第47話

廊下へと続くドアからひょこんと顔を出したのはお師匠さん。

「お疲れ様。もうそろそろランチだから、様子どうかなって思ったんだけど…。

まだかかりそう?」

「へっ?もうそんな時間!?」

途端にお腹がきゅうと小さく鳴った。


うう…午後からはみっちりお師匠さんとツアーの打ち合わせと準備だったよね。

これだけ練習した後にランチお預けはキツい。


『さっさと行ってこいよ。腹の虫聞こえた』

「えっ??ウソっ!?」

『ふはっ!ホントに鳴ってるんでやんの』

「もう大ちゃんっ!」

引っかけられた恥ずかしさで睨むと、大ちゃんがけらけら笑いながらお腹を押さえている。


「じゃあ、ランチ用意するから片付けてリビングにおいでね。

…ん?もうまた環は出しっ放し!

これいつものとこに片付けておくわよ?」

ため息をついたお師匠さんの手には、隣にある壁面いっぱいの楽譜棚から勉強のために取り出した交響曲の譜面。


あちゃあ、見つかっちゃった…!

几帳面なお師匠さんには素直に謝る方が吉だから。

「お師匠さんごめんなさいっっっ!

すぐに行きます!」

もう!とおかんむりなお師匠さんが消えて行く扉にペコンッと頭を下げると大ちゃんへと視線を移す。


「ごめんね大ちゃん」

『いや俺もここ片付けて鍵返さなきゃだし。


…師事してるとはいえ慣れない人との共同生活は色々あるだろ?

しんどくなる前に連絡してこいよ』


画面の向こうの大ちゃんはそう言うと、手を伸ばしかけて、変な顔して、頭をかいた。


あ。

このタイミング。

絶対いま頭撫でてもらえて、た。


「そんなこと言われたら明日帰っちゃうよ」

『迎えに行ってやる』

まっすぐな言葉と瞳。


夏祭りに交わした約束。

打ち上げ花火の鮮やかな紫色が大ちゃんの光彩を彩っていたあの日。

待ってるから行ってこいって背中を押してくれた。


「ーーーーランチ、たっくさん食べて午後も頑張るぞぉ!!!

ね?大ちゃん!」


自分で選んだから、負けないよ。


おう、と頷く大ちゃん。

通話を切ろうと手を伸ばすと、

『あ、そうだ環』

昨日あのテレビ番組見たか?とでもいうような調子で、

『いつもの咳してるから薬飲んどけよ?隠してるのバレバレなんだよ』

と目を細める。


ビクッと背筋が震え汗が滲む。

大ちゃんの観察眼って刑事並みっ!

いつ分かったんだろ…?


「いや、その、まだ軽い咳だし、大ちゃんが心配して練習中止って言うかなって……その、ごめんなさい…」


海を渡っても言い訳だなんて、本当にあたしは進歩がない。

『体調管理もプロの仕事だろうが。

お前の今やることはヨーロッパツアー、宝良祭の練習は帰国してからだってできる。

…今日は無理せずちゃんと休めよ?』

口調がキツイのは、私のこと心配だから。

『うん…大ちゃんありがと』

大ちゃんはニヤリと笑うと、また連絡する、と言って通話をオフにする。


へへっ…。

大ちゃん、気付いて心配してくれた。

叱られたはずなのに、なぜか嬉しい。

頬が緩みピアノの椅子の上で脚がパタパタ落ち着かなくて。


しびれを切らしたお師匠さんが再度呼びに来るまで、あたしはふんわりピンク色な気持ちをじっと噛みしめていた。



*******


科学の叡智が花開く現代だから。

電子信号は易々と海を越え、久々な仲間の笑顔や心地良い音楽へと形を変え瞬時に届く。


一言検索すれば、フランスと日本の時差は息をするように即座に出てくる。


なのに。

疲れたように笑う幼馴染の頭を撫でてやることは叶わず、彼女との心の距離に答えはない。



「『いつものとこ』か…知るかよ」

自嘲気味な自分の声がぽつんと落ちた。

通話がオフとなった途端、火が消えたように、しん、と沈む音楽室。



『いつものとこ』が環と彼女の指導者には分かる。

自分には分からない。

何気ない会話に、まざまざと自分がいないことを見せつけられる。

そんなの、送り出したときに分かってたのに。


「あー…結構クる」

名残惜しくてさっきまで繋がっていた携帯を撫でる。

女々しい。

こんな姿、環には絶対見せられない。



「大地」

イケメン生徒会長の再来。

「おぉ四堂。さっきはありがとな。

なんだ?忘れもん?」

「ん。でっかい忘れ物を回収しに来た」

そう言うと、悪戯っぽい笑みを浮かべる悪友。


今回、頼れたのはコイツしかいなかった。

環の宝良祭での思い出を作ってやりたいなんて、馬鹿な気持ちをじっと聴いてくれて。

全部話し終わった後、今みたいに楽しそうに笑ったんだよな。


「回収ついでに、腹が減ってて死にそうだからな。今からラーメンに付き合ってくれるヤツを募集してる」


オーバーに腹を押さえる四堂に思わず吹き出す。


「チャーシューはやらねーぞ?」

「望むところだ。今日はチャーシュー麺な気分だから一枚やってもいいぞ?」


言ってろバーカ。


弄っていた携帯をズボンのポケットに滑り込ませると、チャーシュー二枚追加の交渉をするべく、立ち上がった。


くるりとスツールの椅子が一回転。




ーーあのとき2人で見た、夜に咲く菫色の華。

互いの瞳に映るのは、だあれ。



〈Scene end〉

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