horizon
魚土トオヒ
第1話
ときどき幼い頃に見た光景を、夢に見ることがあります。特に見るのは、水平線を見た日のことです。僕と妹は、岬の灯台の下で水平線に沈んでいく太陽を見ていました。橙色に輝く太陽が消えていくのが怖くて、僕は妹と繋いだ手に、強く力を込めました。妹は太陽を睨んだまま、ぎゅっと握り返してくれました。
妹の波乃(はの)と僕(那帆)は、双子として生まれましたが妹は容姿に恵まれ、知能も身体能力も平均よりずっと高く、家族すら僕は全てを妹に吸われてから生まれてきたのだと笑っていました。僕自身も、そう思います。しかし世間の兄妹と同じか或いはそれ以上に、僕は妹のことを大切に思っていましたし、妹もなぜか取り柄の無い僕のことを好きでいてくれました。
いつも控えめで自信の無い僕は小学生の頃からいじめられていましたが、小学生の頃は妹が一緒でしたので、いつも妹が助けてくれました。靴を隠されたときは、泣いている僕を背負って一度も僕の足を地面に着けず、家に帰ってくれました。その翌日、僕の靴を隠した犯人であるクラスメイトたちを見つけた妹は、彼らの靴を履いて泥だらけの水たまりでタンゴを踊った後に校長先生の車のボンネットに、その靴を乗せました。いじめっ子たちは無罪を主張しましたが、妹が彼らの日頃の悪行についてを朝会でスピーチすると、いじめっ子たちは登校権を剥奪されて、このシティでは見なくなりました。
中学校に進学した僕は、吹奏楽部に入り、フルートという細長い管の楽器を担当しました。優雅な演奏姿とは裏腹に、肺活量の要るパワフルな楽器です。突然音楽に関わりだしたことを両親も妹も不思議がっていましたが、理由は誰にも言っていません。それは、妹がまだ手を出していない分野なら比べられることがなかったからという、卑屈なものでした。妹は音楽に興味がありませんでした。興味を持ち、何かしら楽器を始めれば、一年と経たずにコンサートホールを一人で埋めてしまえたのだと思います。僕が吹奏楽部に入ってからも、幸い妹は音楽に興味をそそられることはなかったようで、僕は下手なりに楽しく部活動に通いました。
妹は中学には行きませんでした。妹はシティでトップクラスの大学に飛び級で入学したのです。本当はもっと早くに大学へ行けた妹ですが、小学校を卒業するまでは僕が心配だったのだ、と言っていました。
大学では何を学んでいるんだい? と僕が聞くと、妹は聞いたことのない学部の話をしてくれました。僕には理解出来ませんでしたが、妹が楽しそうに話しているのを聞くのは嬉しかったです。
僕たちは、幼い頃からずっと同じ部屋で過ごしています。妹は大学にも部屋があるそうで、僕たちの部屋は荷物が少なく、寂しいと思える程に片付いていました。僕がコンクールの楽譜を広げて運指を練習していると、妹は僕のその指を見てメロディをくちずさみました。いつの間に音楽を学んだのかと僕が驚くと、妹は「兄さんの好きなものを理解したかったんだ」と笑って、細い指で僕の運指を真似ました。
「音楽の良いところはなんだい」 妹は床に寝転がり、机に向かう僕を見上げていました。まさかお前が興味を持たないからだよ、とは答えられるはずもありません。僕が答えに迷っていると、聡い妹は「私のせいか」と声を低くして言い、寝返りを打ちました。僕は「違うよ」と言いましたが、それ以上は上手く言葉が出てきませんでした。
「波乃、いつか聞きに来てくれるかい」
「どうかな。兄さんの音は聞きたいが、他の奴らの音は余計だから」
僕は家にフルートを持ち帰ることもありませんでしたし、妹は誘っても演奏会に来てくれませんでしたから、彼女は僕の音を一度も聞いたことがありません。僕は安堵とともに、寂しい気持ちもありました。妹が存在しない領域の自分を、知ってほしかったのです。
僕が高校にあがる頃には、妹の名前をテレビや新聞で聞かない日は無いほどになりました。それは、妹が大学で行っていた研究によるものです。僕には説明をされても分かりませんでしたが、妹のチームの研究によって数十年のうちに海抜1,280メートル以下の土地は、全てが海面下に沈むことが確実視されたのだそうです。
月と火星のテラフォーミングは済んでいましたから、各国は以前から進めていた移住計画のスピードを上げていました。 移住船の切符は、一般人には到底手に入れられないプラチナチケットです。テラフォーミングした地域には、全ての人類が住めるだけの資源も広さもありません。ですが妹は当然リストに名前がありますから、僕は安心しました。
第一便が宇宙へと旅立った日の夕方、妹は僕らの部屋で寝転がっていました。研究で忙しい日々を送る妹がこの部屋に帰ってきたのは、実に半年ぶりです。
「なぁ、兄さん。一緒に来てくれないか」
床に寝転がった妹は、僕が断るはずもないと思っている様子でチケットを持った手を差し伸べました。僕は高校から帰ってきたばかりだったので、学生服のままで彼女の前に正座を組んで見下ろしながら、その手を取り、尋ねます。
「僕に、居場所はあるかい」
「ああ、私の隣はいつも兄さんが良い」
妹の笑顔は、幼い頃から変わっていません。だから僕は妹の望む答えを、なるべくは聞かせてあげたいと思うのです。僕がチケットを受け取ると、その晩のうちに妹はまた研究所へと戻りました。今日は僕にチケットを渡すために帰ってきただけなのだそうです。僕は妹を見送ると、父にチケットを渡しました。妹に全てを吸われて生まれたと言われる僕は、いろいろなことが足りません。繁殖能力もその一つでした。繁殖能力のない僕よりは、いくらか年嵩ではありますが父の方が人類の存続において価値があると思ったからです。父は一度は受け取ることを拒みましたが、母にも言わないから、と頼むと、簡単に受け取ってくれました。
「初めて、那帆を生んで良かったと思った」
父は僕の頭を撫でてくれました。小学生の僕が求めてやまなかった温もりは、高校生になった僕には過分な熱でした。 中学の頃、妹が大学に泊まり込みで帰ってこないとき、父は酒を飲みながら僕だけに昔話をしてくれたことがあります。僕らが生まれたばかりの頃、父と母にとって双子を養うのは経済的にも生活的にも大変なことでした。ですから両親は、どちらか一人を里子に出そうとしていました。何を話しているか分かるはずもないのだから、と眠っている僕らの前で両親はその相談をしていたのだそうです。しかし両親の声が聞こえたのでしょうか、まだ2歳にもならない妹は突然目を覚まして立ち上がると、眠りこけている僕の手を強く握りしめたまま
「いつか私は、あなたたちに利益をもたらす。だから兄さんと引き離すのはやめてくれ」
と言ったのだそうです。両親は妹に畏怖を抱き、仕方なく僕らを育ててくれました。妹は宣言通り、この家に利益をもたらしました。それは僕が高校に通うまでに与えた損失よりも、ずっと大きな利益です。
妹と父が旅立つのは、最後の便です。それまでには、まだ数週の時間がありました。妹は僕が一緒に旅立つと思っているので、両親に聞かれないよう、僕らの部屋で未来について話をしました。こっそりと秘密のように二人きりで話していると、過去のことを思い出します。あれは小学生よりも前の頃だったでしょうか。今と同じように二人きりでこっそりと、家出の計画を立てたことがありました。妹の計画は穴がなく、僕はこの家に二度と帰って来られないような気がして、怖くなって両親に計画の一部始終をバラしてしまったのです。思い返してみれば、妹に怒られたのはあの時だけでした。
チケットを受け取った三日後、妹は再び僕らの部屋に現れました。とても疲れた顔をしていましたが、目はキラキラと輝いていました。僕が「膝を貸してあげるよ」と言うと、妹は喜んで僕の膝を枕にしました。しばらく仰向けで僕の顔を見ていましたが、やがて首を横向きに動かして窓の外を見るので、僕も同じように外を見ました。
「これから数十年のうちに、地球はどこからでも水平線が見えるようになるんだ。ああ、沈んでいる場所以外はね。私と兄さんは火星に行くからその地球の景色を見ることは叶わないが、きっと綺麗だろう。たいらかな、平等で美しい世界になる」
また北極の氷が大きく崩れたと、今朝のニュースで話していました。この国の海岸にはそれが津波となって訪れることもありませんでしたが、年々すこしずつ砂浜の面積が減っているのは事実でした。
家族揃って海に行ったことは、一度しかありませんでした。灯台のある岬へと父の運転する車に乗って行きました。僕と妹は後部座席で窓を全部開けて、はしゃいでいました。僕と妹は螺旋階段をぐるぐると登って灯台の展望スペースにたどり着き、それから遥か遠い水平線を見つめました。水平線は真っ直ぐなようで、よく見るとわずかに弧があります。僕はその時、地球の丸さについてを妹から説明されたのですが、よく分からずに「きれいだね」と答えました。妹も「うん」と頷き、それから手を繋いだまま階段を降り、もう帰るぞと怒鳴る父を無視して、灯台の下で水平線に日が沈むのを見ていました。消えていく太陽が怖くて悲しくて、妹とずっと手を繋いでいたことは、今でも覚えています。
「ねぇ波乃、幼い頃に家族みんなで岬に旅行したことを覚えているかい。水平線を見るのは、あれが最初で最後だと思っていたよ」
「最初で最後だろう? 兄さんはもう、地球から旅立つのだから」
「ああ……そうだったね」
僕の返事に間があることに気付き、妹は口をつぐみました。起き上がると、僕の頬を張りました。かわいそうなほど、聡い子です。妹は再び僕に手を上げ、何度も強い力で僕のことを叩き、何度か叩いたところで、やがてそのまま僕の胸に顔を埋めました。僕の記憶にある中では、妹が声をあげて泣いたのは、この時が初めてです。妹は泣き方が分からないのか、動物のように唸って呼吸を整えようとしています。僕は顔や腕や、叩かれたあちこちが痛かったのですが、泣いている妹の方がよほど痛がっていることを分かっていたので、彼女の背中を上から下に撫でてあげました。
妹は靴を脱いでも190センチあって、僕は靴を履いても150センチとありません。妹の縦に長い背中を、短い腕で何度もさすり、普段の呼吸とは違う、荒れた息をなだめました。妹が声をあげて泣くのを見るのも初めてなら、僕は泣いている妹をあやすのも初めてで、お互いにぎこちなく震えていました。だけどお互いの体温や心臓の鼓動を感じる度に、二つのが体が一つの存在に戻るような、暖かな気持ちになるのでした。
「旅立つ前に、僕の演奏を聞いてくれないか」
妹は、何も答えません。僕はコンクールの課題曲を歌いました。歌詞はありませんが、まるで子守唄のように。僕の声は1年前に少し遅い変声期を迎え、低くなっていました。声の変わった僕に対して、妹は口を開けさせて喉を覗き込んだり、喉仏を触ったりしていました。外見的な変化はないはずですが、妹は僕の成長を驚いて、そして喜んでいたようでした。
「私は、兄さんに憎まれていたのだろうか」
僕が歌うのを止めると、ようやく少し落ち着いたらしい妹は、真っ赤な目のまま僕を見上げました。
「憎んでなんていないよ、誰よりも大事に思っている。波乃は、僕が居ると弱くなる。これから先、きっと波乃はもっとたくさんのことを成し遂げるだろう? 弱さを見せられる僕は、隣に居ない方がいい」
「……そうだろうか」
妹が僕の首に抱きついて、それから耳元で「あいしてる」と震えた声で囁き、僕は彼女の背中に腕を回して、またゆっくりと撫でました。窓からは夕日が差し込んで来ます。水平線に沈んでいく夕日の姿を思い出し、僕は少しだけ、涙をこぼしました。
妹と父との別れは、あっという間に訪れました。妹が初めて僕の腕の中で泣いたあの日から、妹とは会っていません。きっと怒っているのでしょう。火星に旅立ってからも、コールドスリープに入るまでは時差はありますが連絡を取れるはずですから、謝罪のメールを送ろうと思っています。受け取ってくれると良いのですが。
船の発着場への見送りには、行きませんでした。船が飛び立つ予定時刻になっても僕は、今は僕だけのものになった部屋で、テーブルにアルバムを広げて眺めていました。家族のアルバムには、僕の写真はほとんどありません。写っているとしたら妹の隣にいる時にピンボケの状態で写っている、くらいのものですが、僕も僕の容姿が好きではありませんから、久しぶりに開いた家族のアルバムはとても見やすく感じます。僕が妹との別れの時間に選んで開いていたのは、岬に行った日のアルバムです。妹は幼い頃から体が大きく、写真の時点で僕とはすでに20センチ近い身長の差がありました。年の離れた姉と弟のようにも見えるかもしれませんが、僕らは顔も似ていませんから、知らない人が見れば家族とすら思わないでしょう。
アルバムの終わりの方には、水平線を背景に僕らが並んで笑っている写真がありました。どちらにもピントが合って、くっきりと写っている珍しい写真です。妹は僕に寄りかかるようにして両手でピースサインを作っていて、僕は妹が転ばないように笑いながら両手で彼女を支えていました。
いつの間にか僕の視界は、涙で満ちていました。まるで写真に写る水平線から溢れ出したようです。いずれ海に沈む僕は、きっとこんな景色を見て息を絶えさせるのでしょう。海水のような涙は写真の水平線も僕と妹も、視界に写る全てを滲ませていきます。せっかくくっきりと写っていたというのに。涙は止まらず、僕は両手で顔を覆いました。
大切な妹。自慢の家族。誰よりも僕を信用してくれた唯一の人。誰よりも僕が信用している、ただ一人の魂の片割れ。 一緒に行かなかったのは、僕のわがままだ。彼女のためだと嘘をついて、僕が一人で逃げた。だけど正しかったのだと、僕は理解していた。きっと僕が一緒に行って、喜ぶのは妹だけだ。妹が喜んでくれるなら、それで十分なのに! 喜んでほしい。喜ばせたい。だけど、お互いに離れるべき時が来たんだ。
その時、窓ガラスが揺れました。最後の船が宇宙へと発射されたのです。外を見ると、数十キロ先にある飛行場を白い煙が包んでいました。僕は妹と触れ合うことは二度とないのだと思うと、窓枠に手をついたまま膝から崩れ落ちました。まだ振動する窓枠に置いた手のひらには、多足の虫が這うような感触がありました。幻視した虫たちは妹の背中を撫でた時の暖かく柔らかな感触を食い尽くしてしまいました。振動が止まる頃、ようやく顔を上げて窓の外を再び見ると、青い空を分かつように船が引いた白い雲の尾が遠い遠い宇宙へと伸びていました。火星へと続く長い年月の旅が始まったのです。
「無事に飛んだな。やれやれ、一仕事だったぞ」
後ろから声が聞こえました。僕はついに妹を恋しく思うあまり、幻聴を発症してしまったのでしょう。振り向くと、歪んだ視界の中には、背を屈めた妹がいました。妹の背丈には、僕らの部屋の入り口は低いのです。
「あれは……最後の船じゃないのかい」
僕は窓枠に手をつき立ち上がろうとしますが、力が抜けてフラフラとよろめいてしまいました。妹が駆け寄り、僕の体を支えます。僕は妹を見上げました。妹は、確かにここに居るのです。あの船は偽物なのではないか、何か夢を見ているのではないか。僕の目にはそういった困惑がはっきりと浮かんでいたようで、妹は口を開けて笑ってから、首を横に振りました。
「あれが『最後の船』だって? はは、そうだとも。私のチケットは母さんに渡したんだ。今ごろ研究チームのメンバーどもは、てんやわんやの大慌てだろう。私を恐れているくせに、私が居ないと何も出来ないのだから。両親にしたって、まったく! ろくな両親ではなかったな。兄さんと私を作った偉業以外は。ふふ、可笑しいよ」
「どうして、ここに」
妹はこんなところに留まるべきではないのに。僕は妹の両腕を掴んで、揺すりました。妹は首をガクガクとさせて笑っています。彼女の存在は本当に、夢でも幻覚でもないのです。信じられない。僕が目を見開いてその姿を確認すると、妹は懸賞金付きの数学の問題を解いたときのように得意げに、僕に言いました。
「家出さ、兄さん。幼い日に、家出の話をしただろう。忘れたかい」
「覚えているとも。だけど……」
「あれは岬に行った日の夜だった。兄さんが言ったんじゃないか。『また岬に行って、水平線を見たい』と。私は『連れて行くから、一緒に家出しよう』と言ったんだ」
はっとした僕は、テーブルに置いたアルバムに目を向けました。僕の視線に気付いた妹はテーブルへと向かい、アルバムを手に取ります。妹は「懐かしいな」と笑い「やっぱり兄さんは、私が家出して兄さんのところに戻ってくると分かってたんじゃないか?」と写真を僕に見せてきました。両親を追い出して結果的に家出にするなんて計画は、聞いたことがありません。幼い頃の妹の口から、以外には。
「……馬鹿だ、波乃は」
「ああ。兄さんに似ているのさ」
僕は笑って、それから床に寝転びました。天井を見上げると、その視界に妹が現れます。ばか、ともう一度呟くと、妹は頬を膨らませてその姿を近付けました。隣に寝転んだ妹は、僕の肩に頭をコツンと当てます。僕は妹の頭に頬を寄せて、その髪に再び触れることが出来た幸福に、暖かな涙で頬を濡らしました。
「それじゃあ行こうか、兄さん」
「行こうか。これから珍しくもなくなる、水平線を見に」
「私が残ったんだぞ? この星は、海になど沈まないさ」
「はは……波乃なら、出来てしまうのだろうね」
「選民思想に浮ついた私を許してくれるかい、兄さん。私が兄さんを選ぶということを、知って欲しかったんだ」
妹が運転席に、僕は助手席に乗り込み、それからエンジンが掛けられました。電気自動車は静かで、カーステレオの邪魔をしません。この車は妹の所有物ですが、ステレオから流れて来た音楽は、聞き覚えのある曲です。昨年度の吹奏楽コンクールの課題曲で、フルートのソロがある曲。フルートパートは僕を含めて4人居ましたが、ソロには僕が選ばれました。きっと僕の人生で、二度とない幸運だったと思います。
「そろそろ、僕の演奏を聞いてくれないか」
今でもその8小節のソロは覚えています。妹が聞いて感想をくれたなら、それほど嬉しいことはありません。妹は車の運転をオートに切り替えると、頬を赤く染めて僕の方を向きました。
「知らなかっただろうが、実は演奏会にはいつも行っていたんだ。『フルートソロ、那帆!』というのもね。……誇らしかったよ」
薄々気付いていたことでしたが、改めて面と向かって言われると照れくさいものです。
「中学の頃から、兄さんが演奏会やコンクールに参加する日は大学を抜け出していた。結構苦労していたんだぞ。私は目立つからな。サボりも楽じゃない」
「演奏中に視線を感じることがあったんだ。僕のようなフルート奏者を視界に入れたがる物好きなんて居ないだろうから、勘違いだと思っていたんだが、ふふ、そうだったのか。感想は?」
「決まっているだろう。私の兄さんだぞ?」
世界のために生きているはずの妹が、たった一人の冴えない兄のために時間を割いてくれたことは、誇らしくもありました。妹はいつも私を肯定してくれます。私もそうでありたいと、そう望んでいます。
「……兄さんの演奏が好きだ。実は、着いてから言おうと思っていたんだが……車にフルートを積んでおいた」
「岬で吹かせる気だな?」
「もちろんだとも。兄さんの音だけ聞きたいと、前にも言ったはずだ」
「波乃も何か、音楽を始めてみたらどうだい」
「いいのか。追い越すぞ?」
「ああ、楽しみだな。すぐだろうけれど、待っているよ」
妹は音楽に興味が無かったわけではないのでしょう。僕の領域を侵さないために、音楽を始めなかったのです。妹は楽器を始めれば、それが例えばオーボエだとしても、すぐに上達するのですから。僕が5年続けているフルートでも同じことです。だからこそ今はそれを、楽しみで待ち遠しく思います。
「地球を救った後なら、暇だし時間もあるだろう。兄さんが隣に立って、私と一緒に一つのものを作りあげてくれるなんて夢みたいだ。早く実現したいな。それまでに、私に似合う楽器を考えておいてくれるかい、兄さん?」
「急いだ方が良さそうだ。波乃がそう言うときは、本当にいつも早いから。地球なんてすぐに救えるんだろう?」
「はは、そうだな。兄さんの期待に応えてみせるよ」
車は静かに水平線を目指します。僕らは何十年後にも、そこへ沈んだりなんてしないのです。 多くの人間が宇宙へと旅立ち、呼吸の楽になった地球は、それでもたくさんの人が生きています。いつか海に沈むという絶望と諦めで海底のように暗く沈んだ彼らには、希望をもたらすために必要なものがいくつかあります。
音楽も、その一つです。空気は貧富の差なく震えて音楽を届け、絶望や諦めを払拭します。水平線の侵攻を止める方法なんて、僕には少しも分かりません。だけど地球を救うくらいの手助けは、妹の隣で出来るはずです。妹がもっと早くに音楽に興味を持って手を付けていたら、僕はこんなに音楽を好きにはなれなかったでしょう。結局これも、妹の作戦のうちだったのかも知れません。
「心配はしていないよ。波乃が僕の期待に応えなかったことなんて、無いのだから」
妹は静かに笑い、「当然だ」と胸を張りました。
「波乃が妹で良かった」
「今さらだな、兄さん。私はそれを1歳の頃から言っているぞ。あれはひどい成長痛で泣いている私を、兄さんが優しく抱き締めてくれたときだ」
「覚えていないよ。今はどうだい?」
「神童だ、天才だとずっと言われ続けて来たが、つまり私は子どもの頃から何も変わっていないのさ」
窓を開けると、潮の香りが吹き込みました。水平線が見えるまで、あと少し。家出は妹の完璧な計画により、成功を迎えました。だから僕らは、自由な体で手を繋いで、地球を救ってやるのです。
horizon 魚土トオヒ @uotsuchi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます