ぬるい夜風に頬をなぶられながら、こうとしてひとり、あたしは屋根のてっぺんにたたずんでいる。黒のローブが夜と同化し、あたしもろとも大気に溶けてゆくようだ。目の前に広がる町の灯もまた、これから始まる悪魔たちの饗宴を恐れるかのように虚ろい、霞んで見える。


 妖艶にして狡猾な闇の眷属。


 魔女。


 その黒一色のローブの下に、イチゴ模様のパジャマを着ているなんて、そんなことは気にしちゃいけない。晩御飯だったサバの干物が口にうま味を残していて、舌を動かしては幸福の余韻に浸っているなんて、そんな野暮も考えちゃいけない。もちろん、茶碗四杯お代わりしたことも内緒の話である。


 そう。あたしは魔女よ。


 あたしはお風呂あがりのミントの香りに宣言した。


 居間でドラマを観ているおばさんに聞かれぬよう、小声で定句を刻み始める。


「不定にして光なき火よ、汝、我が主と結び我が前にその姿をあらわせ。我が主は【蛇】。あらゆる生命の根源にしてあらゆる変化を司る者なり。汝の名は【ケト】。不死の衣を纏う者にて、闇の聖者につき従う者なり」


 宙に火の五芒を描いて踵を小さく三回鳴らす。


 ケット・ケット・ケット。


 五芒がくしゃくしゃに歪んで、瓦の上に落ちた。その火の塊は足元をすり抜けて屋根の傾斜を転がってゆく。


「危ないっ!」


 あたしは慌てて追いかけた。


 黒い影、ケトが顕れたのは屋根の端っこ。後ろ足が空を蹴り、前足が瓦に掛かった。何がなんだか分からずパニクってるらしい。ずるずると滑り、フギャフギャと猫みたいに鳴きわめく。


 まぁ猫なんだけど。


 抱きあげると彼は安堵のため息をつき、そして三閃、ギャギャギャと顔を引っ掻いた。


「何すんのよ、この化け猫ッ!」


 くるりと一転、ケトは身軽に着地する。


 あたしの蹴りを避けながら、尻尾を揺らして舌を出す。


「ヘッ。無能なバアサンに化け猫呼ばわりされる覚えはないね。だいたいなして、こないな屋根の上で召喚せんとあかんのや。ほやからお前は能なしって叱られるんやないか。ったく、今時のバアサンってのは」


 バ、バアサンッ?


 花も恥じらう女子高生にあまりもの言いようじゃないか。


「あたし、バアサンじゃないっ!」


 ケトはバカにしたようにアゴを突き出す。


「その台詞、五十年前にも聞いたわ。外見はどうであれ、中身はヨボヨボの性悪ババァやないか」


 キィーッ!


 不老の術は外見も中身も変わらないのよッ!


 癇癪ぎみのローキックはヒュンと虚しく空を切る。


 と、

 ゴツリ。


 いきなり鈍い衝撃が頭を襲った。


 しゃがんで呻きながら石の飛んできた方を見ると、下の道で手を振る姿がある。その手にはさらに二三個の石が握られている。


 たすき掛けの巫女装束。


 フミである。


「やぁ、フミちゃんやないか。あいかわらず綺麗やねぇ」


 ケトはあたしを意地悪く笑う。


「フミちゃんみたいなのが、女らしいっていうんや。時を経ても色褪せぬ、才色兼備の永遠の美少女。少しは見習ったらどうや」


 渾身の蹴りはまたもや軽くかわされてしまった。




 あたしは頭にケトをのせ、雨どいを伝って庭に降りた。


 窓ガラス越しに居間をのぞくと、ドラマを映すテレビの前で、おばさんが涙を零しつつセンベイをバリバリ齧っている。もうすぐおじさんも仕事から帰ってきて、ビールでも飲みながら、あたしの成績がどーだとかあーだとか、心配そうに、しかしやはり楽しそうに話し合うのだろう。


 もちろん、この人たちはあたしのほんとうの伯母さん伯父さんではない。


 「親戚の子を預かるのだ」という暗示を使い、ひとり娘を亡くした心の隙間にもぐりこんだのだ。


 騙している、と言えばそうなのだろう。


 でも狐や狸じゃあるまいし、あたしとしても一年中宿なしでいるわけにはいかない。それにいくらかでも気が紛れるのであれば、やはりそれは人助けなのだと思う。この世には、乗り越えることのできない悲しみというものが、確かにあるのだから。


 とりあえず早足で門を出ると、これぞ天の裁きというふうに、あたしは巫女の頭にゲンコツを喰らわした。


「なに石投げてんのよッ! 血が出たじゃない、バカッ!」


 ところが、フミは石を溝に投げ捨てると凄い剣幕で詰り飛ばす。


 ややややや、逆切れである。


「だってお姉さま、ケトくんと楽しそうにジャレてたじゃないっ! わたしにはそんなに優しくしてくれないのに、なんでケトくんだけそんなにしてもらわなきゃならないのッ! 男の子だから!?」


 ジャレてた?


 少し考えて、フミにキックを喰らわしてみる。するとやっぱり、「ひどいわ、ひどいわ」と、よよと崩れて泣きじゃくった。


 ケトはギラリと光る猫の目を満月のように開き、


「フミちゃんに何てことすんや! ちょっとそりゃあシャレにならんぞ!」

「い、いや。蹴るってのがあんたらには嬉しいんかなぁーって」

「アホかっ、なわけないやろッ! ひでぇやっちゃなぁ、フミちゃん」


 しょりしょりととフミの頬を舐めている。


 悪いのはあたしかい。


 あたしは脱力して天を仰いだ。いつの間にか立ちあがったフミがあたしを後ろから抱きしめて囁く。


「その乱暴なところも、わたしは愛しております」


 背負い投げると、彼女はトンボを切って着地。袴の埃を払った後、真面目な顔つきになってパンと手を打つ。


 暗がりにひとつ狐火が浮かんだ。


「戯れ言はさておき、もうじき夜四つになります。あやかしが目を覚ます頃ゆえ、狩りごろではないかと」

「戯れ言だったんかい!」

「わたし、お姉さまのそういうところも大好きですわ」


 どういうところや!


 ククッと、フミはくぐもった音を漏らす。


 あたりはシンと静まり返っていた。


 先程まで家々から漂ってきていた生活の匂いも消え去り、夜の香り――、水に濡れたケモノの臭いが鼻孔をくすぐる。


 知らないうちに、あたしたちは「もののけの道」に入りこんでいた。あたりの景色は変わらないというのに、どこか色褪せて、ねっとりした空気があたしたちを包みこんでいる。


「仲間に気づかれると厄介です。踏み外さないようお願い申し上げます」


 フギャと一声、ケトは総毛を逆立てた。


 フミの身体を駆けのぼってぴょいとその肩にのる。


「フ、フミちゃん。こないなとこ通らんでもええやんかぁ」

「ごめんなさい。でもこちらの方がずいぶん近道なの。それに、人に見られるとコスプレ女だとか色々言われて困るんですのよ。そうですわよね、お姉さま」


 あたしはフミを無視して忌まわしい思い出を振り払いながら歩く。道の中央が五十センチほどの幅で光って目的地まで案内してくれる。


「待ってくださーい。また撒かれたらわたし辛すぎて死んじゃいますぅ」


 フミがシナを作って追いかけてきた。

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