荊の魔女

宵宮祀花

壱幕◆白薔薇城の主

泡沫の白薔薇姫

 言うなればそれは、蝋人形の館。

 旧時代の貴族の暮らしを再現した一室。

 広い室内に、意匠の見事な、豪奢な調度品。

 宝石で彩られた小物に、それらに囲まれて天蓋付きの大きなベッドで眠る緩やかに巻かれた白銀の長髪を持つ美しい少女と、傍らに佇む執事の青年。

 室内に存在するもの全てが一寸の狂いもなく美しく配置されたこの部屋はしかし、観光客に向けて設えられた展示物などではなかった。

 よく目を凝らしてみれば眠る白い少女の薄い胸は僅かに上下しており、傍らに佇む執事もまた、ゆっくりと瞬きをして、優しいアイスブルーの瞳で主人である幼い主を真っ直ぐに見つめている。


 不意に、少女の伏せられた睫毛が微かに震えた。


「おはようございます、フィオ様」


 まだ瞼も開かれないうちから、気の早いやわらかなテノールが、無音に満たされた空間をそっと震わせた。


「……言うのが早いわ」


 数回の瞬きののちに、静かに開かれたパープルサファイアの瞳が、ゆるりと執事の顔を見上げる。長い純白の睫毛を重たそうに押し上げて上体をゆっくりと起こすと、眠たそうに再び瞬きをして見せてから、少女は改めて執事の瞳を見つめ、微笑んだ。


「おはよう、ベル」


 主の挨拶を受け、とろりとした笑みを浮かべて、執事のベルは恭しく頭を下げる。


「おはようございます、フィオ様。ただいまお召し物をお持ち致します」

「ありがとう」


 闇夜色のリボンで一つに結われた長い金髪を尾のように揺らして、クローゼットへ向かうベルの後ろ姿を見るともなく眺めながら、フィオは軽やかにベッドから降りて躊躇なくネグリジェを足元に脱ぎ落した。本来ならば既に室内に控えていて然るべき主の召し替えをするためのメイドが部屋を訪う様子もなく、この室内には依然としてフィオとベルの二人しかいない。

 やがて下着を残して最後の一枚、ドロワーズを軽やかに脱ぎ去った辺りになって、服を選別し終えたベルが一式を抱えて戻ってきた。


「フィオ様、はしたないですよ」

「いいじゃない、どうせベルしかいないのだもの」


 悪びれもせず、恥じらいを見せるでもなく、良家のお嬢様らしからぬ有様でベルを迎えたフィオの白いレースで飾られた下着の中心には、小さいながら少女には決して有り得ないモノが秘められていた。

 薄桃色の蕾が小さく二つ並ぶ薄い胸も、やわらかそうな華奢な体も、人形のように愛らしい顔かたちも、ふわりと靡く雪色の長い巻き髪も。そして小さな薄紅色の唇が紡ぐ言葉たちも。フィオを構成するなにもかもが年相応の少女そのものであったが、すらりとした白い脚のあいだに控えめに存在している幼いふくらみは、確かに男子の象徴だった。


「……ベルはまるで、お母様のようね。いた記憶はないけれど、絵本で見た通りならきっとこんな感じだと思うもの」

「光栄です、フィオ様」

「褒めたわけじゃないわよ」


 繊細なレースが編みこまれた薄手のタイツや、寝間着とは別のドロワーズ、純白のブラウス、ボーン入りコルセットに、バッスルスカート。複雑な衣装を慣れた所作で着つけていく見事な手際を鏡越しに見ていたフィオは、ベルの前向きな応答と一瞬の乱れも見せない手つきに感心の溜め息を吐いた。


「勿論存じております。ですがフィオ様のお傍にいられるのであれば、たとえ母君の代わりであってもベルは嬉しいのです」

「もう、もう、わかったわ」


 昔からベルには口で勝てた例がなかった。フィオがなにを言ってもベルは穏やかに微笑んで、フィオの全てを受け入れてくれるのだ。根拠はないが、従者だから主人に逆らわないというよりはベルの性格によるものなのだろうと、何となく思っている。


「ねえベル、早く収穫祭の日にならないかしら」


 雪の花のようなドレスに身を包んだフィオが鏡の前でスカートを靡かせ、くるりと一回転して見せながら弾んだ声でベルに語りかけた。


「あとひと月ほどです。白薔薇がすべて咲いて、表門のアーチが出来上がる頃には」

「待ち遠しいわ。一年がとても長く感じるくらい待ったのだもの」

「ええ、そうですね、フィオ様」


 新雪のように輝く長い白銀の髪を緩やかに巻いて、左肩から胸へと垂らす。大きな縦巻きの髪をひと撫ですると、フィオは宝石箱から一つの髪飾りを取り出し、ベルに手渡した。

 紫水晶の薔薇を繊細な円レースと純白のリボンで縁取った、小さな髪飾りだ。


「ねえベル、フィオ、いまとってもしあわせよ。だってお父様やお母様がいなくてもフィオにはベルがいるもの。ひとりぼっちじゃないってしあわせなことだわ」


 左頭頂部に透明な紫水晶の薔薇を咲かせて、フィオは綺麗に微笑む。

 着替えの最後に、フィオのやわらかな髪をさらりと撫でると、ベルはとても丁寧な微笑を見せてお手本のような所作で跪いた。


「ええ、フィオ様。本日も変わらず良いお目覚めのようで、なによりでございます。さあ、お召し替えも完了致しましたから、朝食に致しましょう」


 差し出された手を取り、フィオは寝室をあとにした。

 両開き扉の片側を押し開いて導く執事と共に、フィオは無人の廊下を歩いていく。荘厳な居城に人の影は二つきり。家族らしき者の姿はおろか、忙しなく働くメイドや外観を整える庭師の姿もない。どこまでも静かで、ひたすらに広い。


「ねえベル、今日はなにをして過ごそうかしら」

「どうぞ、フィオ様の望まれるままにお過ごし下さい」


 楽しげなフィオの声と、静かに答えるベルの声が、廊下の果てに消えた。

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