彩野

@_naranuhoka_

彩野


彩野


第一章 二十歳 

ついーるるるる、と舞台の開幕を告げる笛のように高らかな音が空から降ってきた。

瞼を押し上げる。遮光カーテンを夜に閉めきらなかったせいで、レースのカーテン越しに朝陽が差し込み、きらきらした白い模様がシーツの上に落ちていた。十時。なんの鳥が鳴いたんだろう、と寝起きのとろけた頭でぼうと思う。

 濡れた筆で上から乱暴になぞった水彩画のように、視界に映るものすべての輪郭がふんわりぼやけている。手探りでめがねをかけたら、やっと意識がはっきりした。

 今日は三限からだから、午前中は授業がない。今期の時間割はすべて一限の時間になんの授業も入れずに組んだから、心起きなく寝坊ができる。そのせいで、ここ最近は一時過ぎに寝て十時に起きるようになった。大学までは歩いて三十分、自転車で十五分、いや飛ばせば八分くらいで着くから、それでも余裕なのだ。社会人になったら早起きなんてできるんだろうか。考えるだけでぞっとする。

今日くらいもっと早起きしたらよかったかな、まあでもいっか、と思いながら布団の中でスマホをさわる。LINEを開いたらいろんな人から【誕生日おめでとう】とメッセージが届いていた。一つひとつに返していくのは面倒で、誰から来ているのかだけチェックする。三谷からの【誕生日おめでとう。今日の夜また祝う!】という簡潔なメッセージにだけ、【ありがとう、楽しみ~また連絡するね】という返事と、うさぎが二匹ハグしているスタンプを送った。何気なく送ったものの、なんか意味深っぽくてやらしかったかな、と少し焦った。とはいえもう遅い。

洗濯かごに溜まった服を持ってきて、カラカラと窓を開けてベランダの洗濯機に放り込んで回した。がーごがーご、と不思議なリズムで洗濯機がふるえだす。ふと外を見やると、道路を挟んだ向かいのマンションも、布団やらシーツやらを干している部屋が多かった。今日はすぐに乾きそうだ。三谷とお揃いで買ったライブTシャツも脱ぎ捨てて、洗濯機を途中で止めてそれも放り込んだ。キャミソールになってしまったので急いで部屋に戻る。

五月の朝の空気は澄んで気持ちがいい。けれど陽射しはもうすでに夏の気配をたっぷりと油みたいに蓄えていて、ベランダに五分立っていただけでくらくらしてくる。母親からCメールで【彩野、二十歳の誕生日おめでとう げんきですか? GW帰ってこなかったんだからお盆は帰ってきなさいね】と連絡が来ていたことを思いだして、マスカラを乾かしている間に【ありがとー また帰るよ】と雑に返した。

地元から引っ越して、大学のある京都に引っ越してきて一年一カ月が経ち、二十歳になった。おとなになるんだなあという感慨は正直ない。お酒なら大学入学してすぐに飲み会で嗜み始めたし、煙草は匂いが苦手だから吸う気はない。急行電車に乗っていて、ボックス席でうとうとまどろんでいたらいつの間にか神戸に着いていた時のような、あっという間と言うほどではないけれどぬるっと遠くまで運ばれてきていたような、そんな感覚だ。

神様が大きく息を吐いたみたいに、網戸越しにふーっとひと際強い風が吹いてくる。

ちょっとあやうくて、儚いような頼りないような響きの十代の日々が終わった。これからは二十代。植樹したての細い木の幹のような、かつこれからそれを自分の責任で大きく育てていかなければいけないような、やけにどっしりとした響きがある。正直、なんだか持て余してしまう。適当にやり過ごしていてもなんとかなった十代までの日々とは責任感が違う気がして。

そんなことよりも、彩野には今日、大きな任務がある。年齢が一つ上がって十の位が変わったことよりも、ずっとずっと――ここ半年間、そわそわと落ち着かない気持ちで迎えようか、迎えまいか、恥ずかしいようなくすぐったいような、落ち着かないような、笑ってしまうような気持ちで悩んできたことと、今日、対峙する。

三谷と初めてセックスをする。そして彩野は処女を失うのだ。二十歳になった今日の夜、お祝いのあとに。


手を浸したらどぷんとどこまでも沈んでいきそうなほど、春の京都の空は柔らかかった。入学式の時にそう思ったから二度目の春に三谷に言ってみると「彩野はおセンチだな」とからかわれた。

大海彩野は、去年の三月末に大学入学を機に引っ越してきた。

地元は栃木で、けっして裕福でもなんでもないのに京都の私大への進学に許可が下りたのは単純に、父親の母校だから。そんな理由で受験するのはファザコンみたいでダサいと思ったものの、それ以外の大学名をそれとなく出したらいやな顔をされたからおとなしく受けて、どうにか合格した。

母親はともかく、父親の喜びようはこっちの喜びが引いてしまうくらい、すさまじかった。親戚を集めてお祝いの席までもうけられて、「親子二代で同じ大学に行くんだわ」とくりかえし同じ話を酔った赤い顔で話し続けてうんざりした。とはいえ奨学金はしっかり申し込むことになった。

一人娘なのに、と思いはしたものの、申込書に世帯年収を書く欄があり、そこで初めて親の年収を知ることになって、友だちの通知表を間違って見てしまった時のような動揺が走って、なんともきまり悪いような申し訳ないような気持ちになった。

とにかく――晴れて京都で念願の一人暮らしが始まることになった。両親揃って入学式に出席されたのなんて小学生ぶりで気恥ずかしかったものの、やはり晴れがましい気持ちには変わらず、唇の端っこがむずむずした。

服を買い足すために電車で四条に行った時は、宇都宮なんかよりずっと人通りが多くてとにかくくたびれた。何より若い女の子が多く、しかもすれ違う子がみんな可愛い。明らかに彩野より歳下だろう子たちのグループがきゃらきゃらと笑い声をあげて通り過ぎるたびに、すっぴんで、しかも親連れの自分がすごく恥ずかしかった。母親は「こういうところで遊ぶようになるんかね、あんたも」とぽつっと呟いた。

 けれど、ふた月み月と過ごしていくうちにわかった。四条や京都駅に行った時は「都会だな」と圧倒されて、田舎から出てきたことが引け目に感じられたものの、彩野がアパートを借りた墨染という場所やそもそも大学がある付近は、住宅街のなかに畑や広い公園もあるような、ごくごく田舎の、地元でも見慣れた風景とさして変わらないのだった。変わるところがあるとすれば、京都はどの街を歩いていても、どこかで風景の中に川や水路があるということだろうか。

 京都が地元である花という女の子とサークルの新歓イベントで仲良くなった時に「なんで鴨川っていつも人いるの」と訊いたら「そんなんあたりまえすぎて考えたこともなかったわ」「カフェとかマックとか毎回入ってたらお金なくなるし混んでるやん? 飲み物だけ買って川でだべろ~ってなんのが普通やねん」と返ってきた。京都弁はちゃきちゃきっと威勢のいい大阪弁とも違って柔らかく、すぐに好きになった。新歓や学部の飲み会で京都弁で話す子がいると、彩野のように関西以外から来た地方進学組の男子からちやほやされるので(あーあ、武器があっていいな)と羨ましいような腹立たしいような気持ちでカシオレを啜った。カシオレが結局何の味なのか、お酒は入っているのかいないのかよくわからないまま。


 五限を終えて講義棟を出たら、空はてりてりとした桃色に暮れ始めていた。

ちょっとファンタジーっぽい色で可愛いな、と思ってスマホを出したものの、空の写真を撮っているところを知り合いに見られたらちょっと恥ずかしいからやっぱりやめておく。成人式の振袖は青系で考えていたものの、こういう色もいいな、と一瞬思った。「ぶりっこすぎる」「キャラじゃない」と思われそうだからどうせ選ばないけれど。

昼間に大学に来て二つだけ授業に出たらもう夜になるなんて、なんだかたちの悪い手品みたいだなあと思いながら、ぶらぶらとキャンパスの中を歩く。新歓時期はこの時間に歩いているとそれこそ手品をする人だの楽器演奏をする人だのだの怪獣の着ぐるみを着た人だの拡声器を持って怖そうな演説をする人だの、野良でサーカスでも開いているみたいにうるさいほどにぎやかだったけれど、いまはギターを演奏している男の子がベンチに一人いるぐらいだ。首から肩のラインが綺麗で一瞬見とれた。

三谷と会うまでまだ時間がある。ぴゅううと木がしなるほど強い風が吹きつけてきて、ワンピースの裾を慌てて抑えた。デートの前にバトミントン部の同期の花と下着を買いに行く約束をしている。「どうせなら新しいのがいいよ」と唆されたのだ。

自転車によく乗るので普段は大学にワンピースやミニスカートを身に着けて投稿することは少ない。お酒を飲むようになったのと運動不足で太くなってしまった脚を出すのが恥ずかしいし、いかにも女子大生みたいな格好でキャンパスをうろつくのも、気を張っている大学一年生みたいで抵抗があるからだ。それでも、三谷はデートのたびに「脚出したかっこしてる女の子が好き」「ジーンズばっかじゃ飽きた」と文句を言うので、誕生日デートだしな、と思ってたまにしか着ない短めの丈のワンピースで来た。

三谷は花と同じくバトミントン部の同期で、一年生の秋から付き合い始めた。大阪が地元なので実家から大学に通っている。正直に言えば、新歓でやさしくしてくれた三年生のほかの男子の先輩に憧れて入部したのだけれど、入ってすぐ先輩に彼女がいることを知ってうっすらと失恋した。三谷とはそのあと仲良くなって、誘われるがまま二人で遊ぶようになった。ある日「家に行きたい」と言われたので「なんで?」と返したら、「付き合おう」と言われた。

今にして思えば会話が成り立っていないし、いろいろ突っ込みどころはあるのだけれど、初めて男子に告白された、そして彼氏ができた、という昂揚感でその時は胸が一杯だった。恥ずかしくて誰にも、三谷にすら言っていないけれど、初めて手をつないで街を歩いた日、落ちている葉っぱや小石、空き缶すらきらきらして見えた。つないだ手と手の間に、使い古した石鹸くらいの小さな隙間があって、時々風が通り抜けて、熱を逃がしてくれた。鴨川に立ち寄ったら、夕陽が川面に反射して祝福するかのように金色に瞬いていた。

顔がかっこいいわけでも、特別タイプと言うわけでもない。女の子慣れしていないからがさつだし、時々無神経な発言をされて言い合いになることもある。でも、今日は付き合って初めて迎える、彩野の誕生日。そして、彼氏が初めて家に来て泊まっていく日。

「彩野ちゃん?」

ぼうっと歩いていたら前から来た子に話しかけられた。

白い瓜実顔に眼鏡をかけた、いかにも賢そうな顔。同じ学生アパートに住む清水万璃子だった。部屋が隣だから、時々行き来する。

「あ、万璃子……お疲れ。なんか大学で会うのめずらしいね」

「図書館行こうとしたら、今日パソコン点検日らしくて。もう帰るところ。彩野ちゃんは? サークルとか?」

 万璃子は見た目通りまじめで、文系で一番偏差値の高い国際教養学部にいる。ぱりっとした白いシャツを見て、ちゃんとアイロンかけてるんだろうなと思った。彩野はいちどもアイロンなど使っていないし、クローゼットのどこにしまったかすらあいまいだ。

「んー、このあとはサークルの同期と買い物行って……そのあと夜は彼氏とごはん食べに行くんだ。今日誕生日だから」

「へー、おめでとう。っていうか、めずらしいね。そういう格好してるの」

「彼氏がこういうの好きだから」

「今日は彩野ちゃんの誕生日なんでしょ? なんで自分じゃなくて彼氏の好きな格好なの」

へ、と声を発したきり二の句を告げずにいると、「あ、ごめん。バス来るから急ぐね」と万璃子はくるりと踵を返して去っていった。やけに背すじが伸びた、よく研いだ日本刀みたいな後ろ姿を見送る。


初めて入った下着店は、ふわっとした柔らかな匂いと白いひかりに満ちていた。アロマを焚いているんだろうか。

 授業が終わった花と河原町へ向かい、花が行きつけているらしい店に連れていってもらった。客層が、普段利用しているところより大人っぽい。

「ここはだいたい上下でだいたい五千円くらいかなあ。ちょっと高いけど可愛いの多いよ」

「確かに、なんかデザインも素材も大人っぽい感じ」

淡い水色に、白い花をかたどった繊細なレースがふちどられたものに目が行って手に取った。税抜きで四千三百円。いつも買う価格より千円ほど上乗せされてはいるけれど、デザイン自体はすごく好みだった。自分のサイズのものを探す。手に取ったものの下の段にあった。手に取ろうとして、引っ込める。

何も、花の目が気になったわけじゃない。それもないでもないのだけれど、デザインは同じはずなのになぜか魅力が半減しているように思えた。カップが大きいだけでなぜか間延びして見えるというか、可愛くない。

気を取り直してほかの商品もじっくり眺めた。サテン生地のもの、色とりどりの小花の刺繍が入ったもの、ハート柄が散る遊び心があるもの……どれも可愛いのに、いざ下の段に目を落とすと、なぜだかテンションが下がる、その繰り返しだった。可愛いと思えるサイズはせいぜいDカップまでで、それ以上、つまり下の段にあるEカップ以上の下着はどうも、立体的すぎるせいなのか布面積の大きさの問題なのか、なんだか別物みたいに思えた。普段の店でも思わないでもないのだけれど、このお店ほどデザインが凝ったものを置いているわけではないせいか今まではあまり感じたことがなかった。花がちらっとこちらを見て、含み笑いで耳打ちしてきた。

「ごめん。四千円くらいって言うたけどあやのんは胸おっきいからもうちょい高いかも」

「えっ、値段違うの⁉」

「うん。うちのお姉ちゃんEカップあんねんけど、ちょうど高くなるボーダーがそのサイズだからいつも文句言うてる。だって使ってる面積がちゃうやん」

 っていうかうちも買おうかな、と呟いて花が目星をつけていたらしい下着をいくつか取り、「試着室行ってくるな」と店員さんのもとへ行ってしまう。花が持って行ったのは彩野が可愛いと思った下着が並ぶ上段のものだった。はあと目立たない程度にため息を吐く。

どうにか、自分のサイズのものでも可愛いと思えるものを探し出し、試着させてもらった。店員さんのフィッティングもあって、より一層ばんと胸が連峰のごとく立体的になって前へ張り出している。色が白くていらっしゃるので映えますね、と言われたものの、鏡を映る自分を見ても、グラビアみたいだなあ、としか思えなかった。とりあえず試着したネイビーと、花に勧められた白を色違いで買うことにした。すでに会計を済ませていた花と店を出る。花がちらっとこちらに目をやった。

「あやのんはいいなあ、巨乳で」

「いやいや……」

「うちな、高校生の時から豆乳飲んでんねんけど全然大きくならんかってん。あとツーサイズくらい大きくなったらええのに」

 まあ彼氏は貧乳派らしいからええんやけど、とひな鳥のように唇を尖らせている。すらりとしたスタイルの花は、いつもぴたりと身体に沿うようなトップスにミニスカートかショートパンツを合わせている。自分なら絶対に選べないファッションだ。貧乳つらい、おっぱいほしい、と花がわめいているけれど、それなりに自信がないとこういう服って着ないよなあ、とひそかに思う。そして実際に似合っているのが、羨ましくも半分腹立たしい。

「でもちゃんと気に入ったの見つかってよかったわ。三谷も喜ぶやん、絶対」

「ん、そうだね」

「鼻血出したりしてな」

「マンガじゃあるまいし」

 軽く流しつつも、胸フェチらしい三谷は相当喜ぶだろうなと試着室で鏡の中の自分を見た時に思った。また今度誕生日祝わせてなあ、と花に見送られながら三谷との待ち合わせ場所へと急いだ。


三谷がくれた誕生日プレゼントは、ガラスの飾りがついたブレスレットだった。わあと歓声をあげて喜ぶと、「今日の格好にも合うじゃん。っていうか、今日の彩野超いい、めっちゃ俺の好み」と上機嫌だった。三谷はいかにも染めたばかりといった感じの赤っぽい茶髪をワックスでつんつんに立てている。

お腹いっぱいになるまでピザとパスタを食べて、ワインも飲んだ。ただ苦いだけで薬みたいな味がする、と思ったけれど三谷は飲みなれているのかすいすいとジュースみたいに飲んでいて、ちょっとかっこいいな、と酔ってふやけた頭で思った。

いつもは学食だったり定食屋だったり、あるいは安いチェーンの居酒屋でデートすることがほとんどだ。内装がお洒落なお店にいるだけでテンションが上がった。いつもより三谷がかっこよく見える。可愛い格好をしてきてよかった、と思った。

「こういうのほしかったからうれしー……ねえ、高かったんじゃないの?」

「いいんですーそのためにバイトしてんだから」

 ごめんね、と言うと「いいって。誕生日おめでとうな」と三谷がニッと笑った。

 いつもは割り勘だけど、今日は三谷が全部出してくれた。帰り道、彩野の自転車を右手で押して、左手で手をつないで、時々ふらつきつつもゆっくりと歩く。遠くにぽかりと浮かんだ丸い月は、いびつな真珠玉みたいな色でつやめいている。

「っていうか三谷、今日泊まるんだよね? 荷物少なくない?」

「歯ブラシと替えのパンツしか持ってきてない。あ、コンタクトレンズの洗浄液忘れたわ、やべえ、貸してな」

「いいよ」

三谷は実家暮らしだ。だから今後彩野が三谷の家に泊まることはしばらくのうちはないのだけれど、もし逆の立場だったら荷物がぱんぱんになってしまっていたはずだ。男子って身軽でうらやましいな、と思う。

「あ、安心してな。ゴムは持ってきてるから」

さして直接的な単語でもないのに、いきなり人前でスカート捲りでもされたみたいに耳がばっと熱くなるのを感じた。そういうこと道で言わなくていいから、と声のトーンを落として怒っても、三谷はけたけたと子供のように笑うだけだった。

 

 ぐりぐりと棍棒で内臓を押しつぶされているかのような激痛に「痛い!」と思わず呻く。

「あ、ごめん」でもまだほとんど入ってないよ? と三谷が不満げな顔をしているのが暗闇の中でも口調でわかる。

 家に帰ってきて、ベッドにもぐりこんで何時間が経っただろう。

 念入りに準備しないとね、と三谷が彩野の身体をあちこちさわったりなめたりして、十分体制は整っていたはずだった。それなのにいざ挿入となるとあまりの激痛のために中断して、また挑戦する、その繰り返しを初めて数十分経っていた。

長いこと押し問答をしていたせいで脚の間がひりひりと痛い。性器の入り口のあたりが、ぼんやりと腫れぼったく熱を持っている感覚がある。

 三谷と付き合い始めて、一カ月経たないうちに「したい」「やらせて」と懇願されるようになった。キスやハグだけでも充分満たされたけれど、その先への好奇心は彩野にも、三谷の十分の一くらいではあるにしてもあるにはあったし、ぱんぱんにふくらんだ三谷の股間は、そのままにしておくのはなんだかかわいそうなくらい窮屈そうに見えた。

脱がしてみて、と言われて下着をおそるおそる下ろしたら、思っていたよりも皮膚より明らかに強い赤い色をした性器が威嚇するようにあらわれて思わず目をそらしてしまった。画像くらいならインターネットで見たことがあったものの、生身を前にするとなんだか臓器が外についているみたいな見た目をしていて怖かった。三谷はどこか誇らしそうな顔をして(どう?)とでも言いたげな顔をしてさらしていた。

 それ以来半年間、地図をつくる探検家のようにお互いの身体をさわりあい、どうしたらより深く気持ちよくなれるか、エッチな気分を昂らせられるか、研究してきた。けれど挿入だけは断ってきた。

 いちど試したら、あまりの痛みで彩野が泣いてしまい、中断したことがあったからだ。めりめりと身体が裂けてしまうのかと思った。三谷が「そんなに痛いならやめておこうか」と言い、それでも表情には惜しそうなくやしさがにじみでていたので、つい「二十歳になったら最後までしてもいいよ」と言ってしまったのだった。

以来、「早く最後までしたいなー」「誕生日まで我慢ね」というのが二人のお決まりのやりとりになった。自分が主導権を握って相手をあやしているような感覚があって、それ自体はどこか楽しかった。

それでも、二十歳になったからと言っていきなり異物を身体がやすやすと受け入れられるわけではない。入れるというよりもめり込んでいる感じがする。本当に自分の身体に入口なんてあるんだろうかと疑ってしまうほどの痛みだ。あまりにさわぐと隣室に聞こえてしまうかもしれない、と考えて我慢しようとしても、喉の奥をこじ開けて悲鳴が飛び出す。

こんなに痛がっている相手を前にしても、三谷の性器は相変わらず硬く、ぐいと天を向いたままだ。もう疲れたから寝たい、と枯れた声で申告すると、三谷は「えー……」とクリスマスプレゼントをもらいそこねた子どものような顔で不満を漏らした。

「今日、俺、彩野と最後までエッチできると思って三日我慢してきたのに……」

「それはごめんって。でも、痛いんだもん、無理だよ無理。また試そう?」

本当はもう一生処女でもしょうがないのではと諦めてしまいたいくらいだったけれど、あまりにも眉をハの字に下げているのが憐れでそう言ったみた。けれど、三谷は首を振って、どこか媚びるような笑みを浮かべた。

「あのさ……いれんのは今日諦めるとして、これ、どうにかしてほしいなあ」そう言って、右手で掴んだ性器をパペットみたいに左右に振ってみせる。

「ええ……まあ、いいけど」

さわられると入れたくなっちゃうから、という理由で、これまでの「エッチ」は主に三谷が彩野の身体のあちこちをさわることがメインで、あまり三谷の身体に彩野が積極的に何かする、ということは避けていた。おそるおそる、右手を伸ばして性器を掴む。湿っているかと思ったけれど、案外さらっとした感触だったので少しほっとした。見よう見まねに上下に動かす。「違う、こんな感じ」と三谷が補助する。

「こう?」

「角度がちょっと……もうちょっと強く握っていいよ。じゃないと俺、感じないから」

 言われるがままあれこれ試したものの、すでにくたくたに疲れていたし、ワインを飲んだせいで眠たかった。けれど、彩野がそろそろと力を抜いて休もうとしたら上から三谷が手のひらをかぶせてきて一緒にしごき始めたのでやめられなかった。どうやら最後までこの作業は続くらしい。初めてだし、眠いし、少しさわって(あ、こんな感じなんだねー)と適当に濁して寝入ってしまおうと思っていたのに、三谷は数学の難問に挑む中学生みたいに真剣な顔つきをしている。

「三谷ぃ、眠いよ」

「もうちょっとだから……休まないで」

「ええ……」

 誕生日なのはこっちなのに、と思ったものの、きらきら光る可愛いブレスレットをもらったことや高級そうなイタリアンで全部払ってもらったことを思いだすと強くは言えなかった。あ、そうだ、と三谷がひらめいたみたいに言う。

「ちょっとなめてみてほしいんだけど」

今日の三谷はいつになく強引だ。半年間溜まりに溜まったものを今日こそは放出してやる、という石のような執念を感じる。

「え……」

「お願い。したらもう、そっこーいっちゃうと思うんだよね」

 初めてだからさすがに抵抗はあったものの、あまりにまごついていると三谷の身体を汚いと思っていると思われてしまいかねないな、と思いあまり何も考えないようにして大きく口を開けて性器を包み込んだ。ああ、と温泉に入ったおじいさんみたいに三谷が上で熱いため息を吐いたのがわかった。それはそれで可愛い。可愛い、と思えた一瞬の感情を道しるべにして、どうにか無心で口を動かす。

「口を上下に動かして。で、そのまま舌でなめて」

 話せないので言われた通りの動きをして、性器をなめてみる。先端にふれると、しょっぱい味がした。間違って海水を飲んでしまった時のような、少しほろ苦さが混じっている。

 言われるがまま口を上下に動かしていたら、いきなりどっと生温かい液体が舌の上に広がった。一瞬何が起こったのかわからなかった。味をあまり感じたくなくて、なるべく動かずにいた。

「ごめん、いっちゃった、よすぎて」と三谷がうわずった声で言う。断りもなしにいきなり口に射精されたことへの戸惑いや怒りよりも、ああこれで終わったんだ、という安堵で身体から力が抜けた。

渡されたティッシュペーパーに吐き出しながら、このまま口をゆすがずに寝たら虫歯になるのかな、と思った。結局そのまま眠気が強盗のように襲ってきて寝入ってしまった。


もぞもぞとした違和感を胸に感じて目が覚めた。ふと目を開けたら、三谷が彩野のはだけた胸の先を赤んぼうみたいにちゅうちゅう吸っていた。ぎょっとして頭をはたく。

「ちょっと、朝からやめてよ」

「ごめんごめん。でも朝っぱらから彼女が横ですんごいエロい格好で寝てんだよ? そりゃこうもなっちゃうって」

 手を掴まれて下着越しに性器をにぎらされる。車のハンドルみたいにしっかりと硬くなっていたものの、だからといってどうも思えなくて「それは生理現象じゃん?」と言ってトイレに行くふりをして立ち上がった。あ、ちょっと、と三谷の声が追いかけてくる。

あーんとかいやーん、みたいな反応でもするのが彼女としての正解だったんだろうか。単に、彼氏の性器が硬くなっているというだけで? 

 昨日、精液を口に出されたせいかいつもより口の中がねばついている感じがする。いつもより多めに歯磨き粉を載せて歯磨きをした。「ちょっと彩野、何歯ぁ磨いてるの」「こっち来てよ、ぎゅってしたいから」などとベッドから三谷が甘えた声をかけてきたけれど、放っておいたら諦めて寝入ったのか、低音のいびきに切り替わった。

抱きしめ合ったり、裸になって肌と肌を合わせる感覚自体は気持ちがいいし、三谷のことをいっそういとしいとも思う。やさしい気持ちになれる。でも、そこから乗り越えなければいけない課題のような感じがするというか、考えるだけで少し滅入ってくる。

口をゆすいだら、強く磨きすぎたせいか歯茎から出血したようで泡に血が混ざっていた。


相談があるから、花にLINEをしたら夜家に来てくれることになった。

花は大学を挟んで少し遠くの街の実家から通っている。呼び出すにはちょっと申し訳ないなと思ったけれど「行く行く」とこころよく承諾してくれた。

万璃子なら部屋が隣だからチャイムさえ押せばすぐ話せる。けど、好きな人だとか恋愛の話を振っても「そういうの興味ない」「女子高だったし、わたし、あんまりわからないから」とそっけなく言うだけで、のろけだとか三谷の愚痴を話しても反応は薄い。その点、花は高校生の時から彼氏が途切れたことがないらしく恋愛経験が多いから、三谷に関することはだいたい花に話すことが多い。

二十時にチャイムが鳴った。玄関で軽くハグをされる。

「あらためてだけど誕生日おめでとー。カルディでお菓子とお酒買ってきたから食べよ」

 限があったから遅くなったらしい。大学生だと、こんな遅い時間からでも友だちと遊べるから、一日がびよんと三十時間くらいに伸びているような錯覚になる。

「ありがとー。お先に大人になったよん」

「いろんな意味で、ね」

 さっそく意味ありげな含み笑いで混ぜっ返される。花には、三谷との「約束」についても打ち明けていたから、昨日初めて三谷が泊まっていったことも知っている。

「どうやった? 痛かった?」

 テーブルに買ってきたお菓子を広げながら花が言う。「痛くて結局断念した」と言うと、「うそー」とぎょっとした顔をされた。目を見開くと、アイプチで作った二重であることがわかる。

「え、じゃあ最後までせえへんかったん?」

「んー……できなかったね」

「えー、まじかあ。三谷、かわいそー。半年も待ったんに」

 花が悲鳴混じりに身を捩らせる。いきなり三谷の肩を持つようなことを言われて、慌てて言い募った。

「だってさ、もう、すさまじく痛かったんだもん。めりめりめりって身体が引き裂かれるのかと思った」

「何なそれ、地獄の鬼の刑みたいな? そんなに三谷のがでかいってこと?」

「それはわかんないけど」冗談やんかー、と花がけらけらと笑った。

「まあ、痛いのは最初だけやからさー。我慢するしかないで」

「花も最初痛かった? 血、出たりした?」

「超出た。ってか確か泣いたと思うな。でも相手が、泣き顔興奮するーとか言って、ガンガン続けて大変やったわあ」

 昨日の痛みをリアルに思いだして、妙にこまかいディティールを聞いて思わず悲鳴を上げてしまう。それなのに花本人はどこか誇らしげな顔すら浮かべてチョコレート菓子の包装を空けている。

「花含めて、処女捨てられた女の子みんなすごい。尊敬する……っていうか、あんなの入れて、気持ちいいとか信じられないし」

 はっきり言うのもはばかられてもごもご言うと、花はあっさりと言い放った。

「そんなん、基本的には男しか気持ちようなんてないよ。最初のうちは特に」

「ええっ?」思わず声がひっくり返った。「そうなの?」

「経験ある子とかだと感じる人もおるらしいけど……うちはそうでもないなー。前戯はそれなりに楽しいし気持ちいいとも思うけど、そのあとはもう、男の自己満タイムって感じ。めっちゃうまい人とやったら違うかもしれんけど、大学生なんてみんな下手やしな」

「……そうなの? だとしたら、セックスなんてしない方が女の子は得なんじゃないの?」

 花は肩をすくめた。

「それは極端すぎ。っていうか、付き合ってるのにやらせてあげへんのは可哀そうやん。半年も待ってくれてたんのは、結構三谷のことえらいと思うで」

 花が、女の子側として意見を述べていたと思ったら男の子側の肩を持つようなことを言うので頭が混乱してきた。自分の味方なのかそうでもないのかもよくわからなくなる。

「ごめん、彼氏がバイト早く終わったらしいから家行ってくるな」と一時間ほど滞在しただけで花が帰り支度を始めてしまった。肩がしっかり出たオフショルの白い半袖ニットとデニムのショートパンツ。やけに肌の露出面積多いな、とちらっと思っていたけれど、最初から彼氏の家に泊まる予定だったのかな、と思えば納得する。

玄関まで見送り、ふと戻るとテーブルの上に散らかったお菓子やお酒はまだたくさんあった。少し考えて【家来ない? お菓子あるからお茶しよう】と万璃子にLINEした。十分ぐらいしてから【五分後に行きます】と返信が来て、きっかりその五分後に家のチャイムが鳴った。ドアを開けると万璃子が立っていた。

「おじゃまします」

一応茶葉とか持ってきたよ、と律儀にも小さな紙袋を胸のあたりに提げてみせる。けれど部屋にあがった途端「え、お酒飲んでたの?」と空き缶を見咎めて声を尖らせた。

「あー……まあ、そうね。もう未成年じゃなくなったからさ」

 慌てて言い募ると、「あ、そうだったね。ならいいか」と万璃子が表情をやわらげた。

ルールを破ることが大嫌いな万璃子は、当然未成年飲酒にも厳しい。新歓の時期のクラスの飲み会でアルコールを勧められて「教務課に訴えますから」とさけんで居酒屋を飛び出したことがある、というエピソードを、万璃子と同じ学部の友人伝えで知った。万璃子本人には確認していない。そのせいで、学部の飲み会に万璃子を誘わない、と言うのが暗黙のルールになった、という後日譚つきだから。

 大学全体に漂う、なあなあにしようという生暖かい共犯めいた空気感や、正義や倫理や主義よりも効率やコスパや刺激や楽しさを優先する価値観。入学してしばらくしたら、大概の大学生が誰に言われなくともなんとなく身につけていくのに、万璃子だけは頑なにそれらを跳ねのけ、自分の中の一等星を大切に守っている。見た目通り勉強家で、いちど成績表を見せてもらったら当然のようにオール優だった。すごいな、と素直に思うのと同時に、この子は大学生として生きづらさを感じないのだろうか、と憐みを感じてしまった。

 真面目なことも真っ当な努力家であることも大切で正しいことのはずなのに、大学という場所では、どうしてか、ダサくて痛いことにすり替わってしまう。丹念に磨き抜いた日本刀のようにまっすぐで美しい万璃子の清さを知れば知るほど、「えらいな」もしくは「かっこいい」などではなく、どうしてか、いたたまれない気持ちが湧いてくる。

お湯を沸かしてほうじ茶を淹れて、綺麗な方のマグカップを万璃子に渡した。

「ありがとう。チョコレートもらうね」

「いいよ、なんでも。一人じゃ食べきれないから」

「ふうん」隣室なのだからさっき人がいたことなんてもしかしたら筒抜けなのかもしれないけれど、万璃子は何も詮索してくることもなく、さっそくナッツ入りのチョコを頬張っている。顎が小さいぶん口元がふくらむと少し不格好で、それがりすみたいで可愛い。

いつも度の強い眼鏡をかけているから目立たないけれど、万璃子ははっきりと美形で、お人形みたいな顔をしている。コンタクトレンズにして少し髪と眉をいじるだけでも別人になるはずだ。メイクとかコンタクトとかしないの? と去年何気なく訊いたら何も返事はなくただ嫌な顔をされた。たぶんいろんな人に言われてうんざりしているんだろう。女子高時代に美容に興味がなかったのはわかるとしても、せっかく大学生になって共学になったのに「可愛くなりたい」「お洒落したい」と思わないなんて、たまに万璃子が宇宙人みたいに思えることがある。

「誕生日どうだった?」

訊かれて初めて、誕生日当日に大学で万璃子と偶然会ったことを思いだす。まっすぐな目で「どうして彩野ちゃんじゃなくて彼氏が好きそうな服なの」と問われたことも。

「ん……楽しかったよ」

処女卒業云々を明かすわけにもいかず、曖昧に濁す。そういえばあの最中も隣の部屋に万璃子がいたんだろうなあ、と思うと、いまさらながら気恥ずかしさで顔が火照った。ねこのようにあまったれた、粘つくような嬌声、もしくは痛みのための悲鳴をあげつづけていたけれど、本当に全く聞こえていなかっただろうか。

「二十歳だもんね。特別だよね」

 万璃子が呟く。そう、特別になるはずだった。大好きな彼氏に、最後までセックスさせてあげる。させてあげる、ってなんなんだろう。やらせてよ、と懇願されては「二十歳まで我慢ね」と返して、でも、いざ最後までするとなった時に激痛で耐えられなかったら、三谷は不満そうな顔を隠そうともしなかった。せっかく誕生日なのに、と呟いたのが聞こえたけれど、本当は「せっかく誕生日まで待ってやってたのに」もしくは「せっかく誕生日を祝ってやったのに」という意味がこもっていそうなことにも、ちゃんと気づいていて、でも気づかないふりをした。

 だって、せっかくの、いちどきりの二十歳の誕生日だったから。

「あ、そうだ。ちょっと待ってて」

 そう言って、いちど万璃子が自分の部屋に戻った。誕生日プレゼントでも持ってきてくれるのかな、と内心期待して待っていたら、持ってきたのは大きな一眼レフのカメラで、正直落胆してしまった。

「これ、上京する時にお父さんから譲ってもらったんだ」

「へえ……」

「まあ、たまに風景とか撮るくらいにしか使ってないんだけどね。だから、二十歳になった彩野ちゃんを撮ってもいい?」

「え」家の中で? と思ったけれど、万璃子はいそいそとカーディガンを羽織り始めたので、わざわざ外で撮る気らしい。面倒だな、とは思いはしたものの、さっと化粧を直して一応リップをポケットに放り込み、たん、たん、と階段を降りた。外はすっかり夜だ。

「こんな暗くても映るの?」

「大丈夫だよ」

 どちらともなく、なんとなく、川辺まで歩いて、欄干のあたりで写真を撮ってもらった。二、三枚かと思ったけれど「あ、目つむっちゃってるからもう一枚」「縦でも撮るね。あ、このアングルいいかも」と意外と長いこと万璃子がファインダーから顔を離さなかった。誰かにこんなに真正面から写真を撮られたことがないから、少し照れくさく、視線を万璃子の向こうに広がる川面に逃がした。川から運ばれてくる風の匂いに、日で温まった草の匂いが混じっている。

「もうすぐ夏だね」

「ん?」撮りながら首を傾げている。

「風が夏の匂い」

 万璃子がカメラを下ろして、小さく深呼吸した。そして「ほんとだ」と小さく微笑んだ。

 それぞれの部屋に戻って、撮ってもらった写真のデータをもらった。ぎこちなさが少し透けて見える硬い笑みだったけれど、いい写真だと思った。【二十歳になって初めての写真だよ】と送ったら、【彼氏にもたくさん撮ってもらえるといいね】と返ってきて、ぎゅっと胸が苦しくなった。

 

 三谷と付き合い始めてすぐの頃、「なんでわたしだったの」と訊いたことがある。

 バトミントン部はインカレサークルだから、同期にも先輩にも、女子部員はたくさんいる。かわいい子も、綺麗な子も、男の子に物怖じしない子もたくさんいるなかで、彩野は全然、目立つ方なんかではなかった。メイクの仕方もいまいちよくわかっていなかったし、初めて染めた茶色の髪は本来肌に馴染むであろう色より数トーン明るすぎたし、彼氏がいた経験もない。それなのに、なんで三谷は彩野を選んでくれたんだろう、と思って、どきどきしながら訊いた。なんてことない、という顔をつくって。

 三谷は照れるでもなく、「えー……」と気だるく語尾を伸ばしたのち、こう答えた。

「なんとなく? 直感だよ、直感。そう、フィーリングってやつ」

 がっかりして、「それだけ?」と返すと、こちらの落胆が伝わったのか、慌てたように「話してて一番楽しいし、一緒にいて楽だし、趣味も合うし、彩野が彼女だったらいいなーって、結構前から思ってた」と今度は長くこたえて、もういい? と言いたげな顔をしていた。具体的には? 好きになった時の具体的なエピソードとかは? ――本当はもっと根掘り葉掘り聞きたかったけれど、あまりしつこく訊くと嫌われるかもしれない、と思って我慢した。まだ、付き合って三日やそこらだったのだ。

 顔の系統がタイプだった、とか、一緒にいるとなごむ、とか、趣味のマンガの話をずっとしてても怒らない、とか、一カ月記念日や半年記念日なんかのここぞという時、「なんでわたしだったの」を繰り出すとその時々で三谷の回答はまちまちだった。何度訊いても、ほんのちょっと彩野が落胆して、落胆している彩野を見て三谷が少し不機嫌になる、という負のループに入ってしまうことに気づいてからは、訊くこと自体をやめた。

 可愛かったから――要するに、そう言ってほしかっただけなのに。

【今日家行っていい?】

 誕生日以降、平日だろうが土日だろうが、三谷がやたら家に直接来たがるようになった。いつもならどこかで待ち合わせて散歩やごはんに行ってから、解散もしくは家に来る、という流れだったのに。

【今日バイトだから21時まで帰れないよー】

【一回家帰ってからその時間に合わせていくよ 21時半には確実に家着いてるよね?】

 なんと返信すればいいかわからなくなって、ぼんやりと眺めた。画面が暗くなりかけたので、OKとスタンプを押した。

 三谷と会えるのは、うれしい。家に来てくれるのも。でも、しなければいけないことを考えると、マラソン大会を控えている小学生みたいな気持ちになる。生理になった、とでも言おうかと思ったけれど、あからさまにがっかりされたらものすごくみじめな気持ちになるだろう。

 痛いのは最初だけ、と花が言っていたことを信じるしかなかった。バイト先である河原町の古着店を出る。

空はすでにブラックコーヒーで染め上げたような、隙のない黒一色だ。ここでバイトしたての頃、三谷が彩野の終業後に合わせてマックでハンバーガーセットを買っておいてくれて、一緒に鴨川沿いで食べたことがあったのを思いだしながら三条大橋を渡る。鴨川には、たくさんのカップルたちが等間隔で膝を抱えて並んでいた。

 アパート前には先に着いたらしい三谷が待っていた。

「お疲れえ」

 鞄から鍵を出す間もなく抱きつかれた。

「なーにー」

「家入れて。早くくっつきたい」

 鍵を開けると、三谷が自分の家でそうするみたいに、彩野の手を引いてベッドに直行しようとする。「手洗ってないから」とやんわり引きはがして洗面所に入る。

「おいで」

 部屋に行くとすでに三谷がベッドで寝転がっていた。そんなにすぐしたいのか、と思うと、可愛いなあといういとしさよりも、性急さへの面倒くささや痛みへの嫌悪がじゅくじゅくと苦く湧いた。

 ベッドに腰を下ろす。ねえ三谷ー、と言うと、うん? と子供みたいな顔をして彩野を見上げる。乳をねだる赤んぼうみたいにとろけきった顔で腰を抱き寄せられる。

「まだお風呂に入ってないよー」

「いいじゃん」

 電気をつけたままするのも気が引けたものの、布団の中でしぶしぶ服を脱いだ。三谷と裸同士の身体をくっつけると、びち、と音を立てた。三谷の身体は熱く、ふれているだけでエネルギーを吸い取られそうだった。

 キスをして、胸をなめ回されて、身体のあちこちを触られた。耳をすっぽりと口に含まれて熱い舌で搔きまわされると、春先のねこみたいな声が出た。喘ぎ声、というものが結局どう出すのが正解なのか、よくわからない。けれど、ぶりっこくさい、高くてほそい声を出すと三谷はやたら嬉しそうな顔をする。そういうのに男子は興奮するらしい。ゆっくりと彩野の入り口を指でなぞりながら、三谷が言う。

「結構濡れてるし、一回入れてみていい?」

 予想通りの流れだった。しぶしぶうなずいて、以前三谷が置いていった避妊具を渡す。薄青いゴムに包まれた男性器は、痣に覆われた怪物めいた色になって、目をそらす。

 こんなのを身体に入れて、いろんな体勢になって内側を擦られる。それがセックスの、メイン部分。知識では知っていたけれど、それでも、実際に相手ができると改めて、そんなの頭がおかしいんじゃないかと思ってしまう。大学生になって、周りは酒がある場ではやたらと楽しそうに大きな声でセックスの話をしているけれど、そんなの本当に、こんなことをみんながみんな、しているんだろうか?

「……痛い」

「我慢して」

「でも、痛いんだもん」

「まだ全然入ってないよ?」

 ぐいぐいと力任せに押し込まれる。低くうめいていると、「さっきみたいな可愛い声出してよ」と言われた。は、と思わず声が出そうになった。一瞬力が抜けたその隙を突いて、ぐっと三谷が腰の角度をかがめた。思わずさけぶ。

「痛い!」

「やっと先っぽだけ入った。あー、やっぱきついな」

「痛いからもうやめて、ねえ早く抜いて」

「ちょっと待ってって、な?」

 三谷がさらに彩野の奥部に入り込もうと、乱暴に突いてくる。痛みのあまり、わっと泣きだしてしまった。驚いた三谷がようやく身体を彩野から離した。

「ちょっ、彩野? 大丈夫?」

「やめてって言ってるじゃん。痛いって言ってるのに、なんで、なんでこんなことするの。もうしたくない!」

 わあわあ泣きじゃくりながらわめく。痛みと怒り、そして悲しみが一緒くたになって、いろんなアクリル絵の具が入り混じって胸を塗り潰していくようだった。三谷はしおれた表情をしていたものの、申し訳なさよりも快楽を中断された不服の方がまさっているのが透けて見えた。はずみがついたせいでいっそう激しく泣いていると、甲高いチャイムの音が響き渡った。

「……こんな時間にピンポン鳴ってんじゃん。何?」

 三谷が呟き、これ幸いとばかりに服を着て玄関へ逃げていく。そしてしばらくして、「なんか、友だちっぽいけど」と気まずそうな顔をして戻ってくる。

「……女の子?」

「隣の子だって」

 万璃子がドアの前にいると知り、慌てて裸の上からパーカーを引っかぶった。ショーツとズボンも急いで履く。

 おそるおそる玄関に行くと、万璃子が白い顔をして立っていた。聞こえたのか、と思うと顔が燃え落ちそうなくらい熱くなるのを感じた。しかも、たった今は泣き顔のままだ。

「網戸、たぶん空きっぱなしだよ」

 青く澄んだ声で言われ、風に煽られるすすきのようにうなだれるほかなかった。

「……ごめん、閉めます」

「それはもう、いい。彩野ちゃん、泣いてるから」

 はい、とハンカチを渡された。ぼとぼとっと涙をこぼしたら、万璃子が「今日はうちに来たら」と小さな声で囁いた。うなずいて、そのまま部屋を出た。

「ちょっと、彩野?」

 背中で三谷が喚いていたけれど、万璃子がすばやくドアを閉めて、彩野を押し込むようにして自分の部屋へ戻った。何度かチャイムが鳴ったものの、三谷はあきらめたのか、鍵を万璃子の家のポストに入れて帰っていった。

 万璃子の家は相変わらず、同じ間取りの同じ部屋だと思えないぐらい片付いていて、うっすら石鹸のいい匂いがした。ぐずぐずと泣いていると、万璃子が自分のベッドに戻りながら、「大丈夫?」と呟いた。

「うん……っていうか、いろいろほんとごめん。声とか……」

 自分で言って自分で真っ赤になった。最中のあれやこれやを、断片だけだと信じたいけれど、聞かれて、相手も見られたのだ。「それはいいよもう」と万璃子があきれたように息を吐く。

「……半分ぐらいはわたしも悪いし」

「どういう意味?」

「こっちの窓を閉めたら聞こえなくなった。でも、この暑さで窓閉めるの、無理だなと思って開けっ放しにしてたの。わたし、エアコンは七月一日から解禁って、決めてるから」

 強硬なほど禁欲的な生活をしている万璃子らしい理由に、立場も忘れて笑ってしまった。

「とりあえず、今度から彼氏来たら、絶対窓閉めて、エアコンつける」

「そうしてくれると助かるかな。もう、今日は寝た方がいいよ」

「……ここで寝てもいい?」

 断られるかと思ったけれど、いいよ、と万璃子が呟いて目を閉じる。照明を消して、その隣にすべりこむ。

「おやすみ」

「うん」

 雑談をするでもなく、すっと万璃子が隣で寝入っていくのが気配でわかった。


 最後はあっけなかった。

 三谷とは結局LINEのやりとりで別れることになった。【結局ほぼ処女と童貞のまま別れるんだなって思った笑】というメッセージを見て、全然自分は愛されていなかったんだなと悲しく悟った。好きだったのは本当かもしれないけれど、そのほとんどは男子特有の、暴走機関車みたいな勢いの性欲と恋愛感情がごっちゃになったものだったかもしれないし、彩野は彩野で、「女子大生になったんだから恋愛っぽいことがしてみたい」という好奇心がほとんどだったのかもしれない。

 吐くほど泣いた。ごっそりと臓器がなくなってしまったような、今までに味わったことのない深さの悲しみと絶望が、昼も夜も関係なく津波のように胸を襲った。授業は出席するためだけに出て、サークルの部室にはほとんど行かなくなった。

 食欲がようやく戻ってくる頃には、京都に来て二度目の夏が目の前だった。実家からどっさりと夏野菜が届いた。母親に【早めに帰省するね】とメールしたら、びっくりするくらい喜んでいた。可がほとんどではあったものの、単位は二つ落とした以外は取り切ることができて、それはそれで大した失恋ではなかったような気がして、少し落ち込んだ。

 目に映る何もかもが、意味をなさない平面図形みたいにやけにのっぺりして見えた。万璃子とは時々、ゴミ捨て場や大学でも会う。【別れた】とLINEで報告したら、【お疲れさま】と簡素に返ってきた。

 夏休みに入って、授業がなくなったら、とたんに暇になった。バイトに行く以外、家でずっとゴロゴロしていた。ベッドで昼寝をしていたら、ふいに、獣の唸り声めいた不穏な音が空から聞こえてきた。雷かと思って、慌てて洗濯ものを取り込むためにベランダに飛び込んだら、どん、と太鼓を打ち鳴らしたような、お腹にまで響く音が遠くで鳴った。 

一拍間を置いたのち、花火が空に打ちあがっていた。遠くの、遠くでたんぽぽがぽっと咲いたみたいだった。赤い小さな丸が、上がっては消えていく。

【家にいる? 花火上がってるよー】

 万璃子にLINEしたら、からからと窓が空く音がした。パーテーションの隙間から、万璃子がベランダに立つのが見えた。

「あ、本当だ。すごーく遠くでやってるね」

「ね」

「すっかり夏だね」

「ね」

 本当なら、三谷と一緒に見ているはずだった。打ちあがっては消えていく花火は、小さすぎて迫力はないけれど、地元で見ていたごく小さな規模の花火大会を思いだした。ふと思いついて話しかける。

「ねえ、あとで手持ち花火買って公園でやんない?」

「やらない。たぶん京都の公園って条例で花火禁止だと思うよ」

 にべもなく断られた。はいはい、と呟きながら、煙がうっすらと残る空を見上げる。

色とりどりの小さな丸が、空に浮かんでは散る。三谷と見たら、もっと胸が弾んだだろうか、と思うと、また、胸の水位が上がってしまいそうになる。

「去年もここで花火見たな。今日と同じぐらい、遠くの花火」

 パーテーション越しに万璃子の声がする。

「そうなの?」

「うん。もう、彩野ちゃん、帰省してたから。今年は誰かと一緒に見たいなあと思ってたから、よかった」

 そうだね、とは言わないでいた。本当は彩野が一緒に見たかった相手は万璃子ではないし、万璃子もそれには気づいているだろう。だから、黙っているほかなかった。

 もう恋愛なんて、男の子なんてこりごりだと、どうして胃の底のむかつきを吐き出すように喚き散らせないんだろう。洗濯物が山盛りになった部屋の隅で膝を抱えてわんわん泣いて、花とお酒を飲みながら三谷への呪詛と文句と未練をだらだらしゃべって、カラオケに一人でこもって声が嗄れるまで失恋ソングを歌って、久しぶりに実家に電話をかけて家族と話して、それでも、心が満たされることはとうとうなかった。三谷に「付き合おう」と言われた日のこと、一緒に歩いた川、浮かんでいた細い三日月、初めて唇を合わせた公園、湯たんぽみたいに熱い身体。忌々しい記憶、と思おうとしても、それでも、三谷といた時間が、二十年間で一番楽しかったし、きらめいていた。

 季節を閉じ込めたような輝きを持つ宝石たちが、湖の底へ沈んでいく。水中へ飛び込んで取り戻す勇気も方法もなく、小舟越しにずっと水面下を覗き込んでいるような気持ちになる。こんな、皮膚を生身から引き剥がすようなつらい思いは金輪際したくないのに、それでも、本音では、早く好きな人ができたら楽なのにな、と思ってしまう。来年の花火は好きな男の子と肩を寄せ合って見られたらどれだけいいだろう。

女の子の柔らかいやさしさだけでは、胸の淋しさを満たすことが叶わない。けして口にはできないけれど、絶望とともに確信してもいた。

「綺麗だねえ」

 万璃子がほうと呟いている。ぱん、とひと際明るい、金色の花が空にあがって、京都の街を控えめに照らして消えた。


第二章 二十三歳

 たった数時間前まではちみつのような金髪だったのに、いともたやすく黒髪に戻った自分を見てしばらく呆然とした。

鏡の中にいた黒髪の彩野自体には見覚えしかないのに、いとしいものを自分の手で殺してしまったような後味の悪さが口の中に苦く広がった。「就活頑張ってね」と美容師さんが何の気もなしにしたコメントが、ぐっとこめかみのあたりを鋭く刺した。

 だから、大手保険会社の営業の内定が出た大学四年の六月に、やや明るすぎるくらいの栗色に染め直した。自分を取り戻した、という感覚までにはいかなかったものの、黒髪を耳より下でつまらないひっつめのお団子に押し込んでいるよりはよっぽどよかった。

「内定出たよ」と真っ先に恋人である中原先輩に報告した。花の紹介で知り合った同じ大学の工学部の院生で、同じ就活生ではあったけれど年明けには研究室の斡旋で内定を持っていたからほとんど就活はしていないらしかった。「おおよかった、どこの企業?」と訊かれ名前を告げると、「あーちゃんが金融か。ちょっと意外だな」と呟いた。おおっぴらには言わなくても、なんとなく、感想に困っているような顔つきだった。

 本当は、アパレルか化粧品メーカーが第一志望でとにかくたくさん受けていた。けれど人気なだけになかなか結果は振るわず、就活が本格的に解禁された三月以降は目につく企業はかたっぱしからエントリーした。たった二カ月程度しか就活はしていなかったけれど、その時点ですでにへとへとだった。採用してくれるところならどこでもよかった。内定が出た保険会社は国内でも名前の知れた大手で、それなりに学生からも人気はある。

両親にも「保険の営業なんて大変だとは思うけど」と言われはしたけれど、親世代にとって大手企業というのはやはり絶大な信頼があるらしい。大学に合格した時以上に「よくやった」「すごいじゃない」と言われて、ちょっぴり面食らうほどだった。就活をしているうちに、内定を出す、と言うこと自体が目的になってしまっていたせいかもしれない。

 内定祝いと称して中原先輩は懐石料理のお店でご馳走してくれた。そんなに高いところではないよ、と言われていたのに、しっかりとコースで出てきて動揺してしまった。「お祝いなんだから遠慮しないでよ。あーちゃんはずーっと頑張ってきたんだからさ、本当偉かったよ」とにこにこする。同じ学生ではあるけれど、ティーチアシスタントのバイトをしている上に友だちとアプリ開発をしていることもあって、中原先輩の金銭感覚はたぶん社会人に近い。基本は割り勘だけど、ことあるごとに「俺出しておくよ」「いいよあーちゃんは」とごちそうしてくれる。花は「えーいいなあ、率先して奢ってくれる人なんて学生でいるんだね」などと身をくねらせる勢いで羨んでいたけれど、ラッキー、とかありがたいな、という気持ちよりも、申し訳なさの方がいつもちょっとだけ上回る。

「保険の営業って、そんな詳しくないんだけど、女性ばっかりなの?」

「うん、営業の社員は八割ぐらい女性。面接の時男性だったの、最終面接だけだったよ」

「ふうん、女の園かあ。じゃあ安心だ」

 日本酒を煽りながら中原先輩が満足げに呟いた。なにが、と不思議そうな顔をつくって訊き返すと「あーちゃんが男ばっかの職場でもてたら僕、発狂すると思う」と真顔で呟いた。めがねをかけた細面の、いかにも理系男子、という風貌の先輩は、彩野が初めての恋人で、それもあってか彩野に対しての執着や嫉妬は思いがけないほど深い。前に付き合っていた三谷は、最後の方は自分ばかり追いかけていたような恋愛だったから、ここまでストレートに嫉妬を見せられるのは悪い気分じゃない。

「大丈夫だよぅ、わたしは先輩が一番好き、ずーっと好き」

「僕も。あーちゃん大好きだよ。ずっと一緒にいようね」

 照れたり恥ずかしがったりせず、あまったるい会話を交わせるところも好きだった。卒業するまで目一杯学生を活用して楽しもう、と決めて「日本酒、もう一杯飲もうかな」と笑いかけた。


 花と一緒に何度も単位計算をして、「あとこれだけ取れば卒業できる」と確認し合って最低限の時間割を組んだ。

最後のセメスターは週に二回だけ大学に行って、落とさなければ卒業できる計算だった。土壇場で心配に駆られて一つ授業を追加していたら、「彩野って意外と気が弱いね」とにやにやされた。笑うと、ラメで強調された涙袋がやけに立体的に膨らんで見える。

 自分はそれほど要領が悪い方ではない、とは思う。けれど花といると、なんだか彩野の生活にはやたらと無駄と隙間が詰め込まれているような気がしてくることがある。一年生の時から元々華やかな美人だったけれど、キャバクラでのバイトを始めた大学三年生あたりから花の容姿は派手になり、遊ぶたびに毎回見たことのない新しい服で表れた。バトミントン部では同性よりもむしろ男の子たちの方が花の変貌にどこか慄いていて、観察するようにどこか遠巻きに眺めていた。花は「気にはなるんと違う? 自分が手に入れられへんとしても、視界に入る範囲にうちみたいな女がおったらさ」とはすっぱに言って口の端で笑ってみせた。

 花の内定先は大手商社の一般職で、「いい男の人といっぱい出会えるのって結局自分がいい場所にいられるかどうかやねん」と語っていた。いい男の人ってお金稼いでるってこと? とたずねると「全部。顔もよくて、稼ぎもよくて、学歴とか家もちゃんとしとる人、ってこと」と臆面もなく並べ立てた。今の彼氏は? と無神経を装ってわざとたずねると、「それはそれ、これはこれ」と悪びれることなく肩をすくめた。

花がサークルの男子たちから反感を買っているのは、もしかしたらこういう態度を隠していないからなのかな、とひそかに思う。あけっぴろげで率直なのが花のいいところではあるのだけれど、少し露悪的というか、相手の反応を見て楽しむようなところがある。

ね、と花が上目遣いで彩野を見つめた。

「いっぱい遊んでな。うち、あやのん以外女友だち全然おらへんから」

「そんなことないでしょ。美帆とか、マッチーとか、早川ちゃんとかいっぱいいるじゃん」バトミントン部の女の子たちの名前を何人か挙げると、「んーん」と視線を横に滑らせた。「前は仲良かったけど今そうでもない。疎遠、っていうか、避けられてるんちゃうかな」

「そう?」

「女って、自分ができひんことをやってのける女のこと、めっちゃ嫌うやん」

 男の子たちについて評する時は浮かんでいた意地の悪い笑みはなく、苦々しさだけが声の端々ににじんでいた。花が部室に訪れればそれなりに女の子たちは輪を囲って楽しげな声を上げていたような気もするけれど、彼女には違うように見えていたのかもしれない。「わたしは好きだけどな、花」と言うと、ようやく表情をやわらげて肘でつついてきた。


 卒業までの半年間は、これまでの人生で一番長くもあり、そのくせあっという間でもあり、アコーディオンのように時間が伸び縮みしているうちに過ぎ去っていった。

 学生じゃ、なくなる。社会人になる。戻ることはない、二度と。そう思うと、うわあああっと叫び声をあげて、テーブルに突っ伏したり、人を避けながら街の中を走り回ったり、めちゃくちゃに手足をばたつかせたりしたくなってたまらなかった。一緒に卒業する中原先輩は、二年余分に学生生活を送ったからなのかブラック気味の研究室に所属していたせいか、「僕はむしろ、やっと研究辞めれるラッキー、って感覚の方が強いけどなあ」とちょっぴり首を傾げるだけだった。彩野の衝動をまのあたりにしてもぴんとこないらしい。

「大学、楽しかったなあ。ここがわたしの人生のクライマックスなのかなあ」

「そんなに楽しかった?」

「うん。高校生までは、まあ、楽しいけど小学生くらいが一番楽だったな~と思ってた。けど、大学生になってからは、大学生が一番いいじゃん! って思ったなあ」

「そんなに青春謳歌、って感じだったの?」

 笑みを浮かべてはいても、うっすらと嫉妬の気配が先輩の背後で立ち昇っているのを感じた。「まあ、めっちゃ充実してた、とまでは言えないけどね。先輩みたいにアプリとか作ってたならともかく」と、あくまで恋愛面ではない、という意味だと暗に示しておく、

 ふと思う。小学生の頃がよかったのは、楽だったから。大学生活が楽しかったのも、楽だったから。なんてバカみたいな、怠け者みたいな価値観なんだろう、とわれながら思う。

 それはいいとしても、この先、絶対に楽ではないであろうことが確定している社会人は、どれだけ大変な生活が待っているんだろう。そう思うと、脳の一部が使い過ぎた端末のよにもわっと熱くなってきて、それをごまかすために先輩に抱きつくと、「しようか」と熱っぽい猫撫で声でささやかれて、あっというまにベッドに連れていかれた。

和室に住んでいるわけでもないのに、先輩の肌は汗ばむとなぜだか畳っぽい匂いが立ち昇って、抱き合った一瞬、懐かしさを感じる。ぽろっと本人に言ったら傷ついたような顔をされたので、以来言及しないようにしているけれど、そこも好きなところの一つだ。

 中原先輩は女性経験が彩野以外ないし女友だちもいない。とにかく童貞を捨てたい、やりたい、という原動力が透け過ぎていた三谷はともかく、初めての人って従順だしやさしくしてくれるしいいな、と思うたびに、うっすら後ろめたさと興奮が湧く。孵ったばかりの雛を手のひらでゆるく包んでいるような。

 いろんなところにいろんなものをぐっと突き入れて、くったくたになってから寝たい。卒業式まであと三カ月を切ってから、こんなことばかりだ。ずっと目を閉じているか、一点だけに集中して光を見つめ続けるかしかしていない。


身体が、濡れた泥の詰まった袋にでもなったみたいに重くてたまらなかった。

 最寄りで電車を降りて、そこで限界だった。改札を出てすぐそばにある、簡易な公園の隅にあるベンチにへたり込んだ。大阪に引っ越してきてから、なんとなく街が京都よりも汚れているような気がしてあまり腰を下ろしたくはなかったけれど、どうだっていい。

改札からは絶え間なく黒っぽい人の群れが吐き出され続けている。メダカの泳ぐ水槽を覗き込む小学生のような気持ちでぼんやりとその流れを眺めてはみたけれど、一向に心は落ち着かなかった。

 入社して、たった二週間であるという事実がさらに胸に重くのしかかる。先週から毎日のように中原先輩に電話で泣きついているものの、「まだ研修期間じゃないの? 何がそんなにしんどいことある?」と軽くあしらわれてしまうばかりで、こちらの苦労やつらさは一向に伝わっていないようだ。

中原先輩は通信会社の名古屋支店に配属された。初めこそ「最悪だよ」「あーちゃんと離れるとか考えられない」と愚痴や呪詛ばかりこぼしていたものの、いざ寮に引っ越して出社が始まると肚が決まったらしく、それなりに充実した日々を送っているようだ。毎日とびかかるようにして、日付を超えるぎりぎりまで通話をつないで寝落ちする、その繰り返しだった。遠距離になったことへの不安ではなく、単純に、学生生活が終わって社会人として新たな生活へと切り替わったことのストレスで、どうしても、先輩と電話していないと気持ちが落ち着かない。

初めは「寂しいんだね」「よしよし」とそれなりに甘やかしてくれていたけれど、だんだんと先輩が電話に出る時間が遅くなり、「今日は早めに寝たい」とやんわり拒まれることすらあった。かつ、先輩の部署は女性の方がやや割合が多いらしく、それもおもしろくない。先輩が所属していた研究室にはほとんど女性がいなかったから、当然職場も似たようなものなんだろうな、と思っていただけにショックだった。自分が女性ばかりの会社にいる、というのもあって、フェアじゃない、とやつあたりめいた怒りが湧いた。

電話で話しているうちにつまらないことで口論になった時、あーちゃん、と甘さの抜けた声でため息を吐かれた。

「会社つらいし大変なのはわかるけどさ、だからこそ自分のことに集中しなよ。あーちゃんは自分の人生から目そらしたいだけでしょ」――紙ごみでも丸めてゴミ箱に放り込むように投げやりな口調だった。かっとなってその場では何かを激しく言い返したものの、冷静になって思い返すと確かにそれは間違いじゃないな、としぶしぶ認める気になった。彩野はいま、自分の人生のことなど考えたくなかったし、現状やましてや将来のことなど何もわからなかった。わかりたくもない。

 たった一カ月前まではお気楽な大学生として楽しく生きていたのに、これから先の人生はずっと、この調子なのだろうか。人生の時間のメインは労働だなんて、就活している時にはちっとも意識していなかったな、と口の中で舌を打つ。

 しばらくベンチでスマホをいじっていたけれど、充電の残量はすでに二パーセントになっていた。あきらめて立ち上がる。ひたすら無心でTwitterを流し見していたせいで、動物から取り出したばかりの心臓のように熱かった。いまさらのように罪悪感が湧いてきてそっと鞄の内ポケットに滑り込ませる。


 彩野が配属された部署は新卒が三十名配属された。全員女子で、営業は会社の花形ということもあってある程度の容姿レベルの子が採用されているな、とお互いを見定めながら思った。何度か内定者研修で顔合わせがあったのですでに気さくに話せる子も数人いたけれど、露骨に負けん気やライバル心を剝き出しにしている子もいて、みんなで頑張ろうね、という雰囲気で薄くコーティングされてはいても、どことなく雰囲気はひりついていた。

名刺交換やメールのマナーなど、どこかコントめいた形式のビジネスマナー講習の間は欠伸をかみ殺しているうちにさらりと過ぎていった。代わりに、夏までに募集人資格を取得するための勉強会が研修に新たに追加された。生命保険の営業として必須なので覚悟はしていたけれど、いざ始まるとほとほとうんざりして、配られたテキストを電車で開いてはページをぱらぱらと捲ってため息を吐いた。

全くもって楽しくない。Instagramを開いたら花が【同期飲み! いかついメンツ揃ったー爆笑】とコメントをつけた飲み会の投稿を流していた。写真に写っている子たちはいかにも自信がありそうで、きらきらしているというよりも威圧感が滲んでいた。「大学つまんない子ばっか」と退屈を持て余していた花が本来求めていたのはこういう人たちだったのか、と思うと悔しくなった。

次に先輩と会うのは五月の連休だ。おとなって、我慢の積み重ねで毎日ができているんだろうか。資格のテキストが綺麗なままなのが後ろめたくてベッドで開きはしたものの、二分後にはまたスマホを触り始めてしまった。


 紅茶色をした春の陽射しが網戸越しに差し込んできて、きらきらと床を照らし、ざらついた埃を容赦なく浮き彫りにしている。クイックルワイパーで雑にふき取った。 

万璃子から「大阪で学会があるから泊めてほしい」と言われたので勢いで承諾したものの、思っていた以上に部屋の片づけに時間を取られてしまった。学生の頃、最後の方は先輩とほぼ半同棲状態で、かつ彼が率先して掃除をしてくれていたので部屋はいつもそれなりに綺麗な状態だった。けどいまは突然恋人が来訪することもないし、平日は家事をする気にもなれず、引っ越して以来常にとっちらかった部屋で寝起きしていた。

半日がかりでどうにか掃除を終えたら、案外部屋が広いことにようやく目が行った。大学時代から使っている家具を配置も変えずに並べているだけの部屋が、急に幼く見えてしまう。初任給入ったしちょっと家具とかインテリアとか入れ替えたいな、と思いついたら、ようやく気持ちが上を向き始めた。

 夜八時に万璃子から打ち上げが終わった、と連絡が来た。【大阪港駅に着いたら迎えに行くよ】と送ったら【ありがとう! お手数おかけします】と丁寧に返ってきた。

 散歩しながら駅へ向かうと、万璃子はスーツ姿で不格好なくらい大きなリュックを背負っていた。たったの一カ月前も卒業式で会っていたのに、なんだかひどく久しぶりに感じて、わずかにきまり悪くて「やっほう」とわざと軽薄に挨拶してみせる。

「こんばんは。今日はお世話になります。あ、阿闍梨餅買ってきたよ」

「うっそさすが万璃子さま! 一緒に食べよ~」むっちりとした、餡を包んだなめらかな食感の阿闍梨餅は、京都みやげの中でも彩野の大好物だ。

「久しぶりに来たけど、全然京都と違う街って感じするね。大阪には慣れてきた?」

「うん。でも電車乗るようになったからそれは疲れるなー、JRめちゃくちゃ混むし」

「だよね」お邪魔します、といつもどおり礼儀正しく万璃子が部屋に上がっていく。手も洗わないまま阿闍梨餅を開封しようとしていると、「お風呂借りていいかな?」と遠慮がちに声をかけられた。トイレに入ろうとするのを「こっち」と案内する。

 お風呂から上がった万璃子は、相変わらず会った時の印象とほとんど変わらなかった。「メイクしないから肌綺麗なのかなあ」と頬にふれようと手を伸ばすと、「それは知らないけど、化粧って工程多すぎて疲れる」とさりげなくよけられた。

「それはそう。でも、わたし保険の営業だから、しないわけにいかないんだよね。ってか、同期の中でわたし化粧薄い方だったよ、これでも」

「そうなんだ? じゃあ、きっと職場も華やかなんだろうね」

「うん。見た目もそうだけど気が強くてはっきりした人が多いかな」

「そっか。じゃあ彩野ちゃんも馴染めそう」

 何の気なしに言われて「なんで?」と反射的にたずねた。万璃子はコップに水を注ぐようなまっすぐさで「だって結構負けず嫌いだし、我が強いから」と言った。

「いやいや、万璃子にはかなわないって」

「わたしも我が強いとか頑固とかしょっちゅう言われるけど、彩野ちゃんもそういうところあると思うよ。というか、だから営業になったのかなって思ったけど」

「そうかなあ。始まったばっかりだけど、もう、向いてないのかなって落ち込んでばっかりだよ。周りと競って蹴落とす、みたいな体育会系っぽいガッツとかないし……」

「そっか。確かにガツガツした感じはないもんね」

 無理に慰めたり、フォローを入れたりということもなくあっさりと肯定されて少し落ち込んだ。ささっとシャワーを浴びて、一緒に阿闍梨餅を食べようとしたら「ごめん、歯磨いちゃった」と言われ、仕方なく阿闍梨餅を冷蔵庫にしまって雑に歯を磨いた。

 布団を並べて、いつもより早めに明かりを消す。いつもなら、万璃子は消灯するとすぐに「おやすみ」とだけ言ってすぐに寝息を立て始めるのに、挨拶を交わしたあとも寝返りを何度も打つ気配がした。

「学会どうだった?」

ごく小さな声で尋ねると「まあまあかな」と返ってきた。「でも院生って覚悟してたより忙しい。休みがなくなって本読む時間もない」とめずらしく愚痴を呟く。彩野は逆に、遠距離恋愛になったことで土日に何をしていいかわからなくなり、暇を持て余してだらだら過ごすことが増えた。けれどあきれられそうで「そうだよね、忙しくなるよね」と話を合わせておく。生真面目な万璃子のことだ、きっと毎日研究で充実して、二十四時間を目一杯ぎゅうぎゅうに使っているんだろう。そう思うと、なんとなくいたたまれない。

「あと、同期で院に進んだのってわたしだけだから……やっぱり寂しい時もあるかな」

「そっか」

「今日みたいに、いろんなところの学会に出てちょっと旅行っぽいこともできるのはいいんだけどね。そういえば、彩野ちゃんが住んでた部屋、今は一年生の男の子が住んでるよ。挨拶したらタオルくれた」

「へえ、恋が始まったりして」

「何それ。ありえないよ」

 咄嗟の軽口だけで、ふすまの戸が静かに閉まるみたいに万璃子が心を閉ざしてしまったのがわかった。あ、と思ったけれど、弁解するのも機嫌取りのようで少し癪で、様子をうかがっているうちに寝息が聞こえてきた。なんだかバランスを取りたい気分になり、花に【休み合うときお茶しない?】とLINEを打って寝た。


 名古屋駅に着くと、十代くらいの若い女の子たちを中心にごった返していた。中原先輩の話しぶりからなんとなく街に野暮ったい印象を持っていたから、思っていた以上に華やかなさと勢いを熱風のように感じて、歩きづらくてもピンヒールにすればよかった、とコンバースの足元が急に心もとなくなった。早足になって待ち合わせ場所のスタバに向かう。

「あーちゃん、久しぶり」

 コーヒーを片手に立っていた先輩は、随分垢抜けていて面食らった。単にめがねではなくコンタクトレンズをしているから、だけではなく、髪型もワックスをつかってセットしているし、着ているシャツもめずらしく柄が入っている。元々ひょろっとした植物のような体型だけれど、きちんとサイズが合っているものを選んでいるのかいつもより段違いにスタイルがよく見えた。

「先輩、どうしちゃったの」

「ああこれ? 同じ課の先輩がくれた。僕、いつも白いシャツばっかり着てるから同期にジョブズって呼ばれてるんだよ。それを憂いてたら、着ないからあげる、って」

 服装に対する反応だけではなかったんだけど「そうなんだ、やさしい先輩だね」とだけひとまず返す。首をやや突き出し、背中を丸めてコーヒーを啜るシルエットは彩野の家でそうしていたのと変わらなかったので、ひそかに胸を撫で下ろした。猫背なおした方がいいよ、とよく注意していたのに。

「おなかすいたでしょ? あーちゃんが送ってきたお店、予約してあるから行こうか」

「うっそありがとう! ひつまぶし楽しみ~」

「住んでるとかえって食べないんだよね。僕も初めて食べるから楽しみだな」

「そうなんだ」

 手をつないで歩きだす。すれ違った女の子が、ちらりと先輩に目をやったのがわかって、みぞおちに氷をひとかけら入れられたような気分になった。

 

科学館でプラネタリウムを見たり、スカイタワーに登ったり、名古屋の観光スポットをぶらぶら回った。「夕食どうする?」と訊かれたものの、交通費の代わりだと言って先輩がすべて会計を持ってくれたことが気になって「おうちで食べない? 早めにゆっくりしたいな」と提案した。「じゃあ、どこかでテイクアウト買って食べようか、家の近くのベトナム料理のお店で僕もよく買ってるところがあって」と先輩が楽しげに話す。

「なんか、名古屋楽しんでるんだね」嫉妬と安堵を注意深く混ぜ込みながら腕を絡める。「研究室にいた時よりは人間らしい生活ができてるかもなあ」と先輩が感慨深げに呟いた。寂しくないの? とは思ったけれど、道端で言うことでもないか、と思って引っ込める。

 先輩の住むマンションは、オートロックがあって彩野が借りている大阪港のアパートよりもずっと立派だった。「お邪魔します」と言って部屋にあがる。引っ越しの際家具を最低限に減らした、と言っていた通り、モデルルームのようなミニマムな部屋だった

「あ、これが言ってたゲーミングチェアか。かっこいいね」

「そう、本当は初任給で買うつもりだったけど待ちきれなくて。研修期間が終わったら在宅勤務に切り替わる可能性があるから、やっぱり椅子はいいものじゃないとね」

 座ってもいいよ、と勧められて腰をかけた。確かに大きな手に包まれているようにぴったりフィットする。くるくる回っていると「あ、炭酸忘れた」と先輩がキッチンで呟いた。

「わたし買ってこようか」

「いや、大丈夫。最寄りのコンビニ微妙に遠いから、僕が買ってくるよ。ついでにおつまみとかも買い足してくる。あると思ったら、前宅飲みした時に全部食べちゃってた」

「そっかあ。あ、大阪のおみやげ甘い系だからしょっぱいもの多めでお願い」

「了解! じゃ、ちょっと待っててね」

 先輩がひらりとトレンチコートだけを羽織って部屋をあとにした。

 宅飲みねえ、と呟きながら椅子の回転をゆっくりと止める。彩野ですらまだ引っ越してから万璃子しか来ていないというのに。

 夜は一緒に映画を観よう、と約束していたので、観るものを下調べするためにパソコンにログインした。付き合った時からパソコンのパスワードはお互い共有していたので、指が覚えている。ぱっとひらかれたデスクトップは、見覚えのある景色の写真だ。先輩がよく「絶景だった、いつか連れて行きたい」と話していた天橋立の一枚。

 Chromeを探すために視線を動かすと、デスクトップに「日記」と書かれたWordファイルがぺたりと迷子のように貼られているのが目に留まった。あ、見ちゃった、といちどは目をそらしたけれど、ふと、背後を振り返った。もちろん物音一つない。

 魔が差した。「えーい」と呟いてダブルクリックする。

 ぱっと開かれた文章は思いがけず縦書きだった。小説みたい、と思いながら目を縦にすべらせて、心臓が凍った。

〈5月4日 急に電話があってKが家に来た。普段、泥酔している人は見苦しいから苦手だが、なぜかKのことは綺麗だと思って少し動揺した。客用布団を出していたら後ろから抱きつかれた〉

へ、と息が抜けるような音が自分から漏れた。目を大きくひらいて日記を読む。K、という文字を拾いながら読んだ。

〈初めて会った時から印象的だった、という話をしたらKが珍しく恥ずかしがっていた〉

〈Kとほかの同期も交えて居酒屋で飲んだ。まずい店だったが、Kと家で飲みなおした〉

〈同期で日帰り旅行。断る予定だったが、Kも参加するらしく出席に〇〉

〈なんとなく気になる感じの人がいて見とれた。なぜ見覚えがあるのかと考えて内定者研修の時に会った人だと思いだす。横顔が綺麗だった〉

 動悸が止まらなくてWordファイルを閉じた。デスクトップに戻して、もういちど電源を落とした。意識して強く二度三度瞬きする。

 今のは何だったんだろう。創作物だったらいいのにと心の底から思う。けれど、彩野と電話した日の日記にはきちんとその旨が記載されていた。〈あまり愚痴を言うタイプじゃないと思っていただけに少し疲弊〉という感想つきで。

 最初の驚きと戦慄が一通りおとなしくなると、その次に居座ったのは奇妙な納得だった。社交性はあるとは言えない先輩が、職場でそれなりに人付き合いをして、馴染んでいること。潔癖な割に、人をよんで宅飲みしているらしいこと。見た目が洗練されて、明らかにぐっとかっこよくなっていたこと。何より――今日一日、どこか視線がうろうろとさまよって、デートに集中しきっていなかったこと。凝視しないようにして通り過ぎた違和感を一つひとつ数えなおす。ピッと電子音が鳴って、ドアが開く音がした。ただいまー、という声が聞こえたけれど、迎えに行く元気がなく「お帰りー」とだけ返した。

 

先輩がわざわざお皿に移して温めなおしてくれたベトナム料理でローテーブルが埋まっている。彩り豊かにそれぞれ湯気を立てていたけれど、何も心は動かなかった。「おいしそう、いただきまーす」ととりあえず台本のように口にする。

「僕、こっち来てからパクチー食べられるようになったんだよね。前は臭くて嫌いだったんだけど」「この街は自転車通学の中学生が多いから朝はめちゃくちゃうるさい」などと先輩が近況をいろいろ口にしていたような気がするけれど、窓越しの雨音くらいにしか聞こえず、うなずく程度であまり反応できなかった。「どうした? ちょっと疲れちゃったかな。早めに寝ようね」と猫撫で声でやさしく背中を擦られて、わっと涙が溢れた。

「あれ、え、どうしたの。なんか、辛かった?」

「……Kって誰」

「は」

「この部屋で、したの? してないの? ねえ」

 先輩はきょとんとした顔で右往左往するだけだったけれど「Kって何なの、同期の女?」と問い詰めると、成績表を隠していた子供のようにみるみる顔が青ざめた。

「……ごめん。もしかして、僕の日記読んだ?」

「ん。そう。読んじゃった」ごめんと言いかけたけれど嗚咽と一緒に飲み込む。

「そっか。同期とはその……身体の関係、的なことはないよ。僕に遠距離の彼女がいるのは知ってるし。けどまあ、飲んだ時に告白、みたいなことは、一回、あ、もちろん断ったんだけど、その」

 煮え切らない説明に苛立ちが募って、「でも好きなんじゃないの? 横顔にみとれたとか綺麗だとか書いてあったじゃん!」と叫んだ。日記の文章を読み上げたことで羞恥がリアルに沸き起こったのか、真っ青だった先輩の顔にどす黒い赤みが差した。

「それは」

「ねえ今日どんな気持ちでわたしのこと待ってたの? 本当は別の女の子のこととか考えてたんだ? すっごい、楽しみにしてたのに、わたしだけだったんだ。あーあ、もう最悪。最悪としか言いようがない。わざわざ新幹線乗って来て、ばかみたい」

「あーちゃん」

 先輩がすっくと膝立ちになった。思わずのけぞると、予想外のことが起きた。先輩が土下座をして頭を下げたのだ。

「ごめんなさい。その人のこと、き、綺麗だなくらいは思ったことあるけど、本当、何もない。断ったから。家にも泊めてない。タクシーで帰った。だから、ご、ごめんなさい」

 呆然と先輩の頭を見下ろす。背中に汗をかいて、シャツの柄が変わっていた。すっと頭の温度が冷える感覚があって、わかった、とかすれた声で呟いた。

「こっちこそごめん。日記勝手に読んで。あの、アマプラで映画、探そうと思って」

「ああうん……とりあえず、ごはん、食べようか」

 そのあとは、ぎこちないながらも表面上は会話をして、それなりに笑い声も何度か控えめにあげたりしたけれど、気詰まりでしょうがなかった。お風呂を借りたあと、またパソコンを覗かれるんじゃないかと思われることが怖くて「先に寝るね、ベッド借りる」と呟いてもぐりこんだ。別な誰かもここで寝たんじゃないかと思ったら、血の気が満ち引きするほどの怒りが湧いたけれど、明日のことを考えたらもういちど喧嘩を吹っかける気にもなれなかった。

 先輩もお風呂から上がって、ためらうような間を少しおいてからベッドに入ってきた。寝たふりをするか一瞬迷って、けれどどうしてか自分から抱きついてしまった。ばかじゃないの、とわれながら思ったのだけれど、ほかの同性から告白されたという話を聞いた途端、急に先輩が魅力的な男の人に見えたせいだった。久しぶりだったこともあって続けて二回して、言葉をかわすこともほとんどなく、気だるい疲弊に押しつぶされるように寝た。

 別れた方がいい。頭ではわかっていても、熱にじかにふれているとそんな理性が吹き飛んでしまう。たった今――仕事でメンタルが不安定になっている今、恋人を手放すなんて無理だ、と思ってしまう。どちらかと言えば今までは先輩の方がどちらかと言えば彩野に依存的だったのに、どうしていまになって、と抱き合いながら何度も思った。


 いかにも都会っぽい綺麗な子がいるな、と思ってみるともなく見ていたら、自分に向かってぐんぐん近づいてきたので面食らっていたら、花だった。

「あやのん久しぶりぃ! 元気だった?」

 ぶつかるようにハグされて、元気元気、と返す。Instagramの中で見る花は心配になるほど細く儚い体型だったけれど、実際に会ってみるとそこまで劇的に細いわけではなく、むしろ学生の頃よりかは標準体型に近づいているみたいでほっとした。

「カフェ行こっか」

「おっけ。っていうか今日暑いね、初夏っていうか猛暑じゃん」

「夏なったらどうなっちゃうんだろ。通勤だるぅ」

 取るに足らないことをしゃべりながら、花が行きたがっていたお店へ向かう。行列だったらつらいなあ、と思っていたものの、早めに集合した甲斐あってほとんど待たずに通された。ラッキー、と花がにやりと笑う。あれ、と花の口元を見て首をひねった。

「歯、治したの?」花は前歯がすきっ歯で、それがチャームポイントでもあった。「そ、裏側矯正始めた。ちょこっとだけど六月にボーナス出るし」と笑みを深くする。

「えー、いいなあ」

「わたしキャバやってたじゃん? その時の貯金もあったから契約しちゃった。投資投資」

 額をたずねたら「トータル百万くらい」とのことで絶句した。新卒だからおそらく給与は大差ないのだろうけれど、金銭感覚にはすでに開きがあるのかもしれない、と思う。彼氏に買ってもらった、という鞄はChloéだった。ハイブランドの持ち物なんて彩野はおさがりですら一つだって持っていない。すでに花は遠い世界へ渡ってしまったみたいに思えて、自分の膝元に目を落とす。気に入っている古着のボーイフレンドデニムを履いてきたけれど、大学三年生の時に買ったから膝の色が抜けてしまっている。

「仕事どう?」

「えー、全然つまんないよー。研修ばっか。うちの部署女ばっかだし。ま、気楽だけどね」

「イケメンの先輩に手取り足取り教えてもらうのが花の夢だったもんね」

「実際仕事始まったらそれどころじゃないから、むしろ女性の方がよかったかもなあ。なんか、あたりキツい気もするけど。香水つけすぎとか言われたし」

「あはは」

 ガレットを食べながら近況報告をし合う。それなりに花が仕事に前向きに取り組んでいるらしいことを知って、ほっとしたような、少し肩透かしを食らったような、半々の気持ちを抱いた。「先輩との遠恋どう? こないだ名古屋行ってたよね?」と花から突かれ、あー……と濁す。ガレットの真ん中に乗っていた黄身を破くと、思っていたより広範囲にあふれだした。なすすべもなくそれを見守る。

「現状、維持、かな」

「いや何その表情。なんかあった? 暗すぎない?」

 花の目には心配と好奇心が浮かんでいて、どちらかといえば後者の方を強く感じた。ごまかすか話すか一瞬迷ったけれど、誰かにぶちまけたい欲にまけてことの顛末をぽそぽそと話した。花は「げ」「うわ最悪」「なんなのそれ」と眉を顰めながら相槌を打ち、話し終わるよりも前に「別れなよ、そんなの」ときっぱりと言い放った。

「やっぱりそう思う? でも別れないまま東京戻ってきちゃった。今も毎日電話してる」

「はー。もとはわたしの紹介っていうのもあるからちょっと責任感じんねんけど、そいつ絶対屑やで。初めてモテ期来て舞い上がってるパターンやな。日記に書いてんのもキモい。うちならその場でパソコンぶっ壊すで」

 いろいろと失礼なことが詰め込まれた発言ではあったけれど、おおむね同意できたので「まあ、実際今もいろいろ疑念はあるけど」と返す。ガレットを小さくちぎって黄身を拭ったけれど、余計皿が汚くなってしまった。

「なんか変な話さ、浮気疑惑みたいなのがあってから、余計先輩に執着が湧いたというか」

「何それ。寝取られ願望?」違うよ、と小声で諭す。社会人になってもまっ昼間から花の発言は容赦ない。

「自分でも頭おかしいと思うんだけど……なんでだろ。醒めるかと思ったんだけど、余計依存しちゃってるというか……悪循環だよね。どっちにしろいつまで遠距離なのかわかんないし、意外と名古屋までの新幹線高いし、どうしようって感じ」

 花ならどうする? とたずねると、嬉々とした顔で「とりあえずキープしつつ別のもっといい条件の男の人探して乗り換えるな」と予想にたがわない回答をなめらかに述べた。

「無理無理無理。わたし花みたいにもてないもん。彼氏だってまだ二人目だし」

「そんなん関係なくない? 確かに先輩はさ、あやのんにべったりやったし、大手企業のハイスぺ会社員やし、条件は悪くないかもしれんけどそれこそまだ二人目やんか。これからいろんなサンプル知った方がいいよお」

「そうかな」

「ってかあやのんが保険の営業って男ウケもよさそうやん? なんかエロいわ、もてそう」

「全然そんなんじゃないって、職場女子ばっかだし。花こそ会社内でちやほやされてそう」

 それがなー、と花が楽しそうに社内で気になっているイケメンの先輩について話し出す。意を決して話したのだからもうちょっと自分の話を深堀してほしかったような気もしたけれど、花があまりに楽しそうなので耳を傾けつづけた。


 電子音が耳奥でつんざいた。慌ててイヤフォンの音量を落とす。

事前のメッセージなしにいきなりかけるのはやめてほしい、と常々言われていた約束を破って電話をかけた。無情なコール音が続く。海辺の公園を見つけて、ベンチに腰掛ける。鴨川みたいにカップルとかがだべってたらやだな、と思ったけれど、幸い人影はない。

 例の同期と会っているんじゃないだろうか。二人きりじゃないとしても、その場に彼女がいて、熱っぽい目で先輩を眺めているんじゃないだろうか。それとも仕事に追われてそれどころじゃないのかもしれない。結局通じないまま電話は切れた。しばらく画面を見つめていたけれど、フェードアウトしてしまったので、どうにかポケットに押し込む。

 週末だというのに、明日からの土日には何の予定もない。次に先輩が大阪に来る予定も、彩野の試験が近いこともあって保留になっていた。いっそ軽薄な男に適当にナンパでもされてついていってしまいたい。なげやりすぎるのはわかっているけれど、予定がすっぽりと空いているせいで、どこにも自分が求められている場所がないような気がしていた。

 ふっとスマホが光った。先輩から着信が来ていたので慌てて通話に出る。

「ごめん、まだ仕事してた。何かあった?」会社からかけているのか、声を低く抑えている。「ううん、ごめん、なんか寂しくて」とありのままをこたえたら、なんとなく空気が揺らぐのを感じた。息を止めて先輩の言葉を待つ。

「そっか。あのさ」

「ちょ、っと待って」嫌な予感がしたから不自然なのもかまわず差し込んだのに、先輩は容赦なく続けた。

「ごめん。別れよう」

 喉に大きな熱い石でも詰められたみたいに、声も息も出せない。嘘、と頭の中で呟いたけれど、どこかでわかっていたような気もした。

「あーちゃん、会社入ってからずっとつらそうで……名古屋に来てから、一層加速してるなってずっと思ってたし、僕のせいでもあるなって、申し訳なくて。だから、このまま付き合ってても、支えるっていうよりも、むしろ余計つらくさせるんじゃないかなって」

「そんなの」

「僕がいつまで名古屋にいるかも、次東京に戻れるのかすらも、わからないし」

 涙がだらだらと頬を伝い、喉の内側が腫れぼったくなって声がまともに出ない。先輩はそれ以外にもいくつかの別れを決意した理由を述べて、「だから、ごめん。終わりにしたい」と力なく呟いた。何も言えずにただ泣いていると、困惑したような声でこう言われた。

「あーちゃん、結婚願望あるんでしょう? だったらもう、僕じゃないよ」

「何それ……自分が別れたいのに、わたしのせいみたいにするの、ずるくない?」

 言語化したら、急に冴えざえと意識が冷えた。いや、その、と先輩が言葉を詰まらせる。

「ごめん。でも、時間を奪ってるみたいで申し訳なくて」

「同期と付き合うんでしょう? はっきり言えばいいじゃん、そっちの方が諦めつくよ」

 先輩は口ごもった。予感が確信に変わり、ああ、と銃に撃たれるのを確信した野鹿のような気持ちで目を閉じた。「それはない。その人は別の人と付き合ってるから」と静かな声が返ってきて、のろのろと目を開けた。

「何なのそれ……散々わたしたちのことかき回しておいて、先輩じゃない人と付き合うの? その人なんなの、意味わかんないよ……最低じゃん」

「そうかもしれないね。でも、正直、同期のことがなくてもこうなってたとは思う」先輩の声はあくまでも淡々として、川底に沈んだ石のように冷えていた。「あーちゃんのこと、好きだし大事だったけど……もう、支えきれないというか」

 そのあとも先輩はもごもごと弁明をしていたけれど、もう聞いていられなくて「もういい、わかった、別れる」と言い返して切った。すぐかけ直してくるだろう、と思っていたけれど一切音沙汰はなく、相手に期待して執着しているのは自分だけだったのだと気づかされた。だらだらと涙を流してしゃくりあげながら、写真フォルダをひらいて先輩との思い出にまつわる写真を消していく。

 付き合って初めの頃まで遡っていると、ぎこちないツーショットが出てきた。先輩に乞われて三カ月の記念日に撮ったものだった。初めての恋人と、わかりやすく交際っぽいことをしてみたい、というテンションが高校生のように幼く思えて、内心乗り切れないまま笑顔を表情に載せたことまで、一緒によみがえる。そうだ、初めは先輩の方が圧倒的に自分に対して向ける熱が高くて、優越を感じるというよりもどこか持て余していたんだった。まさか彼の方から別れを切り出されることになるなんて、少しも予想していなかった頃の自分の笑顔は、シールのように平面的で、取り繕ったような気配がにじんでいた。そう、ちょうど、名古屋で会った時の先輩のように。

 その思いつきは、茹っていたお湯に大きな氷塊をどぷんと放り込んだように、いくらかは彩野の頭を冷ましてくれた。涙のせいでメイクがめちゃくちゃによれてしまっているであろう目元をティッシュでそっと押さえる。

 恋が終わってしまった。悲しい、やりきれない、寂しい、けれど、そのなかに先輩個人への執着や思いがどれほど含まれているかについては、あまり考えたくなかった。そもそも彼と付き合うことになったのだって、何度かのデートで、あからさまに好意を向けられて、当然の流れで告白されて、承諾した、というものだ。ベルトコンベアで運ばれた荷物みたいに、のんびりあぐらをかいていたらことが着々と進んだ。でも。それって。

 ――わたしは本当に、先輩のことが好きだったのかな。

 先輩の気持ちが逃げ水のように自分から離れていく気配を感じていたこの数週間が、一番彼のことを好きだった気がする。だとしたら、この先人を好きになっても、自分の愛情は別れる時にしかピークを迎えられないんだろうか? 

 生臭さを含む汐風が運ばれてきて顔を温くねぶる。好きな人がいない、ただそれだけで、背骨を引き抜かれてしまったみたいに、身体も心もぐねぐねと気弱に揺れて定まらない。

明日からの休日には、何の予定もない。まっさらなキャンバスのように広大な四十八時間に思いを馳せそうになって、諦めるように緩く目を閉じた。


第三章 二十四歳

 二十五歳の誕生日は絶対に恋人と過ごさなければ――二十四歳になった日の晩、ふいにどこかから矢がひゅんと飛んできて心臓の真ん中を射抜かれるようにしてそう思った。カラオケパセラで、会社の同期三人に囲まれながら。

 林田が予約してくれたプレミアムルームはいかにもVIP然としていて、真っ赤なビロードのソファやピンヒールが沈む毛の長い絨毯、きらきらしたシャンデリアが、チープだけれどわかりやすくゴージャスで、女子同士のお祝いの席としてはぴったりだった。「高すぎる店じゃなくて、大学生の時は無理だったけど今ぐらいなら手が伸ばせるくらいの贅沢がしたい」とゴチャゴチャごねた彩野の願望を簡単に叶えてもらえて最高の気分だった。

ミニステージでは林田と鈴原がプッチモニを熱唱している。モニターに時々反射して映る彩野は、ドンキで買ってもらったティアラの玩具をカチューシャみたいにかぶっている。「大海もどんどん曲入れてよー、今日の主賓なんだから」と西がデンモクを渡してくれた。

 最高に楽しい。何が目に入っても異様に輝いて見える。同期の中でも仲のいいメンツで、真っ先に二十四歳になった彩野から祝ってもらえた。きっとそれぞれの誕生日も盛り上がるだろう。でも。

 可愛いと思える年齢は二十四歳まで。きらきらしていて、ふざけていてもゆるされるのは今年まで。二十五歳という響きからは、なんだかこう、人生をしっかり設計したり地に足着けて生活したり、キャリアについて真剣に悩まなければいけないような、風格やプレッシャーを感じる。もちろん、そんなことないだろうけれど、どうしてかそんなふうな焦燥感が、足元に押し寄せている。いまはさざ波程度だけれど、来年には高波になって自分を襲って足元から攫うんじゃないだろうか。どうしても、そんなふうに思ってしまう。

「あ、『上海ハニー』入れたの彩野じゃね? 歌ってー!」

 林田にマイクを渡され、「あいよー!」と大きな声を上げて右手を突き上げる。この一年が勝負になる。そんな決意を込めてステージに一歩踏み出した。


 若さや年齢に価値を見出すことも、プライドにして振りかざすことも、しがみつくことも、みっともないと思っていた。「二十歳なんてババアじゃん」「あー、ずっと十七歳で止まってたらいいのにー」なんて教室で大きな声で威嚇するように笑い合っていたクラスメイトの子たちのことも、内心バカにしていた。

 それでも子供の頃からありとあらゆるメディアで「若い女は価値がある」「若くなくなれば価値は目減りして、バカにされたり笑わられる存在に成り下がる」と刷り込まれ続けた弊害は、吸っていた空気にこっそり混ざりこんでいたダイオキシンみたいにひそやかに蓄積していたのかもしれない。あれだけ「ああいうおとなにはなりたくないな」「ださいな」と醒めた目で見ていた同性のおとなに、いま、自分は、なっている。声高に言わないだけで、心の中では「のびのび無邪気に過ごせる時間もあと一年かあ」とうなだれている。

「今日二十四歳になってさー、思ったんだよね」

「何」

「二十五歳になりたくないなって」

 帰りの電車で、同じ線になった鈴原にこっそり漏らした。四人のメンバーのうち、鈴原は一番おっとりしていて、かつ恋人がいない歴が長かった。現在付き合っている相手がいないのは四人のうち彩野と鈴原だけだ。カールがとれかかったまつげをぱたぱたっと静かに瞬きして、「意外やわ」と呟く。「大海ちゃんってそういうこと思わなさそうやのに」

「わたしも、今までは頭をよぎったとしても必死に打ち消してきたんだけど……なんか、二十四歳って、感覚的には十七歳と同じっていうか、ドラマとかマンガの主人公っぽい年齢じゃん? だから、いざなると、その次の年齢を跨ぐのが怖いっていうか」

 ぼそぼそと漏らすと、鈴原はそーねえ、とゆったりと呟いた。

「どうしたら怖くなくなるん?」

「彼氏いたらかな」

「シンプルやん。今日、いっぱい大海ちゃんの写真撮ったから、それプロフィール写真にしてマッチングアプリ初めてみたら」

「やっぱそうかあ」

「うん。っていうかここだけの話、うちもやってみてんねん。何人か会うたで」

 同期の思いがけない秘密に耳を傾けながら、そういえばまだティアラつけっぱなしだったけ、と慌てて頭に手をやったけれど錯覚だった。つけている時は気にならなかったのに、今になってずきずきと締めつけるように痛みが耳の上あたりに残っていた。存分にはしゃげるのはいまのうちだぞ、と戒めるみたいに。

「どうせ家帰ったらせえへんから今のうちにダウンロードしいや」と鈴原にせかされるまま、勧められたアプリを入れた。年齢確認があった時点ですでに面倒だなと思い始めていたけれど、「写真何枚か選んで。トップはバストアップで、それ以外にも全身映ってる写真何枚かあるといいよ」「趣味と仕事と、どういう人がタイプなんかとか、休みの日の過ごし方とかも具体的に書いた方がマッチの精度があがる」などと隣で鈴原が世話を焼いてくるので、言われるがままあれこれ画像を選んだりプロフィール文章を埋めたりした。おっとりしたお嬢様風なのに鈴原の営業成績が安定しているのはこういうところなのかもな、とぼんやり考えながら助言に従って「不慣れですが、気になったら是非『いいね』していただけるとうれしいです♪」とプロフィール文を締めくくった。

「なんか、タイムラインに東京の人とか北海道の人とか、いろいろいるんだけど」

「ああ、初期設定やと会員全員が流れてくることになるから、地域とか年齢とか絞らへんとあかんわ。とりあえず京都大阪、兵庫も入れてもええかもね。年収とか年齢とか、あと身長とかも好みに合わせて設定したら大海ちゃん好みの人だけがタイムラインにずらあっと並ぶで。ま、メルカリみたいなもんやな」

「えー……それじゃ人身売買みたい」

 くふ、と鈴原が小鬼のようにいたずらっぽく笑った。綺麗な歯並びがとうもろこしみたいにずらりと並んでいる。鈴原は今お医者さんとエンジニアとメーカーの営業、それぞれ三人の男性とデート中らしい。「お医者さんは条件ええけど忙しそうやし、気が合うのは営業の人かな。でも、エンジニアの人がジャニーズ系でかっこいいんよう」とめずらしくはしゃいでいて、鈴原が医者に行くならわたしは経営者か弁護士にでもいこうかな、と意味もなく負けん気をちょっぴり刺激されてしまった。

 身長は、別に低くても気にしないけど、設定できるなら百七十センチ以上にしておこう。学歴は、自分と合わせて大卒以上。年収……そもそも自分の年収自体きちんと把握できていないのだけれど、普通四百万くらいなんだろうか? でも月給三十万円で年収三百六十万だから高望みしすぎかもしれない……などと酔った頭で考えていると「なんや、大海ちゃん控えめやな」とひょいと鈴原が覗き込んできた。テストを勝手に覗かれた中学生みたいにのけぞってしまう。自分の給与明細を見られるのよりも、マッチングアプリの相手の希望年収を見られる方がやや恥ずかしさは勝るんじゃないかとそんなことを思った。

「じゃあ鈴原はなんて設定してんの」

「年収六百万以上。それでも相手の人、いくらでもタイムラインに表示されてくるで。意外とお金持ちの方がマッチングアプリやってたりするんかもな」

 六百万……じゃあわたしは八百万以上にでもしてみようかな、と対抗心が一瞬燃えたものの、家に帰ってから妙に冷静になって、やっぱり年収四百万円にした。

 

 翌日、大量の通知がスマホ画面を埋め尽くしていた。「Kさんからいいね! が届きました」「としくん。さんからいいね! が届きました」「誠さんからいいね! が届きました」――どうやら通知をオンにしていたらしい。こんなの鈴原以外の同僚に見られたら一瞬で社内で噂が回るぞ、と思い慌てて非通知に切り替えた。

 全部で七十四人からいいねされていた。あわただしく身支度を済ませて、電車の中でこっそり確認しようと思ったものの、周囲から丸見えになってしまうことに気づいてスマホをさわるのはやめておいた。

ようやくアプリを開けたのは、午後の打ち合わせが終わって、ドトールに入ってからだった。初めは業務中にカフェに入ることに若干の後ろめたさがないでもなかったけれど、先輩と同行していると「ちょっとお茶しばいて休もう」と結構な頻度でカフェに行くので、「サボりではなく、作業場所確保としてきましたが何か?」と言うような顔をして堂々と入れるようになった。カフェオレを啜りながらマッチングアプリを開く。いいねはすでに百件を超えていて、小さく「ひええ」と慄いてしまった。登録をしただけで、何の労力もなしにこんなに誰かから好意が押し寄せられてくる場所なのか、ここは。

 めぼしい人にだけいいねを返して、簡単な自己紹介のテンプレートをつくってその人たちに送った。中には東京や別の地方のてんで離れた場所からいいねを無作為に送っているらしき人や五十代以上の人も混じっていたものの、基本的には自分と同世代の人からのいいねが多かった。

 帰宅後、もういちどアプリを開いた。彩野が送った挨拶メッセージに対して返事をくれているのはそのうちの三割程度で、あまりの少なさに肩透かしを食らった。朝、あんなにいいねがどっさり来ていた時は、下駄箱にラブレターが無数に突っ込まれているようなもてもて気分だったのに、それは単なるポスティングのチラシでしかなく熱意が込められていたものはそのうちのほんの数人だけだったのだろうか。そう思うと腹立たしい。とはいえ、簡単なプロフィール以外全く知らない人と会話をするのは新鮮な作業ではあった。

 そして、あっというまに三人の男性と会う約束を取りつけた。一人は同い年のエンジニア、一人は二歳年上の営業職、最後の一人は三十三歳の経営者。三人目に関しては鈴原へのちょっとした対抗心で勝ち取った約束なような気もしないでもないけれど、基本的にアプリ内で会話をしていたらスムーズに男性会員の方から「実際にお会いしてみたいです!」「よければお食事でもいかがですか」と声をかけてくれた。誰と会ってどこに行っても何もかもが新鮮だし、基本的に受け身でいれば話が進むのでらくではあった。

新歓のビラを受け取るごとく、次々とデートの約束を取りつけていった。


 自販機で缶コーヒーを買っていたら、「お疲れ」と後ろから声をかけられた。鈴原だ。

「調子どうなん」

「仕事? んー、見積り作り終わったら帰るかな」

「ちゃうて。アプリのこと!」わかっていてしらばっくれたのだけれど、鈴原はすっかりおしゃべりモードになったらしく、近くのベンチに座ってぽんぽんと隣を叩いてみせた。仕方なく隣に腰かけてコーヒーを啜る。

「何人かには会ったよ」

「ええなあって人は? 二回目会うた人はおるん?」

「んー……まだかな。金曜日に会う人が二回目」

「どんな人?」鈴原が目を輝かせている。面倒になって、「おんなじ営業で、二十六歳で、背はあんまり高くないけど筋肉質で、見るからに体育会系って感じの人かな」と適当にこたえたら、鈴原がすっと目の力を抜くのがわかった。

 鈴原の男性のタイプはうすうす知っている。わかりやすくインテリっぽい、頭のいい人。そして見た目はどちらかといえばなよやかというか女性的な、細くてすらっとしたイケメンに目がない。すでに異動してしまったけれど去年フロアに出入りしていた男性社員が鈴原にとってストライクだったようで、熱心に話しかけているところを見かけたことがある。

「ふーん。大海ちゃんってそういう、スポーツ系の人が好きなん」

「うん。ゴリマッチョ系がわりと好き。細い人は苦手だなー」

 そうなんやあ、うちそういう人あんまり良さわからんなーとこたえる鈴原の相槌があからさまに弾んでいる。

就活のことを思いだした。やたら選考の進み具合を聞いてきて、いざ彩野が志望している業界が自分とは全然違うと知った途端ほっとしたような顔をして離れていったゼミの同級生。鈴原のことは別に嫌いではないし苦手意識もなかったのだけれど、ちょっと幼稚なところもあるんだな、とこっそり思った。鈴原が上機嫌に言う。

「ほんなら、わたしがもし筋肉ムキムキの人とマッチしたら、うまいこと大海ちゃんにアシストするわ。友だちでマッチョな人がタイプな人がおるんですー、って」

「あはは。めっちゃ助かる」

 今日ネイルの予約あるからお先に、と鈴原が春風のように去っていく。

本当のところ、彩野にはあまり男性の見た目にこれといってこだわりはない。マッチョが好きだというのも、鈴原の干渉から逃れたくてついたとっさの嘘だ。最低限の清潔感があって、ぶさいくすぎず、端正な顔をしたイケメンとマッチしたらそれなりに浮かれる。タイプはあってないようなもので、鈴原みたいにタイプがしっかり定まっている人の方が合理的に彼氏を見つけられるんじゃないだろうか。いまのところ、会った六人の男性はみんなタイプがばらばらだ。そのうち四人の人には次のデートの約束をほのめかされた。

 鈴原より先に彼氏つくってさっさとアプリ退会したいな、と思う。飲み切っていないコーヒーを持ったまま、席へ戻った。

 

 駅で化粧を軽く直してからお店に向かう。夜でも依然暑く、背中を汗が流れた。吉野で予約してます、と告げて案内された先にはすでに賢人さんが座っていた。彩野に気づいてスマホをしまい「やっほー」と微笑む。

 アプリを初めてすでに一カ月が経っていた。賢人さんと会うのは三回目だ。

それがどういう意味なのかは、マッチングアプリ初心者である彩野にもわかっていた。曲がりなりにも営業だ。三回目のデートは、すなわちクロージング。付き合うかどうかを見定める最後のデート。

もちろん男性によっては三回目でもはっきりさせない人はいるけれど、なんとなく、賢人さんは今日告白してくる気がした。二回目に焼き鳥屋に行って飲んだ時点で「俺彩野ちゃんのことタイプなんだよね、ほんとに」「こんな可愛い人いたら会社で絶対目立つよー」などと口説くようなことを何度も口にしていた。あからさまな態度のわりには、「じゃあ駅まで送ってくよ。次何食べたいか考えておいてね」と案外あっさりと駅まで送って別れたので拍子抜けしてしまった。今日こそは告白してもらわねば。

 三十歳、製薬会社のMR、年収は八百万円から一千万円の間、国立大学の院卒。はっきりとした二重瞼と高い鼻梁がいかにも自信のありそうな雰囲気を醸し出していて、正直に言えば苦手なタイプだった。というよりも、関わったことのないタイプの異性だった。

初めて会った時は遊び目的の可能性も考えて少し警戒していた。けれど、「次付き合った人とは結婚も考えたい」「周りの友だちが結婚ラッシュで、自分も早く子供がほしい」とはきはき話すのを聞いて賢人さんへの印象が変わった。派手な造作に見えるけれど真面目で真剣に彼女を探している。「僕、彩野ちゃんより結構歳上だけど平気かな?」とためらいがちに訊いてきてくれたのも、彼の誠実さを裏付けるようで好印象だった。

 こういう人と付き合ったら鈴原はきっと悔しがるだろうな、とどこか同僚を焚きつけるような意地悪な目的も込めて初回のデートに臨んだ。というよりも、明らかに不釣り合いなぐらいハイスペックな男性とのデートにおいて、必要以上に傷つけられまいと保険をかける意味も込めていたんだろうな、と今になって思う。見定められた挙句不合格を出されたらどうしよう、と思っていたけれど、賢人さんはデートの中盤時点で「また会いたい」「休みの日空いてたら一日遊ばない?」と誘ってくれた。そのくせ「いきなり前のめりでごめん、ガツガツしてるって思われてたらどうしよう」と不安げな目でこちらを見遣るのも、仔犬のような健気さで可愛らしかった。

「こないだは楽しかったね。チームラボ、行ってみたいとは思ってたんだけど、男だけだと入りづらいから彩野ちゃんから提案してくれて嬉しかったよ」

「いえ、わたしこそ初めてだったんでよかったです。映像綺麗だったなー。体験型の美術館みたいで」

「彩野ちゃんって、芸術にも興味あるんだね。俺そういうの全く疎いから、尊敬する」

 今日賢人さんが予約してくれていたお店は和風の創作バルだった。運ばれてきたシーザーサラダを取り分けながら「そんなそんな」と謙遜してみせる。「興味あるっていうか……詳しくはないですけど見るのは好きですよ。賢人さんも、わたしなんかよりずっと映画に詳しいじゃないですか」

 いやいやいや、と賢人さんが横にゆったりと口を引いて笑う。笑うと端正な顔が柔らかく崩れて、かえって色気が増す。彼の飲むペースに合わせてワインを飲んでいたらあっというまに酔ってしまい、少しずつ肌が熱を帯びるのを感じた。

 自分の笑い声が高らかに響いていて、笑い過ぎた拍子に腕が賢人さんの肩にぶつかった。細いと思っていたけれど案外筋肉の厚みを感じてどきりとした。「彩野ちゃん、酔ってるでしょう」と賢人さんが顔を覗き込んでくる。

「すみません……お冷、もらえますか」

「それより、あったかいお茶の方がいいんじゃない。立て続けに飲んでたから身体冷えてるでしょ」あごめん、俺のペースに合わせて無理させちゃったよね、と賢人さんが凛々しい眉をハの字に下げている。わかってくれている、という嬉しさがじんわりと指先を温める。湯気を立てるほうじ茶が運ばれてきて、冷めるのを待ってぼんやり眺めていたら「酔い覚ましに、このあとちょっと散歩しようか」と賢人さんが小さく囁いた。

 お手洗いから出てくるとすでに会計は終わっていて、すみませんと頭を下げると「全然。それよか大丈夫?」とひょいと鞄を持ってくれた。だいぶ酔いは落ち着いていたものの、酔っぱらったふりをしてあまえたい気分だったので、よたよたと歩いてみせた。おいおい、と賢人さんが苦笑いしている。

「散歩も無理そう?」

「いや、歩けます。大丈夫です」

「本当かなー。っていうか、まだ結構暑いね」

 すでに夏至は過ぎていて、夜の大阪はじんわりと空気が重く湿っている。まだ昼間の明るさの余熱をわずかに残した藍色の空には、火照ったようなきつね色の半月がぽってりと浮かんでいた。軽くなった腕で、指を指す。

「なんかいなりずしみたいなかたち」

「いなりずしって……彩野ちゃんは食いしん坊だな」

 そういうなり、ふっと賢人さんの気配が濃くなった。と思ったら、ぎゅっと後ろから抱きしめられた。彼の表情は見えない。案外冷静な気持ちで、骨太な腕を感じながら少しだけ太った半月を眺める。

「彩野ちゃん、好き。付き合ってほしい」

 言わせた――。よっしゃとガッツポーズを決めて小躍りしたい気持ちを抑えて、「わたしも好きです」と口にする。口にした瞬間、そうだっけ、と思う。好き、ほしい、付き合いたい、そういう類の恋愛感情より何より、契約を無事取れた時の達成感に近いこの満足感。これであっているんだろうか。いやいや、そんなことを告白された場面で考えるのはあまりにも賢人さんに失礼だ。よかった、と心の底から安堵したような声を上げて、彼が頭を彩野の肩に載せた。熱と重みが直に伝わってくすぐったい。

「気づいてたと思うけど俺、初めての時から彩野ちゃんのこといいなって思ってたんだよ」

「ふふ、うん。そうかなーって思ってた」

「バレバレだった? 恥ずかしいな……やー、でも本当うれしい。あー」

 賢人さんがぐりぐりとおでこを肩に押し付けてくる。くすぐったいですよー、と言うと、そのまま耳を食まれた。いきなりの行動に、びっくりして声も出ない。

「気持ちいい?」

 賢人さんの声はねっとりと粘り気を帯びて熱っぽい。気持ちいいも何も、ここは外だし、人の目もある。さっきまでそれなりにロマンティックな雰囲気だったのに、思わず身を捩って腕から抜けそうとした。けれど、賢人さんは腕の力を弱めようとしない。なおも耳や首筋を舐めてこようとする。耳の濡れた部分に夜風が当たって、その生々しい感触に怖気がした。

 ――困る。

「あの……ここだと人が来るから、家に行かない?」

 ホテルに行かない? と言わなかったのは、慣れている、と思われたくなかったからだった。遊んでいてこういう事態に手慣れているとは思われたくない。「え、いいの」と賢人さんは嬉々として彩野を腕から解き、手をつないで大通りまで出てあっというまにタクシーを捕まえた。「大阪港まで。近くまで来たら案内してあげてね」あたりまえのように彩野の最寄り駅を運転手に告げ、後半は彩野に向かって言った。うん、とこたえた声が発されているのかどうかもよくわからなかった。賢人さんは彩野と指を絡めて上機嫌そうだ。車内でも何かされるのでは、と思っていたから手をつなぐだけで済んで内心ほっとした。

用心深く彼の横顔を眺める。鼻から顎にかけての骨格が優美で、外国のコインに彫ってある肖像画を連想させた。けれどその思いつきはもう、彩野の心を温めてはくれなかった。

 咄嗟に家に誘ってしまったけれど、今日の今日彼を家に泊めるつもりは全くなかったし、想定外だったからきちんと部屋を片付けてきた記憶もない。週末だからかなりとっ散らかっているはずだ。せめて賢人さんの家に行きたいと言うべきだったと思っても、今さら遅い。彼の家は三ノ宮だから、彩野の家に今から行けば泊まることになるのは確実だった。

 彼のことは嫌いではないし、告白された時は誇らしさで心が天まで舞い上がる心地だった。付き合うことは自分の希望通りだし、そうなれば当然その先のことも予想の範疇だった。むしろ、こういう、はっきりと容姿の綺麗な人としたらどんなふうだろう、とひそかに想像してにやついたこともないでもない。

 だけど。付き合ってすぐのすぐにしたかったかと言われたら、よくわからない。一応上下の揃った新しい下着を身に着けてはいるけれど、万が一に備えてというよりも、デートの時に完璧な自分でいたいという、願掛けやおまじないに近かった。「そろそろつきますけど、駅でいいですか」と運転手に言われ、「それでいいです」とこたえた。どこかなげやりな言い方に何か思ったのか隣から視線を感じたものの「コンビニで飲み物とか買っていこうか」とやさしく囁かれただけだった。

カードで、あと領収書くれる? と賢人さんがてきぱきと運転手とやり取りをして、「じゃ、行こうか」とにこにこしながら彩野の手を引いてタクシーから下ろした。

 駅のそばのセブンイレブンに立ち寄った。何かいる? と訊かれたものの、黙って首を振った。替えの靴下や下着や歯ブラシなどを買い物かごに次々入れる賢人さんは、遠足のお菓子を買う男子小学生のように楽しくたのしくてたまらない、というような表情を浮かべている。当然のように避妊具の箱を選び取るのを見て、さっと目をそらした。

「彩野ちゃんの家行くの楽しみ」

 買い物を済ませ、期待のこもった目で見つめられる。さあ連れていけと言わんばかりに、あたりをきょろきょろしているのが妙に腹立たしい。ああいやだ。せっかく彼氏ができたのに、いやな気持ちになりたくない。楽しくなりたい。どうにか笑顔を取り繕って「こっちだよ」と手をつないでアパートまで歩きだした。

 交際するのだから早かれ遅かれセックスはするのだ。告白してもいないのにラブホテルに誘われたのとは訳が違う。賢人さんは真面目に彼女を探していて、セオリー通り三回目に「付き合おう」と告白してくれて、特別美人なわけでもなんらかの才能に秀でているわけでもない彩野を選んで「好き」と言ってくれたのだ。だから。これは正しい。今晩、たった今の自分の気持ちはかき乱されていても、過去になれば、正しい夜になる。

 家に着くと、「片付けさせて」と言ったそばから賢人さんに激しく抱きしめられ、そのままベッドへ連れていかれた。予想通りだったので抵抗もしなかった。激しい衝動を見せたわりに挿入できるようになるまで時間がかかり、当然のように「なめて」と突きつけられた。たったの数時間前まで、どこか自分におもねるようなまなざしを向けて、拾ってもらうのを健気に待つ仔犬のようだった彼と、シャワーを浴びていない性器を彩野の口元にためらいなく突きつけてくる彼がどうしてつながっているのかわからなかったけれど、流れを止める方が面倒くさく思えて、心に蓋をして言われるがままにした。

 避妊具をつけて彩野に覆いかぶさった賢人さんは、単調な動きを繰り返して突然身体を離した。びっくりして「どうしたの?」と訊くと、「いっちゃった。すっごくよかったよ」と抱きしめられた。風船から漏れ出た空気のような声で、そう、とこたえるほかなかった。

つながっていた時間自体はそう長くなかったのに、身体がみっしりと重く濡れて疲れ切っていた。あれこれと賢人さんが腕枕をしながら話しかけてきたけれど、あまりに疲れて口を利く体力も残っていなかった。気がつけば寝入っていた。


 首を寝違えたようだ。

 腕枕をされたまま寝たせいか、背中も首もこわばって痛い。そういえば賢人さんが昨日泊まっていったんだったなあ、と思いだして、それだけで昨夜の疲労がどっとよみがえった。そろそろと彼の腕を身体の下から引き抜く。

 時間を見るためにスマホの画面をオンにした。ずらっと並んだ見覚えのない通知を見て、これは自分のものではなく賢人さんのものだと気づく。何気なく目を動かして固まった。

【サントラさんがいいねしました:24歳保険営業ちゃんと3回目アポして無事交際スタート。そのままタクって彼女の家にお泊り。着痩せするタイプらしく推定Fカップの巨乳で大興奮】

 24歳保険営業ちゃん。3回目アポ。推定Fカップの巨乳。

血液が瞬間冷凍されたかのようだった。心臓が体内を飛び出そうとするがごとく跳ね回っている。ロックを外そうとしたけれどもちろん無理で、少し考えてから自分のスマホをどうにか手繰り寄せてTwitterをひらき、先ほどのツイートを検索した。いくつかの単語の組み合わせですぐに発見した。名無しのK@婚活中、というアカウントだった。ふるえる指で過去のツイートを遡る。

【今日は24歳OLちゃんと2回目アポ。好感触、次で付き合えそうな手ごたえ】

【27歳看護師ちゃんと初アポ。美人だったけど、アプリ慣れしてる感じが透けててて、ちょっと微妙と思ってたら向こうから二軒目断られたw単に脈がなかっただけかw】

【初アポで焼き鳥。24歳OLの初々しい子 写真とそこまで差がないタイプでうれしい】

心臓がばくばくと跳ね回る。どうやらマッチングアプリでのできごとをTwitterで逐一実況中継していたらしい。

 ――どういうこと?

 尚もツイートをスクロールした。仕事内容や趣味は一致している。【今日の昼間はラーメンだよ~ 彩野ちゃんのランチはどんな感じ?】というLINEとともに送られてきたラーメンの画像もご丁寧にツイートしていた。

嘘はつかれていない。彼女を探していたことも本当らしい。だったら――でも―。

思考が強風で煽られる旗のようにばたばたと翻る。すぐさま決断を下せない自分がもどかしかった。何かの間違いであってほしい……この期に及んで、まだ、さっき見たものが信じられない。ああ。去年日記を盗み見た時とまるで同じだ。なんで自分は、おんなじようなことをいつもいつも繰り返しているのだろう。

「彩野ちゃん、もう起きたの? 一緒に寝よう?」

 賢人さんが寝ぼけた声で彩野の腰に手を伸ばしてきた。「シャワー浴びてくる」と言って、スマホを握りしめてベッドから抜け出す。誰かの手でごっそりと内臓をかき混ぜられたような強烈な吐き気がした。Twitterをもういちど開いて再確認する気力はなかった。

年齢と職業、身体的特徴。それだけが彩野の特長として記録されていた。ファッションにこだわった映画が好きだとか、学生時代よく聴いた音楽だとか、辛い食べ物は好きだけどトムヤムクンは苦手という共通点だとか、そういう話で盛り上がったあの時間、賢人さんは彩野と向かい合っていたわけではないのかもしれない。単なる肉の塊で、選ばれたのは若くて胸が大きいからで、彩野の思考や趣味や価値観や人となりは付属品でしかなかったらしい。

 でも、彼女は彼女だ。それには間違いない。身体目的だったらわざわざ「好きです付き合ってほしい」とか言わない。高そうなお店を事前予約して奢らない。そんな手間暇をかけるはずがない。

 冤罪を証明するためにあれこれ証拠を並び立てる弁護士のように、賢人さんやこの関係性の正しさを証明するものを洗いざらい頭で出し切った。もはや結末をわかっているドラマでも流し見しているような感覚だった。ふうっと息を吐いて、意を決して部屋に戻る。

「賢人さん、ちょっと起きて。話したいことあるから」

「何? 彩野ちゃん、ごめん、俺、まだ眠くて……」

「そういうのいいから」

 子供の不始末を叱る母親のような気分だった。ああ、こっちだってもっと、長く、楽しみたかった。けれど、こんな気持ちで居続けることがこの人と付き合うことだとすれば、自分は到底我慢できないし、幸せにはなれない。

「賢人さん……昨日はありがとう。でも、こういうふうに急に家に来られるのとか、付き合ってすぐエッチするのとか、わたし、あんまり好きじゃなくて」

 賢人さんはぽかんとした顔で、苦々しく説明をする彩野を眺めていた。左側にマンガのように派手な寝癖がついている。

「え……でも、家に行く、っていったのは彩野ちゃんじゃなかった? 急にどうしたの?」

「それはそうなんだけど……」

 切り返されてまごつく。そう仕向けたのはそっちではないか。外で、急に、盛った高校生のように……思いだしただけでもげんなりする。あの時自分は、どうにかいやらしい気分になって彼に同化できないか数秒堪えた。けれど無理だった。その時のきまり悪さと嫌悪感を、何の悪意もなさそうな顔できょとんとしている賢人さんにどう伝えたらいいのか。

「申し訳ないけど、このまま賢人さんと付き合うの、ちょっと、考えられない」

 勇気を振り絞って伝えた。大富豪でカードを出し切るような気分で切り札を叩きつけたのに、賢人さんはほんのりと、困った風の笑顔でこちらを見ているだけだ。そして言う。

「じゃあ、友だちからでもいいよ。ごめんね、俺が勝手に突っ走っちゃって。俺のこと、改めていいなって思えたら、付き合うっていうのでいいよ」

「それは……」

「これまで通りご飯食べたり遊んだりしようよ。でも今日は疲れたし、おうちデートがいいかな。どう?」

 マッチングアプリの広告にでも使えそうなくらい、左右対称の完璧な笑顔を浮かべて彼がぽんと枕を叩いてみせる。こちらの必死な抵抗など、赤んぼうのじゃれつきのようにやすやすとひねりつぶしてあくまでも自分が主導権を握る、この余裕。

 もう、気づかないふりはできなかった。

 この人のこのやり方は、初めてじゃない。これが、彼のやり口なのだ。


 相談したいことがある、とLINEすると鈴原はすぐ【明日ランチ行かへん? 会社の近所で安くておいしいベトナム料理の店見つけたから一緒に行こ】と返ってきた。

たった一日で別れることになった顛末をざらざらと話すと、グリーンカレーをことさら大きくすくって口に運んで、「あ~それ、ロマンスやりもくって言うらしいよ。災難やったなぁ」と言われた。昼間にはあまりふさわしくない単語をあっさり口にされて、こちらが少し動揺してしまった。

「ふうん……そんな名前がついてるの?」

「うん。やりもくはやりもくでも、ちゃんと付き合ってはくれるんよ。でも、基本的にはそういう……身体の関係が目的になってる彼女っていうんかなあ。そんなん、ただの遊び目的より卑怯やんな」

 鈴原の目は義憤に駆られて赤みを帯びている。彩野への揶揄や侮りや好奇心の色はそこにはなく、友人としてまっすぐに怒ってくれているのが伝わって嬉しかった。それと同時に、どこか鈴原への対抗心でマッチングアプリで男性と次々会っていたことが、うなだれるほど恥ずかしかった。

「でもずるずる付き合わへんくてえらいよ。ちゃーんと切ったんやん」

「うん。ちょーっとだけ揉めたけど」LINEをブロックしてそれっきり会っていない。

「わたしやったらそんなにきっぱり別れられへんかも」

「そう?」

「だってめちゃくちゃかっこよくて気前もよかったんやろ? 多少性欲が先行してるなって気づいたとしても、それも愛情の一種、って自分に言い聞かせて付き合い続けてたかもなあ。わたし、めちゃくちゃ面食いだから」鈴原が恥ずかしそうに薄い肩をすくめてみせる。「それに、まあ、そういうことをしたら、情が入ってまうやん。女の子は特にな」

「んー……わたし、初めてできた彼氏が、そういう感じだったから、見切りが早かっただけかも。そいつは、とにかく童貞捨てたい、そういうことをしたい、みたいなのが透けて見える人だったっていうか」

 昼時なので一応声を低めて早口で言う。鈴原は、うはぁ、と腹を殴られたような声を上げて眉を顰めた。

「大学生って多かれ少なかれそうかもしれへんけど、露骨に見えると醒めるな。っていうか、めちゃくちゃ失礼やわ」

「だよね。身体じゃなくてわたしの心をめあてに付き合ってくれる人と出会いたいよー」

 なんやポエジーな表現やね、と鈴原が笑いながらガパオライスを口に運ぶ。彼女は彼女で、いい雰囲気だったエンジニアの男性が急に音信不通になり、ようやくLINEが返ってきたと思ったら別のアプリで彼女ができたからもう会えない、と告げられたらしい。「なーんか一気に疲れたわ。しばらくアプリは休もうかな」と鈴原がため息を吐くのを見て、ひそやかにほっとしてしまう自分が、卑劣で心の狭い人間に思えた。しくりと胸が痛む。

「鈴原は結婚したいの?」

「うん。子供ほしいし、仕事つらいし。結婚したら辞めてパートとか探したい。今はなんとか必死に食らいついてるけど、フルタイムでこの先何十年も働くのって考えられへん」

「わかる……」

 お互い、営業成績は同期の中では悪くない方だ。けれど、それもいつまで保ち続けられるかわからないというプレッシャーがかかり、常に心身をぴりぴりと尖らせてくる。それをひょいと荷物を持つように、隣の誰かが取り除いてくれたらどれだけ楽だろう。

 安定した大手企業で、ばりばり稼いでいる賢人さんと付き合い続けることを選べば、それがいともたやすく叶ったのにそうはしなかった。生々しい記憶がよみがえりそうになり、油膜が浮いたお冷を一気に飲む。なあ、と鈴原が可愛らしく小首を傾げた。

「お互いアプリで痛い目見たし、今度街コン行かへん。一人やと参加しづらいんよ」

「えっ、婚活休むんじゃなかったの」

「アプリはね。でも、今が一番若いんやから、今動かなもったいないやん。うちらたったの二十四歳やで」

 からりと鈴原が太陽のように笑う。賢人さんの一件でほとほとくたびれてはいたけれど、たった今は友人の気丈な力強さについていきたい一心で「わかった、行く」とうなずいた。


 当日の昼間になって、どんな服装で参加すればいいのか迷って【街コン 服装】で検索した。とたん、ずらずらとたくさんの記事がヒットした。

【街コンに着ていくファッションのベストアンサー教えます! 男性ウケ抜群のモテコーデ5線】【間違いない! 男性目線でプロが教える婚活女性の正解ファッション】――いくつかヒットした記事を流し読みする。どの記事でも、お洒落が尖りすぎたり露出が激しい服はNGで、パンツルックよりスカートかワンピース、だけど膝下丈より長くないとだめで、白を基調にしたふんわりした色合いのパステルカラーの可愛らしい服装を勧めていた。なんというか、無難だしたしかにもてそうだけれど、自分の好みとは少し違う。

大学生の頃はそういう服も好んで買ってはいたけれど、普段週五でスーツを着ている反動もあってか、最近はTシャツとデニムなどといったカジュアル目な服装の方が好きだ。かつ、アプリで男性と会う時は平日就業後に会うことが多かったので、いわゆるデート服と呼ばれる服は、手持ちにはほとんどない。

しかたなく、ベージュのレザー素材の膝丈のスカートと水色の半そでブラウスを合わせた。季節感がちぐはぐだが、色味は記事の指南通り、やさしいパステルカラーで揃えている。濃いメイクも印象が悪い、とあったので、いつもより薄い色の口紅を引いた。

出がけに全身鏡を覗く。自分らしさがほとんどない姿でちっとも気持ちは盛り上がらなかったものの、服を取り換えている時間はない。

そのまま会場の難波駅に急ぐ。【お店の前で集合ね】と鈴原からLINEが来ていた。送られてきた地図のURLを覗きながら店を探していると、「お疲れ!」とするりと誰かが彩野の腕を取った。

水色のシャツワンピースに白い帆布のトートを肩にかけた鈴原がにこにこしている。いつもと印象が違うと思ったら、髪を巻いているようだ。

「お疲れー。可愛い、鈴原の私服ってお嬢様っぽい感じだね」

「ありがと。大海ちゃんも水色の服やん。お揃いっぽくて恥ずいな」

 二人で会場の居酒屋へ向かうと、すでに係の女性が立っていた。同い歳ぐらいだろう。簡単な説明を受けて、そそくさと中へ入る。

 すでに何人か入っていた。ほとんどの人が彩野たちと同様で友人連れで参加しているようだった。目が合わない程度にちらちらと視線がゆるく絡み合う。ひそかに参加者のレベル感をチェックしたけれど、女性陣はみんな、普通な程度には可愛らしい。一方で、男性陣はこれといって気になる人も、テンションが下がるくらい見た目に難があるような人もおらず、無難といった印象だった。

「女の子、みんな可愛いね」

 隣の鈴原に囁く。「せやね。前参加した時よりも、レベル上がってる感じする」とどこか感心したようにうなずいている。みんなセミロングの髪を巻いて、ふんわりしたパステルカラーの服に身を包んで、ワンピースかスカート姿だ。けれど、自分たちも含めてみんな似たり寄ったりの外見になっているせいで、目を引く子や気になる雰囲気の人は誰もいなかった。いっそTシャツにショートパンツの方が目立ったかもしれないな、と思う。

 ――みんな、おんなじような記事見て服選んできたんだろうな。

 出会いに高い期待はしていなくても、悪目立ちしたり、全く誰にも相手にされなくて傷つくのはまっぴらなのだ。女性も男性もどことなく、入学したてのおとなしい大学生っぽい服装をしているな、と気づいてふっとやる気の温度が下がっていくのを感じた。


 マッチングアプリ自体がトラウマになってしまうのは、自分が敗北したように思えていやだった。賢人さんと出会ったアプリは退会して、別のアプリをインストールして、またイチからプロフィールを作成するところから始めた。鈴原と一緒に行った街コンでは芳しいできごとは特段なく、「飲みなおして帰ろー」と鈴原に誘われるがまま居酒屋で軽く飲んで帰っただけだった。

 いいねをして、マッチングして、あいさつ程度の会話を形式上かわして、カフェか居酒屋でデートをする、その繰り返し。ぴんとくる人は特にいなかったけれど、大抵の人がご飯代を出してくれるので、食費が浮くという点では助かった。奢ってもらうごはんめあてでマッチングアプリを使う女の子もいるらしい。

それを知った時はげー、とけち臭さに苦笑いしてしまったけれど、自分も似たり寄ったりかもな、と思わないでもない。タイプではない人だとしても、プロフィールの「デート代」の項目が「男性が全て払う」になっている人から誘われれば食事の誘いに乗るようにしているからだ。社会人二年目になって住民税が課されたことで一年目の時より節約を強いられていることもあり、ちゃっかりマッチングアプリでのデートで夕飯を済ませるようになった。あんなに嫌な目に遭ったのに賢人さんに対しての恨みや怨念が意外にも尾を引かなかったのは、お金に関して言えば一切こちらが出すことはなかったということもあるかもしれない。

 だらだら続けていて、会った相手は二十人を超えた。一向に彼氏ができる気配はない。それでもいいかな、次の誕生日も気の置けない友だちに祝ってもらうんでも――そう思っていた矢先のことだった。

 退勤の準備をしていたら鈴原がはにかみながら「彼氏できたんよ」と報告してきた。咄嗟のことに「うっそお」と返してしまった。気を悪くするでもなく「本当だよーん」と鈴原はけらけら笑った。最近お互いの進捗について聞くことも減ったので、てっきり活動に飽きたのかとばかり思っていた。

「二十七歳で、今は研修医してるんよ! 平日休みだからデートの予定合わせるのちょっと大変だったんだけど、わたしが彼の近所に引っ越すことにして、付き合うことにしてん」

 いつになく彼女の関西弁があまく響いた。そぉなんだぁ、と相槌を打つ自分の声がどことなく遠い。悔しがっている、と思われるのが嫌で、交際のプロセスや彼のプロフィールやデートの内容について熱心に質問を重ねた。鈴原は、自慢するでもなく、ただただ嬉しそうに彼について話していた。その笑顔は心から可愛らしく、ああ、この子は自分を愛してくれる人を見つけたんだなと思うと胸がじゅくじゅくと爛れるように痛んだ。 


 それだけは死んでもありえない、と思うようなことをした。なんで、と言われても、そういうことがしたい気分だったからとしかいいようがない。

「俺、彩野ちゃんにまた会えるとは思わなかったよ。ありがとうね」

 賢人さんは横ににっと唇を引いた。付き合う前は爽やかな印象を与えたこの笑みも、今となっては彼のいやらしさやずるさを象徴するような粘っこいものにしか思えない。

あの時は、彼の整った顔の造形やバランスの取れたスタイル、出身大学や年収にばかり気を取られていたからわからなかった。そういう点ではこの人とわたしとで人間性の浅さやくだらなさではそう大差なかったかもな、としげしげと眺めまわしながら冷静に思う。

「なんで連絡くれたの? っていうかLINE、急にブロックされてめちゃくちゃびっくりしてたんだよ。どうしてたの?」

「んーまあいいじゃん、そんなの」

 彼の真似をして笑顔で封じる。賢人さんは一瞬表情を曇らせたものの瞬時に割り切ることにしたのか、そっかとうなずいただけだった。

 焼肉を食べたあと、間髪入れずに「家連れてってよ」と言ったが「ごめん、忙しくてめちゃくちゃ部屋散らかってるんだよね。また今度ね」と予想通り断られた。結婚しているか、同棲している相手でもいるのか。追及の言葉が喉元まで出かかっていたけれど「じゃ、ホテルでいいや。わたしの家も今汚いから人呼べないんだよねー」と返した。賢人さんは嬉々として、北新地のホテル街へと歩きだした。

 彼が選んだのは遊郭を彷彿させる和風のホテルで、まがまがしいほど派手な朱色の壁に金色の照明がぶらさがる部屋だった。肉の脂の匂いのする口でしゃぶりつくようにキスをされたので、舌が入ってくる前にさりげなく顔をそむけた。キスではなく単純にセックスがしたくて連絡したのだ。持っていない情を嗅がされるような余計なことはされたくない。彩野の意図を察したのか、それからは淡々と前戯へと移った。

 単に性欲だとかストレスを解消するための相手だとすればこの人わりに悪くないかもな、と冷静に思いながら嬌声を上げ、身を捩り、腰を振った。見た目はなんのせ文句のつけどころのないイケメンで、避妊は嫌がらないし、寄り道や遊びどころのない決まり切ったルートのセックスをする。完全に入れられる状態になるまではやや手間取るものの、達するのは早いので案外とあっさりと終わる。面白みに欠ける点すら、欲を満たすためだけなら申し分ない条件に思えた。集中しきらずに頭の片隅で淡々と考えていると、遊び目的の男の子ってこういう目で値踏みしてるんだろうか、とよぎってすっと体温が下がった。

気持ちよかったよ、と汗だくで賢人さんが彩野の中から抜け出す。牛丼チェーンを後にするような気持ちで「シャワー浴びてくる」と言って一人で浴室に向かった。一緒に入る、と言われたら面倒だなと思ったけれど、達してすぐには俊敏な動きを取る気にならないらしく、巨大なベッドにへばりつくような格好で「はーい」と彩野を見送るだけだった。横になると案外貧相な胸板が強調されて、はっきりと浮いたあばらは打ち捨てられたいかだを連想させた。

 丁寧に頭を洗い、すみずみまで身体をボディソープに包んでありとあらゆる体液を落とした。男の奢りで焼き肉を食べてセックスをしてお風呂に入る、というわかりやすい流れを通して、意識ごと滝行でもしたみたいにやけにすっきりした気持ちだった。

丁寧にブローしてから部屋に戻ると、全裸のまま賢人さんが口を開けて寝こけていた。酒を飲んだからか、いびきをかいている。

 物音を立てないよう、静かに服を着た。そして、そうっと室内を動き、彼の脱ぎ捨てたズボンからスマホを取り出す。

液晶画面に指の痕が残っていたので何パターンか試したらすぐにロックが外れた。LINEにもロックがかかっていたので、こちらは指紋認証で開ける。焼き肉店で日本酒を勧めたのがよかったのか、賢人さんは深く寝入っているようだ。

 LINEのトーク履歴を一つひとつ検分する。あかちゃんをアイコンにしているRISAという名前の相手とのトークルームをひらいた。【今日は何時に帰ってくる?】【明日11時からあきちゃんの病院予約取ったから予防接種行ってくる】【今日ちょっとお腹ゆるいみたい 熱はなし】【残業決定 徹夜かも 寝ててね】【予防接種の予約ありがとう】【先に寝るね いつも遅くまでおつかれさま】――そこまで読んで、既婚者かよ、と口の中で呟いた。たった今賢人さんの全裸写真を送りつけることも考えたけれど、彼女は自分の敵ではない。賢人さんの妻を傷つけたところで、さして胸が晴れるわけでもなさそうだ。子供の写真を見てしまったこともあってむしろ罪悪感のほうが勝るだろう。だとしたら。

 いびきはまだつづいている。

 顔がしっかりと映るように、全裸の写真を撮った。寝顔だと誰だかわかりづらい。ふと思いついて、同じくスーツのポケットに入っていた財布から名刺を取り出してそうっと裸の胸に置いた。社名とフルネームは以前聞いたものと一致している。ばーか、と思いながら名刺と顔が入るようにアップの写真も撮った。音と光に一瞬彼がぴくりと顔の筋肉を引き攣らせたけれど、起きることはない。

 運がいいことに社用スマホだったのでOutlookを開いた。送信履歴の一番上にあったメールを適当に開いて、たった今撮った写真を二枚添付して送信する。送信履歴と写真を消して、ポケットに戻そうとしてやめた。自分の鞄に滑り込ませる。

「じゃーね」

 唾を吐き捨てるように呟いて部屋を後にする。せいせいする気持ちでラブホテルを抜け出して、駅へと歩きだす。もう終電はないけれど割増のタクシー代ぐらいは自分で払える。もうおとなだから。

彼の社用スマホはアスファルトに叩きつけるのと大阪港の海に捨てるのとどちらが爽快だろうか。自分のスマホを開いて連絡先をもう一度綺麗に消そう。いくつも溜まっている、いちどデートしたっきり未読スルーしている男性たちとのLINE履歴も整理して全部消してしまおう。

 二十五歳までの誕生日まで、あと十カ月。

 可愛い年齢が終わるまで、時間は残されていない。家に帰ったら、顔が裏返るくらいうんと泣いて、入浴剤を入れた湯舟に浸かって、温かいベッドで眠る。そうしよう。かつかつとヒールを鳴らして駅まで向かいながら、そう決めた。


 第四章 二十七歳

 再来週の土曜日は早いうちから会えそうだから遠出しようか、と光介から誘われた時(もしかして)と思った。

ととと、と心臓が飛び立つ前のことりのようにつま先立ちして走り出してしまいそうになるのを抑えこみながら「うれしい、神戸とか行く?」と何気なく誘導してみる。うーん、と光介は困ったように「車出して、和歌山の方まで行こうかなと思ってた」と言った。

「和歌山……温泉とかに行くってこと?」

「日帰りのつもりだったけどそれもいいかもね。高野山に行ってみない? 俺、学生の時に一回行って、結構感動したことがあって。実は世界遺産って知ってた?」

 がくりと膝から力が抜けそうになった。なおも高野山や真言宗の歴史について熱っぽく語る恋人の脳には、その日が何の日であるかということは刻まれていないのだろうか。

「紅葉シーズンだから混んでるかもしれないけど、だとしても一見の価値はあると思うよ。あれ……興味ない?」

 彩野が表情からにこやかさを失っていることにようやく気づいたのか、光介が話すスピードをゆるめた。「ないわけじゃないけど……」とこたえながらも、腹の虫がぐっと内側に丸まり、不機嫌になるのを止められない。

 世界遺産も寺も和歌山も正直興味はないけれど、別に一緒に行く分には別に不服はない。爺臭い趣味だなあと思いながらも、少年のように顔を輝かせて嬉々として楽しむ光介と歩けばそれなりに楽しい小旅行になるだろう。それはわかる。わかるけれど――。

 なんかもっとロマンチックなところに行きたかったな。気を取り直してだって「日帰りじゃなくて、どっか旅館に泊まって温泉入りたい」と言うと、光介はほっとしたように頬を緩めて「じゃあ探して候補出すね」と言った。


 二歳上の光介と付き合い始めてもうすぐ二年経つ。けれど一向に関係を決定的に進めるような言葉が彼の口から飛び出してくることはない。

「結婚前提で付き合ってるんだよね? だったらそんなにかりかりあせる必要全くなくない? 彩野ってまだ二十七歳じゃん」

 目の前の埃でも払い落とすみたいに、美冠さんはあっさりと鼻で笑う。泣きたくなるくらいの苛立ちや焦りが、結婚願望がないこの人にはどうしても伝わらないらしい。

「そうだけど……付き合ってるだけだと不安なんだよね。もう二度と婚活市場に戻りたくない。だからもうさっさと結婚したいんだよ」

「結婚したら今ある不安が全部解消されるわけ? 別の種類の不安に変わるだけじゃん?」

 運ばれてきた焼き鳥を山賊のように口で抜き取りながら、こちらを煽るようなことを言う。この子の方が歳下なのに、会話しているといつだってからかわれるのは彩野の方だ。

「そうかもしれないけど」と唇を尖らせる。「だとしてもいつまで踊り場で足踏みしてなきゃいけないんだろうって思っちゃうんだよ」

 結婚したい――最初は茶柱が浮かぶぐらいのごく小さな希望だったのに、いつのまにか自分の心の真ん中に深く根を張る大木のような存在感のある意志へと成り果てた。われながら、何がどうしてこんなに結婚願望が強くなったのかよくわからない。後輩のマネジメントが業務に新しく加わって、それが全く思う通りに行かなくて激しいストレスになり始めたことも多分大いに関係ある。

要するに仕事を辞めてもいい理由がほしいのかもしれない。ばかにされる覚悟で正直に告げると「そんなにしんどいの?」と首を傾げられた。

「わたし、会社で働いてないからあんまり想像つかないなあ。そりゃ、後輩がつくって簡単なことではないだろうけど、彩野は人当たりいいしどっちかと言えば世話焼きなタイプだから向いてそうに思えるけどね」

「うーん、やってみるまでは正直わたしもそう思ってたんだけどね……それがそうでもないみたい」はるか昔、中高時代は吹奏楽部にいたので上下関係にはわりと慣れている方だと自負していた。今となっては思い上がりも甚だしかったな、としか思えない。「今担当してる子、二人いるけど両方とも仕事に対して全く熱意がなくて、いつ退職しても不思議じゃない感じの子たちなんだよね。頑張ってはっぱかけてるけど、こっちの心が折れそう」

 とはいえ、指導職から降りられるのであれば今の仕事は天職だと思っているから、何が何でも今すぐ転職したいわけでもない。それに、今年指導職に就くのはあくまでもジョブローテーションの一環だから、一年耐えればまた現場に戻される。「要するに、やめたときの保険として結婚しときたいってことね」と美冠さんが意地悪く言う。

「それは、ある。でも結婚って女性にとって多かれ少なかれそういう側面もあるでしょ」

「そうだね。結婚をあせる理由の多くは経済的理由がほとんどだと思うよ。女側はさ」

 とりま煙草吸ってくる、と美冠さんがポーチを持って立ち上がった。カランとドアベルが鳴ると、香水の気配だけが残った。


 婚活を通して出会った男性のおおよその人数は百人前後だろうか。

恋愛相手もしくは結婚相手候補を探している、という目的が明確な上で会っている以上、婚活を通して出会うと最短で相手の深いパーソナリティを知ることができる一方で交際に至らなかった場合絶縁になるのが定石だ。ごくまれに「恋人にかぎらず友だちを探すために使っている」と言う人もいなくはないけれど、大概は都合よく遊べる相手を片手間に探しているだけの遊び人だ。かつて一緒に婚活をしていた元同期・鈴原は結婚を機に会社を辞める前に「友だちになった人とは今でもたまーに飲みに行くよ。結婚したらもう無理かな」などと言っていたけれど彩野にはそういう相手が現れなかった。

 美冠さんだけをのぞいて。

 光介とすでに会い始めていた頃だったと思う。交際は始まっていないにしろ光介に惹かれつつも、まだ決め手が足りないような気がして、婚活は続けていた。とはいえ、本命がいる余裕があったせいか、いつもなら働く勘が鈍っていたのかもしれない。

 会う約束をしていた男にすっぽかされたのだ。

直前まで「今日はよろしくお願いします あやのさんはどんな服装ですか?」「紺のワンピースです!」などとやりとりをしていたのに、彼は現れなかった。

悪い予感はあった。それに気づかないふりをしつつ、一体何が起こっているんだろう、とスマホ画面と待ち合わせしていたカフェの店内をきょろきょろしていると、「すみませーん。あなた、あやのさん?」と大柄な女の人に話しかけられた。

ずいぶん浅黒い。頬骨の目立つ、どこかエキゾチックな雰囲気をまとった彼女をぎょっとして見つめ返すと、にやりと笑って「今日会う約束していた高須ってやつの代理です」と言ってどっかりと彩野の前の席に座った。

全く事態が呑み込めず、「なんなんですか?」と聞き返すと、丁寧に説明してくれた。

「高須、今日ダブルブッキングだったんだって。あいつ遊びメインのアプリと婚活のアプリを並行してやってて、どっちかかぶると遊びっぽいアプリで会った子を取るんですよ。勝率がいいからって」

「はあ」

「でもダブルブッキングに気づいたのが約束の一時間前で、飛ぶのもなあっつーことで、知人のわたしが代打で来ました。お金はpaypayでもらってるから好きなもの頼んでいいよ。ケーキとかでもいいしさ」

 意味がわからないなりに状況が読めてきた。どうやら自分はマッチした相手に選ばれず、目の前の見知らぬ同性とお茶しなければならないらしい。

「……高須さんとはどういう関係ですか」

「ん、友だち。最寄り駅が同じなんだよね。って、全然信用してないでしょ。ただの友だち。ほんとのほんと。大学が一緒だったの」じゃあ阪大ですか、と小声でたずねると「そ」とそっけなくうなずく。二人はサークルの先輩と後輩らしい。初対面の同性を前にしていても、彼女の佇まいがやけに堂に入っているのは自信を芯に携えているからだろうか、とひそかに邪推してしまう。

「わたし、神原美冠。ため口でいいよ」

「みかん?」名字にも名前にも同じ音が入っている。

「美しい冠でみかん。DQNネームなのはわかってるんであんま突っ込まないでね」

 あなたは、と訊かれ、用心深く「彩野です。彩りに野原の野」と下の名前だけを名乗った。何歳? と訊かれたので「二十五歳だけど」と言うと、「あ、やべ歳上だった」と鼻に皺を寄せてくしゃりと笑った。案外やんちゃな位置にある乱杭歯が無防備に覗いた。

「美冠さんこそ、堂々としてるから歳上かと思ってました」

「いいよ気ぃ遣わなくて。わたし誰にでも態度がでかいから、ふてぶてしすぎて若く見られないんだよね、いつも。敬語も別にいいから」

 アイスコーヒーとクラブサンドのセットを頼み、「彩野さんは」と顎をしゃくるようにうながすので「ロイヤルミルクティーのホットと抹茶のパンケーキのセット」と頼んだ。本当は食欲なんか失せていたけれど、こうなったら意地でも食べ物を頼んでやりたかった。

「このカフェ、女子ウケがいいのかな? たぶんうちらの隣の隣もアプリじゃないかな」

 声を低めて彼女が言う。視線を横に流すと、会話こそ聞こえてこないものの、確かにどことなくよそよそしさと、それでいて双方に媚びの雰囲気があった。初回かもしれない。

ダブルブッキングさえされなければわたしもあんな感じだったのかな、と思いながら早々に届いたパンケーキの塔を崩す。「やっぱそれおいしそうっすね。ちょっともらおうかな」と神原美冠が呟き、こたえるまえに「すみません。お皿もう一つください」と店員に声をかけていた。

この子の距離感はかなり変わっている。嫌悪感があるとかではないけれど、確実に今まで会ったことがないタイプで正直なところ戸惑っていた。そもそもこんな状況自体どうかしているのだ。

「彩野さん、彼氏探してるの?」

「……まあ」

「結婚願望はある?」初対面で随分つけつけ訊いてくる子だ。「できれば」と気圧されながらうなずく。

「とりあえず高須は辞めた方がいいね。いろんな意味で外面がいいからめちゃくちゃもてるけど、自分の需要を理解しつくしてるからめちゃくちゃ遊んでるし。少なくとも三十二、三歳までは遊びたいって豪語してるよ」

 今日会う予定だった彼のプロフィールを思いだし、不承不承頷いた。大阪大学出身の二十六歳、経営コンサルタントで年収一千万円以上、顔も韓国アイドルみたいに整っていた。明らかに女の子が撮ったであろう、加工アプリでの写真しか載せていなかったことが気にならなかったわけではないにしろ、向こうからいいねが来てデートも誘ってくれたので、正直、悪い気分ではなかった。ありていに言えば期待してもいた。

彼にしてみれば多数いる候補のうちに気まぐれで手を差しだして、土壇場になって蓋をしたに過ぎないのだと思うと悔しくてたまらない。マッチングアプリを生活に取り入れて以来、同じようなミスをかれこれ数回繰り返しているような気がしないでもないな、と思うとげんなりした。

「わたしもマッチングアプリは一通りやったことあるけど、あれは本当にかったるいよね」

「あ、やったことあるんだ」つられて敬語が外れた。だるいって、と彼女は顔を全力で顰めた。表情の作り方の思い切りがいい子だな、と思う。

「年収とか学歴とか身長とか出身地とか全部まるみえ過ぎて、もはや不動産で賃貸物色してるみたいな感覚になるっていうか……会ったら会ったで向こうも査定モードで見てくるし。っていうかそうこうしてるうちに彼女できたんで辞めました」

「へ」

 聞き違えたかと思い訊き返すと、予想していたのだろう、美冠さんは「彼女。自分、バイなもんで」とあっさりと言った。声を潜めるわけでもなく、淡々とした口調だった。

「だから高須みたいな屑とも付き合いあるんだよね。サークルで部員に手ぇ出しまくってたから女子じゅうに嫌われてたな」

「ふうん……」

「遊んでるやつあるあるなのかは知らないけど、いざ本気で好きな子に会った時に全然相手にされなくてさ、そういう時だけわたしに連絡来て愚痴吐くの。虫が良すぎてむかつくんだけど、ハイスぺがプライドぺしゃんこにされてるのって見ててやっぱり痛快じゃん? だからブロックしてないんだよね」

 アイスコーヒーを啜りながらしゃあしゃあと言う。性格が悪いというよりも、正直な人なんだな、という好感の方が勝った。もちろん、無断でデートをすっぽかされた相手の悪口だったから、というのもあるだろうけれど、この、歳下なのにやけに堂々とした女の子のことをすでに好きになりかけていた。

 結局二時間くらい話していた。会計は宣言通り美冠さんが払ってくれた。「また話したいな。次は飲みに行きましょうよ」と誘ってみると「んー、気が向いたらね。今付き合ってる人、だいぶ頑張ってOKもらったから同性と遊ぶ時は結構慎重なんだ。こう見えて」とあっさりとかわされた。けれどLINEのQRコードを先に差し出してきたのは彼女の方だった。アイコンはよくわからない抽象画で、この人らしいな、と思った。

 

以来、季節に一回ぐらいのペースで会っている。その時々で違う女の子と付き合っていて、たまに男の人と付き合っている。美冠さんと知り合って二年目になり、今の恋人は、以前の恋人のままであれば女性のはずだ。

「ごめん。そんで、そもそもあんたの彼氏は結婚相手として申し分ないの? もうこれ以上探さなくてもいいわけ?」

 煙草から戻ってくるなり美冠さんが突っ込んできた。付き合いが長くなっても歳下の彼女を相変わらずさん付けで呼んでしまうのは、物言いが直球で鋭い上に、太刀打ちできないほど頭の回転が早いことを知っているせいだ。呼び捨てにするタイミングを完全に失ってしまっている。

「申し分ないっていうか……別に、めちゃくちゃパーフェクトだとは思わないけど、結婚願望ある人だし、タイミングはちょうどいいかなって」

「ふうん」

「そりゃあ探せばもっと光介より相性いい人とかより外見が好みの人とかいるのかもしれないけど、婚活って果てがないしさ。結婚したいって思ったときに同じくらいの熱量で結婚したいと思ってる人と付き合えたんだから、その人が自分の運命なのかなって思うよ」

 もちろん欲を言えばきりがない。どうせ結婚するならアプリだとか胡散臭いツールではなくてもっと自然なかたちで出会った人の方がいいと数年前の彩野ならこだわったはずだ。けれど、婚活を始めて二年以上が経過した今は、もう、それがいかに贅沢者のたわごとか痛感しきっていた。

失礼な人も変な人も異常な人もわんさか遭遇した。けれど、婚活の一番のつらさは、本来婚活をしなければ出会わなかったような人たちと一体一で対峙しなければいけないこと、じゃなかった。

自分が「こういう人となら自分と釣り合うんじゃないかな」とひそかに見定めてアプローチした人にあっさりと袖にされること。二人だけで会っていても、その場にいない誰かと常に比べられている気配を感じること。アプリを通すととても手軽に異性と出会える半面、人としての重みが薄れているような扱われ方をすることは、そう少なくなかった。

さっきまで楽しく話して次のデートの約束をしていた人に、気がつけば連絡先をブロックされてアプリ内のトーク履歴が跡形もなく消えていた、なんてことはざらにある。美冠さんと会うきっかけになった彼は土壇場キャンセルをしてきたけれどだいぶましなほうだ。

無言で【なし】判定をされて、スワイプするかのような軽さで、会ったことがなかったことにされてしまう。アプリを使って婚活する以上はそれを当たり前として受け入れながら活動しなければいけないということが、一向に慣れなかった。生身の身体と心を持つ存在であるということを、いともたやすく軽んじられるような経験の積み重ねだからだ。

「とか言うけどさ、女側だって無言で断るみたいなのはあるあるでしょう。むしろアプローチされる側なんだから彩野が無言ブロックされてる倍は同じことしてると思うんだけど」

 あーわかる、とでも共感してくれると思ったのに、ほそい目でじろりと見つめられる。美冠さんと話していると、ごまかしたり曖昧にぼかして煙に巻く、ということができない。

「う……なるべく無言じゃなくてひと言挨拶したりはするよ。彼氏ができたので、みたいな。まあ、でも、面倒なときとか、あんまり感じがいい人じゃなかったらブロックして終わらせてた、かな……」

「そりゃあそうよ。それこそアプリで完結する出会いのいいところじゃん? いちいち会った人とか話した人を人間扱いしてたらそれこそキリがないよ」

 美冠さんが口をへの字に曲げる。そうかもしれない。年齢だの身長だの年収だのありとあらゆる数字が可視化された状態で流れてくる情報を人差し指で選んだり選ばなかったりする。そこに魂が宿る生身の人間はいない。文句をつける立場ではないことに気づいて、いたたまれなくなった。

「ねえ、美冠さんはどういう基準で恋人を選んでるの」

 すっかり氷が解けてしまってグラスが汗を流しているレモネードを啜る。底にたまってしまった果肉をマドラースプーンで掬って食べていると、「そうねえ」と美冠さんはめずらしく即答せず、しばらく考え込んだ。

「基準はないよ。いっつもばらばら。とりあえず試してみようかくらいのノリで付き合うからハードルかなり低いしね」

「今の人は? ジムのトレーナーしてる女の子だっけ」

「あー、弩級の浮気者だったから即別れた。肉体労働者って色気あってかっこいいなと思ってたんだけどね。今は大学の助教と付き合ってる。十歳上」

 男の人と付き合っていると知って、ほんのり落胆している自分に気づいてなんだか恥ずかしくなった。「わ、結構離れてるね。ほんとに美冠さんって幅広いよね」と意図して高い声をつくり、感心しているふりをして自分の中の濁った感情に蓋をする。

バイセクシュアルの人には、心のどこかで、マイノリティな性的嗜好を選んでほしいと思ってしまっているのかもしれない。自分よりずっと複雑な人生を歩んでいるだろう人に対して、よりわくわくするようなドラマを垣間見せてほしい、と無意識下に望んでいるということなのだろうか。わたしっていやな人間なのかもな、と内心落ち込んでいると「結局なんで結婚したいわけ」と美冠さんが話を彩野に戻した。

「なんでって……うーん、安心したいから? 安定が欲しいんだと思うよ」

「別に、結婚して籍入れたからと言って安定が確約されるわけではないと思うけど」

 にべもない返しに、うっと詰まる。結婚願望がない人にこの感覚をどう伝えたらわかってもらえるのだろう。

黙りこくった彩野を見て、美冠さんは「まあ、そこは別にいいけど」と出来の悪い生徒のレポートに【可】を便宜上つける教授のように受け流した。

 

 本当はもっとだらだらといつまででも話していたかったのだけれど、今日夜から打ち合わせ入ってるから、と美冠さんが会計のためにさっさと立ち上がってしまった。フリーランスの彼女はWEBデザイナーで、会社のロゴや販促物のイラスト、ウェブサイトのデザイン、時には装丁まで幅広く手掛けている。

経歴を知って驚いたのは、就職は一度もしていないということだ。大学卒業後バイトをしながらいろんな会社に営業に行って仕事を少しずつもぎとり、フリーターから脱却したという。阪大を出てわざわざ? と思ったものの、さすがに軽蔑されるのが怖くて憚られた。きっと新卒の頃だったら口に出して顰蹙を買っていただろうとも思う。自分が知らないだけで、生計を立てるのには多彩な方法がある。そのことに思いを馳せられるようになったのは、ひょっとしたら婚活で得られた知見の一つかもしれない。

美冠さんと会う時はいつだって彼女のペースで進行するけれど、意外とそれが心地よくて、毎度誘うのは彩野の方だ。同性と遊ぶ時、このあとどうする? という様子見の伺い合いが常だから、自分のペースでさっさと決めてくれる美冠さんの傍若無人とすれすれの潔さが一緒にいて楽に思える。それでいて、「この店、雰囲気良かったね。今度ここで仕事しにこようかな」と店選びを褒めるまめさもある。けっして万人受けする容姿や服装の趣味ではない毒舌家の彼女が、いつだって恋人を切らさない理由は少しわかる。

 駅まで歩きながら、美冠さんが「仲いいんだしいいんじゃない? 現状維持でもさ」と呟いた。間をおいてから、彩野と光介のことを差しているのだと気づく。

「かなあ。ま、タイミングはいつにしろ今の彼と結婚するんだろうなって確信してはいるんだけどね」

 マスクをつけながらはいはい、と面倒くさそうにあしらわれる。心斎橋に行くという美冠さんと別れて、家に帰った。


 昼に外食した日は、なるべく夜は自炊するように心がけている。買い溜めしていた無印のカレーを食べることにして、最近同僚から勧められてはまっている美容系YouTuberの動画をスマホで再生した。冷凍ごはんだから若干水分が抜けて粒を主張するようなそぼそぼした妙な食感だったものの、ルーをよく混ぜて口に運ぶ。

 ふいにLINEの通知のポップアップがスマホ画面の上部に浮かんだ。一瞬だったけれど、相模原、という名字には一切覚えがない。けれど女性のフルネームだった。仕事関係だろうか、と思ってそっとLINEをひらく。

相模原万璃子。誰これ知らない、と思ったものの、アイコンに設定してあるペンギンのキャラクターを見て、ふっと背中を鳥の羽でひと撫でされたようなくすぐったさが走った。

 万璃子。清水万璃子。潔癖だったあの子が、結婚したのか。急いでメッセージを開く。

【ご無沙汰しています。万璃子です。彩野ちゃん、お元気ですか。

2年前に結婚して、先月子供を産みました。

偶然ですが夫の実家が墨染のそばで、彩野ちゃんが懐かしくなって連絡してみました。

今はまだばたばたですが落ち着いたらまた話したいな】

ええーっ、と裏返った声が出た。卒業以来、いちど泊まりにも来たことがあったし何度かざっくりと近況報告くらいはしていたものの、万璃子が院を卒業して以降はいちども連絡をしていなかった。

墨染、という文字を見るだけで郷愁がそよ風のように通りぬけて、記憶の裾野をちりちりと波立たせる。京都にもお客さまはいるのでそれなりの頻度で脚を運んではいるものの、自分が住んでいた街の近辺がやや辺鄙なところに位置していることもあり、電車で通り過ぎることはあっても降りたことは卒業以来ない。

【万璃子、おひさしぶり!! 

連絡ありがとう。結婚おめでとう、しかもお母さんになったんだね! 

今は大阪市の海沿いに住んでるよ!

万璃子の赤ちゃん、絶対可愛いだろうな~ 出産お疲れ様‼ そしておめでとう‼

わたしはいつでも都合つけられるから、万璃子がもし落ち着いたら是非会いたいな】

 勢いで打ち込んだからビックリマークをつけすぎたな、と送ったそばから思う。すぐに既読がついて、万璃子から赤ちゃんの写真が送られてきた。内側からランプが灯ったような、ぽよんとした柔っこい顔が可愛い。

添い寝している万璃子が見切れている。赤ちゃんより万璃子の近影が少しでも見られたことがうれしかった。昔と同じく髪を短くしているらしい。

 二十五歳で結婚したということは、就職して一年目で籍を入れたということか。確か修士二年の時点では、教材をつくる出版社での内定が出たと話していた。子供が持ったのであれば、休職しているのだろうか。あれだけ勤勉で、かつ志望していた業界での就職が決まってよろこんでいた万璃子が二年で会社を辞めて主婦になったとは思えない。

 万璃子にかぎらず、自分の同世代でぽつぽつ出産報告を聞くようになった。サークルの同期だった花も、職場の先輩と結婚したと去年聞いた。あせるというよりも、彼女たちの決断の早さに驚く気持ちの方が強い。いや、もっと正直に言えば、慄いてしまう。同じ場所でたわむれていたはずの彼女たちが、いちど渡れば最後、二度とこちら側には戻ってこられない、太く大きな川を渡って向こう岸へと旅立ってしまったように思えるのだ。

結婚願望ははっきりとあるのに、子供がほしいかどうかについて、いまだに明確なこたえを出せずにいる。大学生の頃は漠然と、自分が結婚して子供を持つだろうと思っていた。子供は持たない、とはっきり意見を持っている女の子もいないこともなかったけれど、かなり少なかったし、尖った思想の子、と周囲から思われていた。彩野自身、そういう子に対して、変わった子だなと思っていた。せっかく女の子に生まれてきたのに――口にはしなかったけれど、そんなふうにさえ思っていた記憶がある。

けれど実際に“適齢期”とやらになって、妊娠や出産について経験者から話を見聞する機会が増えてきた。すると、本当に自分がそんなことをできるんだろうか、と灰黒い疑念が渦巻くようになった。出産は保険適用外であること。無痛分娩にかかる具体的な金額。産後クライシスの計り知れないつらさ。都内の保育園に三歳児が入学する際の倍率。知れば知るほど勉強すればするほど、不安な気持ちがむわむわと雨雲のように不穏に膨らんだ。

光介には、交際を始めて間もない頃に「子どもを産むかどうかはわからないし、絶対に産むとも産まないともいまは言えない」と伝えている。「女の人が決めることだと思うから、それで俺がどうこう思うことはないよ」と言われてほっとはしたし、結婚を考えて付き合っている人がそういう考えの人でよかった、とも思った。

けれどあとになって、彼の本心というよりも倫理的に正しい意見を取り出してみせただけなんじゃないだろうか、と穿った見方がじわりと炙り出しのように浮かんできた。実際のところ光介が本心から子供がいない人生でもいい、と思っているのかはわからない。街や電車の中で子供を見かけると、表情をやわやわとほころばせて変顔であやそうとする。彩野も子供は嫌いではないけれど、光介ほど積極的にコミュニケーションを取ろうとは思わないから、彼の方が子供好きなんだろうなあ、とうっすら思っていた。

婚活を通して気づいたことの一つは、結婚願望がある男性のほとんどが子供を持つことを希望しているということだ。もちろん希望の強さの度合いはまちまちではあったけれど、その人たちの多くは、ごく自然に子供を持つことを想定して望んでいるように思えた。要するにこの人たち、なんとなく無料のオプションを足すみたいに「子供がほしい」を選択しているだけで、具体的には何にも考えていないんじゃないんだろうか? ――学生時代の頃の彩野がかつてそうだったように。

 スタンプで終わらせていたトークルームをもういちど開き、思い切って【都合よければで大丈夫なんだけど、近々電話しない?】【万璃子の都合が良い時、30分とかでも! 忙しければスルーでOK】とを送った。【それなら、今日寝かしつけのあとだったら少し話せるよ】と少ししてから返信があったので、次の連絡が来るまで、コーヒーを淹れて映画を観ながら待つことにした。昔互いの家でそうしていくつもの夜を過ごしていたみたいに。


 和歌山へ行く前日、軽い山登りだから歩きやすくて体温調整しやすい格好で来てねと光介から連絡が来た。今日泊まりに行ってもいい? とついでに訊くと【泊まらないで待ち合わせして一緒に電車で行こう】【その方がデートっぽくない?笑】と返ってきた。

落胆したものの、二日がかりで会うからその方がメリハリがあっていいかな、と思い直す。光介はどこか乙女チックというか、情緒を大切にするところがある。

本当なら下ろしたばかりのロイヤルブルーのニットとお気に入りの白いティアードのロングスカートをあわせてデートに臨みたかったのだけれど、しぶしぶデニムと長袖シャツ、マウンテンパーカーを合わせることにした。日曜日分の荷物をリュックに詰めていたところで、電話がかかってきた。光介だ。タップしてスピーカーモードにする。

「お疲れ。今電話大丈夫?」

 電話越しに聞く恋人の声は、直接聞くより柔らかい。くたりとよく肌になじんだ毛布のように耳をくるむ。

「うん大丈夫ー。いまね、明日の準備してたところ」

「そっか。ごめんね、泊まるの断って。ぎゅってしながらいっしょに寝たかったな」

「彩もー」

 ホットミルクに放り込んだ角砂糖のごとく自分の声がたちどころに角をなくしてあまったるくとろけてしまう。ぶりっこして媚びているというよりも、親にあまえる子供に近い。

「ほんとごめん。今日、まだ仕事片付いてなくて……十時には切り上げるかな。いっぱい寝て早起きに備えるよ」

「もー、社畜め」

「ほんとだよなー、在宅ってサボれるって思われがちだけど、逆にいつまででもだらだら仕事しちゃうからキリないんだよな……」

「ふーん」タイピングの音が時々聞こえる。光介はメガベンチャーの通信会社でエンジニアをしている。文系の自分とは正反対の分野の仕事をしているところも、付き合う前に惹かれたポイントの一つだ。

「相変わらず、よくしゃべりながら作業できるね。わたし、電話しながら見積り作ってたら絶対ミスする」

「それは俺も無理だな……今はデータのコピペ作業だから全然楽勝」

「そっか」

「リュックに何入れたか言うてみ。足りてないものあるかもだから」

「ええと……着替えと財布。ティッシュハンカチ、日焼け止め、あ、充電器忘れてた」

「折り畳みも一応入れた方いいなあ。山は天気変わりやすいから」

「はーい」

「あとサングラスかつばつきの帽子があるといいかもな……晴れ過ぎてても疲れるから」

「えー。彩がサングラスかけてたら光ちゃん絶対笑うじゃん」

「笑わんって。可愛いなあ、と思うと噴き出しちゃうだけで」

「じゃあ笑ってんじゃん」

 色とりどりのこんぺいとうを撒き散らすみたいに明るい笑い声をあげながら荷造りをした。途中で光介も仕事を終えた。歯磨きしてお風呂に入りなさい、と電話越しにせかされ、しぶしぶ寝る支度を実況中継して「えらいえらい」と幼児のように甘ったるくほめそやされる。夜の電話のこの時間が結構好きだ。そう言ってみると、「俺も電話しながら彩野のお世話すんの結構好きよ」と返ってきた。

「出た、光ちゃんの赤ちゃん扱い」

「それくらい可愛いって思ってるってこと」

「わーい」

「せっかくいいこと言ったのに返しは雑だなあ」

「スタンプでLINE終わらせるみたいな?」

「ちゃんと同じくらい愛のメッセージ言っていただかないと」

「んー、好きー」たわいもない睦ごとを交わしながらベッドに入る。この人と一緒に暮らせたら楽しいだろうなあ、と思っているうちに寝落ちしてしまった。

 

 二時間近く電車に揺られて、ようやく高野山駅に着いた時にはすでにお昼を過ぎていた。山の麓だからか、大阪より空気が冷ややかに澄んでいる。それでいて陽射しは容赦無く降ってきて、視界がうっすら金色がかってみえるほど眩しい。

「有名な蕎麦屋さんがあるから、行ってみようか。俺、大学生の時も来ててすげえおいしかったんだよね」

「ふーん、楽しみ。混んでないといいな」

 めあての店はかなり込み合っていて、外までずらっと列をなしていた。光介を振り向くと「あーじゃあ別のところにしようか」とあっさりと言い、すぐ近くに看板を出していた定食屋に入ることにした。幸いすぐ入れた。

「蕎麦じゃなくていいの?」

 席に着いてからたずねる。思い入れがあるようだから並ぶのかと思っていた。光介は手書きのメニュウを好ましそうに眺めながら「彩野って、待ってまで食べたかったもの食べるよりもすぐ食べたい人じゃん。あの列の感じだと結構待つだろうなって」と言った。

「え、ごめん。全然よかったのに」

内心、並ぶのはきついな、と思っていたものの一応言ってみる。光介は「や、謝ることないよ、俺も最近は彩野寄りの考えになってきた」と笑って、豚汁定食にしようかなと呟いた。彩野は? と訊かれたので「トンカツ定食」とこたえた。

「もしかして本当は蕎麦より肉食いたかった?」

 注文をしたあと、光介がつまみ食いを働いた子供でも見るような顔をして言う。しぶしぶ「正直そうかな。お腹空いてるし」と言うと、「そかそか」となぜか満足げに呟いた。

「なんでわかったの」

「そりゃあ彼氏ですから」ふーん、で流しておく。内心にやついていたけれど。

 マッチングアプリを通して出会った光介と初めて会った時もこういう、ごく地味な定食屋だった。平日の晩だった。初回のデートなのに二人ともが残業が入ってしまい、ああこれは流れるかもなと思って様子を見ていたら【予定していたお店はやめて、すぐ入れるところでさっと夕食食べて解散しませんか】と連絡が来た。

そんなのデートと言えるんだろうか、と思いはしたものの、外回りが思いがけず長引いたせいで、すでに二十一時近くなっていたのでお腹がぺこぺこだった。【そうしましょう】と送ると、【こちらはなんとか終わりました。事務作業して、淀屋橋まで向かいます】と返ってきた。

 結局仕事は翌朝に回すことにした。空腹のあまり胃が輪ゴムできゅうきゅう締めつけられているかのような痛みすら感じつつ、メイク直しもそこそこに淀屋橋駅へ向かった。探していると、男性がエビアンを飲みながら柱に凭れていた。彩野を見つけて、やあ、というふうに、ごく自然に手をあげて、「お疲れさまです」と頭を下げるようなしぐさとともにイヤフォンをはずした。

 一緒に駅地下の定食屋に入って、それぞれ食券を買ってカウンターに並んだ。こういうアプリを通して会った人と、食券式のお店に来るのは初めてだった。仕事って急に立て込みますよね、わかります、などとたわいもない愚痴のような健闘のし合いのような言葉をかわしつつ、遅い夕食を食べた。食べ方が綺麗な人だな、と横目で盗み見ながら思った。

 お店には三十分も滞在せず、ほとんど話さなかった。どうするのかな、と様子を見ていたら「少し散歩しませんか」と誘われて、梅田駅まで歩くことにした。

「誘っておいてなんですけど、ヒール大丈夫ですか」彩野の足元を見下ろして、心配そうに問うてきた。

「や、わたし営業なんで全然余裕です。梅田どころか淀川まで歩けますよ」

「頼もしいですね」

 歩きながら何を話したのかはあまり覚えていない。プロフィールに「自分が話べたなのでおしゃべりな方に惹かれやすいです」と書いていた通り、リードするよりも聞くのが上手い人だった。うん、うん、と喉で響かせているような相槌は低く、けれどどこか底が柔らかく響いた。この心地よさはなんなんだろうな、初めて会ったのに不思議だな、と思いながら、ぽろぽろと不揃いな小石でも並べるみたいに拙い話をつづけた。

 気がついたら本当に川まで来ていた。大阪は街に運河が太く横たわっていて、けれど水は綺麗じゃない。京都の鴨川とは全く別の、汐の気配が強い淀川をたいていの人は「汚い」と謗るけれど、どうどうとしたふてぶてしさのある淀川も、ひそかに気に入っていた。

「夜見るとこんな感じなんですね」光介がどこか感心したように橋から川を見下ろしていた。「川……って言っても、こんな夜中じゃ真っ暗ですね」

「昼間は水が濁ってるのがまるわかりだから、夜の方が好きです」

 彩野がきっぱり言ったのが面白かったのか、彼がふっと口元をゆるめた。そして「見えすぎない方がいいこともあるかもしれないね」と初めて敬語を外した。

「また会いたいです」と言ったのは彩野が先だった。けれど付き合った後にあれこれ確かめ合っていると、「いや、俺から『今度はちゃんとごはん行きませんか』って誘ったと思うけど」と光介が妙に頑なに言い張った。内心では彼の記憶違いだと思ってはいるものの、悪い気はしなかった。

「なんかにやにやしてない?」

 光介が訝しげにこちらを眺めていた。思い出し笑いが顔に出ていたらしい。「にやにやなんてしてないってば」とおどけて舌を出したら肩をすくめられた。

 店主のおばあさんが背中を丸めながら、ぜんまい仕掛けの人形のようにゆっくりゆっくり運んできた定食は小鉢がこれでもかと載っていて、おいしそうだった。「山登りだからガッツ入れないとね」と言うと、はいはい、と光介が割り箸を差し出してきた。


 高野山にはいくつものお寺がある。まずは慈尊院を目指して歩きだした。

弘法大師が修行した場所なんだよ、昔はこの山は女人禁制だったんだ、とあれこれ光介が平易な雑学を披露してくれたけれど、特に興味を持てないまま山道を歩く。駅に降り立った時は山特有の陽射しのあまりの眩しさに面食らったものの、いざ参道を歩きだせば杉が天を覆うようにそびえているので、参道はほとんど木陰になっていた。

参拝者で賑わっているものの、時勢柄海外の観光客は少なく、律儀にマスクをつけた年配者が多かった。まあ好き好んで若者が来るようなところではないし、とこっそり思う。老夫婦が手をつないでいるのを横目で見つつ、光介のリュックからエビアンを抜き取ってひと口飲んだ。

「そういえばさ、こないだ久しぶりに大学の友だちと電話したの。同級生なんだけど、もう結婚してお母さんになってた。超びっくり」

 光介にかぎらず、社会人になってから付き合った相手に結婚にまつわる話題を出す時はいつも少しだけ気を遣う。切り出すタイミングが難しかったので今話すことにした。

「おお、それはすごい。サークルの子とか?」

「ううん。同じアパートで、隣同士だった」

「へえええ、なんか、物語が始まりそうな関係だな」

「んー……そだね。すごく真面目で、成績表はオール優、みたいな子だった。大学生の時は恋愛とか一切興味ない人だったから余計にびっくり」

 大学時代はもちろん、社会人になったあとでさえ、万璃子ほど一貫性のある思想を貫いていた人に出会ったことがない。絵にかいたような優等生だった万璃子がなぜ自分みたいなちゃらんぽらんな子とそれなりに付き合いがあったのかいまだに謎だ。

「ああ、彼氏つくらない人って俺がいたサークルでもいたなあ。でも恋愛と結婚……というか、恋愛と、子供を持つことって別なんじゃないかな」

 何気なく漏れたひと言にどきりとした。

自分が子供を持つことについてどう考えているかについては話したことがあっても、光介がどう考えているのかについて深く聞き出したことはほとんどない。長い間蓋をしていた井戸を覗き込むような気持ちで、「そうなの?」と注意深く相槌を打つ。

「んー……俺の新卒の時の会社、最初に指導についてくれた先輩が女性でさ」

「ああ、ブラックだったとこね」

「そう。その人、絶対に二十代のうちに子供を産みたいから、って言って結婚相談所とか、アプリとか、かなり熱心に婚活してて。どんな人がタイプなんですかって訊いたら、そういうのは二の次で、ニーズが一致してることが第一優先って言ってて、すぐにでも子供がほしい人に限定して会ってるって言ってた。なんかめっちゃビジネスだなあって思いながら聞いててさ。結局社内で見つけて、本当にすぐ妊娠してたなあ」

「へー、すごい。うちの会社、女性ばっかだけどそういうスピード感で婚活してる人は周りにいないな」

「まあ、普通は、とりあえず好きになれる人を見つけて、関係性をつくってく上でお互いの考えを擦り合わせて決めてくって感じの人が多いと思うよ。俺もそうだし。彩野のその友だちも、俺の上司みたいな感じだったのかなって思ってさ」

「どうなんだろう」

 電話で話した際になれそめを訊いたら、友人の紹介で会った人と付き合って、半年後に同棲を始めたらしい。すごく早いね、と驚くと、「お互い仕事が忙しくて同棲しないと会う時間取れなくて」とのことで、潔癖なイメージしかなかっただけに意外に思った。

「出版社の編集って大変そうだもんね。今は休職中?」とたずねると「いや、やめた。途方もなくブラックで毎月残業時間がとんでもなかったから、もう戻る気力はないな」と返ってきた。万璃子が休職するか転職するか悩んでいた時に、彼から「じゃあ結婚すればいいじゃん」と言われて付き合い始めたらしい。

強引な人なんだよね、などと苦笑いしていたけれど、と結婚願望がある彩野からすれば、男性からそんなにストレートに言われて交際が始まるなんてうらやましいし、ドラマチックだなあとも思う。

まだまだ育児に追われて毎日てんてこまいとのことで、子供を保育園に預けるようになってからでよければごはんに行こう、と誘ってくれた。万璃子から持ち掛けてくれたことが嬉しかっただけに、そんなに先なのかあ、と内心落胆してしまった。

「あ、もうすぐ慈尊院着くよ」

「ほんとだね」

「子供のことさ。俺に関して言えば、彩野がいればどっちでもいいかなって。子供がいてもいなくても、楽しいと思うし」

「そう? 本当に?」思わず顔を覗き込んだ。ほんとだって、と光介がうなずく。

「無理して合わせてるとかじゃなくて、本当に。街とかで見かけたら子供可愛いなってそりゃ思うけど、絶対ほしいってことはないかな。うん。もし彩野がプレッシャーに思ってたらあれだなって思って、言っといた」

「そっか」

「そうだよ」

 ゆるく絡めていた指が、光介の汗ですべりそうになったのを慌てて捕まえる。ああこの人も緊張してたんだな、とそれで気づいた。しっかりと指を結び直して、力強い一段飛ばしで石段を登り切る。


 見晴らし台でひと息ついて、ソフトクリームを分け合って食べた。汗をじんわりとかいた肌の上をしゅうしゅうと風が撫でていき、鳥肌がうっすらと立って気持ちが良い。

山から街を見下ろすと、橋を渡る電車や豆粒のようなトラックがトンネルへと吸い込まれていくさまが見て取れた。

「紅葉、まだ早かったか。今年暑かったからかなあ」

 光介が残念がっている。また来たらいいじゃん、と言うと「来年ね」と唇に指が伸びてきた。めずらしくきざなことをする、と一瞬動揺したけれどすぐに離れた。クリームがついていただけらしい。

「温泉楽しみだねー」

「ん、汗かいたしな。今日はぐっすり寝られそう」

 んぐぅ、と奇怪な声をあげて光介が腕を曲げ伸ばしてストレッチするのを眺めた。そう鍛え上げているわけでもたくましいわけでもない恋人の身体を、夕陽へと変わりつつある午後の陽射しがふちどっている。しょぼい金剛力士像みたい、と思って写真に収めた。「あれ、写真撮った?」音に反応して光介がこちらをぱっと見やる。

「ん、絶景だったから」

「俺込みで、でしょ?」

 ふざけたていを取りながらも顔に照れがしっかりと残っているところに元の育ちの良さを感じる。そういうところが好きだな、と思いつつ「わたしのことも撮ってよね」と突き出すようにピースサインを向けた。すかさず「もちろん撮りますとも」とスマホをやさしく奪われる。

はるか昔、万璃子が写真を撮ってくれた時に「彼氏にもたくさん撮ってもらえるといいね」と言われたことがなぜだかふっとよみがえった。そういう人と付き合えたよ、と次にもし話す機会があれば言ってみよう。そう思いながらシャッターの光が瞬くのを待つ。


光介が予約してくれていた旅館は、テラスにお風呂がついていた。「えー個室風呂だ、ゴージャスだね!」と大はしゃぎすると、アウターをクローゼットにかけながら「そら記念日ですから」と澄ました顔で言う。

「うっそ、忘れてると思ってた……」

「忘れないですとも、大事な記念日なんだから」

付き合った記念日、ではない。初めて二人が会った日の記念日だった。だから地味な旅行先を提案された時も、「まあ覚えてるわけないか」とそこまではがっかりしなかった。

「付き合った記念日より、どちらかと言えば彩野と初めて会った時の印象が強いんだよなあ。ヒール履いてるのにこの人は随分サクサク歩く人だなあって」

「ふうん。わたしの健脚に惚れたわけね」

「それはない、とは言い切れないな。今日もなんだかんだいろんなお寺巡れたし。俺の趣味全開なのについてきてくれてありがとうね」

 たまらなくなって、マウンテンパーカーを脱ぎかけのまま抱きつく。光介は器用にパーカーを抜き取ってそのままハンガーにかけてくれた。

「もうお風呂入る? 食べたばっかりだしゴロゴロする?」

「ん、せっかくだから入っちゃおうよ」

 お湯を溜めて服をベッドに脱ぎ散らかす。寒い寒いと言いながらテラスに出て、かけ湯も慌ただしく湯舟へ肩を沈めた。正方形の檜風呂なので、日本酒の升の中にでも浸かっているかのような風情がある。後ろから彩野を抱きかかえるような格好で光介も入ってきた。

「ちっちゃくて可愛いお風呂だな」

「くっついて入るにはちょうどいいよ」

「だな」

 空を見上げると、影絵のように樹々が葉をふるわせていた。その隙間から、薄い三日月が覗いている。

「切った爪みたい」彩野の視線を目で追っていたらしい光介が言う。

「えー。もっとロマンチックなたとえがいい」

「具が少ないワンタン……いや餃子? あ、黄色いからレモンピールとかかな」

「全然よくない。指輪みたい、とかがいいな」

「あー、いい、それ、すごくいいな。彩野の発想は可愛いな、詩人だ」

 見立てて指を翳してみようかと思ったけれど、何かを深読みされたり意図を勘繰られると恥ずかしいのでやめた。熱いお湯の中で息を吐いていると、わたあめのように銀色の息が天へと昇っていく。もうすぐ冬になるのだ。大阪よりも密度の濃い夜空を見つめていると、なんだか壮大な気持ちになった。身体ごと宙へ浮かび上がっていくかのような。

「ねえ光ちゃん」

「うん?」

「待って、向かい合わせになりたいな」狭い湯舟の中でどうにか対面に向かい合う。頬を火照らせた光介が、何かを察してあせったように何か口を動かしかける前に、すっと息を吐いて告げる。

「わたし、あなたと結婚したい。です」

「えっ、」

「だから、ずっと一緒にいようね」

 光介が目を見開いて口をぱくぱくしながら彩野を見つめている。その瞳の中へ飛び込むように、ゆっくりと唇を重ねた。


 第五章 29歳

「やっぱりさ、大海さんも見た目で採用された枠?」

 にわかには信じがたい台詞が聞こえて、思わず資料を封筒に詰めていた手を止めた。

顔をあげると、塩田さんは微笑さえ浮かべてこちらを見ていた。ほんの十分前に、配偶者の医療保険のコースの見直しについて熱心に耳を傾けていた時と全く変わらない表情で。

「ええと……どういった意味でしょうか」なるべく棘のない声で訊き返す。

「前の嫁さんの時も中日生命さんで保険入ってて、その時担当してくれた人も綺麗だったんだよね。確か結婚して辞めちゃったけども」

「……へえ、そうなんですね」

「だからやっぱり保険レディって綺麗な人多いんだなって改めて今日思ったよ。じゃなきゃ売れないよなあ。採用の時点でふるいにかけてるんだろうね」

 ちらちらとこちらの反応を伺うような表情に悪意はなく、むしろ、下心をうっすら感じさせるような媚びを感じた。「よくほかのお客さまにも言われます」と鉄仮面のような笑みで流して、すばやく資料を鞄にしまい、別の打ち合わせに行くという彼を適当な世間話をして駅までお見送りして別れた。地下鉄を降りていく貧相な背中が完全に見えなくなって、大きなため息が漏れた。

 褒めようとして、照れ隠しでああいう言い差しになっただけだ、と自分に言い聞かせる。塩田さんは顧客の中でも「太い」。大した手間をかけることもなく、大口の保険に「大海さんが言うなら」といともたやすく契約してくれた。できれば、切りたくない。

 単に、顔が可愛いとかお綺麗ですねとか、いっそそういう直截的な言い方だったらまだましだったのに、と思いながらコメダ珈琲に入ってアイスコーヒーを頼む。けれどこうも思う。二、三年前の自分であれば、「見た目で採用された」という評に何の疑念も違和も憤りも感じず、それどころかひそかに喜んだだろう。彼の思惑通り。

 向こう側の壁際に鏡があって、ちょうど自分の姿がすっぽりと映っていた。小柄な体躯のわりに胸が大きいことはスーツ姿であっても見て取れる。着ているシャツが少しタイトなこともあって、われながら、ちょっとやらしいかなと思う。似合うものを数年かけて選び抜いたスーツ姿の自分をそれなりに気に入ってはいるけれど、この姿でさっき塩田さんと二時間ほどつきっきりで対面していたのかと思うと複雑な気分になる。

胸が取り外し可能だったらどれだけいいだろう、と思春期以降何千回思ったかわからない。信じがたいことに、彩野の営業成績がいいことを見た目のおかげだと受け取る同期もいないでもないのだ。同性同士なのに。

 異性からの容姿への評価を気にして、一喜一憂していた時代は過ぎた。独身ではなくなったことも大きいかもしれない。やっと、男ウケがいいメイクだとかもてそうな服だとかではなく、自分の好みや気分に合わせたお洒落を楽しめるようになって――それでも、女はお飾りだと、容姿至上主義なのだと突きつけられる場面は、時々こうして通り魔のように現れてナイフのような言葉を容赦無く脇腹に深く刺しこまれる。さっきの方はそういう世代だから仕方ない、と苦い思いをコーヒーとともに流し込んだ。

 

 その晩、光介と夕食のカレーを食べながら「今日、お客さんにこういうこと言われてさ」と塩田さんとのやり取りを話した。光介は「あー……」とくぐもった声を出した。

「それは失礼だよな。まるで彩野が、実力じゃなくて可愛さとか見た目で仕事とったみたいな言い方じゃん」

「そー。わたし個人っていうか女性で営業してる人全体をばかにされたみたいで嫌だった」

「そのあとなんか口説かれたりしなかった? 大丈夫?」

「それは全然。軽口程度だったから」

 そう、と光介がほっとしたように口角を和らげた。逆に言えば軽口程度だったから夫にも共有できるのだ。執拗に恋人の有無を訊いてきた人、何度断っても食事に誘ってくる人、「付き合いたい」「真剣に考えてほしい」といきなり手を握ってきた人……この七年間で遭ってきたセクハラは細かいこともあげれば数えきれない。結婚指輪の効能を何度感じただろう。これなら新卒の時からつけていれば、と思ったほどだ。

もちろん保険業界で営業として働く以上はある程度覚悟していたから、大抵のことは笑顔で受け流してきた。ある程度慣れてきたら「セクハラですよ」「えー、めっちゃ失礼なこと言うじゃないですかあ」と冗談の体で苦言を差し込むくらいの反撃はできるようになってきた。とはいえ、不愉快であることには変わりはないし、これだけセクハラだの女性蔑視だのがSNSやメディアで取り沙汰されるようになっても、いざ仕事の現場ではほとんどの変化を感じられず、苦い思いをくやしさと情けなさともに噛みしめることばかりだ。

「彩野は若いし可愛いんだから気をつけてよー。おっさんなんてみんなスケベなんだから」

「それは言いすぎ。たまにたちが悪い人がいるだけだよ」

「とはいえ自分の担当者が若い女の子ってわかった途端態度変えてくる奴もいるんじゃん? ほんと、あぶないよなー」

 なぜこちら側が気をつけなければいけないのか。女が自衛するよりも男側が意識を変えることの方が直接的な問題解決になるのに、どうしてこういう言い方をされなければいけないのだろう。いらだちは感じたものの、光介に八つ当たりしても仕方がないのはわかっていた。それに、仕事の愚痴を言い募れば言い募るだけ、「だったら裏方の仕事に回ったら?」「転職して別業界に移ったら」といとも簡単に言われてしまう。「彩野の稼ぎが減っても、俺が頑張るからさぁ」――まるで出来の良かったテストを見せびらかすような子供のような、どこか甘えのにじむ顔で付け足すこともある。実際、去年チームリーダーに昇格した光介の方が二百万円ほど収入は多い。

 けれどそういう問題ではないのだ。いま就いている仕事を立派で素晴らしい仕事だと胸を張って主張するつもりもないけれど、やりがいも達成感も大きい。大海さんのおかげで助かったよ、大海さんが担当でよかったと直接声をかけられるたびに、温かな手でじかに心臓を包まれたような心地になる。大きな作業の一部を引き受けて、個を消して黙々と仕事するのではなく、人と人として――大海彩野として仕事ができる瞬間があるというだけでも、この仕事に就けた自分は運が良かったと思える。そのうえで、年齢だの見た目だの性別だのを消費されなければよりいいのに、とはどうしても思う。

 所詮技術職の男性に寄り添ってもらうことなんて、無理な話なんだろうか。なんて、それこそ性差別だと言われそうなことをこっそりと胸の中で呟いた。


「違うって、職種のせいでも性別のせいでもないって。理解が得られないのはあんたの旦那個人の欠陥でしょ」

 美冠さんの意見は氷のようににべもない。それだけまっすぐ配偶者を貶されると、自分まで貶されたような気がして滅入る。そう控えめに反論してみたけれど、気まずそうに謝ることなどなく「そりゃパートナーは基本その人の鑑だかんね」とにやにやと笑うだけだ。美冠さんは海千山千を地で行く人なので、ほかの友だちよりも言葉に経験の重みがある。

「なめられんのは自営もおんなじだね。独立したての時は下請けの下請けの下請け、みたいな仕事しか回ってこないし、基本男にはため口利かれるし最悪だったわ。まあ今でもそういうやついるけど」

「やっぱ、そうなんだ。そうだよね」

光の加減で銀色にも見える、ラメの入った紺のハイネックの薄手のニットにダメージ加工が入った黒いライダース、洗いざらしのざらっとした色の太いデニム。前髪のない、前下がりのショートボブという髪型も相まって吊り上がった細い目がより鋭く見える。口紅の色は紫で、絶対に自分には似合わないだろうなと思う。

よくい言えばモードでいかにもクリエイター職っぽくて、悪く言うととっつきにくく主義主張が激しそうな女性に見える美冠さんは、到底誰かになめられたりため口を利かれたりするようには見えない。けれど、本人の好みもあるとしても、自分で仕事をしている以上、自衛のためのパフォーマンスとしてそうしているのかもしれない。

「まあしょうがないよ。彩野の旦那個人が特別女性への理解がないとかじゃなくて、女の見た目で生まれてこなかった人たちはわかんないんだって。自分たちが生まれた時から下駄履かされてることなんて」

 クールな見た目のわりに甘いものに目がない美冠さんは、ホイップを載せたホットチョコレートなんて余計喉が渇きそうなものを熱そうに啜っている。そうなのかな、と呟きながらカフェオレに口をつけた。ほんのりナッツの風味がしておいしい。

「たとえばさあ、わたしは好きでワンレンにしてるけど、彩野は営業職になってから前髪伸ばしたって言ってじゃん」

「よく覚えてたね。確かに本格的に外回り出るようになってからは一回も前髪切ってない」

「あんたの顔の系統で前髪作っちゃうと、アイドルくさいっつうか甘くなりすぎるもんね」

 美冠さんのあまりに的を得たコメントに、その通り! と思わず小さく胸で拍手をした。まなじりがとろっと下がった垂れ目が特徴的なせいで、前髪をつくるだけで一気に幼さと女っぽさが加速してしまう。つまりものすごく似合うということでもあるので学生時代は基本的には前髪のあるボブヘアにしていた。

けれどこの仕事では女らしさやもてそうな雰囲気というものは悪い方向性にしか働かない。おとなっぽい雰囲気の服装やメイクも好きだからよかったものの、フェミニンで可愛らしい服しか着たくない人からすればわざわざ仕事のために髪型もメイクも制限されるなんてとんだ地獄だろう、と思う。ここ何年も、通勤の際にはパンツスーツしか選んでいない。それだけ女っぽさを消し去る努力を徹底していても、商談の場面で性的なニュアンスを持ち込まれることはなくならない。それがこの仕事だ。

「なんかさー、光介の会社って、メガベンチャーだから女性とも仕事する機会多いはずなんだけど、こっちが少しでも不快な思いせずに仕事しようと工夫してることなんて目にも入ってないんだろうなって思うよ。スカートのスーツ姿の方が好き、とかはもうさすがに言わなくなってきたけど」

「工夫ねえ。まあ、せざるを得んよね、我々の働き方だと」美冠さんが腕組みをしてぐっと眉間に皺を寄せた。「女使ってる、とか言われるとマジで殺意湧くわ。逆だっつの」

「女性性を薄めるために髪短くしたりパンツスーツしか履かなかったりメイクわざと濃くしたりしてさ、それでやっとましな状態で仕事できるかと思ったら、それでも値踏みされて絶望させられた人間がこの世にいるなんて想像もしてないんだよ」

「値踏みって。メルカリみたいに」美冠さんが小さく呟く。

「で、少しでも愚痴吐いたら『かわいそう、営業じゃなくて中で仕事したら?』とかってこっちの味方づらしてしゃあしゃあ言うんだよ。もう、そんなやり取りするだけで、お客さまにセクハラされた時よりよほど死にたくなる」

「じゃっ、離婚したらいいのでは」

 美冠さんがあっさり言い捨てて、「あ、これってもしかして『営業やめたらいいじゃん』って言ってくる奴と同レベルのハラスメント?」とわざとらしくにやついた。

愚痴は口から国旗を出す手品みたいにするするとよどみなくついてきたというのに、途端、喉を棒で突っつかれたみたいに「うう」とうめいてしまう。美冠さんとのコミュニケーションは、同性同士だったらあって当たり前のオブラートが完全に取り払われているから、すがすがしい分正面から傷を負う羽目になる。

「んー……そこまでは差し迫ってないよ。普通に夫は好き。結構好き。一緒にいて楽しいし。でも、結婚がベストな選択だったのかはわかんないな……」

 間接照明がちりばめられた薄暗い店内には、お互いを恋愛相手として見定め合っているような空気感を分かち合っている、恋人未満であろう男女の組み合わせがちらほらいた。期待とときめきでうっすら上気した桜色の頬の女の子たち。男の子は男の子で、肩のこわばりが見て取れるくらい緊張している人もいる。

 彩野の視線の先に気づいて、美冠さんも店内のカップルを観察し始めた。必死だなあとでも言いたげに、彼女の口の端は意地悪く片方だけふにゃふにゃしている。

出会った時から変わらず美冠さんには一切結婚願望はないらしい。彼女からすれば過去の彩野も含めて、結婚というゴールに向かってなりふりかまわず活動している人たちが痛々しく見えるのだろうか。そう思うと、苦い唾が湧いてくる。自分の思惑通りに結婚したくせに、結婚願望がない同性のことが眩しく見えるなんてどうかとも思うけれど。

「美冠さんって婚活してる人のことどう思う」

 たずねると「就活生見てる気持ちと変わらんかな。頑張ってるなすごいな以外何も思わない」と呟いた。意図的に意地の悪いコメントを引き出そうとした質問だったことを見抜いた上での回答のような気がして、時間差で頬に熱がぴりりと弱い電流のごとく走った。

 恋愛や結婚のために必死になるなんてかっこ悪い。そう思っているのは美冠さんではなく、ほかならぬ彩野自身だ。結婚して二年目にして若干生活に飽き飽きし始めている自分の人生を慰めて肯定したいがために。

 美冠さんは煙草を吸うタイミングをうかがっているのか、喫煙室の方に首を伸ばして様子を伺っている。耳の高い位置に飾られたゴールドのピアスが、照明を反射して彩野を威嚇するようにぴかりと瞬いた。


 疲れると性欲が返って増す、というのは定説だけれど、それは女も同じなのではないかと思う。彩野の場合、どっと気が抜ける金曜日の晩に該当することが多い。

 昔は性欲というものがいまひとつわからなかった。特に、学生の頃は求められること自体がうれしいから応じていただけで、いざ始まれば苦痛を我慢する時間も長く、承認欲求とごっちゃになっていることがほとんどだった。けれど最近は違う。ちりちりっとへその下あたりが、熱を帯びながら内部で捻じれるような感覚があって、したいなあ、触ったり触られたりしたいなあ、とはっきりと欲望を感じるようになった。

今日もそうだった。お風呂を済ませて、ソファに座ってごろごろしている光介の膝にまたがるようにして座る。セックスに誘うときはいつもこうして、ふれている皮膚の面積が最大限になるような密着の仕方をして、とりあえず上目遣いでにこにこする。

 男の人と付き合った経験自体は人並か少し多いくらいだと思う。でも、いまだにセックスの始め方というか誘い方の正解がいま一つわからない。おっぱい好きな男であれば、とりあえず触らせたり視界に入れるだけで勝手に手を伸ばしてくるので簡単だったけれど、それはそれで胸を献上する下女みたいな気分になることもないでもない。

 一方光介は特別胸のサイズに執着があるわけでもない。彩野と付き合って、大きい胸の良さがわかったよと言いはするものの、どちらかといえばくびれと脚フェチなのだ。八頭身以上ありそうな、つまようじでできているみたいに華奢な韓国アイドルグループが音楽番組に出てくると、妙に熱心に眺めている。身体で選ばれたわけじゃないんだな、ということ自体はよろこばしいのではあるのだけれど、自分と正反対の体型の女の子に熱心に目を走らせる姿を垣間見るのは、時々複雑な気分になる。

「ん~、なんか彩野からいい匂いする。香水?」

「香水じゃなくてボディクリーム。前にバレンタインの時光ちゃんがくれたんじゃん」

「そだっけか。なんか身体のいろんなところから森っぽい匂いするね」

「足の先まで塗ってるからね」

 鎖骨に唇をつけられて、ちゅっと吸われる。いろっぽい気分が昂ってきた。今日金曜日だから痕残ってもいいよ、と熱っぽい声で囁いた。けれど光介は、目を欲望に輝かせるどころか、どこか持て余したような顔で視線を横に流した。

「ん~……するのは明日にしない?」

「え、なんで。体調でも悪い?」

「二十三時から会社の人と通話しながらゲームする」

 肩透かしを食らって、恥ずかしさが熱風のように顔の真ん中あたりに吹きつけてきた。あそうなの、と呟いて光介からどいて、ソファの隣に座る。光介が手をつないできたもののどこか儀礼的で、こちらが軽く引き抜いたらすぐにほどけてしまいそうなほど緩かった。

 まだ二十二時を少し回ったばかりだから、今からしようと思えばできなくもないのに。光介はわりと早い方なので、体位を二回変えたら大概すぐ果ててしまう。時間を気にせずゆっくりおこなった方がいい、というのが光介の意見なのだろうけれど、普段はつけないボディクリームを全身くまなく塗ってからリビングに来た彩野の意図は、まったくもって無視されていいものなのか。互いの身体の輪郭がわからなくなるくらい舌を絡ませ合うとか、身体の尖った部分をなめ合うとか、最後までしなくてもいいからそういう、熱を交換し合うような身体の交わりをしたい気分だったのに。

 付き合っている時から薄々気づいていたけれど、光介は彩野より性的欲求を感じる頻度が少ないし、セックス自体にあまり執着もない。挿入をゴールとしていない、仔犬のじゃれつきのような身体のふれあいをすることも少ない。

数年かけて彩野なりにかみ砕いて解釈したところ、彼にとってセックスはそれなりに重いタスクであり、するならするで中途半端に断片だけを行うのではなく、本腰入れて向き合いたい作業なのだろう。そんなにタスクっぽいこなしかたで楽しいのか? と疑問に思わないでもないけれど。

「あ、紅茶淹れようかな。それともコーヒーにする?」

 光介が立ち上がる。「紅茶かなあ。牛乳も入れてほしい」と言うと「はーい」とてきぱきとポットに水を汲み、マグカップを二つ用意し始めた。

うまくいっていないわけでも、愛情が薄れてきたわけでもないのだ、とぽこんと葉脈のように骨の浮いた薄い背中を眺めながら思う。

 ただ、婚活をしていた頃のような、胸の底から突き上げてくるような、「この人の最後の相手に選ばれたい」という強いマグマのようなエネルギーは現在の彩野の中にはない。「そんなのずっとあったら脳の血管ぶち破れるよ」と美冠さんが慰めるように言ってくれたけれど、時々あの頃の矢のような熱情が懐かしくなる。


戸を隔ててリビングから時々歓声や笑い声が聞こえてくる。どうやら同僚とのゲーム対戦がはじまったようだ。

洗濯したばかりのシーツに包まれた布団の上で寝転がってネットサーフィンをする。Instagramのストーリーを流し見していると、子育て中の子たちが載せるわが子の写真と、デートしているらしき子が載せるお洒落なお店での料理の写真が交互に流れていく。

けっして交わることのない世界線がここでは一直線上に並べられているということがなんだか不思議だった。母親として一所懸命育児に邁進する子もいれば、仕事を頑張ってその対価で得た給料で高級なお店で食事を楽しむ子もいる。そのどちらにも属しきれないまま、彩野の生活はSNSのどこにも切り取られずつるりと、それこそただ無心にスクロールする画面のごとく淡々と流れていく。結婚して二年目、二十九歳。子供をつくるなら早ければ早い方がいい、というのはわかっていても、まだ、どうしても踏み込み切れない。

ふと、見慣れない投稿が目に留まってスクロールした指を戻してもう一度表示した。投稿ではなく、広告だった。大きな観葉植物の前に立つ、下着姿の女性。レモン色のサテン生地のブラとショーツで、カーキ色のレースがカップの淵にかかっていた。

ラブリーすぎるわけでもない、かといってセクシーな路線と言うわけでもない。普段自分が行く下着店ではあまり見かけないデザインの下着が目を引いた。広告元に飛んでみる。

「ノアノラ」という名前の下着ブランドだった。海外ブランドかと思ったら、モデルの割合は半分ぐらいが日本人のようだ。国内ブランドらしい。デザイナー自身のアカウントも紐づけられていたので、そちらのアカウントも覗いてみる。

MIKIという名前で、本人による着用の投稿もあった。日本人による顔を出した下着モデル自体見慣れていないということもあり少しびっくりしたが、小さなブランドであればよくあることなのかもしれない。いくつかの着画の投稿を好奇心でタップする。

身体は細く薄い。肩幅は案外しっかりと額縁のように張っていることもあり、発育途中の少女のような生々しさはない。浅いカップのブラジャーとショーツは、先ほど広告で流れてきたレモン色のセットと色違いのようで、サテンのターコイズブルーにオレンジ色のレースがかかっていた。

主張のない平面的な薄い顔、痩せてはいるけれどけしてモデル体型とは言い難い、メリハリのない体型。モデルとしてみるなら、正直特長はない。けれど、どうしてかかまじまじと見つめてしまった。

鑑越しに下着姿を自撮りしている彼女は、映画から抜け出てきたとびっきり魅力的なヒロインみたいだった。朝、起きぬけに水で洗っただけの果物に台所で齧りついてしまうような、ちょっぴり野性的で、けれど目が離せないような引力のある女の子。

 こういう下着ってあんまりなかったかもな、と思う。胸を寄せて谷間をぐっとこしらえるわけでもなく、自然体な感じがする。かといって気が抜けすぎているわけでもなく、ラフでいながら映画のワンシーンを切り抜いたような、さりげない一瞬のきらめきがある。

 店舗を調べると、いくつかの百貨店にポップアップを出店しているらしかった。もういちど下着ブランドのページに戻る。

価格帯は、セットで二万円と少し。こういう小さいブランドって価格はシビアなんだよなー、とため息をついた。いま彩野が身に着けているものは上下で一万数千円といったところだ。一応、下着ブランドとデザイナーのMIKIの両方をフォローしておいた。

 いろんな投稿を遡ってみていく。名画や海外の風景や生活にインスパイアを受けてデザインをしている、とMIKIがコメントで語っていた。まるで小説や映画みたいに下着のデザインをしているんだな、と思いながら眺めていると、「ちょっときゅうけーい」と光介が寝室に入ってきた。隣に寝そべって、「一人にさせてごめんね。インスタ見てるの?」と問う。どうやら構ってほしくなってきたらしい。

「うん。可愛い下着のブランド見つけてさ。日本のブランドなんだけど、海外っぽくてお洒落じゃない? まあ、値段は全然可愛くないけど」

「ふうん。まあ、普段彩野がつけてるやつの方が俺は好きよ。なんか、これ下着なのに服っぽくない? 服っていうか、水着?」

 共感を得られず一瞬むっとしたけれど、よく考えてみると光介の感想もわからないでもない。誰かを欲情させるための下着ではないような雰囲気があるからだろうか。

「っていうかさ、高い下着なんていらないじゃん。彩野はもう俺と結婚してるんだからさ」

 トイレ行ってくるわ、と光介が出ていった。

ぽかんとして、光介の重みで皺が寄ったシーツを眺める。服についてしまった染みを帰宅後に腰をひねって確認するときみたいに、ゆっくりと言われたことを反芻する。

 ――既婚者なのに何で下着にこだわる必要あるの、って意味? どういうこと? 

 身に着けるのは彩野なのに、夫が必要かどうかジャッジする、それってどうなんだろう。浮気するなよ、とかそういうことなんだろうか。

 あっというまに戻ってきた光介に「さっきのどういう意味? なんで結婚してたら高い下着買っちゃだめなの?」と問い詰めた。光介は、へ、と口を丸く開けたあと、面倒くさそうに「だめなんて言ってないじゃん、言葉尻捉えないでよ」と唇を尖らせた。

「そんなに買いたいなら買ったら? 下着じゃなくても俺、彩野の買い物に口出ししたことないじゃん。家計簿も基本分けてるし」

「怒ってるんじゃないよ。ただ、結婚する前と後で、光介がわたしに求めてることってもしかしたら変わったのかなって思っただけ」

 光介は肩をすくめて「何も変わってないよ。俺のそばにいてくれればそれでいいと思ってる」と言ってスマホを触り始めた。台詞だけ聞けばロマンチックなのに、目の前の光景があまりにもそれとはかけ離れていて、小さく息を漏らした。

こういっておけば彩野がひとまずこの場では納得する、あるいは流されると知っていて、そう言っているだけに過ぎないのではないか。胸にうずくもにゃりとした灰色の疑念を抱えているうちに、不穏な空気をかぎ取ったのかそそくさとリビングに戻ってしまった。

 別に、何かを制限されたわけじゃない。何かを奪われたわけでもない。口出しは多少してきたとしても、最終的にはたぶん、彼が言った通り彩野の好きにさせてはくれるのだろう、とも思う。でも、何か釈然としない。

 デザインが好きな下着、いいなと心惹かれた下着を自分のお金で買うこと。その行為自体は何ら独身の時と変わらないのに、結婚したとたん、夫の許可や理解を得なければ堂々とできなくなってしまうのだろうか。そんなのおかしい。

 寝る前にふと気になって「光介にとって結婚って何?」と尋ねた。ゲームに興じてくたびれたのか、光介は目を閉じたまま「好きな人とずっと一緒にいることだよ」と言った。

なんだか高校生みたいな回答だな、と思う。付き合いたて自分だったらこの回答を聞いてうっとりしていただろうか。

「彩野は?」

「うーん……独身じゃなくなること」

「当たり前だろ」ふっと光介が鼻で笑う。別に適当言ってるわけじゃないよ、と言い返す。

「独身でいつづけることって、わたしにとって恐怖とか不安とかそのものだったから」

「そんなに?」

「うん」

「なんで?」

 なんでなんだろう。結婚願望が身体の真ん中に、聖火のように太い火柱が轟々と燃え盛っていた数年のことを振り返る。単に、仕事が少しつらい時期だったから逃げ場がほしかっただけとも考えられるけれど、それだけではなかった。若さという、努力しないでも自分を勝手に照らし出してくれる、太陽のように大きな武器がいままさに失われていくさなかにいることが、とても怖かったししんどかった。二十五歳の時が一番、自分の年齢にこだわっていた気がする。

いまにして思えば、二十五歳なんて学生同然に若いと思うのだけれど、二十四歳と二十五歳では大きな亀裂があって、渡ったが最後二度と戻れない深い断絶があるように思えてならなかった。あの根拠のない思い込みは一体なんだったのだろう。出会った当初もいまも、光介にはちっともそんなしがらみはなさそうだ。

なぜなら光介は男性だから。二十九歳と三十歳で大きく価値や扱われ方が変わるのは、女性に課されるルールだから。

「じゃあ、俺と結婚したから彩野は今安心できてる?」

 光介が寝返りを打ち、腕を回されてぎゅっと頭を胸に抱きしめられる。そうだね、とこたえるほかなかった。光介は満足したらしく、やがて呼吸のリズムがゆっくりと一定になった。そうっと腕から抜け出る。

 安心は、している。しているけれど、独身の時の自分が求めていた「安心」と何かが根本的に違うような気がする。そもそも、どうして結婚さえすれば安心できるとあんなに盲信していたんだろう。

 そういえば就活生の時も内定さえ出せればどうにかなる、と思ってたな。ふ、と記憶の奥底から近しい感覚を手繰り寄せることができた。光介には到底言えない。とにかく結婚がしたくて、光介に「結婚したい」と言ってほしくて、必死だった。じゃあ、光介はどうして自分と結婚したんだろう。こちらからプロポーズをしたからだろうか?

 今度、買い物に行くついでにさっきInstagramで見ていた下着のポップアップに行ってみよう、と思った。もちろん、彩野が一人の時に。


 部屋の照明を点けると、出てきた時のままの部屋が浮かび上がった。光介がまだ帰ってきていないことにほっとした。

 普段より雑に手洗いをして、ソファにどっかりと座る。紙袋から、商品を取り出す。

和紙のような薄い紙に包まれた下着は、拐かしにあったお姫さまみたいな風情でしずしずと横たわっている。ゆっくりと膝の上に広げた。部屋の照明が店内よりオレンジがかっているので、なんだか違う色みたいに見えた。朝靄の中の海のような、薄紫色。肩紐はシャンパンベージュだ。

本当は、買うつもりはなかったのだ。ウィンドウショッピングに留めるつもりだった。ブラジャーが一万七千円、ショーツが八千円。今着ている薄手のニットとデニムより高い。会計の時は額を直視しないままカードで支払った。本当ならもう一組買いたいところだったのを、なんとか自分をなだめすかしておいてきた。

Instagramを開いて、買わなかった方の商品ページを眺める。すらりとした浅黒い肌の女性が、バスルームで百合の花束をぶらりとラフに提げて立っている。

ああ美しい。胸が音叉のように共鳴してふるえるほど素敵だ。やっぱり買えばよかっただろうか、と思いながら、買った下着のタグを鋏で切って和紙に包んだ。リビングではなく、キッチンにおいてある蓋つきのごみ箱に放り込む。

リビングで真っ裸になって、下着を身に着ける。サテンの肌触りが心地よく、ふっと背中の鳥肌が立った。寝室の姿見の前に立つ。

普段より浅いカップのデザインのせいで、自分の姿に見慣れるまで数秒必要だった。ワイヤー入りなのに下着特有の窮屈さや締め付けはほとんどない。カップが浅く全体的に布面積が最低限なのは、タンクトップを着ても下着が見えないようにするためだと店員さんが教えてくれた。

普段使っている、これみよがしに胸を中央に寄せて谷間が盛り上がるデザインの下着の方が光介は好きそうだな、と思ったけれど、今まで身に着けたことのない上質な下着を纏って恍惚としたため息が漏れた。

特別スタイルが良く見えるわけでもないし、おそらく補正面や機能性で言えば従来の下着に軍配があがる。けれど、いつまでも鏡を見ていたいような気持ちになるこの感覚は、久しぶり……というよりも、初めてに近いかもしれない。単に、買ったばかりで新しいから、だけではない気がする。

上下セットで二万五千円、高いと言えば高いけれど、度が過ぎた贅沢というわけでもないし年に数着買うくらいならゆるされるだろう。ふと、自分で反芻しながら、今、ゆるされるって思ったな、と気づいた。

――別に、ゆるしを請う必要ないのに。自分のお金だし。

 けれど、タグが見つからないように捨てたのは、せっかく気分よく思い切った買い物をしたのを夫に水を差されたくないからでしかなかった。披露はもうちょっと先かな、と思いながらしずしずと下着を脱いで畳んだ。

クローゼットの奥の下着入れにしまい込みながら、なんだか親に隠れて日記帳を引き出しに入れる小学生みたいだと思って苦笑いが漏れた。

職業柄、週五回はスーツに身を包まなければならない。新卒の頃は、いかにも社会人っぽい姿で出勤すること自体が新鮮でそれなりに身がしゃんとしたけれど、今となっては単なる日替わりの作業着でしかない。だったら下着くらいは、最高に自分の気分があがるものを着けたってかまわないだろう。


 見積書の作成と契約書の準備に追われていると、塩田さんから生命保険もやはり見直す気になったから夕方時間を取れないか、とメールが来た。

デスクワークばかりだと完全に飽きてしまう質なので正直ありがたい。幸い、契約書の方は明日の作業に回してしまっても問題なかったので、午後からさっと資料を準備して「外回り行ってきまーす」とホワイトボードの大海の欄に「外出」とマグネットを貼った。

「大海、今日のメイク可愛いじゃん」

 トイレでリップを塗りなおしていたら同期の伊藤が話しかけてきた。

「うそ、ありがとう、朝暗いところでメイクしたから濃いかなと思ってたけどうれしい。ま、このあとアポなんだけどね」

「なんのアポ?」

「んー、こないだ新しく夫婦で医療保険入ってくれた人……悪い人じゃないし気前もいいんだけど、若干ねちっこいんだよね。隙あらば女として見てくる感じ」

「うわ悪質じゃん。しかも既婚でそれかあ。とっとと帰ってきなね」

 伊藤が美しく整った眉を顰めた。大学時代ミスキャンパスに出場経験もある彼女は同期の中でも群を抜いて顔が綺麗で彩野と同じくメリハリのある身体つきで、かつかなり勝気だ。敵も味方も多いことを自分で熟知しているからなのか、あまり同僚同士で群れることを好まない。だからこそ、メイクに言及されて少しびっくりもした。

「セクハラって何年やってても撲滅しないね」

「ね。まあうちらが綺麗なのには非なんてないから気にしなさんな」

 そう肩を軽く叩いてトイレを出て行った。うちら、とひとまとめにされたうれしさで胸が弾む。さっと髪に白百合でも挿してもらったみたいにどきどきした。

 

 塩田さんから指定されたのは星乃珈琲だった。前回は彼が経営する会計事務所だったのに、今回は別場所か。悪い予感が、路地裏をかけていく鼠のようにさっと胸を横切っていく。その影を見ないふりをしながら、隅の席を陣取った。

とはいえ、チェーンの中でも高級店に入るこの店は嫌いではない。お冷を口に含んで、説明の段取りを軽く頭で並べる。

「ああ、わざわざご足労すまないね」

 ぬっと影で手元が覆われて慌てて立ち上がる。塩田さんがさっと彩野の全身に目を走らせるのを感じたが、気がついていないふりをしてにこやかに着席をうながす。

「ご足労なんてとんでもないです。ご連絡ありがとうございます。いつでも、なんなりとかけつけますからね」

「あの時は、断ったけどあとから考え直してさあ。まあ、安い買い物ではないからまずはじっくりあなたの話を聞こうかなと」

 含みのある言い方だったけれど、この程度で営業の鉄壁の微笑みを崩すほど純情でもない。ここで契約してもらえれば今月のノルマを早くも達成できることの方がずっと大切だった。資料を一つずつ示しながら、丁寧に三つのコースについて説明した。

コーヒーを啜りながら、顎を突き出すようにして塩田さんが鷹揚にうなずく。祖父の代からの会計事務所の代表である彼からすれば、コースによって変わる年単位の金額など端金でしかないのだろう。スーツの質も相当上質だ。鍛えているわけでも、長身というわけでもない彼に似合っているかどうかは別として、若いときから権力を湯気のように纏わりつかせてきたであろう貫禄と尊大さが全身から立ち昇っている。

 ひと通りの説明をしたのち、塩田さんはゆっくりとテーブルの下で脚を組み替えた。

「だいたいわかったけど、それで結局のところあなたはどのコースが一番いいと思うの」

 塩田さんの発音だと「あんた」にも聞こえるな、と思いながら、「そうですね……」と慎重に首を傾げてみせた。

「やはりこちらのアドバンスコースでしょうか。さまざまな種類のリスクを網羅してくれますので、ご家族もご安心できるかと思います」

 ベーシックなプランよりも年単位でかかる費用が跳ね上がる、もっとも高級なコースだ。もちろん今までの来歴や年齢を鑑みてベーシックな「エコノミーコース」を薦めてもいいのだけれど、この人なら入ってくれると踏んで少し強気に出た。もちろん、高級なコースともあってサポート体制や特典も充実している。

「塩田さまのように、ご自身で経営されている方ともなるとお時間もなかなか取れないと思います。であれば、余裕をもってお若いうちからアドバンスコースに加入しておくことで万全の準備になるかと」

「ふうん。じゃあ、そうさせていただこうかな。あなたに恩を売りたいしね。それがそちらの食い扶持になるわけでしょう」

 一瞬視界が白く飛びかけた。がんと突然石で殴りつけられてもこれほどまでには驚かなかったかもしれない。

あまりの言葉に絶句していると、「冗談だよ、間に受けられちゃ困るって」と塩田さんがねばつくような笑みを浮かべた。

そのあとどう切り上げて店をあとにしたのか覚えていない。

 気がついたら最寄り駅行の地下鉄に乗っていた。向かいの社葬に映る自分の顔はやけに青白い。遺影みたいな顔してんなあ、と思いながら目をふせた。

 お客さまに卑猥なことを投げつけられた時も、あるいはさりげなく身体を触られたりした時も、ここまでは傷つかなかった。あまりの不愉快さに臓器がぞわぞわと毛羽立つような心地がする。

 安いものを売るわけではないからこそ、自分を信用してくれる方には誠実に関わろうとしてきた。数年かけて培ってきたものすべてを根こそぎひっくり返されて、土足で踏みにじられたような気がした。啖呵を切って罵声を浴びせてあの場を立ち去ってもよかったのに、来週の自分は能面のような顔で契約書を用意して送付するのだろうと思ったら、それだけで一気に十歳以上歳を取ったみたいにいっそうくたびれた。

 何よりも傷ついたのは、この仕事を軽んじるような、あるいは蔑視するようなことを言われたからではない。あの男は彩野を傷つけて狼狽えさせるためにああいう下卑たことをわざわざ契約の場で口にした。そして思惑通り彩野は傷つけられた。そのことが、胃がぶちぶちとちぎれそうなくらい悔しかった。

彼は自分の振る舞いで簡単に若い女を打ちのめすことができるということを試したにすぎない。あの場において彩野は単なる玩具で、慰み者同然だった。

 さっさと歳をとったら楽に仕事ができるんだろうか。彼らに「劣化したな」「価値が下がった」「若い女に嫉妬してるんだろう」などとほくそ笑まれることと引き換えに。

 彩野の会社では現場を飛び回るのはせいぜい三十代半ばまでで、そのあとは教育担当や人事など内部での管理職がメインになる。その意味を考えると、より頬の下の筋肉が勝手にひくひくと引き攣れた。

 搾取できる若さがなくなれば、会社の中に引っ込める。そして代わりに、若い女性社員が補充されて現場へ回される。この会社はそうして何十年もかけて続いているのだ。もちろん、経験を積んだ人間が指導者として教育した方が効率はよくなる、という理屈もわかる、けれど、きっとそれだけではない。必死に女性性を見た目から消そうとしたり、女性ではなく人間としてお客様と関わろうとしていることが、ふいにばかばかしく思えた。

 ――気持ち悪い。

 くだらない、反吐が出そうなくらい気持ちの悪い仕組みだと思う。でも、ここで働き続けるのであればその仕組みを助長する一つのパーツとして自分も使われているのだ。

 

 家に着くのと同時に光介から【大学の同期がたまたま出張で東京着てるらしくて、飲んでくるね。今日遅くなる!】とメッセージが届いた。

リビングでさっさとスーツを脱いで、ハンガーにつるしてファブリーズをばさばさといつもより多めにかけ、ベランダに干した。ついでに空気を換気するために窓を網戸にする。

すうすうと夜風が部屋に運ばれてきて、さっきまで在宅勤務で家にいたであろう光介の気配が逃げていく。下着姿で家の中をうろつくこと自体、なんだか久しぶりに感じられた。夫には極力ベッドやお風呂場で以外、しどけない格好を見せないようにしている。でもそれがなんだっていうんだろう。ブラジャーとパンツのまま、仕事の鞄から財布とスマホを取り出した。ぺたんとラグの上に女の子座りする。

美冠さんに【暇だったら飲み行かない】とメッセージを送る。すぐに既読になり【今バイト】と返ってきた。そういえば週末は北新地のスナックに立っていることを忘れていた。

 少し迷って、伊藤のLINEをトーク履歴の底から探し出して【突然ごめん! もし、今日の夜空いてたらごはん行かない?】と連絡した。ランチすらサシでは行ったことがなく、そもそもお酒を飲むかどうかさえ把握していない相手だったけれど心臓が坂道を猛スピードで転がり駆けていくみたいにどかどかと高鳴って、その勢いのまま送った。途端心細い気持ちになり、うろうろと部屋を見渡して片付けたりテーブルの上の水滴を拭いたりした。

ヴヴヴ、と床でスマホがふるえた。伊藤から電話が来ていた。

「わ、ごめん、もしもし」

「もしもし? お誘いありがとう」伊藤は外にいるのか、アルトの声の後ろでがやがやと喧騒が聞こえていた。たん、たん、とビートを刻むような、ハイヒールの踵が鳴る音も。「けどさっき日高屋でごはん済ませちゃった。コーヒーとかお酒飲むんでもよければどう」

「うっそ、伊藤が日高屋って、なんか男子大学生みたいだね。意外」

「コスパ最高だよ。ねえ、今日アポったおっさんになんかされたの? 大丈夫?」 

 さすが察しがよかった。ああうん、と話そうとしたところで、別のLINEの通知が来た。見ると、美冠さんから【いまガラ空きだから、もし暇だったら飲みに来てもいーよ 安くしまっせ】とメッセージが来ていた。大海ーどうした? と伊藤が青く澄んだ声で問いかけてくる。

「ごめんね、ええと……伊藤は今どのあたりにいる?」

「梅田だよ」

「了解。とりあえずそっちに行く。十五分で着くと思う」

「あーうん。そのへんぶらついてるからゆっくりでいいよ。どこに集合する?」

 せっかくならお酒飲みたいんだけどどう? と伊藤はすらすらと歌うように言った。


 美冠さんの働いている店は、「スナック 帆船」という名前で、人が一人通るにも苦労するような細い通り沿いにあった。酔っ払いたちと服がふれるほどの距離ですれ違いながら、どうにか辿り着いてドアを押す。

「いらっしゃいませ! 奥の席にどうぞー」

 店に入ると、肩をしっかりだしたニットを着た美冠さんが出迎えてくれた。髪を内側に巻いているので、いつもより柔らかい雰囲気だ。

 紫とピンクの中間のような妖しい色をした照明がくるくると天井で回っている。「へえ、ラブホみたいな感じだね」と伊藤が後ろで直球な感想をあっさりと述べた。

「女子二人でスナックって、いいのかな」

「めずらしいけど、たまに女の子だけで来る方もいらっしゃいますよ。大概の酒はありますからなんでも注文してくださいね」

 薄紫色の着物を着たママがにこやかに話しかけてきた。艶のある黒髪を見事に夜会巻きに結っている。美冠さんが言っていた通り、カウンター席に三人男性客が座っている以外、奥のテーブル席はがら空きだった。美冠さんが持ってきてくれたお通しのナッツをさっそく口にする。

「ほんとに来てくれるとは思わなかった。あ、わたしカンナです。よろしくお願いします」

 源氏名は本名をもじったらしい。主に伊藤に向けて美冠さんが愛想笑いを振りまいた。「大海の、会社の同期です。伊藤青葉です」と伊藤がはきはきと名乗った。

「青葉さん、何飲みますか?」

「わたしはハイボール。大海は」

「ん、じゃあビール」

「あいよ」

「あ、スナックだからあれですよね、カンナさんにも飲んでもらった方がいいですよね」

 伊藤が気を利かせて言った。美冠さんはぱちぱちっと目を瞬かせて「わ、すみません」と高い声を上げた。「じゃ、一杯だけ」

 飲み物を作りにカウンターへ戻ったカンナさんの後ろ姿を眺めながら「スナックってこんな感じなんだね」と伊藤が感心したように呟いた。「みんなママ目当てで来る感じかな」

「かな……わたしも初めて来た。っていうか、ごめんね。付き合わせるみたいな格好になっちゃって」

 友だちがバイトしてるスナック、今暇みたいで誘われてるんだけど、興味ある? ――電話口でおそるおそる提案すると、伊藤は快く「めっちゃ面白そうじゃん、わたしでよければご一緒させて」と承諾してくれた。正直、夜の北新地に足を踏み入れるのに一人きりでは心細かったのでありがたかった。

「お待たせしましたぁ」

 美冠さんが飲み物を運んできたので、一緒に乾杯する。「なんか普通の女子会って感じ」と呟くと、「確かに、なんか店に友だち来るのって変な感じ」と美冠さんも苦笑いした。

「今日、大海がどうしても飲みたい日だったみたいで。仕事で地雷みたいなおっさんを当てちゃったんです」

 伊藤が簡単に説明してくれた。美冠さんは「あーね。めずらしく誘いが急だったからなんかあったのかと思ったよ」とうなずいた。「てっきり旦那関係かと思ったけど、仕事でやな目に遭ったんだね。大丈夫だった?」

「ん、大丈夫。時間立ったらちょっとは頭冷えてきた……っていうかこういう業界でこういう職種だと、慣れっこにはなっちゃうしね。けど、それ自体がこういう風潮を……若い女はなめられてもしょうがない、みたいな風潮を助長しちゃってんのかなって思ったら、仕事続けることが一瞬つらくなっちゃって」

 伊藤も美冠さんも、眉を下げて、顎を静めるように小さくうなずきながら彩野を見つめている。曲と曲の切れ目なのか一瞬店が静かになり、自分の声だけが響いている時間があって少し恥ずかしくなった。「そんで今日夫は別の飲み会行ってて、誰か一緒に飲んでくれないかなあと思って、ほぼ同時に誘いの連絡送っちゃって。それで伊藤にも一緒にスナックに来てもらったんだ。ほんと、ありがとうね」

「いいよいいよ」伊藤が慈母のようにやさしい微笑を浮かべている。「誘ってくれて嬉しかったよー。わたし同期の中で誰とも仲良くないしさ。まあ、自分のせいだけど」

「え、青葉さんって友だちいないんですか。いいですねえ」美冠さんがにやつきながら混ぜっ返す。「友だち全然いないくらいの人の方が信用できるっていうか色気がありますよ」

「え、そうかな」

 二人がゆるく目を交わし合う。ちょっと置いてきぼりにしないでよ、とかたちだけ突っ込みを入れて、すでに泡がへこみつつあるビールをぐっと煽った。ぬるいけれどおいしい。

「Twitterとか見てるとさ、自分より若い世代の子たちもフェミとか女性蔑視に対していろいろ関心が高まってていい傾向だなーって思ったりするのに、いざ店に出勤するとさ、もう昭和の価値観バリバリ引きずったおっさんたちが隙あらば腰だの尻だの触ろうとしてくるわけよ」

「あー。わかります。学生の時働いてたから」伊藤が口を挟む。

「店にいる女の子らで顔の格付けするとかざらだしね。それを笑って受け流してる時、本当、死にたくなるね。ブスとかやらせてよとか言われた時より何倍もね」

「う……そうだね。自分が受け流すことで下の世代につけを回してるんじゃないかって思うんだよね」

 どうしたらいいんだろうねえ、と伊藤が真剣な顔をして首のあたりに手を当てていた。ぼそぼそと、女三人で通夜のあつまりみたいに頭を寄せ合って話し続けた。結論なんて出なかったし、時代をひっくり返すようなアイデアがとめどなく湧く、なんてこともなかったけれど、話せば話すほど、自分は一人じゃないんだと、胸の底にぽっぽっぽと小さなろうそくの火がいくつも灯されていくかのようだった。

カラオケでもしよう、と美冠さんがデンモクを持ってきたので、伊藤と二人でPUFFYの「これが私の生きる道」をデュエットした。伊藤はありえないぐらい音痴で、それなのに真剣な顔つきでがなり立てるのでひーひーと声が嗄れるくらい笑ってしまった。


 酔った目で眺める夜中の梅田はやけに煌びやかだな、と思いながら背もたれに頭を預ける。ネオンピンクに輝くラブホテルの看板やゴシック体の「激安」の文字、韓国アイドルが踊りながら宣伝しているキリシトールガムのCMが、光の帯になってタクシーの車窓の外を流れていく。

「酔い過ぎたまじごめん。調子乗った、わたし本当は全然お酒弱いんよ」

隣では伊藤がぶつぶつと繰り返していた。いつもは標準語なのに、どことなく訛っているのが可愛らしい。吐き気は一切ないとのことなので、とりあえず手を握って「大丈夫だよー」と言い聞かせる。伊藤の手は石鹸でできているかのように白くすべらかで、ほんのりとだけ温い。

「でも伊藤とたくさん話せてよかった。ずっと、仲良くしたいと思ってたからトイレで話しかけてくれたのもうれしかったよ。急だったのにありがとうね、またごはんとか行こう」

 自分の息が酒臭いのを感じて、車窓に向けて話す。けれど、伊藤はぐっとこちらに身を寄せてきた。

「いろいろ言ったけど、わたしな、大海に辞めてほしくないだけなんよ」

「え、」

「ほかの同期が辞めても何も思わんし引き留めん。でも大海は中日に絶対必要な存在だと思ってる。クソ塩田はわたしが呪い殺す。一緒に生き延びよう」

 思いがけない言葉に、ぐらぐらと煮立つように目頭がきゅうと熱くなった。ありがとう、と湿った声で返すと、つないでいる手に力が込められた。

南森町で伊藤を下ろし、天満橋でタクシーを止める。覚束ない手つきでカードで決算して、どうにか忘れ物がないかだけ目視で確認して、転がり落ちるようにタクシーを降りた。コンビニで水を買って、一気に飲む。火照った身体を貫いて気持ちよかった。鼻歌を歌いながらマンションへ向かう。

「たーだいまー」

 家に帰ると、すでに明かりがついていた。お風呂場から、パジャマ姿の光介がぬっと顔を突き出して「遅かったね」と言った。

「んー、すごい盛り上がっちゃった。美冠さんの店に、会社の同期と飲みに行ったの。楽しかった、初スナック」

「……女同士で何してんの? それ、楽しいの? それならカラオケとかでいいじゃん。めちゃくちゃ高かったんじゃないの」

「美冠さんが働いてる店だから、多少安くしてくれたよ。っていうか、高かったとしても別にいいけどね。充実した時間だったし、友だちのお店だし」

 光介はむっすりとした顔で唇を突き出している。楽しい気分に水を差されたようでむっとしたものの、帰る時間を連絡しなかったのはこちらの過失だな、と素直に思った。「光ちゃんこそ、飲み会楽しかった?」と訊くと、「いいからもう、お風呂入って寝る支度しなよ。ずっと待ってたんだから」と寝室へ行ってしまった。

 なんなんだ、八つ当たりか? と内心憤りながら、言われた通り脱衣所に入ってピアスを外す。果物の皮でも剝くみたいに、ニットのワンピースを下から裏返しながら脱ぐ。ふと、朝焼けのような色の下着姿になった自分が鏡の中に映っていた。

酔って赤くなった頬、眠そうに垂れたまなじり、口紅がかすれかかった唇。なんだか自分がやけに女らしく、エロティックに見えた。悪くないな、と思いながらぼうと眺めていると、彩野? とつっけんどんな光介の声がして、足音が近づいてきた。

「スマホの通知ずっと鳴ってますけど。っていうか、早くパジャマ着なよ。風邪引くよ」

「ねえ、この下着どう、似合ってるでしょう。前インスタ見せたブランドで買ったの」

 ぐっと顎をそらして腹に力を込めて肉を引っ込める。光介は「ああ、あの高い下着?」と口の中でもごもごと呟いた。ぱちん、と頭の中で糸が弾け切れる音がした。

「高い高いって何? 一所懸命働いてるんだから、自分にお金かけたってよくない?」

「いや、悪いなんて言ってないよ。でも俺はそうはしないっていうだけで」

「それは光介の価値観じゃん。わたしはわたしのためにお金遣いたいし、そのために仕事も頑張ってるのっ」

「わかったから……もう、服着なよ」

 いかにも面倒くさそうに光介が脱衣所を出ていく。心地よい酔いの波がさっと干上がって、頭がしらじらと乾いていくのを感じた。

 女であるだけで勝手に欲情してきたたくさんの人、ガムでもなすりつけるように悪意をぶつけて愉しんでいた塩田さん、辞めないでほしいと酔いながらも熱く訴えかけてきた伊藤、意地悪だけどいつも一歩先の言葉を先回りしてかけてくれる美冠さん。いろんな人の顔や言葉がぐるぐると浮かんでは消える。そして、自分のことをもはや恋人でもなく、欲望の対象でもなく、同居人のような扱いをする、光介。きっと今日だって、セックスはしないのだろう。はあっと息を吐くと空気に色がつきそうなくらいむんと酒臭かった。

 家に帰ってきたのに、外にいた時よりも気を遣って、委縮させられて、自分らしい自分でいられない。これじゃあ――結婚した意味なんてあるんだろうか。 

 思いついて、落雷に打たれたみたいに一瞬足がぐらついた。壁に凭れて、深呼吸する。

 大好きな人と結婚して、二人で暮らす。それだけで百点だと思っていた。けれどそうではないのだとすれば。

 一度脱ぎ捨てたニットワンピースを引っかぶって、リビングに置き去りにされていた鞄を肩にかける。玄関で座り込んでブーツを履いてファスナーを上げたところで「ちょっと」と寝室から光介が飛び出してきた。もしかしたらずっと様子でも伺ってたんだろうか、と頭の隅で考えながら立ち上がる。

「また外行くの? 忘れ物でもした? 明日にしたらいいじゃん」

「違うよ。頭冷やしたいから、ちょっと外出てくる」

 腕を掴まれた。振りほどいてドアを開けようとしたけれど、「ちょっと、彩野、一回待ってよ」と思いがけず情けない声で懇願されて、動きを止めた。

「ごめんって。帰ってきたら彩野がいなくて、それで、ちょっと寂しかっただけだよ。きつく言ってごめん」

「それはいいけど、でも、一人になりたいの」

「彩野、ごめんって。行かないでよ。頼むから」

 ぐいぐいと力任せに腕を引かれて、気が削がれた。

光介は別に、夜中に妻がふらふら街に出て行くことを心配しているわけではない。一人にされるのが怖いのだ。自分に非が押し付けられるようだから。そこまで全部、うんざりするほど透けて見える。何年も、一緒に住み続けているから。

家族だから。

観念して「わかったから。ブーツ脱ぐから離して」と言うと、光介はまだ疑わしそうな顔をしながらも、こわごわと腕を解いた。

「光介は、結婚して幸せ?」

「……何、急に」

「いいから答えてよ」

 ドアに寄り掛かって真正面からにらみつける。ふてくされたような表情で「幸せだよ」と光介が呟いた。まるで、母親に宿題が終わったかたずねられた小学生のような顔で。

「こんなのがあなたにとっての幸せなの? 夜中に玄関でごたごた言い争いする夫婦が?」

自分の声がひび割れて聞こえた。はだしでもなんでもいいから、今すぐエスカレーターを降りてタクシーを捕まえて、北新地へ戻りたい。四時までやっていると言っていたからまだ帆船では美冠さんが気だるく酒をつくっているはずだ。あるいはわりと近所だと判明した伊藤が住むマンションに転がり込んだっていい。それが無理だとしても、朝まで飲める店なんて大阪にはいくらでもあるのだ。清掃の甘い、カビの匂いがうっすらするカラオケルームだとしても、今夜この家で光介と同じベッドで寝るよりはいくらも自分を救ってくれるだろう、と思う。

「今日はソファで寝るね」

「彩野、」

「わたしもちょっと飲み過ぎた。ごめん。明日またゆっくり話そう」

 表情を失くして立ち尽くす光介の横をすり抜けて、ソファに丸まった。そういえば結局メイクも落としてないしシャワーも浴びてないなと思ったけれど、いちど寝転んでしまうと、もう身体とソファが一体化してしまったみたいに起き上がる気力など一滴も湧いてこなかった。あれこれ光介が声をかけてきたけれどすべて無視しているうちに毛布がふぁさりとかけられたのがわかった。

 小舟のように、やがてソファが彩野を広いひろい海へと漕ぎだして、どこかに辿り着けばいい。白濁する意識の中で祈りのように、そう思った。

 

 第六章 29歳

 角度によって、白にも桃色にも水色にも見える、不思議なネイルの色だった。機織りにいそしむ織女のような動きで薫さんが下着を畳んで、薄紙に梱包するのを眺めた。

身に着ける下着を国内ランジェリーブランドである『ノアノラ』ですべて揃えたい――初めてこのブランドを見つけてワンセット買った時、そう思った。まあ無理だろうなあ、と当時は思っていたのに、二年経った今、彩野はもうすでに『ノアノラ』でしか下着を買わなくなっていた。

三十歳を超えた女性にとっての下着というのは――少なくとも彩野にとっては、もうプチプラを買って使い捨てるものではなくなっている。どこで買うにしてもそれなりの値段はする。だったら中途半端にけちって妥協したものを買うくらいなら、とことん自分がめろめろになれるようなものにお金を遣いたい。そんな考えになったのは、昇進を経て自分に遣える金銭のレベルが引き上げられたからだろうか。

「彩野さん、いつもお買い上げありがとうございます」

 すっかり顔なじみになった販売スタッフの志保理さんが笑顔で紙袋を渡してくれた。下の名前で呼び合う仲になったのは、一年ほど前たまたま一人で飲んでいたら、仕事帰りの彼女が同じ店に来て彩野に気づき、「飲みましょうよ」と誘ってくれたことがきっかけだ。以来、志保理さんとは飲み仲間として時々誘い合っている。

「前より買う頻度上げられて本当嬉しいよ~。今までは新作の中からどれにしようどれにしよう、って絞る作業があったから」

「選ばなかった方を面目なさそうな顔して見てた彩野さんの未練がましい顔、いまでも覚えてますよ」

「ちょっと!」冗談ですよう、志保理さんが大きく口を横に空けて笑う。

「じゃあ、また来ますね」

 ありがとうございました、といつもなら折り紙でも折るように深々とお辞儀をして見送ってくれるはずの志保理さんが、はっと目を開いて「あ、ごめんなさい、このあとお時間あったりしますか」と言った。「このあとは特に予定ないです」とこたえると、三十分ほどでシフト交代なので少しお茶できないか、と誘われた。

「もちろん! じゃあ、下のスタバで待ってます」

「ありがとうございます。ちょっと彩野さんと話したいことがあって」

 鹿を連想させる細面の顔に企みを含んだ微笑を浮かべている。なんだろうと思いながら「じゃああとで」と軽く手を振って別れた。


 思ってもみない話を打ち明けられて、頭の中が振り回したスノウドームの中身のように白くとっ散らかっていた。ふと膝元でスマホが光る。【今日は早く帰れそう 一緒にごはん食べない? あと三十分したら会社出るね】と夫からのメッセージが浮かんでいた。OKとスタンプで簡潔に返信しておく。「パートナーさんですか」彩野の表情を読んだ志保理さんが察しよく言う。

「うん。帰宅時間が想定より早くなりそうって」

「仲いいですねえ。結婚して四年目でしたっけ」

「仲いい、のかなあ。いまだに喧嘩もするけどね」

志保理さんがピラティスのレッスンに行くまで時間があるというので、しばらくスタバのソファ席でおしゃべりした。彩野と同い歳の志保理さんにはいま恋人はいないらしい。結婚願望もないそうだ。

「実家暮らしの時は結婚したいなー彼氏ほしいなーって焦りが結構あったんですけど、最近同じフロアの別のショップ店員の子とルームシェア始めたんです」

「えー! 絶対楽しいじゃん」

「そうなんです。給料前で苦しい時はお互い袋ラーメンにもやしだけ載せた貧乏飯食べて、実家から届いた野菜とかは分け合ったりして、それが結構楽しいんですよね」

いい歳して大学生みたいなんですけど、と志保理さんが肩をすぼめる。楽しげにキッチンに並ぶ志保理さんたちの姿が浮かんで、いいなあと心の底から呟いてしまった。

「えー、ドラマみたい。絶対結婚するより女友だちと住んだ方がストレス少ないと思う」

「ストレスはないですね。わたしが実家にわりと頻繁に帰ってるのと、休みをあえてかぶらせないようにして一人の時間が多めに生まれるように調整してるのがいいのかも」

「そうだね。五年ぐらい二人暮らししてるんだけど、一人暮らしが恋しいよ」

「してみたらいいじゃないですか。結婚してても別居してる夫婦の話最近よく聞くし」

 あまりにもあっさりと言われて反射で微笑んでしまう。けれど志保理さんの口調には焚きつけるような意地の悪さはない。彼女自身が友人とのシェアハウス、という現代的な生活スタイルを送っているから想定しているハードルが低いのだろう、と気づいた。んー、と唸りながら言葉を選ぶ。

「夫がそういう合理的というかいまっぽい夫婦の在り方にあんまり理解がないタイプなんだよね。夫婦なんだから一緒に住むのがあたりまえでしょ、って常識を疑わないというか」

「へー、なんか意外かも。結構昔かたぎというかかっちりした考えの人ですね。だって彩野さん本人は柔軟な人じゃないですか」

「そう……かな。そうかもね。結婚前はそういう真面目なところが結婚向きでいいなと思ってたんだけどなあ」

「じゃあパートナーさんじゃなくて彩野さんの考えが変わったのかな。五年も経てば昔の自分なんて他人ですもんね」

 さらりと言われた言葉が喉元に突き刺さった。そう、変わったのは自分だけなのだ。

 スタバを出て駅まで一緒に歩く流れになった。去り際に「今日話したこと、是非前向きに検討してもらえるとうれしいです」とぺこりと志保理さんが頭を下げて改札を通っていった。そろそろと湖に足をつけるような慎重さで静かに打ち明けられた話の内容を頭の中で反芻する。でないと、現実味がどんどん薄れて、他人が見た夢の記憶の断片みたいに思えてきてしまう。それぐらい彩野にとって夢のような、ふわふわとした幻めいた話だった。

 かちりかちりと秒針を刻むような、人生が動く音がする。アラームが鳴り響く前にぱちりと目が覚めた青く澄んだ朝のような、頬のうぶげが逆立つほど冴え渡った緊張感。

その音をけして逃さまいと、歩きながらも耳を澄ませつづけた。


 最寄り駅で光介と落ち合い、近所に最近できたタイ料理のお店でいくつかテイクアウトして家で食べることにした。ビールで乾杯したあと、「今日志保理さんと会ったの」と報告する。

「ああ、下着買いに行くって言ってたね。ノアなんとかだっけ」彩野が敬愛してやまないことは数年前から熱心に伝えてきたつもりだったが、いまだにブランド名を覚えていないらしい。のっけから鼻先であしらわれたようでむっとしたけれど「ノアノラね」とひとまず押しのけた。「そこが今、社員さんが一人独立して抜けるらしくて。急ぎで補填したいみたいで、わたしに話が来たの」

 光介が、間をおいてから「急だな」と呟いた。

 実際、突然の話だった。志保理さんに相談内容を明かされた時、驚きすぎて「えええ」と叫んでしまった。

「何でわたしなんですか」

「んんと……いろいろ理由はあります」志保理さんは居住まいを正した。「一つ目は、彩野さんはノアノラっていうブランドができてまだ世の中に知られていく前からのお客さまで、すごく、うちへの愛情とか愛着を感じられるんです」

「そんな……もちろん、めちゃくちゃ大好きですけど、そんな人ほかにも」

「二つ目は、単純にわたしが彩野さんと一緒に働きたいなって思ってるんです」志保理さんは頬まで顔を赤くしていた。「彩野さん、ノアノラの商品のことめちゃくちゃ言葉を尽くして褒めてくれるじゃないですか。表現とか言語化がすごいうまいなって売る側のこっちが感心するくらいで……商品のコピーとか広報に、そのまま使わせてもらえないかなっていつも思ってて」

 誰もさわれない名画の世界の中に立ってるみたい。季節をちぎって直接纏ってる気分です。商品を買いに行って試着するたびに恍惚と感想を述べてきた。それは自覚がある。大げさぐらいの賛辞がノアノラの下着にはちょうどいい、そう常々思っているからだ。

そう告げると、志保理さんは「ほらあ」とどこか得意そうに小鼻を膨らませた。「やっぱり彩野さんはうちで働くべき人材ですよ。そこまでうちの商品を愛してくれるお客さまはなかなかいないです」

「そんなことないよ。ノアノラファンはいっぱいいるでしょう」

 志保理さんはふと、教師に急に当てられた女生徒のように口をすぼませた。

「ごめんなさい、無理強いするつもりは全くなくて……ちょっと突っ走って話過ぎました」

 どうやら彩野が遠回しに断ろうとしているつもりだと思ったらしい。「いや、そんなことないです。あんまりにも光栄すぎて、受け止めきれないというか」と顔の前で手を振る。

「だったら相思相愛じゃないですか」

「うーん、まあ、そうですね」

「もし前向きに考えてもらえるのであれば、うちの代表と面談してもらえないですか? 幹さんにももう彩野さんのことは話してますし、是非会いたい、って」

 遥か雲の上の存在だと思っていたノアノラの創始者、MIKI、もとい風倉幹さんが――。考えるだけで頭の血が全部足元に落ちていきそうだった。「ひとまず考えさせて」とだけ言って、話を持ち帰った。

 考えさせて、とその場では言ったけれど、千載一遇のチャンスであることには間違いなかった。憧れていた人と、憧れていたお店で働く。そんなことが自分の人生に起こるなんて想像もしていなかった。もし、それが叶うならどれだけ素晴らしいだろう。

「はあ? 彩野が会社辞めて、そこの社員になるってこと? 下着を売るってこと?」

 慎重にうなずいて、「そういうこともありえるかもしれないって話」とこたえた。「興味があれば働きませんかって」

 ぐっと光介の眉間に短い立皺が刻まれている。

「やめときなよ、今よりめちゃくちゃ給与下がるよ。せっかく長いこと頑張ってキャリア積んできたのにもったいないじゃん。ショップ店員とか販売員になるわけでしょ?」

「違う。いや、販売員の仕事もあるけど、メインでまかせたいって言われてるのは広報マーケターかな。イベントの企画提案とか、SNS配信とか」

「彩野、営業しかやってきてないじゃん。未経験でそんなのできないでしょ」

 決めつけるような言い方がいちいち癇に障るけれど、反発していたら話が進まないので「それは、代表の幹さんが一通り経験があるから教えてくれることになってる」と淡々とこたえた。「経験問わず、とにかくノアノラに愛着があって一緒に働きたいって気持ちがある人を採りたいって言われたから」――実際に志保理さんがそう言ったわけではないにしろ、要するにそういうことを言われたのだと自分に言い聞かせながら早口で言い立てた。

「ふーん。なんか、大事そうなポジションの割にはざっくりしすぎというか、正直雑な採用軸な気がするんだけど」

 腑に落ちない、とでも言いたげに指摘されて、内心むっとした。何も知らないくせに、幹さんやノアノラを否定されたくない。けれど、外部の人間からすれば胡散臭く感じるのも仕方がないのだ、と思うと胸がしくりと痛んだ。ノアノラは始まって数年のごく小さな会社だし、バイトを含めても社員数は少ない。彩野自身が聞いた際びっくりしたくらいだ。

それでもどうにか会話を進めなければ。光介に転職の意向を伝えた、ということを済ませるためだけに。

「とにかく、受かるかどうかはともかくとして、面接は受けたいと思ってる」

「……それって結構差し迫った話? まあ、大手を振って賛成はできないけど、彩野がやりたいなら挑戦してもいいよ。世帯年収はガクッと下がるとは思うけど、俺が補填すればいいし」

 受け入れたというよりも止めることを諦めたような言い方ではあったものの、とにかく言質は取った。そう、思った。

 

 けれどお風呂から上がると、事態が変わっていた。

「ちょっと聞きたいんだけど」低く声で光介に呼び止められ、いやな予感に身が硬くなった。「このブランド……まさかと思うけどデザイナー本人が自分の下着姿載せてるわけ?」

 手元を見ると、どうやらスマホでノアノラのInstagramを見ていたらしい。ぎくりと心臓が跳ねかけたけれど、それを気取られないよう慎重に「そうだよ」と努めて淡々とこたえた。「わたしがノアノラで買いたいなって思ったのは、デザイナーの幹さんの着用写真見てからだから。なんか、映画のワンシーンみたいで素敵だなって思ったの」

 光介は黙っていた。そして、「そうじゃなくて」と硬い声で切り返してきた。

「何」

「このブランド、社員が着用写真載せてるよね? その、代表のデザイナー以外の人も」

 彼が見ているページはノアノラをタグ付けしている投稿の一覧だった。ああ面倒なことがばれた、と心のなかで舌打ちする。

「まさかだけど……広報の一環として社員の着用写真を載せるんだったら、彩野もここで勤め始めたら、投稿することになるんじゃないの?」

「強要ではないと思うけど。わたしが仲良くしてる販売スタッフの人は載せてないし」

 嘘ではない。志保里さんのInstagramには、買ったノアノラの商品が載ることはあっても本人が着ている姿はない。とはいえ夫からすれば、いくら店員だとしても自分が身に着ける下着の写真を投稿すること自体非常識だと言われかねない。

 間をおいて、光介が「は?」と低く呟いた。

付き合っている時の光介のくせが久しぶりに出たな、と思った。当時、機嫌を損ねるたびに言うので「その返し、威圧的だし感じ悪いからやめてほしい」と何度も言って、数年かけて言わなくなったと思っていたのに。たぶん友だちや同僚といる時なんかは普通に使ってたんだろうな、となぜだかどうでもいいことが脳をよぎる。

「モデルの写真を使ったらいいじゃん。デザイナーはまだわかるとして、なんで一般人の、社員の着用画像を載せるんだよ」

「ノアノラのコンセプトは……モデルが着るからとか、綺麗な人が着るから似合う、とかじゃなくて、どういう体型の人が着ても別な美しさとか魅力を引き出すデザインの商品をつくる、っていうものだから、モデルだけじゃなくて社員もモデルになってるの。だから幹さん自身の写真も使ってるわけで、」

「それは無理。耐えられない。万が一モデルを頼まれたとしても絶対に断るべきだよ」

「どうして」

 反論など思ってもみなかったのか宇宙人でも見るかのような顔つきで見つめ返された。

「逆に聞くけど……彩野は自分の下着姿をわざわざ世界中に公開したいってこと? そんなのリスクしかないでしょ。ありえないよ」

「ありえない……うん、簡単に受け入れられることじゃないかもしれないけど、でも、実際にデザイナーの幹さんやほかの社員さんもあげてるよ」

 言い募りながら、どうしてこういう、幼稚な反論しかできないのだろうともどかしかった。彼女たちが特殊な容姿だからだとか自信に満ち溢れているとか仕事として割り切っているとか、そういうことではない。ただ、自然体で堂々としているだけだ。そして自分も、なれるのであればそうなりたい。

もちろん、下着を纏った写真を公開することで一気に同じステージまで駆け上がれるなんてそんなに安直に思い込んでいるつもりはないし、正直まだその勇気はない。けれどもし、かつての自分のように、自分の見た目だとか、身体に違和感や劣等感がある同性を励ます手伝いができるのであれば、それに躊躇しない自分でありたい。そう、思っている。

 どうしたらこの感覚を――男性である光介に分かち合えるのだろう。自分の容姿や身体に、そう愛着も劣等感も自信もないであろう、この人に。

 滝のような勢いで、光介が聞こえよがしにため息をついた。

「そのブランドの社員に何言われたか知らないけど、もうちょっと常識で考えて。頼むよ」

 ぎゅっと紐で引き絞られているがごとく頭がずきずきと痛む。光介が浴室に向かった。のろのろとソファに座り込む。

 確かに光介の言う通り「常識で考え」たら、モデルでもないのに、いやモデルだとしても、既婚者である彩野が下着姿をSNSやホームページに載せることは頭がおかしいと思われるのだろう。それはわかる。彩野あの下着似合うもんね、だとか、より魅力が伝わるし憧れてたブランドの広告塔になれるなんてめちゃくちゃいいじゃん、なんて物分かりがよすぎる応援の言葉を言ってもらえるわけがないことはわかっていた。だけど。でも。

 ノアノラの下着をつけた時の、味わったことのない全能感や自分の平凡な身体が特別なもののようにひかりだす恍惚について、今まで何度か話してきた。共感してくれなんて思っていない、理解しきってもらえるとも思っていない、だけど認めてはほしかった。

彩野自身は、自分の考えの移ろいをよろこばしく思っているのだ。

今まで、自分の見た目や身体に対してポジティブな感情や自信をはっきりと持ったことがなかった。けれどノアノラの下着を買うようになってからは、少しずつ自分に対して「いいじゃん」と思えるようになった。その変化を、ほかの、自信が小さくまるまってしまっている同性たちにも届けられるのであれば、けしてモデル体型ではない、規格外にあると思っていた自分の身体をさらしてもいい。そう思っている。それは勇気ではなくて、蛮行としてしか片づけてもらえないものなのだろうか。

ソファでうとうとしかけていると、彩野、と背後から声をかけられた。思わずびくっとしてしまう。なに? と意識してやわらかい声で返事をした。

お風呂から上がった光介はどこか斜め下の方に目線を落としながら、ぽつっと呟いた。

「転職自体は別に、いいよ。イチから全然違う業界で頑張るっていうのも、大変だとは思うけど応援はしたい。彩野のチャレンジ精神は好きだし尊敬もしてる」

「うん」

「けど……モデルとかはちょっと、申し訳ないけど受け入れられない。舞い上がるのも気持ちはわかるけど、冷静に考えてほしい」

 下着モデルになるわけではない、と思ったものの、いまの彼に何を言っても伝わらないのはわかりきっていた。寝室に閉じこもっていくのを黙って見送る。

 頭がおかしい、とでも言いたげな冷え切った蠟のようなまなざしの余韻を振り払うようにして、ソファで眠った。いつからか、仲たがいしたり口論した時はベッドとソファで別々に寝るのが習慣になっていた。

朝方寒さで目が覚めて毛布にくるまったまま寝室に入ると、光介はベッドの端にへばりつくようにして寝入っていた。背中に顔を近づけてそっと顔を押し当てると、濡れた薪のような匂いがした。


 もつ鍋食べに行かない? とめずらしく美冠さんから誘いがあった。ちょうど相談したいことがあったから、すぐに承諾して、出された候補日で一番近い日を選んだ。

「こないださ。光介に、ランジェリーブランドに転職することを考えてるって言ったら、猛反対された」

「え? 転職? ふーん、面白そうじゃん。お堅い金融からランジェリー業界とはこれまた突飛というか意外ではあるけれども」

 二人の間に置かれた鍋は、赤くぶくぶくとあぶくをたえず吐き出し続けている。二人とも辛党ということもあり、結局もつ鍋ではなく火鍋にした。地獄の底のようなスープには、香辛料なのか具材なのかよくわからないものが不穏に浮かんではあぶくに押しやられて沈んだり旋回したりを繰り返している。

「あのね、そのランジェリーブランドって、まだまだ始まったばっかりのデザイナーブランドで。正社員の人が二人とあとはバイトと業務委託で回してるくらい小さい会社なのね」

「ふーん。日本のブランド?」

「そう。インポートとかじゃなくて、日本のデザイナーの女性……MIKIさんっていうんだけど、その人がデザイナー兼代表なの」

 興味をそそられたのか、美冠さんのほそい目が見開かれてらんらんとしている。

「ってことは、転職するとしても最初から正社員として雇ってもらえはしないかもね。そこのブランドでバイトか業務委託提携で働くのかな?」

さすがフリーランスなので話が早い。大きく「そう」とうなずいた。「まあ、詳しくは面接のときに要相談って感じかな。でも……その、働き方が安定してないとか給与が下がるとかじゃなくて、別の部分で猛反対された。なんだと思う?」

「いやあ全くわかんない……ランジェリーショップのことをアダルトショップの一種か何かだと思って忌避してるとか? 人妻が下着売るなんて世間体が悪い、とかさあ」

 美冠さんは太い眉を下げて、唇を片方だけ引き上げて、冗談を言う時の顔をしている。そう遠い回答じゃないかもな、と思いながら正解を告げた。

「あのね。わたしがもし採用されてそこで働くとしたら、販売スタッフ兼事務、あと広報業務……要するになんでもやることになると思うんだけど、その中の一つに、下着の着用モデルとしてSNSにあげるっていうのもあるんだ」

「ははあああなるほどねえ。それは思いつかなかったわ」美冠さんは妙に楽しそうだ。「というか、彩野自身はそれを仕事内容として受け入れてるんだ? 別に、義務なわけではないんでしょう」

「義務……ではないと思う。できたらスタッフにも着用モデルとしての写真を使わせてほしい、くらいで全然強制ではないよ。でも、すごく好きな、憧れのブランドだから、やってみてもいいのかなって思ってる。もちろん、全く抵抗がないわけじゃないけどね。友だちならまだしも、たとえば今の会社の知り合いとかに見られたら若干やだなとは思うし」

「なんてブランド? インスタで見る」

「ノアノラ」

 いい加減煮立ってきたので鍋の火加減をゆるめて具材を小皿に取り分ける。その間、美冠さんはじっとスマホ画面を見てはスクロールしていた。

「いいね。なんか、思ってたよりおとなっぽいデザインの下着というか、女性が女性のために作った感じがする……主流の下着ってどうしてもこう華美っつうかゴテゴテしてるの多いけどここのは結構シンプルね。なんというか布が上質でさらっとした感じ」

「そうそう。わたし、今までは付き合ってる人とか……そういう人がいなかったとしても、男性がどういう反応をするのか、結構買う時の軸になってたかもしれない。もちろん、機能性とかも含めてだけどさ」言いながら、顔めがけて血液が勢いよく流れてくる気配を感じた。美冠さんは、うん、と呟きながら画面に目を落としている。「でも、ノアノラで買うようになってから……わたし本人の気持ちが上を向くというか、いい気分になれるような下着を買って身に着けるっていいなあって思うようになったんだよね。服ならともかく、下着にはあんまりこだわりなかったんだけど、一回とことんいいものを身に着けたら、はまってしまったというか」

 美冠さんはInstagramを見るのに完全に集中し始めてしまったので、よそった鍋を食べた。モツだと脂っこいので、火鍋にして正解だったかもしれない。

「ねえ、美冠さん」

「うん?」見つめられるなか、思い切って口にした。

「写真、撮ってもらえないかな」

「下着姿の?」

 間髪入れずに差し込まれ、勢いのままうなずく。何なら今日も着てはいるんだけどね、と言おうとしたら「じゃあこのあと撮ろうよ。当然今日もつけてるんでしょ」とあっさりと言われた。思わず口の中身を噴き出しそうになる。

「今日⁉ よりによって、鍋食べたあとに?」

「え、わざわざ別日に撮るつもりだったの? わたし月末は忙しいから次会う時って考えたら結構先になっちゃうよ。だったら今日撮っちゃおう。金曜日でちょうどいいじゃん」

 美冠さんは楽しげに笑っていたけれど、その表情に揶揄は含まれていなかった。それなりに勇気を振り絞って口にしたお願いだったので、内心、頽れそうなくらい安堵していた。

 同性に、下着姿をさらすこと。しかも、その姿を写真におさめてもらうこと。着替えを垣間見る機会はあったとしても、誰か友人の下着姿を真正面から捉えた経験は、少なくとも彩野にはない。

美冠さんから写真が趣味だとは聞いたことがないからカメラマンとしてはおそらく素人同然だとは思うけれど、少なくとも彩野よりは誰かの――同性の下着姿に抵抗はないだろうし、彼女の方がいろんな修羅場や経験をしていることは間違いない。だから、自分の下着姿を写真におさめたい、と思った時、真っ先に浮かんだのが美冠さんだった。

「そんならもう、あんまり食べるのやめとこうかな」

「うん、もう具材の追加はやめとこうか。包んで持って帰れるものにでもすればよかったね。まあわたしがあんたの分の火鍋を楽しむってことで」

 そう言いながらも、美冠さんは悪びれることなくわしわしと肉を口に運んだ。その間、なるべく内装がシンプルなラブホテルを探しておいてと言われたので、ちまちまとスマホで検索を繰り返し、東梅田の比較的新しいラブホテルで撮影することにした。


 二時間八千円がラブホテルとして高いのかどうかもよくわからない。結婚して何年も経つと、その辺の感覚が鈍っているというか、頭からすっぽり抜けている。

彩野が部屋代を全額払おうとしたら「さすがに半分出しますよ。私、経費で落とせるかもしれないから」と美冠さんがカードで支払ってくれた。エレベーターの中で四千円渡しながら、「ホテル代って何の経費になるの」とたずねる。

「わたしたまにコラムとかも書いてんじゃん? 週刊誌の座談会記事に呼ばれた時とか、ラブホで開催することも多いんだよ。それを立て替えた、みたいな」

「ふーん。じゃあラブホ来る時いつも領収書切ってるの?」

「黙秘しまーす」美冠さんがわざとらしく口を曲げたのでげらげら笑った。

 部屋に入る。白を基調としたシンプルすぎる部屋だったけれど、壁紙が派手な花柄だとか、カーテンがどぎつい色をしているとかそういうことはなくてほっとした。

さーて、と美冠さんが真っ黄色の買い物袋をぼんとソファに置いた。ホテルに移動する前にドンキホーテに立ち寄って買ったものだ。何を買ったかといえば、百合やかすみ草の造花、煙草とライターだ。

「前もっていってくれればもっといろいろ小道具持ってきたんだけど……まあいいや。あ、ワイングラスあんじゃん」

 美冠さんが食器棚を物色しながらうれしそうに二組のグラスを雑に手渡してきた。

「何に使うの」

「別にわたしも写真詳しいわけじゃないけどさ、ノアノラのインスタ見るかぎり、棒立ちで洒落た写真撮るのってめっちゃ難易度高いみたいじゃん? 花だのグラスだの文庫本だの、なんかを持ってる写真が多かったからさ、なるべく真似しようと思って」

「なるほど。ねえ、こうやって誰かの写真撮ったことある? スナップ写真とかデート風景とかじゃない写真」

「アーティストっぽい写真ってこと? あるある。学生の時コスプレ好きの子と付き合っててさ。その子が誕生日の時に、いろんな衣装キャリーケースに詰めて持ってきて、ホテルで着せ替え人形みたいにいろいろ着ては撮ってた」

「へえ、楽しそう」

「楽しい楽しい。とにかくノリノリでやるのが大事だから。とりあえず、脱いだ脱いだ」

時間ないよ、とぱんと手を叩く。なんだか部活のコーチみたいなノリだな、と思いつつも、実際時間を無駄にはできない。えいやと思い切ってジーンズを脱ぎ、シャツを脱いで、ブラジャーとショーツだけの姿になった。

「いいね。可愛いじゃん」

 美冠さんがニッと笑う。下着姿の時に言われると、どうしても、閨での場面での男性の感嘆の真似ごとに思えて恥ずかしかったけれど、単純に下着のデザインへの感想らしい。お気に入りの、ラベンダーのサテンの上下を着けてきた。トライアングル型の、ビキニにも似たごくシンプルなデザインだけれど、うっすら金色の糸で表面に花びらをかたどった刺繍が入っていてお気に入りのセットだ。

「どうすっかな……やっすいグラビアみたいな写真になっちゃわないようにはしたいね。いったんベッドに腰かけてみて。そうそう」

 スマホを構えて、美冠さんがてきぱきと指示をしてくれた。「腕の力抜いて。抜きすぎ。片方は髪触って」「ピアスを見せる感じがいいな。あ、カメラ目線じゃない方がいい。適当に空中見てて」とあれこれ言われるがままベッドや壁際、浴室に移動したりしながらポージングをして、造花を腕に抱えたり、カバーを外した文庫本をめくったりした。

「わたし、結婚してから太ったからさ。おなか出てて恥ずかしいや」

「そ? よく銭湯とかサウナ行くけど、うちらくらいの年齢の女性ってだいたいそんなもんじゃないのかな。彩野は胸にボリュームあるしね」

「ん……まあね。服を綺麗に着られないとか、洋服選びなんかだと困ることもあるけど」

 はいはい、とでも流されるかと思いきや、「そうね。少なくともこういう世の中だと小さいくらいの方が結局弊害は少ないよね」と美冠さんは静かに呟いた。失礼だと思いながらもちらっと彼女の胸元に目をやってしまう。今日はぶかっとしたワンピースをかぶっているせいでよくわからないものの、肩幅はしっかりある方だし、記憶の中では彼女の胸のサイズは少し平均より大きいくらいだった気がする。美冠さんがシャッターを切りながらぼそりと呟いた。

「さすがに最近はコンプラとかフェミとかうるさくなってきたから減ってきたけどさー。ちょっと前までは、巨乳って弄っていい体の特徴みたいな扱いじゃなかった? 超絶デリケートな部分なのにさ」

「確かに。大学生の頃とかはそうだったな。なんか巨乳キャラ扱いされるっていうか。まあそんなにめちゃくちゃ大きいってわけでもないんだけど」

 それそれ、と美冠さんが苦笑した。「なんかその謙遜とかもさ、意味わかんなくない?」

「え」

「いや、彩野を責めてるわけじゃなくてさー。胸がおっきいとかちっさいとか、まあ、別にどっちだっていいんじゃん。本人の意思とは関係ないんだから。身長が大きくて『ま、

そこまで高身長ってこともないんですけどね』っていちいち謙遜する人はいないじゃん」

「あ、確かに」

「巨乳キャラとか美人キャラとか、なんでもいいけど、勝手に下駄履かせられて逆に肩身狭くなることってあると思うんだよね。こいつ調子に乗ってるんじゃないか、とかほかの人よりは得してるんだろ、みたいな」

「あんまり考えたことなかったけど、言われてみればそうかも」

「でしょ。あ、その角度よかった。もうちょい顎引いて」

 美冠さんは何枚か撮ったあと、「一回休憩」と言ってどさっとベッドに倒れこんだ。「写真撮るのって意外と体力使うもんだね」撮られる側はもっとそうでしょ、と気遣うようにちらりとこちらを見る。

「そうだね……普段よりちょっと姿勢に気をつけてるだけなんだけど、ちゃんとした写真ってウェディングフォト以来だから緊張した」

 肌寒さを覚えてお腹を隠すように枕を抱きしめた。美冠さんが雑にシーツを布団から引っぺがしてかぶせてくれる。

「彩野の旦那って彩野の写真撮ってくれるの?」

「んー……どうだろ、人並じゃないかな? 可愛いカフェとかだったら思いついた時に撮ってくれるくらい。ま、光介は写真下手だから、ほかの友だちが撮ってくれれば別にいいんだけどね」

「ふぅん。あ、写真見る? いい感じのだけ取り急ぎ送るから」

「あ、見たいみたい」

 シーツを身体に巻き付けたまま鞄からスマホを取り出す。十枚送ってくれているのを、薄目で見た。照れくささと恥ずかしがぐるぐると渦巻いて、直視する勇気が出ない。

「なんか……自分の下着姿って、生々しいね。今更だけど恥ずかしいや」

「ま、写真に残す機会なんてないもんね。でも楽しかったよ」

 これなんかやらしさがなくていいんじゃない? と美冠さんがぐいとスマホ画面を見せてきた。照れ笑いのような表情を浮かべた自分が、壁に凭れてワイングラスで水を飲んでいる写真だった。ややうつむいているのと口元がグラスで隠れているので実物より彫りが深く、小顔に映っている。「え、それめっちゃ盛れてる……」と思わず口に出して無防備に呟いてしまった。

 自分で言うなよ、とでも笑われるかと思ったけれど、美冠さんはあっさりと「そうね」とうなずいた。「もっと撮っていけばもっといい写真も撮れると思う。彩野は鼻が綺麗だから、正面よりちょっと斜めとか、角度つけた方がいいかもね」

「え、うれしい。初めて言われた。わたし、顔に特徴ないからさ」

「そ? 最初に会った時から思ってたけどね」

 さらりと言われて、頬が熱くなるのを感じた。「あと四十分で部屋出なきゃだ」と美冠さんがひしゃげた声で冷静に呟く。


 青っぽい照明の中で、彩野が手を翳しながらシーツの上で目を閉じて横たわっている。

まぎれもなく映っているのは自分なのに、知らない誰かみたいに思える。わたしってこんなにまつげ長かったんだな――一人きりの寝室で自分の写真を見返しながら、どうしても口元が緩んでしまう。繊細な刺繍が白い肢体に映えて美しかった。

ラブホテルで、時間一杯を使って写真を撮ってもらった。美冠さんも撮ろうか? と何度か言ってはみたけれど「いいってわたしは」とすげなく断られてしまった。自分だけ撮ってもらう申し訳なさから提案したわけではなく、彩野を撮る彼女がいつも以上に楽しげだったから、その表情を切り取りたいな、と思ってそう言ってみたのだけれど。

 光介に見せるつもりは、撮られる前から一切なかった。たとえSNSや人に載せるためのものではなかったとしても、下着姿の写真を誰かに撮らせてデータが残っている、ということ自体に眉を顰められるだろうことはわかっていた。

付き合っている頃だったら、そういう潔癖で頑な光介の性質を好ましく受け取ったかもしれない。けれどいまは、自分の脚を引っ張る重りのようで辟易してしまう。彼の存在のせいで、世界がコンパクトにまとまってしまっているような、そんな気がしないでもない。

 またベッドで一緒に寝るようにはなったものの、光介はノアノラへの転職について話題を振ってくることはない。自分から話をしないことで反対の意を示しているつもりなのかもしれない。あるいは、一時の気の迷いだと思っているか。

結婚して四年の間で、「仕事辞めたいな」「しんどいから転職考えようかな」と零したことは何度かあるものの、せいぜい転職アプリをインストールするくらいで、エージェントに相談するだとか面接を受けに行くだとか、具体的な行動を起こしたことは一度もない。愚痴を言いながらずるずると仕事を惰性でこなすうちにまたうまくいくようになって、それなりにやる気を取り戻す。その繰り返しであることを光介も把握しているのだろう。けれど、今度ばかりは気まぐれだとか気分の波だとかで片づけられるものではない。

 四月から彩野はエリアマネージャーに抜擢されて、現場を離れてマネジメント業務に専念している。内示が来た時は、とうとうこの日が来たか、と心臓をぎゅっと手で軽く握られたような鈍い痛みが走った。

昇格なのでもちろん評価されていること自体には誇りと嬉しさがあったし、給与もぐんと上がった。けれど、いざ管理職に就くと、つくづく自分は誰かの面倒を見るよりも自分のノルマを追いかける方が性に合っていると気づかされた。けれど一度昇格した以上、現場に戻ることは会社のキャリアパス上ありえない。

 働き続けていればどういう順路でいつ頃どのポジションにあがっていくか、業務がどう変化していくかは入社したころからうすうす把握していた。かつ、後輩指導という業務に強いストレスと苦手意識があることも、ジョブローテーションがあった数年前から気づいていた。このままだと、会社に居続けても自分がのびのびと働けるキャリアは望めない――強い懸念があるまま、昇格して数カ月が過ぎていた。そんな折に志保理さんから思ってもみない話がきたのだ。飛びつきたいと思うのは致し方のないタイミングだった。

 何度苦しい思いや悔しい思いをしても、なんとか踏みとどまって、評価されようと自分なりに努力してきたつもりだ。惜しい気持ちがないはずがない。せっかく名前のある企業で着実なキャリアを積んできたのに、それを捨てて一切関係のない業界へ新人として飛び込んでいくことへの不安も抵抗もある。けれど、こうも思う。

 残りの人生で、あと三十年近く働く時間はつづく。今までの人生の時間まるごとぶんがこの先にも延々と広がっているのに、もう、この時点で自分の一生の仕事は定められて動かないものなのだとしたら、なんてつまらないのだろう、と。


 鬱屈としたまま過ごしていても、ノアノラ側では話が進んでいたらしい。志保理さんから連絡があった。

【幹さんが是非彩野さんと会ってみたいと言っているのでご都合つく時お茶でもどうでしょうか。カジュアル面談なので気負わずに。曜日関係なく遅い時間帯でもOKとのこと!】

既読をつけてしまったものの、すぐには返事を打てなかった。けれど、どれだけ逡巡したところで自分の気持ちはわかっていた。【光栄です。20日~23日であれば20時以降空いていますとお伝えください】と送る。ふうっと大きなため息が漏れた。

とうとう、憧れていた人と対面するのだと思うと、かあっと脳が蕩けるように熱を帯びてくらくらした。

志保理さんを介して、幹さんと梅田の英國屋で待ち合わせることになった。志保理さんも同席してくれるのかと思いきや、あいにく予定が合わないらしい。

当日は直帰のていで早めに仕事を切り上げて丁寧にメイク直しをして約束の時間までを潰した。まぎれもなく楽しみでたまらないのに、いっそ土壇場でキャンセルにならないかと希ってしまう。肋骨がきりきりと引き絞られるような痛みを味わうのは数年ぶりだった。

付き合う前の光介とのデートの前は、よくこんな気持ちになって切なさとじれったさに心を擦り減らしたものだ。緊張の合間に、かすかな懐かしさがほろ苦さとともに胸に流れてくる。いまでは景色の一部として溶け込んでいる夫だけれど、会いたくて、好きだと思ってほしくてたまらない時があったのだ。

約束より三十分も前だったけれど、所在なくルクアを歩き回るのにも疲れて英國屋に入った。テーブルに着き、カフェオレをちびちびと飲みながらひたすら待ち続けた。

「大海さんですか」

 曇りのない硝子を連想させる、どこか硬質さを孕んだ透明な声がした。思わずぴんと背すじを正す。MIKIさん――もとい、ノアノラ創始者である風倉幹さんが片腕にコートをかけて立っていた。

まっさきに顔の小ささに目が行く。マスク越しでもメイクが極めて薄いことがわかる。肌は水田のように冴え渡って額がぴかぴかと光るようだった。数年前からずっと敬愛していた神のような存在が、今、視界の中で自分を見つめているということに頭が煮沸するみたいにぐらぐらした。

けれど感動に陶酔している場合ではなく、あくまで今日は自分という人材を彼女に売り込まなければならないのだ。立ち上がって席を勧めると「お待たせしてごめんなさいね」と恐縮しきって幹さんが座り、店員を呼び止めて紅茶を注文した。ちょっとしたしぐささえ気品があり、小さな春風をまとっているかのようだ。

「初めまして、風倉です。志保ちゃんからはよく彩野さん……あ、ごめんなさい、大海さんの話はよく伺ってて。お会いできてうれしいです」

「ええと、彩野で大丈夫です。こちらこそ、幹さんにお会いできるなんて本当光栄です。ずっとノアノラのファンだったので」

 ありがとうございます、と幹さんが微笑んだ。マスクを取ると、造作の薄さも相まって雰囲気が幼くなる顔立ちだった。

「あの、今日は面談だとか面接だとか、そういうんじゃなくて、彩野さんがどういう人なのか、いろいろ話したいなと思って設けた場だからあまり硬くならないでね。わたしも、ここからは砕けた言葉遣いで臨むので」

「ええと……わかりました」

「志保ちゃんからすでにいろいろ聞いてるけど、始まって間もない時からノアノラをご贔屓いただいてるみたいで本当にうれしいです。ありがとう」幹さんが笑みを深くする。「うちの商品は、基本的に受注生産だから値段は正直、下着の中でもけっして安くはない方なんだけど……何年も前からずっと通ってくださってるみたいで」

「そうですね、初めて見た時はInstagramの広告……だったかな」うんうん、と幹さんが目を細めてうなずく。なんてチャーミングな笑い方する人なんだろう、とうっとり魅了されつつも言葉を選ぶ。「ノアノラで買う前から、下着とか洋服を買うのは結構好きだったんですけど、それなりにボリュームがあるせいで、普通のを買うとどうしても迫力が前面に出てしまうというか。別にそれはそれでいいかな、って思ってはいたんですけど、それはなんというか、グラビアを見て喜ぶ男の子みたいな目線で自分のことをいいなって思ってただけで、本当に自分が好きな姿とはちょっと違ったかも……って、なんか、まどろっこしくてすみません」

「そんなことないですよ。つづけてください」

「ありがとうございます。かといって小さくコンパクトに見せる、みたいなのも、あんまり好きになれなくて……単純に窮屈っていうのもそうだけど、自分の身体の一部を本来より小さく見せなきゃ、みたいなのって、誰のためなんだろう、みたいな。なんで規格外として扱われて、ちょっと卑屈な気持ちで買わなきゃいけないのかなって思ったんです。本当に自分の意志でそうしたいっていうよりも、そうしなきゃって思わされてるみたいで、まあ確かにそういうのをつけると小さくは見えるんですけど、どうしても違和感があって」

「うんうん」

「けどノアノラの下着を着けた時、なんだかすごくしっくり着たし、自分の姿に初めてうっとりできたっていうか……大きいのを強調するんでも、大きさを隠すみたいに押し込むんでもなく、あるものをそのまま活かしてる、というか」

 ノアノラの下着は着心地の良さを配慮して、ワイヤーがないデザインが多い。けれどぴたりとフィットするように設計されていて、包み込まれるような感覚が近い。

「試着した時、男性目線のいいね、みたいなまなざしからやっと抜け出せたような感じがしたんです。わたしは広告のモデルさんと全然違う身体なんだけど、デザインの良さが壊れてないし、大きいとか小さいとか、垂れてるとか離れてるとか、そういうのにこだわらなくていいのかなって」

 話しながら、ああそうだ、とあの時の感動を思いだす。誰かを欲情させるパーツ、男性に物欲しそうな目を向けられる身体の一部、ではなくて、彩野の身体全部が、すごく、いいものであるかのように思えた、あの陶酔と万能感。胸が大きいから、ということではなく、すごく似合っていると思ったし、全く自分とは体型の異なる細い体躯のモデルの着用を見ても、綺麗、と思った。ウェディングフォトを撮った時の、自分はすみずみまで完璧だと思えるようなうっとりした昂揚感とも似ていたかもしれない。その感覚について、言葉を選びながら話した。幹さんは、じっと彩野の話に耳を傾けていてくれた。

 ノアノラの下着への思いだけではなく、現在の仕事や休日の過ごし方、好きな洋服のブランドなど、さまざまなことを話した。本当は幹さんのことを一方的に質問攻めにしたいくらいだったけれど、「今日は彩野さんの話を聞く日だから」とやんわりと微笑まれたのでぐっとこらえた。

「ねえ、彩野さん」

 ふいに、ひたりと目を見つめられた。予感めいた風がふうっと身体を通る感覚があり、とんと心臓がつま先立ちをする。

「面接は、するまでもないかなと正直思いました。わたしは、彩野さんにもノアノラでの仕事を手伝ってほしい。もちろん、いまのお仕事の兼ね合いもあるだろうから、あくまでわたしの一方的なわがままとして、聞き流してください」

「はい」

 目の前にいるのに、泉から湧き出てきた言葉を読んでいるような、浮遊感の伴う不思議な感覚だった。幹さんが、ふっと目を伏せる。ふっくらとした瞼が、つきたての餅みたいに白く柔く、かすかなラメが照っていた。

「うちはまだ小さいちいさい会社なんだけど……ほそぼそとだとしても、これからもずっと続いていくブランドだっていう、確信があるのね。求められているなって、感じるんだ。経営者としての勘かな。でね、それを彩野さんみたいな方に手伝ってもらえたらうれしいなって、思う」

 自分の耳たぶが、小学一年生のランドセルより真っ赤になって光っているのがわかる。火が灯されたみたいに。

「幹さん」

「うん?」

「わたし、このあいだノアノラの下着をつけて、友だちに写真を撮ってもらったんです。見てもらってもいいですか」

 幹さんの表情にゆっくりと笑みが浮かんだ。湖に浮かぶ月を手で掬うみたいに、この人の心を両手で包んでみたい。そんなことを思いながら、スマホ画面を彼女に差し出す。


 ぼうっと熱を持った頬を夜風で冷まして家路につく。光介から【カレー作ったから帰ってきたら食べてね】【外で食べてくるなら明日でもいいし】と連絡が来た。どことなく機嫌を伺われているような気配がある。ここ数週間、ぎこちない空気を分かち合ったまま肝心の部分を話し合わずにいた。【ありがとう! 20時半には帰るよ】と送った。相談したいことがあると送ろうとして、緊張させたまま待たせることになるだろうと思って消した。

「ただいま」

 ドアを開ける前からカレーのいい匂いがしていた。おかえりと光介が洗面所から顔を出した。タイミングよく、お風呂から上がったところらしい。

「カレー、温めてあるから好きなだけよそって食べな」

「ありがとう。ねえ、今日、幹さんと会ったんだ。ノアノラの、デザイナーさんに」

「社長してる人? え、面接だったってこと?」

 光介が笑みをこわばらせた。「面談じゃなくて、軽くお茶して、話したって感じかな」とこたえると、あからさまに安堵したのが伝わった。苛立ちを顔に出さないようにしながら、カレーをよそい、テーブルに着く。光介もついてきてソファの隣に腰を落とした。

「いただきまーす。用意してくれてありがとうね」

「うん」

 鶏肉を口に運ぶとほろほろとやさしく崩れた。溶け切ったジャガイモのかけらがカレー全体のくちどけをよくしている。「長い時間煮込んでくれたの? めっちゃおいしいね」と笑いかけたものの、軽くうなずくのみで光介はどこか急いたような硬い表情を浮かべていた。自分が切り出すのを待っているのだと察して、スプーンを置いた。

「面接ではなかったんだけど……ノアノラのこととか、わたしの経歴のこととかいろいろ話して、幹さんに『一緒に働きたい』って言われた」

途端、光介が用意していたかのように眉を顰めた。

「なんだそれ。軽すぎない? サークル勧誘じゃないんだからさ」

「軽くないよ。わたしの憧れの人なんだから、そういう言い方しないで」ぴしゃりと言い返すと、平手打ちでもされたような顔をして光介が口をつぐんだ。「ノアノラと出会ったことで、わたしの考えとか、価値観とか、少しずつ変わったの。見た目とか、コンプレックスのこととか。そういうのを、幹さんがずっと聞いてくれたの。あなたがどういう人なのか知りたい、って言ってくれて」

「うん……」

「数年来ずっと、ずっと憧れてて追っかけてた、神様みたいな人が、だよ? それだけでも心臓がどうかなりそうな状況なのに、こういう人と働きたい、って言ってもらえてすごくうれしかった」

「それはわかるけど」先ほどよりはいくらかトーンを落として光介が口を挟む。「だからと言っていまの会社を辞めるのは無理でしょ。現実を考えてよ」

 あたりまえのように言うのでカチンときた。

「なんで」と問うと、目を見開いて「新卒の時からずーっといて、出世もしたばっかりで、今辞めるのは絶対違うでしょ」と返ってきた。「勿体ないよ。絶対後悔する、絶対」――主張を幼稚に言い張る小学生のように、ぐるりと目玉を動かしてみせる。

「……勿体ないとはわたしだって思うよ。でも、わたしがエリアマネージャーになってから仕事しんどいってずっと言ってたじゃん」

「そりゃなったばっかりの時はだいたいそうだよ。俺だってすぐに慣れたわけじゃないし」

「慣れるとか慣れないとかじゃないよ。向き不向きの話なの」カレーが湯気を立てながらどんどん熱を失っていくのを見つめながら言葉を選ぶ。「現場で走り回ってた時は、これが天職かなって思ってたし、つらいことも多かったけど楽しかった。でも、一回マネージャーにあがったらもう戻れない。この先退職するまでずっと苦痛を我慢しながら働かなきゃいけないって思うだけで途方もなくしんどいんだよ。正直、モチベーションも春からずっと下がりっぱなしで、一緒に働いてる人たちにも申し訳ないし」

「そんなにつらいなら、ほかの選択肢だってあるでしょ。別の金融系の営業になるとか」

「何その代替案。そんな話してないよ。ねえ。要するに光介は、わたしが下着を売るブランドで働いてほしくないってだけでしょ」

 光介は黙り込んだ。そして「前も言ったけど、働いてる人が下着の自撮りを広告に使うような会社に彩野を働かせるわけにいかない」と低く押しつぶしたような声で言った。

どうしてわかってくれないの、と感極まって甲高くさけぶと、「結婚してるんだから、賛成しないのは当たり前だろ」とあきれたように光介が呟いた。あくまでも、自分が常識に則って意見を述べていて、常識はずれな意見を主張している妻を諫めることに骨を折る自分、と言う役割を担おうとしているのが透けて見えて、どうしようもなく距離を感じた。

「ねえ……心からわくわくする仕事があって、自分にもチャンスがあるかもしれなくて、挑戦してみたいって思うのは当然じゃないの? 光介だって、たとえば、自分がいつも贔屓にしてるサッカーチームが使うスポーツマシーンの機械設計のプロジェクトに関われるかもしれないチャンスがあったら、絶対自分を売り込むでしょ」

「俺の会社にそういう仕事が回ってくることは絶対にありえないから」

「だから、たとえばの話だって」いらいらしながら早口で言い募る。「こういう仕事だったら夢中になって取り組めるだろうなとかたとえ給与が低くてもやりたいって思うだろうなとか、そういうのってあるじゃん、誰だって。それがわたしにとっては、大好きなブランドで働くことなの」

「そういうこと言いだしたら、好きな芸能人のマネージャーとか、マンガの編集とか、きりがないしもっと種類はあるだろ。なんでわざわざその中からリスクのある仕事を選ぼうとするの」

「チャンスがあるからだよ。わたしが……人生で、『こういうことをできたら楽しいだろうな』ってことを実現できたことって、ほとんどないよ。できそうなことのなかから選んでただけで。だから、せっかくあるチャンスをふいにしたくないよ」

途端、光介がくしゃりと紙を折るように顔を歪めた。

「それは俺との結婚を妥協したって言ってるのも同然じゃないの」

「違うよ。それとこれとは全然違う」

 即座に切り返したけれど、否定してからふいに気づかされてしまう。光介はまだ顔を痛みに歪めている。水の底で見つめ合っているような奇妙な静けさの中で、差してくる光が照らす一つの事実を、なんとかみとめようとした。

 妥協した、のだ。具体的に、ほかのあの男性との結婚がよかったとか、光介との結婚に不満があるまま入籍したとか、そういうことではない、あの時の自分は確かにどっぷりとした蜜にも似た幸福にあふれていて、納得もしていた。けれど、その幸福や納得の中には「独身から抜け出すことができてよかった」「婚活を金輪際しなくて済んでよかった」というたぐいの安堵も多分に含まれていたことはどうしようもなく事実だ。その焦りがなければ、あの時、結婚願望が同じくあった光介と付き合って、結婚というかたちを選択していたかは、正直自信がない。

 光介を恋人に選んだ大きな理由は、結婚への熱意や願望が彩野と同じくらいに釣り合っていたからだ。もちろん、性格の大らかさや愛情の深さ、仕事への情熱など、いろんな長所や特徴をひっくるめて選んではいるけれど、前提として「自分と結婚してくれそう」という要素があったから、ということは否めない。

 黙り込んでしまった彩野を見て、「もういい」と力なく光介が呟いた。溺れた人のようにだらりと力ない腕を掴んで「光介」と呼びかけたけれど、やんわりと振り払われた。ああ、と火が消えていくろうそくを見守るように、思う。

 伝わってしまったのだ。彩野がたった今、光介との結婚について思いをはせたことに。そしてそれが、あの時の一生に一度の決断には妥協の気持ちも含む、という気づきであることも、察したのだろう。

「考えさせて。いろんなこと」

 光介が片手で顔を覆った。余っている左手を、彩野は掴むことができなかった。何百回もつないだり、握ったり、いたわってきた夫の手が、木の彫刻のように固くこわばり、彩野を拒んでいることに気づいていたから。


 家具がすっかり運び出されると、狭いと思っていた2LDKがやたらと広々として見えた。これから新生活って感じだな、と思いはしたものの、あまりに場違いな感想だと思い、口にはできなかった。

「離れて暮らそうか」と切り出したのは光介だった。「別れないの?」とたずねると、顔面をナイフで切られたように表情を歪め、「考えたけど、俺の人生から彩野がいなくなることに耐えられない」と呻くように呟いた。すでに二人の間で、互いの存在の重さが平等ではなくなっていることがあらわになったことに気づいてはいたけれど、そうだね、とうなずいておいた。自分のわがままで夫を傷つけたのだから、完全に拒まれ切るまでは彼に寄り添っていたかった。

 家電や家具を分け合い、いらないものはごっそりと処分した。リビングに飾っていたウェディングフォトはいつのまにかなくなっていた。光介が自分の荷物に入れたらしい。わたしはいらないかな、と彩野に言われるのが怖かったのだろうか。実際、洗濯機だとか本棚だとかと同じように「これどっちが持っていく?」と問われたら――即答はできなかったかもしれない。だから正直に言えば、助かった、と思った。もう、どんな小さなことでも光介を傷つけることや自分が悪者になってしまうことに疲れ果てていた。

 転職によってどれぐらいの収入になるのか計算して、捻出できる家賃の上限を定めた。「そんなの旦那に出してもらえば」などと美冠さんは焚きつけてきたけれど、冗談じゃない、と思いどうにかシェアハウスを探した。女性専用のシェアハウスで、一軒家を五人で暮らすことになる。手狭ではあったものの幸い内装は綺麗だったし、見学で会った住人たちは皆彩野より年配で、穏やかそうな暮らしだった。大学寮のようなにぎやかな暮らしできるのかな、と内心楽しみだったので少し拍子抜けしたものの、ひとまずの仮暮らしとしてはちょうどいいだろう。ひとまず一年暮らしてみようと思う。

 正式にノアノラの面接を受けたのは先週のことだ。「面接っていうよりも、内定はもういつでも出せるので業務内容の説明って感じかな」とのことで、彩野へ割り振る業務の詳細や今後のブランドの展望について説明を受けた。

半年間は契約社員の扱いで雇用されるので、いくつかのバイトと組み合わせて働くつもりだ。美冠さんが「うちのスナックに立てばいいじゃん。時給めちゃくちゃ高いわけではないけど楽だし営業してたんだから向いてると思うよ」と言ってくれたので、お試しで来月からシフトを入れることになっている。さすがにそこまでは光介につまびらかにする気はなかったけれど、何もかもが新鮮で、自分の人生ではないみたいでひそかに心躍った。

 引っ越しトラックが二台それぞれ新居へと向かう。キャリーケースを引いて駅まで歩く。

「会う頻度は、落ちると思うけど……縁切るとか、人間関係終わらせたとか、俺はそういう風には思ってないから。電話するし、ごはんも誘うよ」

「そうだね。落ち着いたら家に遊びに行こうかな。」

「ん。ちゃんと掃除しとくわ」

もごもごと言い残して、光介が地下鉄の駅の階段を降りていく。握手をするだとか、最後にハグを交わすとか、そういう儀式めいたものはなかった。明日また会うみたいな顔をして見送りながらも、でも、次いつ会うのか、全く想像もつかなかった。

涙がぼろぼろとあふれた。ハンカチで乱暴に拭う。感情の昂りはすでになかった。風のない日の凪いだ海を車窓越しに見つめるような、郷愁に近い涙だった。

これ以上寒風に身体をさらしたくなくて、咄嗟にカフェに入った。混んでいたので二階の窓際に通される。ホットコーヒーを頼んだ。

ふと視界に違和を覚えて窓の外に目を向けると、街路樹が強風でしなり、枯れ葉が宙を旋回していた。硝子越しでも、ぴゅうとケトルが鳴るような甲高い冬の風音が時折聞こえてくる。物悲しい冬の光景に、また涙が滲みそうになる。

けれど、よく見れば葉は下へ落ちていくのではなく、天へ天へと昇っている。まるで鳥が巣立つように、上空へと飛び立っていく。風で木から振り落とされたのではなく、自分の意志で高みへと向かうように見えて、じっと目で追った。

 どうなるのだろう。どこへ向かうのだろう。こんな人だと思わなかったよと背を向けながら光介が呟いた言葉が尖った小石のようにころころと胸を転がる。彩野自身が一番自分に驚いているし、思いがけない人生になった、と思う。

ひとりきりになったこの舟は、笹舟のように頼りない。だとしても、自分の意志で行きたいところへ行く、ということがないがしろにされるのであれば、降りる以外の選択肢はあり得なかった。

光介との暮らしも、保険の営業という仕事も、もちろん楽しかった。愛しいと心の底から思っていた。けれど、いま以上に光って見える道が照らされていて、ましてや手招きされたのだ。であれば、このさきも歩いて行ってみるほかない。

 かじかむ指先をテーブルに届いたマグカップで温める。葉は風に翻弄されるがままに宙を飛んでいる。どこまでも、空高く、その先へと飛び立とうとするのをじっと見つめた。


第7章 34歳

壁のいたるところに、嘘をつく顔をした自分のかけらが散りばめられている。

薄暗い店内だと年齢や顔の粗が飛んでうまくカバーされるせいだろうか。七畳ぽっちしかない『スナック 帆船』を少しでも広く見せるために設置されているであろう鏡の中で目を合わせることは結構好きだ。

「ごめん、呼ばれちゃった」と告げると、目の前の彼はわかりやすく眉を下げた。

「ジュリさん、もうちょっといてよ。指名するから」

「うそ、ありがと。気に入ってくれた?」言いながらママにステイを伝える。

「店の名前が可愛いから入ってみた」と初来店した彼は、シャーペンでさらさらと書いたような、綺麗な骨格をしている。三十七、八、と言ったところだろうか。薄闇のような店内のせいで、客の年齢をぴたりと当てられたためしはほとんどない。

「えーっと、で、なんだっけ。ジュリちゃんはお昼、アパレルショップなんだっけ」

 下着を売っている、と言うと露骨に下世話な方向へと持っていかれることが多いので、訊かれたら大抵そう濁している。「そうです、前職は金融系の営業なんですけど」と返しながら薄いハイボールをちびちび飲んだ。

「昼も夜も働いてるなんて超偉いじゃん」

「貧乏暇なしってやつですね。お兄さんはどんな仕事してるんですか?」

「智哉でいいよ。コンサル」

「へえー、かっこいい」

 見映えする容姿である上にオーダーメイドで作ったであろう、ぴたりと細身の身体に張りつくスーツ姿だったので合点がいった。かっこよくなんてないよ、と眉を顰める。

「まあ確かに同僚はイケイケ系っていうか、遊んでるやつばっかりだけど。俺はもうそういうのいいや。あったかい家庭を築ければそれでいい」

「ふーん。もう遊び終わったって感じですか」

「そうかも。切り上げるの遅かったのかなぁ、付き合うまではそこそこ早いんだけど、結構すぐ振られる。もう、すぐにでも結婚したいんだけどな」

 意外だな、と思いつつ年齢を訊くと三十六歳だった。「ジュリちゃんは」と問われて、咄嗟に「三十四」とこたえる。いつもなら三十とこたえているところなのだけれど、歳の近さに親近感を覚えたせいか、つい本当のことがこぼれてしまった。うっそ、と智哉さんの切れ長の目が見開かれる。

いまはともかく二十代の頃はめちゃくちゃ遊んでたんだろうなあ、とひそかに思う。疲弊が滲んではいるけれど、はっきりと美形だった。

「もっと若いかと思ってた」

「そっくりその言葉返します」あはは、と空気をまるく揺らすようにして智哉さんが笑った。笑うと歳相応の皺が走ったけれど、笑顔の方がぐっと魅力が増して惹きつけられた。

 会計の際、LINEを訊かれたので交換した。線画の、ごくシンプルな似顔絵がアイコンだったので、あざといなと思った。牽制というよりも、そつのなさへの感心が近い。ドアまで見送ると「また連絡するね」と微笑まれた。


 スナックでバイトも、さすがに板についてきた。

夜職、という未知の世界へ初めて飛び込んだ時は「こんな歳で初めていいんだろうか」という引け目が強かったけれど、ママが五十代であることと、この店のキャストの平均年齢が自分より二歳ほど若い程度なのでいまでは開き直っている。元々は美冠さんからの紹介だったけれど、去年彼女がパートナーの転勤に合わせて大阪を離れたためとうに引退してしまった。じじいの相手なんてもうまっぴら、とのことで、移住先の島根では夜職のバイトをしてないそうだ。毎日退屈だと言いながらも、時々思い出したように更新されるnoteに綴られた短い日記には、土地への愛着やパートナーへの慕わしさがにじんでいる。

 二十三時半に店を上がって、最終電車で出町柳へと向かった。どうせ自由の身ならば、と思い、前々から「一度ぐらいは住みたいな」と思っていた街で家を見繕った。天下の京都大学の最寄り駅である上に土地にブランドがあるせいで家賃は想像していた以上に高かったけれど、難なく住むことが叶った。エレベーターがない物件なので、毎日三階を昇降するのには泣かされるものの、運動になると思えばそれも悪くない。気だるい脚で階段を上がり、部屋の前まで向かうと明かりが漏れていた。

「お帰り」

「ただいま。何してた?」

「ん、論文の校正してた」両手でおさまってしまいそうなほど小さな顔に載った眼鏡は、相変わらずずり落ちそうなほど大きく、度が強い。

 学生の頃、隣同士住んでいた万璃子とルームシェアをすることになるなんて、予想もしていなかった。フリーターとフリーランスの間のような身分で、人気エリアで駅から歩いて六分の2LDKという好物件に住めるのは家賃を折半しているおかげでしかない。

「明日実家戻るね。月曜日の夜戻ってくる」万璃子が肩をぐるぐる回しながら言う。

「あ、じゃあ来週は実家から出勤?」

「その予定。あ、洗濯物干しておいた」

「ありがとー。紬ちゃんによろしくね」

「ん、こちらこそ家のことよろしく」

 万璃子の実家は福井から移って現在宇治市にある。平日は非常勤講師として高校に勤務して、土日は娘の紬ちゃんと両親が暮らす宇治で過ごしている。何度か紬ちゃんがこのアパートに来たこともあり、三人で京都駅の水族館へ行ったこともあった。

母親と普段離れて暮らしているせいか元来の性格なのか、七歳にしては少しおとなびた風情の女の子だった。帰りにいるかのぬいぐるみをプレゼントしようとしたら「こっちがいいです」とダイオウグソクムシの組み立てブロックなる玩具をほしがるのを見て、自分がもし同い歳のクラスメイトだったら、遠巻きに眺めてみているタイプの女の子だったかもなあ、とひそかに思った。そしてそれは、学生時代万璃子に思っていた印象と通ずるものがある。

「お風呂まだ抜いてないから追い炊きして入ったら?」

「助かる。汗かいたしそうする」

「今年の夏は本当に蒸すよね」

 湯舟に浸かりながらスマホをいじっていたら、智哉さんからメッセージが来ているのに気づいた。【楽しかった!】【また話したい】そして猫があまえているスタンプ。へいへい、と思いながら【今日はありがとうございました! 火水金はお店にいるのでまた遊びにきてください♪】と営業LINEを送っておく。万璃子がバスロマンでも入れたのだろうか、ほんのりとお湯から檜のような匂いが立ち上っていた。


 保険会社を辞めて、ノアノラのスタッフとして雇用されて二年が経った。

営業を天職だと思って長年働いていたけれど、営業ではない仕事も、目がまわるほど楽しかった。見様見真似で販促物のデザインをつくり、メルマガの文章を作成して、商品のキャッチコピーや説明文を書き、ポップアップでは販売員として一日フロアに立つ。週四回出勤して、週三回はスナックでのバイトをする。収入はエリアマネージャーをしていた時よりはずっと減ってしまったものの、大好きなノアノラの商品を社割で買えるようになったし、血眼になって切り詰めなければならないほどかつかつな暮らしを強いられているわけでもない。

とはいえ、やめて最初の一年間は大変だった。

憧れていた人の下で働くことのプレッシャーは大きく、慣れない仕事を任されているということもあって、つまらないミスを起こすのは日常茶飯事だった。幹さんたちはあくまでも寛容だったけれど、自分を雇ったことを間違いだと感じているのではないかと思うと胃に穴が空きそうで、常に胃痛がした。ファンでいるだけでよかったのではないか、営業のキャリアを捨てたのは間違いだったのではないか――「大海が辞めること、わたしは反対だな」と最後まで転職について苦い顔をしていたかつての同期・伊藤のアルトの硬い声が何度もよみがえって、そのたびに情けなさに嗚咽が漏れた。三十を過ぎて、仕事で泣くなんて新卒の小娘じゃあるまいし、みじめったらしくてたまらなかった。

悪いことは続いた。初めは何かと世話を焼いてくれたシェアハウス先では、住人たちが手のひらを返したようによそよそしい態度を取られるようになった。というのも、スナックでバイトしているせいで日常的に日付を超えてから帰宅するのをよく思われなかったらしい。彩野以外の住人が、同世代ではなく二回り近く歳上だったことも不運の一つだった。味方を誰一人つくれないまま、肩身の狭い思いで暮らし続けるほかなかった。一軒家をわかちあっているせいで、完全に顔を合わせない、というわけにもいかず、お互いにぎすぎすした空気を抱えたまま数カ月を過ごす羽目になった。

泣きっ面に蜂、弱り目に祟り目、踏んだり蹴ったり……新しい門出で躓いてばかりの日々だったけれど、それでも不思議と「光介を頼ろう」とは思わなかったのはわれながら不思議だった。

夫とは週に二度くらいのペースで連絡を交わしてはいたし、今も季節にいちどくらいの頻度で旅行にも行く。離れたことでいっそ互いへの気遣いが生まれて良好な関係になったくらいだ。それでも、連絡はほとんどが彼発信で、彩野から近況を送ることはほとんどなかった。反対を押し切って別居した以上、彼に反対されていた選択のその先を報告することは、それがいい結果であれ悪い結果であれなんだかあてつけがましいようで後ろめたく思えたからかもしれない。

 前へ前へと進んでいるはずなのに、どうしてか、意に反して舟がくるくると旋回して方向が定まらず、櫂を一心不乱に漕ぎながらも途方に暮れる――そんな日々の中で、万璃子から連絡があった。

【離婚することになりました 子どもはわたしが育てます】

 端的なメッセージだった。言外にSOSをかぎ取って会えないか打診すると、何度かやりとりがあってから京都で会うことになった。小学生になった紬ちゃんと一緒に。

「何か問題があったというより、価値観の相違かな。自分の機嫌次第で態度が結構変動するところとか、紬の教育費への考え方とか、仕事への負荷のかけ方とか……全部、ちょっとずつ違和感があった。何かきっかけがあって嫌になったっていうより、積み重ねだな」

 紅茶を熱そうに啜りながら、三条の小川珈琲でぽつぽつと万璃子が言葉を漏らした。今は何の仕事してるの? とたずねると「クリーニング屋さんのパートを仮で始めたけど、転職活動中」と肩をすくめた。「実家に戻ってるからそこまでまずい事態ではないけど、ずっと親と暮らすのはきついな。でも転職も、すんなりとはいかなさそうでしばらくは頼ることになると思う」

「そうだよね。出版社に戻るの?」

「どうかな……激務すぎて半年くらいで鬱になっちゃったの。残りの一年半はほぼ休職してて、そのあとすぐ結婚して、紬を産んだから。だから経験者とも言いづらいキャリアしかなくて、編集として中途入社するのはかなり難しいかもしれない」

「そうだったの?」

「うん。だから、いろいろと、身から出た錆なの。わたしの今の、この状況は」

 万璃子の口調はあくまでも淡々と凪いでいたけれど、内側で青くほそい炎が揺らいでいるのは明白だった。自分への怒りなのか、悔しさなのか、情けなさなのか、それはわからない。けれど、結婚によってキャリアを捨てることがのちのちどれほど大きな影響を人生にあたえるかはわかっているつもりだ。というよりも、この歳になってやっと、思いをはせられるようになった。

「女性にとっての結婚って、身売りに近いのかもね」

 ぽつと呟くと、万璃子はゆっくりとまばたきした。

「どうだろう。結婚はともかく、紬を産んだことに後悔はないけど……紬が結婚する時にはいろいろ口出ししてしまうかもな」

 お茶をしたあと、鴨川付近まで三人で散歩した。人見知りして彩野とほとんど口を利かずにいた紬ちゃんも、えいやと思い切って踏み込んでちょっかいをかけつづけていると「もー」と唇を小鳥のように尖らせつつも、どこか得意げな表情でこたえてくれるようになった。

「彩野ちゃん、子供の扱いうまいね」

「全然。自分が子供の時の感覚が残ってるだけだよ。それを思いだしてなぞってるだけ」

「それができること自体がすごいと思う。ねえ、不躾だけど、子供は持たないの?」

 ひたと瞳を見つめられ、硝子のコップに注がれた水のような、透明な気持ちになる。三十四歳なら、まだ充分チャンスがある。なんなら一人と言わず数人産むことだって叶うかもしれない。

「持たない、かな」

「それは、経済的な問題?」ストレートに訊かれて、思わず苦笑いした。いやな気分になったのではなく、学生時代のことを思いだしたせいだった。そういえばこの子は、美冠さんとは別方向で、直球しか打ち込んでこない人だったな、と思いだす。

「もちろんそれもあるけど、それは最悪夫が補填してくれると思うから、そこじゃない。わたし本人が、まだ、自分の人生でやりたいことをやり始めたばっかりだから、いまはそれで手一杯って思っちゃう。もちろん両方頑張れる人もいると思うけど、そこまでのバイタリティーも体力もないなあ」

 実際、幹さんはノルウェイ人のパートナーとの間に子供を二人もうけた。ポップアップに代表デザイナーとして顔を出すことはめっきりと減ったし、もっぱらzoom会議でしか会わなくなったけれど、がらりと雰囲気の違う野性的なコンセプトのデザインを発表したり、ネグリジェの新商品を発表したりと、変わらずアクティブに仕事をこなしつづけている。憧れないわけはもちろんないけれど、自分もそうなりたいか、と言われれば、少し違うかもしれない。

 退屈した紬ちゃんが石ころを蹴り始めたのを見つめながら、万璃子が小さく息を吐いた。

「彩野ちゃんは変わらないね。ずっと、自由って感じ」

「そうかな」

「うん。わたしの中で彩野ちゃんは、自分が絶対にできないことを軽々とやってのける人、ってイメージだった。特に、大学四年の頃」

「そう?」

 四年生と言えば就活と卒論でばたばたしていた記憶がうっすらある程度だ。けれど、少し記憶の森をまさぐって、万璃子と諍いがあったことを思いだした。

確か、相席屋が流行り始めた頃で、バトミントン部の何人かの女の子で冷やかしに行った。「ただでごはん食べられるんだよ! 女子って本当ラッキー」と軽口混じりに報告したら、万璃子の中でなんらかの気分を害させたのか、そういうところに行くのってどうなの、と激しく怒られてびっくりした、ということがあった。当時は「彼氏いるのに軽いって思われたのかな」と解釈していたけれど、そうではなくて、無銭飲食と引き換えに若さや性を搾取される場をありがたがっていることに憤ってくれたのかもしれない。「と今になって思うんだけど、万璃子は若い時からしっかりしてるよね」とかいつまんで話すと、違う、と苦笑いを返された。

「正直あんまり覚えてないけど、そこまで深く考えてなかったと思う。怒りをぶつけることで、そういう楽しいことに縁がない自分を正当化してたんじゃないかな」

「うそ。わたしなんてちゃらんぽらんな、ザ・女子大生だったのに」それは本当にそう、と万璃子が真顔で呟いたので、ちょっと、と肘でつつく。

「へー楽しそうって思ったらなんでも飛び込む彩野ちゃんが羨ましかった。挑戦へのハードルが低そうで」

「そうかなあ」さして能動的に生活していたつもりはないけれど、バイトだのサークルだの彼氏だのに時間を費やしているだけでも、万璃子からすれば〈なんでも飛び込む〉に見えていたのだろうか、とふと思う。

「わたし、特に大学の時なんかは、潔癖だったし、自分が正しいって思える範囲がものすごく狭かったから。具体的にこれをすればよかったあれをしたかったみたいな悔恨があるわけじゃないんだけど、彩野ちゃんはのびのび自分の世界を広げていってるように見えたから、羨ましかったしそのやつあたりできついこと言うことあったと思う。ごめんなさい」

万璃子が小さく首を垂れた。同級生からの率直な謝罪に慣れておらず、「ああ、いやあ、全然」とこちらがおどおどしてしまう。

逆ならともかく、万璃子のような真面目で青空に一直線を引くひこうき雲みたいな子に「羨ましい」という感情をわずかでもにじませたことがあるということに戸惑いながらも、複雑な嬉しさもあった。紬ちゃんがすっくりと道路に指を伸ばし、「虹」と呟く。

視線の先を追うと、水たまりのなかでオイルがきらきらと瞬いていた。

 

 それから、こまめに万璃子と連絡を取り合うようになった。実家にいると息が詰まる、と漏らすので、鴨川でピクニックをしたり、動物園へ行ったり、三人でいくつかの休日を過ごした。

「なんか、疑似父親みたいなことさせちゃってごめんね」

 平安神宮の骨董市を見に行きたい、と万璃子から提案があったので、人混みをかきわけながら市をゆっくり一周したあと、お昼は岡崎公園でお弁当を食べた。万璃子が恐縮したように肩をすくめているので、「いやいや、全然」と手を振る。

「わたし、甥とか姪とかいないからさ。こっちこそ、姪っ子ができたみたいでうれしいよ」

「そう? ならいいけど……旦那さんだって、会いたがってるんじゃないの?」

 図星だった。大学時代の友だちとお子さん含めて隔週くらいの頻度で会ってるよ、とは伝えているので執拗には会う約束を取りつけてはこないけれど、最後に会ってから三カ月ほど間が空いている。先週来たメッセージには【今後のことを考えると、ずっとこのままってわけにはいかないんじゃないかな】とあった。まどろっこしい言い方に少しいらっとしたけれど、申し訳なさと罪悪感の方がはるかに重かった。

 夫としては、いつでも二人暮らしに戻りたいようだ。別居したことによって圧倒的な自由と解放感を味わって「最初からこのかたちで結婚できてればなあ」と思っていたのは彩野だけだったらしい。「一人暮らしの良さもわからないでもないけど、いちど二人暮らしを経験してるから淋しいよ」と何度も諭されて、そのたびにごまかした。たちの悪い遊び人にでもなった気分で後ろめたかった。

「会いたがってはいるし、なんなら同棲に戻ろうとは言われてるけど、到底そんな気になれないな」

「なら、別れて新しい人見つけたら?」

「いや……うーん……また恋愛市場に戻って付き合う付き合わないのすり合わせするとか、考えるだけで地獄だよ。デートはそりゃ、たまにはしたいなとは思うけどだったら夫でいいかなって。つかず離れずだし」

「そりゃ、お互いそう思ってたらそうかもしれないけど」

 万璃子が遠慮がちに相槌を打つ。要するに、夫が新しく恋人を見つける可能性のことを言っているのだろう。

 それはそれで構わない、と彩野は思っている。そもそも、暮らしを分けて二年経つけれど、その間彼に何もなかったとは考えづらい。性格上、嘘をつけるタイプではないのでおそらく自分を律してはいるのだろうけれど、こちらなど気にせず自由に楽しんでくれたららくなのに、と思わないでもない。責任が分散されるからそう思ってしまうだけだろうか。

「恋愛はもういい、なんて、学生時代の彩野ちゃんが聞いたらびっくりするよ」

「それは本当にそう! あの頃は男の子がいないと何にも始まらないと思ってたな。自分が、ずっと未完成のままというか」

 相手が明らかな粗や問題点を内包していても、突き放せずにだらだら付き合って時間を無為に過ごしていた。数年経つと「あんなくだらないやつ早く別れておけばよかった」と後悔したけれど、いまとなってはあれはあれで若さの特権だったなあと思う。

 紬ちゃんが「お母さん、いなりずしいつもより甘いね」と言うので、つられて一つ手に取って齧る。黒糖の風味の甘い煮汁が、じゅわっと油揚げから染み出た。「誰かの家庭の味って、やっぱりいいな」と呟くと「そうだね」と万璃子が笑った。


 木曜日はいつもならそれなりに人でにぎわうのに、今日にかぎって人が少ない。

「五月っていつもそうなのよね。天気がよくなるとあんまり来なくなる」

 ママがお通しの蓮根のきんぴらをタッパーに小分けにしながらぶつぶつと呟く。「天気悪い方がいいんですか」と問うと「うちみたいに煤けた店は梅雨とか真冬とか、時化た季節の方が相性いいのよ」と淡々と言う。接客業であるからして、お客さんが来ないとすることがなくて暇だ。大学生のバイトであるみかげちゃんはスマホゲームで時間を潰しているものの、ママの前で堂々とスマホを弄る気にもなれず、せっせと箸置きを折り続ける。

 智哉さんから【次店いついる?】とメッセージが来たので間髪入れずに【まさにいまお店にいますよ~ 今週は今日と明日だけ】と送る。既読はすぐについたものの、しばらく返信はなかった。

【そっか 今日はもう家帰ってきちゃったから行けない ごめん】【土日、一緒に蕎麦食べに行かない? 昼でも夜でも大丈夫】――続けてきたメッセージを読んで、落胆した。口の中でこっそり舌を打ち、【ごめんなさい お店に3回以上来ていただかないと外ではお会いできないかな】【同伴なら喜んでお供します】と送った。率直過ぎたかな、とひやひやしたけれど、それで縁が途切れるなら途切れるで構わなかった。この店では指名のインセンティブがほんのちょっぴりしかつかないし、ノルマは基本ない。だからこそ気楽に続けられているのだ。

【そうだよね 失礼しました。それじゃ、今から行くよ 23時半までやってるよね?】

 返信を読んで目をぱちくりさせてしまう。彼の家は確か彩野と同じで京都市内だったはずで、北新地までそこそこ距離があるはずだ。【ありがとう! 気をつけてね】と送ると、リスがドングリを零しながらダッシュしているスタンプがぬかりなく送られてきた。

 一時間後の二十二時半に智哉さんが店についた。お店にお客さんが誰もいなかったらさすがに気まずいし申し訳ない、とはらはらしていたのだけれど、運よく二人常連客がそれぞれ飲んでいるところだったのでほっとした。

彩野と目を合わせて「やっほー」と軽く手をあげる。シャワーをあびたのか、髪はセットされずラフに下ろされていて、前回と印象が変わってどきりとした。

「ありがとう、今日の今日来てくれるとは思わなかった。ごめんね、週末でもないのに」

「あや……ええと、ジュリちゃんが、完全に怒ってるなって思って、これは早急に挽回しないとまずそうだなと思ったから。やーごめんね!」

 案外水仕事への理解はあるらしい。きまり悪そうに肩をすくめるので「いいよ、来てくれたから完全にゆるします」とハイボールを渡す。

「ジュリちゃんも飲んでよ」

「ありがと。じゃあ同じの作ろうかな」

 目をゆるく合わせて乾杯する。いちど家に帰ったせいなのか、二度目だからなのか、前回よりもリラックスした雰囲気が滲んでいて妙に色気があった。

「智哉さんって会社で後輩の女の子に騒がれてそう」

「いやー。でももういい歳だからさ、俺も」さらりと流すところに余裕を感じて、思わず苦笑いしてしまった。恋愛に苦労した経験などさらさらないのだろう。

「ジュリちゃんって地元こっちの人?」

「ううん。地元は北関東だよ。京都の大学に進学してから、ずっと京都。就職したあと大阪にも住んでたけど、この歳だと京都の方がしっくりくるかな」

「そっか。俺も地元じゃないけど京都にずっと住んでるよ。なんか、学生時代にいちど京都を知ると、ずっといるよね」

「わかる。一緒に住んでる友達もそう言ってる」

 へ、と智哉さんが目を見開いた。青く澄んだ白目が、硝子みたいで綺麗だった。

「シェアハウスしてるの?」

「そう。シングルマザーの友だちと暮らしてる。わたしは夫と別居中」

「えええ。まじか。彩野ちゃん結婚してたんだぁ」

 素で驚いたらしく、本名で呼ばれたので「ジュリね」とにらむ。「指環は出勤してない時はつけてるよ。ここだとさすがにね、角が立つから」

「離婚しないの?」

「そういう雰囲気でもない。関係は良好だから」

「おいなんだよそれー。まじか」

 あからさまに落胆したようすでグラスを煽る。お代わりをつくりながら、「独身に見えてました?」とたずねる。拗ねたような目つきでこちらを見遣り、小さく頷いた。

「そりゃこんなところにいるからにはさ。まあ、バツイチの可能性はあるかなとは思ってた。ジュリちゃん、色気あるし」

「うっそ、元気キャラで売ってるつもりだからあんまり言われないけどな」

「あからさまじゃないところが、逆に色っぽいと思ってたよ。オチが人妻だからってそれはない、ないよ、あーあ」

 お客さんに口説かれることじたいはそれなりによくあるけれど、同世代の、容姿の綺麗な人に直球で褒められた経験はひさしぶりで、うなじのあたりに熱が溜まってこそばゆい。脇汗までかいてしまい、笑顔を取り繕って「そ、すべては人妻の余裕」とグラスを置く。

「でも別居してるってことはあんまりうまくいってないんじゃないの」

「一時期はね。でも、いまはそれなりに上手くいってるし新しい彼氏云々とかは今は考えられないよ」

「本当に? 俺じゃだめ?」智哉さんはぐっと顔を寄せてきた。年齢や雰囲気にそぐわない、少年めいた石鹸の清潔な匂いがしてくらりとする。「お店来るからさ、ちゃんとデートとかしようよ。そんで付き合おうよ。別居中の旦那とは別れてさ」

「ええー。智哉さん、そもそもバツイチなんて嫌でしょ」

「昔だったら、まあ、気にはしてたけどこの歳になったら気にしないよ。ね? お願い」

 聞けばどうやら本気で婚活をしているも、難航しているらしい。悪い気分ではないにしろ、寄り掛かって陶酔できるほどうぶでもなければ好みでもないな、と冷静に判断する。随分綺麗な顔をしているしいちどぐらいデートしてもいいかな、と思いはしたけれど、期待させるほうが失礼か、と思い直して「いやいや、遠慮しときます」と笑っていなす。

「なんでよう」

「うーん。わたし最近恋愛したいって思わないんだよね。仕事楽しいし、友だちの子供と遊んでたら癒されるし」

「まだ三十四だろ? 変わってるなあ」

 智哉さんは苦笑いして、「でもまた店には来るよ。じゃなきゃデートしてもらえないんでしょう」と低く呟いた。薄暗い店内の中で、高い鼻梁が彫刻めいて見えて、思わず強く瞬きした。


 万璃子との二人暮らしが決まったのは、彼女からの相談からだった。

【京都の私立高校で非常勤講師の内定が出ました。しばらくは教職やりながら今後のことを決めていくつもり】

 離婚の報告を受けて二か月ほど経った頃にメッセージが来た。【おめでとう! 国語の先生だよね?】【万璃子が女子高生に囲まれてるところ、めっちゃ想像つく】と送ると、電話がかかってきた。

「彩野ちゃん、今電話して大丈夫?」

「ああうん、領収書まとめてた。家計簿つけながらになっちゃうけど、どうしたの」

「内定は出たんだけど、宇治の実家から通うにはちょっと遠くて……かと言って、非常勤講師の給料だけでアパート借りるのも、あんまりかなって」歯切れが悪く、要領を掴めないまま「そうかあ」と相槌を打つと、「あのね、すっごく急なんだけど、いいかな」と万璃子があらたまったように咳払いした。

「彩野ちゃん、わたしと暮らさない?」

「へっ?」思わずExcelの一列をまるまる消しそうになった。

「勤務先の高校が、出町柳なの。それで、物件探してたらちょうど出町でいい物件があって、二人で住めば一人四万二千円なの。ちょっと古いけど二階だよ。彩野ちゃん、よく『また京都に住みたいな』って言ってたし、今の家、居心地悪いみたいだし、わたしもほかに誘えるような友だちいなくて、もしよかったらどうかなって」

 息継ぎもないまま早口にまくしたてられ「ちょっと待って」と遮る。「その場合、紬ちゃんはどうするの? 三人で住むってことだよね?」

「紬は……小学校変わりたくないって言ってるし、実家に住ませて休日だけ向こうに戻ろうかなと思ってる。母もそれでいいって言ってくれてるし」ふうっとため息を漏らす。「もちろん、わたしがある程度経済力持ったら、紬と一緒に暮らすつもり。だからいきなり二人暮らし解消ってことはないとは思うけど、彩野ちゃんとわたしが暮らすのは一年二年だけってことも、ありうるかもしれない」

「そっか。てっきり三人で暮らすのかと思ってたけど、学校があるのか」

「うん。あの子、ああいうタイプのわりに案外社交的なんだよね。よく家に友だちつれてきたりしてるし……お母さんが学校ある日いなくても大丈夫? って訊いたら、たぶんオッケーって。まあ、元々そんなに親にべったりって子じゃないから正直、寂しくなるのはわたしの方かも」

 働き始めるのは年度明けからだからそれまでに考えておいてほしい、ルームシェアが難しければ宇治からも通えないことはないのであまり責任を感じないでほしい、と念を押して電話は切れた。思ってもみない相手からの思ってもみない相談に慄きつつも、桜が京都の天を埋めるように咲き綻ぶ三月末、彼女との暮らしを始めた。

「どうして」と夫にも両親にもいろんな人にも訊かれた。「京都に住むいい機会だったから」「シェアハウスで人間関係がごたついてたから」「女の人と住むのって楽しそうだから」などとそのたびに違うこたえを言っては、ふぅん、という顔をされたけれど、本当の理由は誰にも、万璃子にも告げなかった。ただ、誰かに、切実に欲されることが、泣きたいくらいうれしかったのだ。


 遠目から見ても、智哉さんは彫刻のように完璧な容姿だった。

待ち合わせ場所の出口に向かう途中で、スマホに目を落としていた彼と目が合う。やっほー、と口を動かしてひらりとこちらに手を振ってみせた。ネイビーのシャツとベージュのパンツが、嫌味なくらいスタイルの良さを際立たせている。もう少し筋肉があればより完璧にモデル体型に近いのだろうけれど、華奢さや顔の綺麗さはどこか90年代の少女漫画の中の男の子のような風情があって、好みだなと思ってしまった。下着ブランドに勤めているせいで、つい人の体型を食い入るように見てしまう。スタイルの良い悪いをジャッジしているというより、この人はどういう服装が似合うのかな、と考えてしまうのだ。

 彼は本当に三度店に姿を見せた。「はい、約束。昼間にデートね!」と臆面もなく小指を差し出された時は笑ってしまった。自分の武器はよく熟知しているようなのに子供っぽさが随所にあって、あきれる時もあれば可愛いなと思うこともある。

 土曜日の昼に貴船神社に行くことになった。現地集合のつもりだったのに「叡電に乗るのに待ち合せしないなんてどれだけ情緒がないの」と抗議されたので出町柳で落ち合い、同じ電車に乗った。

「いやあ、叡電はやっぱりいいよねえ。貴船行くのも何年ぶりだろ」

「学生の時に散々デートで行ったんじゃないですか」どうせ京大でしょ、と心の中で呟く。

「大学生は神社にデート行かないでしょ。鴨川でだべってカフェとかばっか」

「さぞもてたんじゃないの」と言うと、拗ねていると思われたのか「まあまあ、昔のことなんだからさあ」と否定するでもなく得意そうに車窓に目を逃がしていた。

綺麗な見た目のわりに、剽軽で無防備に気が抜けているから憎めない人だ。そもそも店に来た人と店以外の場所で会うこと自体初めてだった。それを言えば無為によろこばせることになりそうで、黙って向かいの車窓を眺めた。

外国人観光客や子供を連れた家族が、楽しげに彩野たち越しの景色を眺めている。時間が経つにつれて、緑の鬱蒼とした気配が濃くなっていく。森を突っ切っていく叡山電車はいかにも非日常めいて、冒険のような雰囲気があるから学生の頃から乗る時はいつもわくわくする。だから、「貴船行かない?」と言われた時は、「この人結構いいな」と一瞬心が傾いてしまった。

「彩野ちゃんってアパレルで働いてるんだよね? デパート系?」

「ううん。下着屋さんで働いてる。契約社員だけど。こういうブランドなんだけど、元々ファンとして通ってて」ホームページをちらっと見せると、へえ、と目を見開く。

「えー綺麗じゃん。なんてブランド? URL送ってよ」

「……それはごめん。自分も着用写真載ってるから、さすがにちょっと恥ずかしい」

「え?」

 智哉さんの目に戸惑いが揺れた。ああなんで言ってしまったんだろう、と思うと顔に熱が溜まっていく。学生時代モデルを齧っていた、という話を聞いていたせいかもしれない。

「デザイナー含めてスタッフの着用写真も広報として使ってるんだ。もちろん任意で、強制じゃないよ」自分の意志で載せているのに、つい弁解めいた口調になってしまう。

「ふーん……そうなの。僕はいいけど、まあ、あんまり男性には言わない方がいいかもね。リスク考えたら」いつになく智哉さんの声は慎重だった。

「そうしてる。夫にはずっと、掲載はやめてほしいって言われてるし。そもそも別居してるのはそれがきっかけになったんだよね」

 どういうこと、と問われて、ノアノラに引き抜かれるまでの顛末についてぽつぽつと話した。「ええ」「そうなの?」「それはさあ」と案外細かく感想を漏らしながらも、耳を傾けてくれた。

「なんというか……彩野ちゃんの気持ちももちろんわかるよ。憧れてるブランドのモデルになれることって単純に嬉しいしさ。でもまあ、結婚してたらそりゃあ旦那は反対するだろうねえ。普通嫌でしょう」

「そうだね。夫はかなり譲歩してくれる方だと思う。というか、載せることに関して事後報告だったせいもあるけど」

「なんかきみって意外と頑固だね」

「そうだね。昔の自分だったら反対されたらしゅんとしてすぐ撤回してたと思う」

 でも曲げられなかった。ボディポジティブ、という考え自体に大手を振って共鳴しているわけではいのだけれど、それでも、素晴らしい考えだと思うし、もっと広がってほしいとも願っている。ノアノラの下着を着けた時の、自分の見た目や身体への感想がふわっと変わった時の、あの、花が綻ぶ瞬間に立ち会ったかのような気持ち。それを、なかったことにはしたくなかった。

「でも、いまわたしが我慢したら、その我慢って未来まで持ち越されるんじゃないかなって。それは……絶対によくない」

「下の世代、ってこと?」

「うん。そうだね」

 紬ちゃんの、春の川面のようにつやつやと光をたたえた瞳を思いだす。彼女の未来にまで、凝り固まって腐臭を放つ汚泥や、枯れた蔦のように足元に絡まるつまらない決めつけを持ち込みたくない。ふうん、と喉で智哉さんが唸る。

「彩野ちゃんってさあ」

「なんですか」

「かっこいいね」

 まっすぐな褒め言葉が矢となって胸の思いがけない場所へと刺さった。叡電は青紅葉が折り重なった森の奥深くへと、揺れながら吸い込まれていく。

 貴船口駅で降りると、ひんやりとした空気に身体を包まれた。思わず、ゆっくりと深呼吸する。昨日の雨でたっぷりと水気を含んでいるおかげか、肺胞ごと洗いだされるような、すがすがしい気分になった。

 神社に向かって歩きだす。ふかふかと山から吐き出される白い霧のせいか、墨絵の屏風の中にでも放り込まれたような趣があった。うかつに息も吐けずにいたら、あっけらかんと智哉さんが「山だから、余計天気悪いな。晴れだったらよかったのになぁ」と言うので、いっそ笑ってしまった。

現地集合は情緒がない、と怒ったくせに、濃霧が立ち込める厳かな遠景を前にしても、黙る、という選択肢はないらしい。元々おしゃべりな人だとは思っていたけれど、正直、こういう場所では控えてほしい。けれど注意はせずに「雨じゃないからいいじゃないですか」とだけ返した。

鬱蒼、という言葉はここから生まれたのではと思うほどの濃い樹々の緑。これでもかというほど緑が生い茂っているのに不思議と生命の気配を感じない。でもこの、ふっと背中を大きな羽で撫でられたような、背すじが勝手に伸びるような雰囲気。信仰心はさしてないけれど、ここには神様がいる、とどうしてか感じられる。けれど歩きだして観光客たちに追いつくと、カメラやスマホを構えながらはしゃぐにぎやかな声が聞こえてきた。こういう霊験あらたかな場所では静かにするべきもの、というのも、勝手な思い込みかもしれない。智哉さんの振る舞いを卑しく感じてしまったことを、ほんのちょっぴり反省した。

 貴船神社に到着した。階段に連なった赤い鳥居では、写真を撮るために立ち止まっている人が多かったけれど、すり抜けてひょいひょいと登る。簡単に参拝して、ベンチを探したけれどほとんどが人で埋まっていた。「彩野ちゃん、全てがスピーディすぎない?」と智哉さんに文句を言われたけれど、笑顔で「降りて、お茶でもしましょう」と告げると、肩をすくめてついてきた。

階段をゆっくりゆっくりと降りる。「手、つなごう。すべるよ」と声をかけられたけれど、ありがとう、とだけ言って断った。どこも混んでいるかな、と思ったけれど、案外お店は空いていたので、川沿いのカフェに入る。

「こんなに早く参拝する人初めて」

「ごめん。でも、混んでたし、貴船神社って結構小さいから。正直、神社に時間割いて回る感じじゃないかなあって。普段はもっとゆっくり回ってますよ」

 それに、もっと静かな場所の方が貴船のこの空気を堪能できる気がしたからすぐに降りたかったのだけれど、それは言わないでおく。アイスカフェオレを啜りながら、智哉さんは「なんか、変わってるなあ」と呟いた。

「変わってるなんて人に言われたことない。個性的、とか変、とか、人生で言われたことあんまりないからちょっとうれしいかも」

「嘘だあ。彩野ちゃんとデートしてたら絶対思うよ。僕は振り回されるのも嫌いじゃないからいいけど、いやな人はいやかもねー」けけ、と狡そうな笑みを向けられる。

「うーん……若い時はわりと、モテ指南っていうのかな、女の子はこうすべき! みたいなの、結構従うタイプだったしなあ。目の前の人の意見を優先してたし。でも、そういうふるまいしてもいいことってなかったから」

「ふーん、それだと付き合ったあとと齟齬があるしね」

「そ。夫にも言われたな。彩野がこんな人だとは思ってなかったよ、って。まあ、わたし自身もわたしに対して思うくらいだったから、夫からしたら余計びっくりしただろうね」

「仕事のこと? 下着のお店で働いてるのと、スナックでバイトしてるのと」

「スナックのことは言ってないけど、まあ、そうだね。でも、やりたいこと見つかったのと、自分が結婚しているっていうことって、関係ないと思ったから貫いたよ」

 こげ茶色のカラメルソースがかかったプリンにスプーンを差し入れると、案外抵抗があって硬さを感じた。昭和っぽくていいな、と思いながらどうにかひと口大に切り取っていると「僕は、別にモデルをしててもいいと思うよ」と声がした。少しかちんときて、「してても、って。許可もらわなくてもするよ」と極力淡々と言い返す。

「ごめん、上から目線だった。僕さ、ごめん、彩野ちゃんの写真、見たんだよ。ノアノラだよね? ブランド名、見えたから後で家で調べた」

「ああ……見たんですか。別にいいけどね。教えたのはわたしだし」

 なるべく顔が正面から見えないような写真を選んでいるし、掲載枚数は多くないけれど、根気よく探せばだいたいの身長や身体つきから自分を特定するのはそう難しいことではないはずだ。虚をつかれたけれど、そこまで驚きもしなかったし、怒りや恥ずかしさも湧かなかった。知り合って日が浅いし、そもそも夜職の女とその指名客として出会っているからかもしれない。

「なんか、勝手に見ておいて、感想言うのも失礼かなとは思うんだけど」

「いいですよ。どうでした?」男性に見た、と言われたのは初めてのことだった。ほんの少し、心臓が緊張でたわむのをコーヒーで落ち着かせる。

「変な話、下着に目が行くというか、身に着けてる人が知ってる人だっていうことより、まずいいデザインだなって思った。僕が服とかデザインが好きだからっていうのもあると思うけどさ」

「そっか。よかった、うれしい」

「まあ、知ってる人の写真だからどきっとはもちろんしたけど。でも、なんか、いい写真だなと思った。ごめん、あんまりうまく言語化できなくて。デリケートなものだし」

 めずらしくもごもごと呟いて、黙ってしまう。こういうところもあるんだな、と思いながら、もくもくとプリンを食べた。

 店を出ると、小糠雨が降っていた。ミシン目のように白く降るそれらをぼんやりと見上げる。天気予報では曇りだったのだけれど、山の天気は気まぐれだ。運悪く、いつもなら持っている日傘も持ち合わせていない。

「折り畳み持ってきてるから、彩野ちゃん使っていいよ」

 鞄からすっと細身の傘を差し出された。「そんなに降ってないから大丈夫ですよ」と反射的に断ると、「じゃあ一緒に濡れちゃおう」と傘をしまって駅へ向かって歩きだした。とにかくマイペースなテンポの人だな、と後ろでこっそり苦笑いしたけれど、悪い気分ではなかった。駅までそれなりに距離はあったけれど、しっとりと緑を濃くする山の厳かな雰囲気を味わえて、かえって貴船という土地を堪能できた気もして満足した。

「このあと、どうする?」

 何も考えずに改札を通ったものの、問われて「うーん」と生返事をしてしまう。うっすらと濡れたせいで、長距離マラソンでも終えた人みたいだった。きっと自分も同じだろう。

「僕の家来ない? 烏丸なんだけど」

「え」

「濡れちゃったし、出歩くのもなんかなあ、って」

 顔を見ると、微妙にそっぽを向かれた。かんなで削ったような綺麗な鼻梁の線と、白目の澄んだ青さに釘付けになる。顎の先に水滴が引っかかっているのを見つめながら「じゃあお邪魔します」とこたえた。


 智哉さんの家はコンクリート打ちっぱなしのデザイナーズマンションだった。観葉植物がいたるところに置かれた鼻につくほどお洒落な部屋ではあったけれど、雨で外が暗いこともあって、どこか冷えた印象が拭えなかった。

「この部屋住み始めてどれくらい?」

「六年かな。ずっと住んでるよ」

「そう」

 一人の女性と長く続かない、と零していたこともあって、飽き性の印象があったから少し意外に感じた。タオルを渡されて髪を拭いていたら、すっぽりと抱きしめられた。

 予感はあったから、驚かなかった。抱きしめ返さないまま「結構、長いことそういうことはしてないから、下手くそかも」と言うと「でも自分ではしてるんでしょう」とさらりと返された。抱きしめられたままベッドへ連れていかれる。雨でしっとりと水分を含んだ服を一枚一枚剥ぐようにして脱いで、無言で抱き合った。

 おしゃべりなわりにしてるさなかは静かな人だな、と思いながら、長らく放置していた感覚を探すように舌や指を動かす。智哉さんは見た目通り華奢で、のしかかられてもあまり重さや圧を感じなかった。目を閉じて、さわられている感覚だけに集中しようとする。

「彩野ちゃん」

「うん?」

「僕のこと、好き?」

「んー」

 吐息交じりの唸りでごまかす。それ以上は問われなかったことに安堵して、安堵していることを悟られないよう、一心に身体にしがみつく。明日明後日、確実に筋肉痛だな、と思いながらぎゅっと脚の筋肉に力を込める。

 終わったあと、しばらくベッドで短く眠った。フレグランスと柔軟剤の混じった匂いが、汗の匂いと絡まって脳が緩んでいく。

「僕じゃだめかな」

 気弱に呟いて、智哉さんが軽く手をつないできた。ごめん、と口が動きそうになるのを咄嗟にとめて、どうにか言葉を選ぶ。

「智哉さんは、好かれたいからわたしを好きになろうとしてるだけなんじゃないかなって思って。だから、付き合えない」

「なんだよそれ……そんなこと言ったら、みんなそうじゃないの」

「それでうまくいくときもある……あった。でも、もう、そういうのは、わたしには必要ないって、思った」愛されたいがために目の前の誰かを愛する。今までの恋愛のほとんどはいつもそうだった。少なくとも始まりはそうだった。それが全部間違いだとは思わないけれど、そうはしない選択肢もあるのだと、あたらしい原野を、緊張感とともに踏みしめてみたい気持ちの方がまさった。

「そっか」

智哉さんが低く呻いて枕に顔を突っ伏している。髪を撫でたかったけれど、そんな権利はない気がして、黙って横で目を閉じていた。

「ちなみにセックスしたのはいつぶりなわけ」

「最後に夫と……半年前にしたかな」

「別れたあともやってんじゃん」

「別れてはないんだって」

 思えば、結婚して以来夫以外の男性と性交渉を持ったのは初めてのことだった。それを言えば少しは喜んでくれるかもしれないけれど、自分の罪悪感をわずかでも軽くしたいだけだな、と思って口にするのは控えた。代わりに言う。

「智哉さんエッチうまいね」

「この流れでそれ言われても。旦那は下手だったの?」

「ん、そんなにね」

 でも汗をかきながら一所懸命あれこれしてくれるんだよな、と思いだしたら、どうしてか涙がじんわりと眼球を濡らした。「コーヒー淹れるよ。そろそろ帰るでしょ?」と智哉さんがうっそりと身体を起こして、彩野を跨ぐようにしてベッドを降りていく。布団にくるまれながら、もう会えなくなるだろう人の背中をじっと目で追う。まっさらな葉書のように白い背中が、ゆっくり遠ざかってドアの向こうへと消えるのを瞬きもせずに見つめる。


第8章 37歳

 素肌に直接サテンの布がさらりと面でふれると、官能的な気分が淡く溶けながら駆け抜けた。室内ではひんやりと冷えているけれど、一歩家の外に出れば汗染みになるかもしれない。

カップ付きのキャミソールワンピースを裸の上に纏い、日焼け対策に、シアー素材のシャツを羽織った。この国の夏は、子供の頃とは完全に異なる季節と化してしまったようだ。四月の終わりの時点ですでに夏物を出していたし、一年のうち半分以上は暑さにうんざりしている気がする。

せめて気分をあげるために、ノアノラでの定番商品であるキャミソール型のワンピースを今年も色違いで買い足した。まるっとしたシルエットの肩や二の腕の露出が気にならないと言えば嘘になるけれど、それでも暑さには敵わない。何より、自分が気に入っている服を着て外を歩く快感はもう二度と手放さないつもりだ。

「おまたせ。ありがとう、お店の予約してくれて。素敵なところ。ここだけ東欧みたい」

 約束の時間に創作フレンチのお店に現れた幹さんは、相変わらず初夏の風そのもののように涼やかで美しい。トレードマークだった黒髪を去年綺麗な小麦色に脱色して以来季節ごとに色を入れて楽しんでいるようだ。いまは桜のような儚い薄紅色だった。

幹さんにはピンクよりも和語の色の表現の方が似合いますね、と髪色を差して言うと「相変わらずね、彩野節が聞けて何より」と微笑む。けれどどことなく力ない。

日本古典をデザインのモチーフに取り入れたランジェリーが一昨年パリの賞を獲ってから、急速にノアノラのブランド規模は大きくなった。彩野は受賞の半年前に正社員になったばかりで、幹さんは国内外を飛び回るようになってzoomどころかチャット上でしか話さないような日々が続いた。それが少し緩和されて、オフィスや店舗に幹さんが顔を出すようになったかと思ったら、「しばらく休養を取る」と発表があった。今日誘われたのは、おそらくそれについての話だろう。夜の方がいいのかな、と思いつつも「明るい時間帯に話しておきたい」と彼女じきじきに言われたので、どうにか自分が知る限りもっとも洒落た内装のお店を探し出して予約した。かなり砕けた関係になったとはいえ、今なお幹さんの存在は彩野にとって憧憬の具現であり、女神そのものだ。

「コースかな? それともアラカルト?」

「とりあえず席だけで取りました。ここ、コースで頼むとかなり大盤振る舞いなので」

「助かる、そしたら彩野さんのおすすめを適当に頼んでくれるかな」

 ゆったりと幹さんが微笑む。あまりお腹は空いていないのかな、と思い、本日のサラダと生ハムとチーズの盛り合わせ、バゲットときのこのアヒージョを頼んだ。

「それ、去年のシリーズだよね。いつも綺麗に着こなしてくれてありがとう」

 幹さんが彩野の服装を見て呟く。「はい、真夏はこればっかり着てますよ」とにこりと笑って見せる。洗濯の仕方さえ気をつければ毛玉ができることもないので重宝している。

「最初にバックオープンのワンピースを出した時は、日本で背中の露出が主流になることはないから売れないよ、って志絵に反対されたなあ。五年も経てばもっと流行ると思ってたけど、そうでもないね」

 去年一昨年はへそを出すマイクロ丈のトップスが流行っていたけれど、今年はたっぷりとした丈の、透け感のある素材を着こなすのがブームのようだ。見た目は確かに涼しいけれど、適度に露出していないと到底暑さが逃げてくれない。三十代後半の自分も取り入れやすい流行なのはありがたいとはいえ、若い子もぞろぞろと肌を隠すようなコーディネートをしているのを見ると、「暑そうだなあ」と思ってしまう。

 ふと幹さんの格好を見遣ると、リネン素材のセットアップだった。ともすればパジャマみたいになってしまいそうな組み合わせだけれど、素材が大きめのアクセサリーを大胆にいくつも重ねているからカジュアルになりすぎていない。さすが、と思った一方で、布の下のあまりの二の腕のほそさにぎょっとなった。もともと肉がつきづらい体質らしく、いまだに少女めいた体躯であることは知っているけれど、骨を薄紙でくるんだだけのようなほそさだ。直視することがためらわれて、そろそろと眼球をテーブルへと滑らせる。

「あのね、話したいことがあって」

 食事が運ばれてくる前に言ってしまおう、という彼女の意思を感じた。背中を正す。

「乳癌が見つかったの。ステージで言うと、五分五分。来月手術する」

 ふうっと息を吐く気配がする。たった今一瞬、自分が浮かべている表情がわからなくなった。頬が冷めたろうのように硬くこわばる。ランジェリ―デザイナーの幹さんが、乳癌。

「休養も含めて、しばらくノアノラは休む。デザインとか、運営は、志絵に引き継ぐ。戻ってくるのがいつかは、現状の段階ではわからない、かな」

 サラダとアヒージョです、お熱いのでアヒージョのお皿にはお手をふれないようにしてください、と言いながら店員さんが無慈悲にテーブルの上に彩りを添えていく。静止画の中で、店員さんだけがアニメーションのように動きがやたら強調されているように見えた。

 アヒージョから立ち昇る湯気の向こうで、ぼうと佇む幹さんは湯気よりももっと儚かった。乳癌。手術。ステージ。自分たちには関わりのないと思っていた単語たちが、割れた硝子の破片となってばらばらと襲いかかる。


 先週の日曜日に三十七歳になった。誕生日の前日は万璃子と丸太町でディナーを食べて、誕生日当日の午後からは河原町で光介と会った。プロジェクトマネージャーとしてチームを束ねるようになった光介は、収入が上がったことで生活に余裕ができたから新しい趣味がほしい、と夜に行った鮨屋で話していた。「旅行とかがいいんじゃない? 海外も今は行きやすいでしょ」と言うと、「おっさん一人で海外旅行って、なあ」と苦く笑っていた。海外に興味がないわけではないにしろ、ノアノラが軌道に乗っているいま、長期休暇を取れるような状況ではない。国内の近場だったら全然わたしも予定合わせるよ、と言うと、光介は「あのさ」と咳ばらいをした。「俺さ、来年四十じゃない」

「だね」

「子供を持つとしたら、今年が最後のチャンスだと思う。彩野は、このまま子供を持たない人生にする、って決めてるの?」

「人生にするって決めてる、ってねえ……」聞きなじみのない言い回しに反射的に笑ってしまったけれど、光介の表情は冴えず、熱が出た親を看病する子供のような心細そうな顔つきでこちらをうかがっている。箸を止めて、ぐるりと目を天井に向けて考えた。

 子供を持たない、とはっきりと決めたというよりも、気がついたら子供を産まないまま歩いていたらここまでたどり着いていた、という感覚が正しい。子供は元々嫌いではないし、紬ちゃんを見ていると子供の成長の早さに驚いたり、感動したり、寂しくなったり、感情がくるくると旋風して楽しい。ましてや当事者である親となれば、降りられないメリーゴーランドに乗ったみたいな気持ちだろうし、人生がそれはそれは豊かに回っていくのではないのだろうか。

 とはいえ、一時期よりはぐっと頻度は減ったとはいえ、友だちの子供とそれなりのペースで会っていることで、かなり自分の中の〈子供とふれてみたい〉という願望はだいぶ叶ったような気がする。それはもちろん、自分の子供を自分の手で育てたい、という願望とは全く種類が違うこともわかってはいるけれど、ずるい言い方をするのであれば、これぐらいでちょうどいいのかもしれない、とも思っている。叔母のような立場で自分が生んだわけではない子の成長を一緒に見守る。楽しいところだけを味わわせてもらっている、という引け目や後ろめたさはあるにしても、万璃子本人が「そのスタンスで手伝ってもらえるならすごくありがたいよ」と言ってくれるのを鵜呑みにするのであれば、このままでもいいんじゃないか、と思ってしまう。というようなことをかいつまんでぼそぼそと話すと、光介は「そうか。近くにお子さんがいると、逆に満たされるんだな」とぽそりと呟いた。

「あ、そっか、むしろ自分もほしいなあ、って思う方が多数派なのかな?」

「俺は会社のイベントとかで同僚のお子さんと会うと、そうなるかな。まあ、彩野みたいに家族同然になるくらい深い関係を築いてたらまた別なんだろうな。すごいよな」

「たまたまだよ。万璃子、再婚すると思ってたけど全然そんな気ないみたいだし」

赴任の一年後に常勤講師になったので以前より忙しそうだ。とはいえ先生と言えば職場恋愛のイメージがあるのだけれど「もう同じ轍は踏まない」と硬い表情で硬い言葉を吐いていた。それとなく食事に誘われることはあってもすべて断っているようだ。

「彩野がそばにいるからじゃないの」

 笑って流そうとしたけれど、あながち遠くもないかもしれない。そう思いながら日本酒をくっと喉へ流し込む。透明な酒が通過する一瞬、自分の喉が豪奢な滝と化す一瞬がたまらなく心地いい。

「どうだろう。でも、人生が進めば進むほど友だちのありがたみを感じるよねー。わたしみたいに、途中で思いっきり茨の道に突き進んだ身としては、余計にね」

「もう正社員になっただろ。いいかげん自信持ったらいいのに」夫の言葉に肩をすくめた。

 あらかじめ断っていたにもかかわらず、夫は帰り際に「はい」と小さな紙袋を渡してきた。道端で開けると、ヘアオイルの壜が滑り落ちてきた。慌てて手のひらで受け止める。

「わ、ありがとう! いまちょうど髪伸ばしてるんだよね」

「最近新しくチームに入ってきた子がめちゃくちゃ美容オタクでさ、奥さんに誕生日何あげればいいか相談したらすすめられたんだよ。無香料だから接客でもつけられると思うよ」

「ありがとー」別にいいのに、と喉まで出かかっていたけれど呑み込む。筆記体の外国語が刻まれた不透明のボトルはデザインに見覚えがなくて新鮮で、さっそく明日から使ってみよう、と思う。

「今日さ、泊まってかない?」

ぼそりと問われ、咄嗟に「十三に?」と光介が住む駅名を問う。「それでもいいし、京都で宿とってもいいかなって」と微妙に目をそらしたまま早口で言う。口ごもっていると、「ごめん、急だったし、予定とかあるか。人と暮らしてるしな」と先回りされてしまった。

「いや、ごめん。万璃子がね、昨日お祝いしてくれたんだけど、今日帰ってきたら紬ちゃんも合わせてもう一回お祝いしようって出る時言ってくれたから。今日はこれで帰るね」

「うん、じゃあまたあらためて」あらかじめ言ってくれれば泊まる用意してくるよ、と言いかけたけれど、ちょうどバイクが通りかかって夫の耳まで届いたかはさだかではなかった。プレゼントありがとうね、と胸の前で紙袋を揺らして見せると、ほっとしたような笑みで「じゃ、せっかくだから俺はもう一杯飲んでから大阪帰るよ」と木屋町の方面へと歩いていく。その背中を少しだけ見送って、阪急線に乗って出町柳へ帰った。

 本当は、夫が何かを切り出そうとしている気配には気づいていた。子供の話も、やや不自然過ぎた。けれど、今は受け止めきれる気がしなくて、気がついていないふりをして断ってしまった。

万璃子と紬ちゃんの話は嘘ではないけれど「遅くなるようだったら別日でいいからね」と釘を刺されていたから、二軒目に行くこと自体はできた。でも。いまはまだ、余裕がなかった。幹さんの話を聞いてから、ずっと、底に罅が入った重い陶器にでもなったような心地でどうにか生活を営んでいる。夫には幹さんの話はしなかった。お祝いしてくれる席だから、というよりも、光介の反応によって彼のなんらかを無意識のうちだとしても計ってしまうだろうことが怖かった。


去年も、一昨年も、まだ自分のことをなんとなく「三十代なかば」くらいに捉えていた。けれど、三十七歳、という響きを受け入れた途端、急に、もう四十か、という意識に切り変わった。四十歳。二十歳の倍。あたりまえの算数なのに、自分を打ちのめすには充分だった。肩も足もむきだしにして歩いている女子大生の、二倍の時間を自分は過ごしたのだ。彼女たちの、発光するようにぴかぴかと光る肌の眩しさと言ったら目を灼かれるほどだ。

高校に勤務する万璃子に漏らすと、「そういうのはとっくに慣れたけど、若い人たちはそれだけで無条件に尊いなって思うようにはなったかな」と返ってきた。「でも昔より容姿に対して気に病んでる生徒が多い。男の子も女の子もみんな」

「スマホ……というか、SNSの弊害だね」

「紡も中学生になったら買うつもりだったけど、ちょっとね。そういうの見てると躊躇してしまうかもしれない」

 今年小学五年生になった紬ちゃんは成長期まっさかりで、青竹のようにすくすくと手足を伸ばしている。顎のラインですっきりと切ったおかっぱと涼しい横顔はおとなから見てもほうと見とれてしまうような潔癖な美しさがあって、こんな子が教室にいたら同級生の男子なんかはどぎまぎするだろうな、とひそかに思う。

「そういえばね、紬が中高一貫の女子校を受験するかもしれなくて」

「えっ、すごい。そっかあ、小学生のうちから受験かあ」わたしより親の方が熱心でね、と万璃子が苦笑いした。

「学費的にはまあ、助けてはもらえるみたいなんだけど……紬が受験するなら、わたしが大学の院に戻る、っていうのは、やめるつもり」

「ええっ」

 いずれは研究職に戻りたい、大学院で研究がしたい。常々熱っぽく話していて、教員として多忙な中を縫って、論文を定期的に書いてはかつての指導教授に送っているとのことだった。けれど具体的にいつ大学へ戻るのかは問いただしても「まだ、紬に手がかかるからね」「バタバタしてるから」と濁していた。

「そのためにいつも遅くまで頑張ってたじゃん。教授に推薦文書いてもらえそう、って言ってなかった?」

「うん、落ちることはないかな。でも、ドクターって入ってからの方が大変だとは知ってるし、そもそも現役の時に、どんどん病んでいく先輩たちを見て自分は修士で辞めておこう、って就職したから。そもそも研究自体は個人でも続けようと思えばできなくもないし」

「そうかもしれないけど、紬ちゃんも万璃子が大学院に行くことは応援してくれてたよね? もし自分の受験で親が夢を諦めた、って知ったら傷つくと思うよ」

「そうだね。そうだと思う。だから紬には言わないでね。別の理由で説明するから」

 かっとなった万璃子が激しく言い返してくるとばかり思っていたから、淡々とした表情でかわされてしまい肩透かしを食らう格好になった。万璃子は石鹸のように頬を硬くこわばらせて「試験の採点が残ってるから、作業させて」と自室に入ってしまった。

 一時的なものかと思っていた万璃子との二人暮らしも三年経った。通勤ですれ違う学生たちが自転車で大学へ向かうのを見かけるたびに、万璃子もいつかそうするのかな、などと夢想していた。きっと本人もそうだろう。懸念しているのが学費なのか年齢なのか紬ちゃんへの負担なのかはわかりかねるけれど、でも、万璃子が生来の芯の強さを発揮して研究の道へと戻ることを確信していたからこそ、胸にぽかんと穴倉ができたみたいに寂しい。

 ちりんと青く涼しい音が耳に入って思わず顔を上げた。万璃子が居間の窓につけた、錫の風鈴だった。京都の夏が始まるのだと思ったけれど、その予感はとくだん心を温めることもなく、ただ、尖った小石のようにからからところがっていくだけだった。


 幹さんが休職に入り、ノアノラのサブデザイナーであり彼女のビジネスパートナーでもある志絵さんの指示の下で仕事が回るようになった。生粋の神戸人である彼女の言い回しは、訛りのせいで時々きつく響くこともあったけれど、概ね問題なく仕事は回った。次のシーズンの新作は幹さんが残したもので制作するけれど、その次からは志絵さんがメインでデザインを手掛けるのだという。色彩の組み合わせが大胆で、自身のコケティッシュな印象を反映したかのような志絵さんのデザインももちろん楽しみではあるのだけれど、この先しばらくは幹さんのアイデアによる商品は出ないのかと思うと、寂しいことには変わりなかった。

スナックでの勤務は頻度を落としたうえで依然続けている。正社員になったので、経済面では辞めてもよかったのだけれど、案外性に合っている気がして週末の金曜日だけ立っている。指名のお客さんは入れ替わって、いまは三人いる。皆既婚で二回りほど年上なので、何かを期待されることは少なく気楽だ。「会社の部下で、いまだに独り身だけど、悪い奴じゃないから一回連れてこようか」などと世話を焼かれそうになったら躍起になって断っているけれど。

 努めてなんでもないこととして光介と別居していることを両親に話したら卒倒されてしまい、こちらが顔色を失ったことがあった。特に母親のショックはこちらの想定以上にすさまじかったらしく、彩野が止めるのも聞かずに「光介さんに申し訳ない」と彼の家に詫びを入れにいこうとしてどうにか押しとどめた。二人とも納得したうえでこの生活を続けているのだ、むしろ離婚しないためには適度な距離も自分たちにはいい薬になったのだと根気よく説明したけれど、結局父も母も不安そうな顔を見合わせるだけで理解してもらえることはなかった。以後二人から時々様子伺いの連絡が以前よりまめに来る。

それならいっそ籍を抜いた方が老いた親たちは安心するのではないか、と思いかけたけれど、その思いつきを夫に話すほど鈍感でも計算高くもなかった。おそらく光介も、自分に言わないだけで自分の中で堰き止めている問題など山ほどあるはずだ。

 早くも夏バテしてしまったのか、慢性的に身体が重く、朦朧としながら通勤の道のりを歩いている。部屋を片付けるのが億劫で散らかしたまま日々を過ごしていたら、万璃子に二度ほど注意されてしまった。スナックでも、お客さんに「なんかぼんやりしてない?」と指摘されて、どうにか天然を装って取り繕ったものの、かえって不機嫌にさせてしまい早急に帰られてしまう、という失態もあった。いっそ本当に体調のせいだとか感染症のせいだったら、と思って検査にも行ったけれど結果は陽性で、それなのに意識はつねにぬるま湯に脳が浸っているような、覚束なさと倦怠感が拭えなかった。


【七月の頭に結婚式するから、休み取って島根来てよ】

 万璃子が法事のために金曜日から宇治の実家へ戻ってしまい、何の予定もないまま週末の退屈な時間をベッドで溶かしていたら美冠さんから連絡があった。

【えーおめでとう 絶対行くよ!】と送ったらすぐに既読がつき、通話がかかってきた。

「ひさしぶり。あ、ごめ、あんた休日も仕事なんだっけ。今電話できるの?」

「うん、土曜日だけど今日は休み。ね、結婚するの? 例の彼と」

 バツイチで二回り以上美冠さんより年上のパートナーの転勤に合わせて彼の地元に美冠さんがついていくと聞いた時から、結婚するんだろうなとは思っていたから報告にはあまり驚かなかった。結婚式、という風習についてつねづね腐していたのでかなり意外には思ったものの、いわゆる結婚ラッシュを抜けて久しい今、友人からの式の誘いは単純に嬉しかった。

「そう。っていっても事実婚ですけどね。あと、式っていうかレストラン貸し切りにして立食パーティー、みたいな超絶カジュアルな感じだから気張らないでね。言い方わかんなくて結婚式って言っただけ。ウェディングドレスも着ないし」

「えっ、ドレス着ないんだ。まあ、美冠さんはタキシードの方がさまになりそうだけど」

「男顔だし上背があるから彼より着こなせるとは思うよ。日程送るからおさえておいて」

「うん、すごい楽しみ。島根、行ったことない。どうせなら出雲大社とかも回りたいな」

「それ以外なんもないけどね。っていうか、それなら新幹線じゃなくて寝台列車で優雅に出雲まで行ったら? 銀河エクスプレスなんちゃら、みたいなのが京都発で出てるし、そこまで高くなかった気がするんよね」

「うわあ、寝台列車って子供の頃憧れたなー。せっかくだしそうしようかな」

「さすがに式の前後に観光には付き合えないけど、来るならおすすめの店とか回り方とか聞いておくよ。なんならさ、パーティーも旦那と来てもいいよ? わたし側で呼ぶ人数、本当にちょっとしかいないからかさまししたいし」彼女が自虐的なことを口にするのは少しめずらしい。場所が場所だけに本当に絞った友人にだけ声をかけているのだろう、と思ったら嬉しかった。

「ん~……そうね、出雲大社とかはたぶんわたし以上に好きだろうな。誘ってみる」

 簡単に近況報告を交わして、「じゃ、これからデートだから。綺麗なワンピースでも買っときな」と電話は切れた。

【相談したいことがあるから大阪で飲まない?】

 光介にメッセージを送る。半日してから【俺も今誘おうと思ってた 金曜日の19時半からいつものベトナム料理の店でどう?】と返ってきたのでOKのスタンプを送った。


「再来月、一緒に島根行かない? 美冠さんが結婚するから、パーティによばれててよければ夫婦で出席しないかって言われてて」

 サラダから光介が苦手なパクチーだけを摘んで自分の小皿に移しながら言うと、「ああなんだっけ、転勤した友達だっけ」と首を小さくひねった。あざやかなオレンジやピンクに塗られたこの店は、絵本の中の世界のように突飛で可愛らしい。言語がわからないにぎやかな音楽が、ちょうど頭上にあるスピーカーから流れてきて少しうるさいので声を張る。

「ん、転勤したのはパートナーの方だけどね。美冠さんはフリーランスで、それについていったの。事実婚なんだって」

「ふうん、今めちゃくちゃ増えてるよな、苗字変えない結婚」

「美冠さんの場合自分の名前で仕事してるしそっちの方が何かといいんじゃないかな。パーティはともかく、一緒に島根行って、出雲大社行こうよ。寝台列車で!」

「出雲大社か、そういえば有名だけど行ったことないな」

「じゃあちょうどいいじゃん。厳島神社は行ったことあったよね、まだ付き合ったばっかりくらいの時だっけ。工事中で残念だったなあ、あそこもまた行きたいなあ」

 べらべらとしゃべりながら、ふと口をつぐんだ。光介が何か言いたげに唇をすぼめていて、先ほどから箸が止まっている。苦手な食材でもあっただろうか、と思いをめぐらせかけていると、「あのさ」と光介が口火を切った。

「二軒目で……カフェとかで話そうかなって本当は思ってたんだけど、今、言うよ。俺、再婚を考えてる」

 咄嗟に目を見つめたけれど目が合わず、あっと合点がいく。かっと顔に熱が集まった。一瞬、プロポーズされなおされたのかと勘違いしたけれど、そうではない。

別な女性と結婚する、と彼は言っているのだ。彼に気づかれないよう、ゆっくりと呼吸をして喉の調子を整える。

「そっかあ……付き合ってる人いたんだ? 会社の人とか? アプリ?」

「正確には付き合ってはいないし、そういう関係も、ない。ただ、その人がずっと子供がほしいと思ってて、婚活を長いことやってたんだけどうまくいかなくて、数年前から相談は聞いてたんだよ。それこそ俺らがまだ、一緒に住んでた時から」

「そうだったんだ」

「うん。大学のサークルの同期なんだけど、この間、話の流れで、友情結婚に興味ないか、って訊かれて。要するに、子供をつくるっていう共通目標のために交際をしないまま入籍する、っていうことなんだけど」

「うん」

「それで話し合って、そいつと結婚しようと思ってる。正直女性としてタイプかって言われたらそうじゃないし、お互い恋愛感情もないけど、どういうやつかはお互いよくわかってるし、案外家族としての相性はいいんじゃないかって」

 大学からの友人であれば彩野よりよほど関係も長いのだろう。思いもかけない告白にしばらく呆然としていたけれど「そっか、それもいいと思う」とどうにか言葉を絞り出した。

「子供、できるといいね。気が合う友だち同士で子育てするのって、なんか、すごいね」

友情結婚、という言葉自体は知っているしいい仕組みだなとも思っていた。とはいえ周りでも又聞きですら一切の事例がないということもあって、いざ当事者から話を聞かされると幼稚な表現しか口を突いてこない。光介は光介で顔をこわばらせたまま「そうだね、大変だとは思うけど頑張るよ」とどこか形式張ったことを早口に呟いた。

「じゃあ、離婚届はわたしから送るから、出しておいてくれるかな」

 わかった、といちどはうなずいたくせに光介は「そんなにあっさり受け入れて、彩野は本当にそれでいいの?」と眉を顰めた。「俺が言うのもなんだけど、相当一方的な話だよ。もっと、言いたいことがあるなら言ってほしい」

「ううーん……突然のことすぎて、なんて言っていいか、よくわかんないけど、でも、何を言ったところでわたしの中の結論は変わらないし、それはあなたも同じだとは思うよ」

 光介は「そうか」と呟いて、ゆらりと箸を持ち直した。自分から言いだしたくせにふられたみたいな態度を取ることに苛立ちを感じたものの、それを責め立てる資格などないことはわかっていた。

 光介の本当の望みはわかっていた。ほかならぬ自分と子供を持ちたかったのだろう。わかっていて、きっぱり断るほどの潔さもないままはぐらかした。

光介を失い切る可能性があることにおびえていたからだ。誠実ではなかったのは自分の方で、それを照らし出されることが怖くて夫に八つ当たりした。ただそれだけだった。

温度を失いつつある色鮮やかな料理たちを黙々と二人で食べ進める。ひと言も言葉をかわさなかったので、逢瀬の証拠を隠蔽する共同作業みたいな食事だな、とよぎった。

 ぎこちない雰囲気のまま会計を済ませた。もうこれで解散しようか、と口にしようとしたら「コーヒー飲もう」と返事も聞かないまま光介が歩きだした。いつもこちらの出方を確かめてから行動に移すタイプなので、めずらしいな、と思いつつも諦めてついていく。

 予想通り、二人でよく行くカフェに辿り着いた。大通りから外れた路地に入らないと入口が見つからないので、休日であっても待たずに座れる穴場だ。平日ということもあり、こぢんまりとした店内はがらがらで、奥のテーブル席へ着いた。電車のボックス席のような、赤いベロアを張った小ぶりなソファに腰を下ろす。

「これが最後のデートかな」

 見なくても頼みたい飲みものは頭に入っているのに、メニュウに目を落としながらわざと口に出して言った。「そうだよ」と静かな声で返ってきてわけもなく腹が立った。音もなく水を運んできた店員さんにアイスカフェオレとシナモンラテを頼む。

「ね、そのサークルの同期ってどういう人なの? 本当に恋愛感情なかった?」

光介の大学時代のサークルは山岳部だ。日に灼けたすこやかな小麦肌の女性のイメージがふっと湧く。文科系の自分とは全く正反対なんじゃないだろうか。

「絵にかいたような運動バカ、って感じの人かな。髪短くて、年中日焼けしてて。学生の時からダイビング行ったり、スキーの教員資格取ったりかなりアクティブな人だった。今は家具の会社で営業してて、お金持ちを相手にマホガニーのインテリアをばんばん売ってるってさ。なんというか、学生の時から同性に囲まれてることの方が多い人だよ」

「ふーん、そういうタイプはわたしの周りにいないけど、素敵な人だね」

「うん。正直女性として見たことはなかったし、向こうは向こうで似たような雰囲気のスポーツマンとばっかりつるんでたからね。でも、気心も知れてるし、根がどういう奴でどういういいところがあるかは、その辺のやつよりは俺の方がわかってあげられるかなって」

 とすれば友情結婚を引き受けることにしたのは、ひょっとすると嫉妬の情もあってのことだったのかな、とひそかに邪推する。シナモンの香ばしい薫りを味わいながらシナモンラテを啜った。ひげになってるよ、と上唇についた泡をさして光介が言う。二人の間での定番の、ジョークと呼ぶまでもないやりとりだった。哀しさと懐かしさがないまぜになって胸の中でゆるやかに混ざり合う。

「結婚した当初から彩野の話は東条にもしてて……ああ、その人、東条っていうんだけど」

「うん」

「誕生日祝うから会うって話してたから、そのあと写真見せたんだよ。向こうが見たかったから。そしたら、自分がなれるとも思ったことがないタイプの、可愛くて綺麗な女性だねって。なんか、やっかむとかそういうんでもなく、へえーって見入ってたよ」

「そっか。うん、なんとなく、光介がその人と結婚しようって思った理由が想像ついた」

「うん。もしよければその人も含めて、三人で会ったりもいつかはできたらいいかなと俺は思ってる。向こうがどう思ってるかはまだわからないけど」

 控えめに光介が言う。胸の底を豆電球で照らされるようなうれしさもないではなかったけれど、それは実現しない方が双方のためにいい気がする、と思った。わからない。今はまだ、受け止めきることで精いっぱいだった。自分たち夫婦はこれをもって離婚するのだ。

「会うことは減ると思うけど、一年に一回くらいは電話して近況聞かせて」

「もちろん」虚を突かれたように光介が見つめ返してきた。「俺は……ずっと彩野のことは、身内だと思ってる。まあ、これから子供を持つ予定の身としては褒められた話ではないかもしれないけど」

「そうだね。でもわたしもそうだよ。あなたのことは身内とか、きょうだいみたいな……ううん、自分の片割れって感覚だな。それは離れても変わらなかったよ。子育て、大変だとは思うけど楽しいこともたくさんあるだろうし、光介には向いてると思う」

「うん、まずは妊活からだから基礎体力とかつけないとな……彩野も、身体に気をつけて。出雲、誘ってくれてありがとう。結婚式も楽しんで」

 ああそうだ、こういう時、一緒に行けなくてごめん、ではなく、誘ったことに対してお礼を述べる人だった、こういうさりげない人柄の良さが、好きだと意識するまでもないほど、好きで、いいなと思っていて、ずっと享受し続けていた。けれどもう、その受け皿は自分の役割ではなくなる。

「元気でね。もし子供生まれたら写真くらいは見せてね」

「わかった。彩野も元気で」

 別れしな、抱きしめられるかと思っていたけれど、そうではなく、右手を差し出された。みっしりと厚い、乾いた手のひらを握って、何かを感じてしまう前に離した。

 地下鉄の入り口で別れる。見送られていることがわかるから振り返らないで階段をゆっくりと降りた。背すじをしゃんと伸ばす。初夏の予感をたっぷりと含んだ風が、身体ごとさらうように吹きつけてきて彩野をくるんだ。

 一人になる。けれど、失ったわけではないし、自分は一人ではない。京都へ向かう特急の京阪電車の中で、スマホに目を落とさないで、じっと窓の外を見つめ続けた。川面の水が、時折ささやかに光を映し出していた。


 危惧していたほどには、出雲行きの寝台列車の個室はそう手狭でもなかった。五畳ほどの部屋に二段ベッドがあり、窓辺にはソファがある。

「修学旅行思いだすね」と振り向くと、リュックから取り出したカーディガンを羽織っていた万璃子は「そうだね」とひっそりと笑った。

 一人で出雲へ行くことも考えたけれど、一晩中物思いに沈んでしまいそうな気がした。そもそもは友人の結婚のお祝いのために向かうのにそんな気持ちで向かうのもためらわれて、万璃子を旅行に誘った。

断られる前提で誘ったので、「いいよ、ちょうどその週は実家に兄夫婦が来るから、紬も退屈してないだろうし」とあっさりと承諾されて、慌てて列車の予約をした。一応パーティーにも誘ったけれど「ごめん。遠慮しておく」とさらりと流された。

「パーティー楽しみだなあ。美冠さん、地元は東京なんだけど田舎暮らしが性にあってるみたいで、全然こっちに帰省しないんだよね。だから会うのもすっごい久々」

「大人になってからの友だちなんだよね。しかも会社のつながりとかじゃないんでしょう? それってすごいね」

「だね。それに、かなり若い時に知り合ったし……もう十年以上付き合いあるって考えたら、すごいかも」

 でもそれは、彼女のセクシュアリティの影響が大きい気がしないでもない。婚活の真っ最中に出会ったこともあって、同年代の女性全般をひとくくりで自分のライバルのような存在に感じてしまう時期があった。そもそも万璃子と友だちでいつづけられた理由だってそうだ。自分が知る限り、学生時代、万璃子から異性の影を感じ取ったことはいちどもなかった。意識していたわけではないにしろ、綺麗で頭がよくて真面目な彼女が恋愛という場面においては競合ではない、ということに安堵していた。今だから認められることだ。

 列車内のフリースペースで軽くお茶をしたあと、部屋に戻った。まだ時刻は二十三時にもなっていなかったけれど、「なんか、揺れてるからかな。眠い」と呟いて万璃子がそうそうにベッドへ吸い込まれていく。

「ちょっとー、せっかく寝台列車に泊まるのにもう寝るの⁉ 醍醐味は夜の時間でしょ。この部屋、窓広いから星が見えるってレビューにも書いてあったのに……」

「星は京都でも見てるし、どっちかと言えば日の出の方がまだ興味あるかな。おやすみ」

 最後はもごもごと呟いて、本当に寝入ってしまった。これじゃあ一人で来たのとそう変わりないなと思いつつも、どんな時でもペースを崩さない万璃子の図太さには慣れているので、苦笑いしながら窓際のソファに腰を下ろす。

【寝台列車どんな感じー】と美冠さんからメッセージが来たので【同行者が早くも寝てしまったのでちょっと退屈笑 でも冒険感があってわくわくする! 星綺麗】と部屋の写真を送った。いいねと簡潔な返信が来てそれっきりだった。明後日のパーティーの準備に追われているのだろう。

 日の出も確かに見たい、けれど、移動しながら星空を眺める、という経験自体がものめずらしくて、ベッドへ行く気になかなかなれなかった。最初は照明の反射が気になったけれど、目が慣れてくると、かなりはっきりと見て取れるようになった。極小のダイヤモンドのような、銀にまたたく星をじっと目で追う。見つけるまでは時間がかかったのに、いちど目でとらえられるようになるといくつも見つけられた。けれど星座まではわからない。 

文系なのにわりと光介は地学に強かったので、一緒に見ていたらつぶさに教えてくれただろうか。

 ――あ、あれ北極星だよ。今日はかなりはっきり見えるなー。

 ――全然わかんないよ、え、どこ? どれのこと?

 ――ほらここ、ここだって。

 ――だから、どこなのー?

 癇癪を起こす子供のようにふてくされていると、彩野の指を掴んで頭上を差して、あれだって、と教えてくれた。それでもなお見つけられずにいると、もう、と言いながら後頭部をやさしく掴まれ、北極星がある方向へと向けられた。

あーあれか! ちっちゃ! と頭の後ろに温かな手のひらの熱を感じながら笑い転げた。あれはいつのやりとりだったっけ。星がはっきり見えたから、梅田や河原町ではなく、どこかはずれた街で飲んだ時か、旅行先でのことだっただろうか。よっぱらっていたこともあり、二人ともくだらないことでげらげら笑っていた。

 七月でも北極星は見えるものなんだろうか。光介にメッセージを送ることも当然思いつきはしたけれど、スマホはさわらないでいた。

 光介いわく、三十代のうちの出産を目標に子作りを計画しているとのことだった。いかにもすこやかそうな東条さんとであれば、すぐにでもそれはかなうんじゃないだろうか。光介が桃色に火照るちいさなあかんぼうを胸に抱いて目じりを下げて笑っている絵が、実際に見たかのようにくっきりと目に浮かんだ。

 自分は――結局は何も生み出さない人生だった。幹さんや美冠さんのように、作品と呼べるものを世の中に生み出すこともなく、蔦が壁を這うようにただ生きて、やがて枯れるように死ぬ。選び取ったというよりも、気がつけば流れ着いていたという感覚の方が近い。

いつか、穴の底から空を見上げるような気持ちで、悔いる日が来てしまうのだろうか。

目を閉じる。いつからだろうか、未来のことを考えているはずなのに、いつか来る日々を過去が覆ってくるような、何か仕返しをするために自分を待ち伏せているかのような、そんなふうに感じるようになった。

 明日の十時に出雲市駅について、そこから出雲大社に訪れる予定になっている。晴れ予報で、かなり暑いから日射病と日焼けに気をつけて、と美冠さんに言われていた。


 からりとした白い陽が頭上から鋭く差してくる。日傘を差してはいても、だらだらと脇や背中を汗が垂れていく。バスを降りた観光客の後に続いて、出雲大社へと歩きだした。

 京都に住んでいることもあって、寺院や仏閣は生活になじみがある方だ。散歩がてら下賀茂神社へ行くことも多い。とはいえ、いざ白く巨大な鳥居を前にするとやはり壮大さに圧倒されて、ほおお、と吐息が漏れた。

「そういえば天皇って出雲大社に来られないらしいよ。しきたりで」万璃子が呟く。

「へえ。何か祟り的なものがあるのかな」

「そういう、怖い系ではなかった気がするけど……なんだったかな。たまに古典の教材で出雲が出てくることはあるんだけどね」

「そっか、さすが」

 なるべく木陰を選びながら参道をのろのろ歩く。参拝する頃には意識が朦朧としてきて、早くカフェでアイスコーヒーでも飲みたいな、でもここらへんってそういうお店充実してるのかな、と気もそぞろで手を合わせた。とりあえず健康でいられますように、わたしもわたしの周りの人も、とここ数年参拝する時に心の中で浮かべる願いをなぞる。目を開けると、万璃子がこちらを見つめているところだった。

「彩野ちゃんって祈る時の姿勢いいね」

「そう? というか、祈る時ってだいたいみんなそうじゃない」

「そうかもしれない。でも、なんだか背中が光って見えたよ」

 それは悪くないな、と思いながら「ありがと、羽でも生えてくるのかな」と混ぜっ返す。主に仕事で写真に写ることが多い以上、気をつけるようにはしているので嬉しい。早くどこか屋内に入りたいね、と言いつつも、紬ちゃん用に合格祈願の水色のおまもりを買って、出雲大社をあとにした。

「紬ちゃんって女子校の中高一貫を受けるんだっけ」

「第一志望はそう。でも、共学でもいいかなって最近は言ってる。趣味に関してはあの子男子の方が気の合う子が多いみたい。科学クラブに入ってるくらいだし」

「そっか」

 地図アプリで検索して、一番近くに表示された茶屋に吸い込まれるようにして入った。戸を開け放しているぶん空調がかなり強めに設定してあり、汗で濡れた肌がさっと冷えていく。同じことを考えたのか、二人ともホットの日本茶と大福のセットを頼んだ。

「なーんか、さーっと回っちゃったけど大丈夫? せっかく遠くから来たんだし、もっと丁寧に見たいんじゃない?」

 運ばれてきたお冷を飲み切ってしまわないようゆっくりと口へ運ぶ。「んー……最初はそう思ってたけど、ここまで炎天下だと、さすがに気が削がれちゃうな。回ったとしても、早く出たいって気持ちが先行しちゃいそう」と万璃子が苦笑いした。

「よかった。ちゃんとじっくり見ようって言われたらどうしようって思ってた」

「季節によってはだいぶ印象が変わるだろうね。涼しい時にもう一回来たいかも」

「だね。紬ちゃんも一緒にね」

舌が縮み上がりそうなほど熱いお茶をちびちびと飲む。ふと風が通り抜けるように間が生まれて、すべるように言葉が出てきた。

「万璃子はさ、本当に大学に戻らないつもりなの?」

「ええ……今その話?」万璃子が眉根を寄せた。広く白い額に不穏な影が生まれる。「まだ決めてない……紬の受験結果が出るまではどうこう言えないかな」

「万璃子は、院進学しなくてもいい理由を探してるんじゃないの」

「そういうわけじゃないよ。できればしたいよ。でももう、わたし三十七だよ。二の足踏むくらい、許してよ」万璃子が、見たことのない角度に眉を下げていた。「みんながみんな彩野ちゃんみたいに、自分がやりたい道をすぱっと選べるわけじゃないよ。すごいとは思うし、尊敬もしてる。でも自分がそうしたいかとか、そうできるかとは別問題だよ」

「でも……」

「彩野ちゃんが言いたいことももちろんわかる。今のわたし、相当かっこ悪いよね。でも、社会人としてどれだけかっこ悪いとしても、紬の母親としてのわたしは……わたしなりに、結構、いい感じだなって認められてるんだ。それだけでも足りてる。それじゃだめなの?」

 うつむいて唇を尖らせている万璃子の表情は、拗ねた時の紬ちゃんによく似ていた。口出ししすぎた、ごめん、と謝るべきか、謝る方が失礼なのかはかりかねているうちに熱風がぶわりと外から運ばれてきて、大福の表面の粉を宙に舞い上がらせた。


 宿泊先の建物に入ると、濡れた紙のような匂いがした。万璃子に言うと、「わたしは墨汁みたいって思った。全然違う匂いなのに微妙にリンクしてるね」と薄く微笑まれた。

美冠さんに勧められて取ったペンションは古い木造の学生寮をリノベーションしてつくられたこともあり、なんだか京都の学生街へと戻ってきたような懐かしさがあった。デザイナーである美冠さんが太鼓判を押していただけあって、部屋のディティールには唸らされた。大きな梁が剥き出しの屋根はそのままに生かされて、インテリアはすべて淡いグレーのアイアンで統一されている。ミスマッチに思える組み合わせなのに、絶妙なバランスのせいかとてもモダンだった。

「お風呂、交代制でわたしたちは二十一時半から二十三時まで使っていいって。わたしの方が先に寝るだろうから、先に入ってもいいかな?」

 万璃子が荷物をてきぱきと床で整理しながら言う。うん、と言いかけて、思い切って「一緒に入ろうよ、せっかくだから」と提案した。「露天で、結構広いみたいだよ」

「いいよ。なんか、サークルの合宿みたいね。行ったことないけど」

「こんなにグレードのいいお洒落な宿泊先ではないにしろ、近しいものはあるかも」

 支度をして、時間通りにお風呂場へ向かう。夜でも蒸し暑さはむったりと重く居座っているものの、裸でいるので天然のサウナと思えばそう悪くもない。並んで頭を洗い、思った通り先に身体を洗い終わった万璃子がさっさとお風呂へと向かっていった。

「あー、思ったより熱い。でも、気持ちいいよ」

背後の声がいつもよりまろやかに伸びている。すばやく石鹸の泡を落とし終え、大きな石で囲まれたお湯のなかへと身を沈める。「あぢいい」とあられもない声が出る。

「結構にごり湯だね。肌すべすべになりそう」

「だね。そういえば、今さらなんだけどね」万璃子がばしゃばしゃと男児のようなしぐさでお湯を顔にかけている。「紬と一緒にお風呂入るの、先週やっと卒業した。長かった」

「え、今まで一緒だったんだ? 小五だと……でも女の子だったら、そこまでへんじゃないか。なんで卒業したの」

「ん……わたしが単身赴任だからかなあ。紬が一向に一人で入るって言いださなくて、わたしも、言い出すタイミングを逃し続けてたんだよね。年頃だし、わたし自身は小一からお風呂に一人で入ってたから。本人が気にしてないならいいのかなあとか思って静観してたんだけど、月経がね。来たから、ああ、今かなあと」

「わあー、そっかあ。そうだよね。おめでとう、っていうのもへんだけど」

「ん。それで、カップ付きのキャミソールじゃなくてブラジャーを買いに行こうって言ったんだけど、紬がめずらしくいやがって……無理やり一緒に下着売り場には行ったんだけど、いらないの一点張りで結局買えなくて。お母さんが適当に買ってくれば、って」

「そっか。思春期だねえ」

 微笑ましく思いながらも、けれど、自分が共感したのは母親として手を焼く万璃子ではなく葛藤する紬ちゃんに対してだった。同級生より発育がやや早かったこともあり、十歳になるかならないかくらいにはスポーツブラジャーを買い与えられていたものの、つけるのはどうにも、強い抵抗感と恥ずかしさがあった。ブラジャーというアイテムには濃い性のニュアンスがあって、子供の自分が身に着けることに違和を感じていたのだと思う。「でもそれも男性的視線が子供の時から植えつけられてたってことだよね、ブライコールエッチなもの、っていう方程式がある、みたいなのは」とぽつぽつと汗と一緒に零す。「自分が子供の頃って、今よりは、テレビにグラビアアイドルが出てたしなー。胸が大きくなるのがあんまりうれしくなかったのって、自分とは関係ないと思ってた、セクシーでエッチなおとなの女性に近づいていくってことが怖くて、かつ、自分が子供の枠じゃなくて性的な目を受ける側になっていくってことに抵抗を感じてたのかもしれない」

「ふーん……わたし自分の時のことはあんまり覚えてないな。彩野ちゃん記憶力いいね」

「むしろ、原始的な体験が強烈に残ってるからこそ今の仕事に就こうと思ったのかもしれない。自分の身体を受け入れる、ってことに、ちょっとつっかえることが多かったから」

「そっか。わたしは逆だな。ずっとおっぱいがぺたんこで、それが恥ずかしかったなぁ」

 万璃子が呟く。今はお湯の中で見え隠れしているけれど、さっき洗い場で見た彼女の胸はうすい皿を並べたような楚々としたふくらみだった。チュールのブラレットなんかが似合いそうだな、と咄嗟に思ったけれど、さすがに言わないでおいた。

「うちのブランド、ジュニア向けは展開してないんだけど、試着したくなるような……セクシーなニュアンスが一切なくて、かつ運動しやすいとか、服に響かないとか、デリケートな年齢の子でも選びやすいような商品があったらいいかも。タンクトップくらい丈を伸ばしてブラっぽさをなくしちゃうとか。今度、デザイナーさんに提案してみる。価格帯も、ジュニアラインはぐっと下げられたらいいんだけど、それは難しいかもなあ」

「ありがと。結局まだカップ付きの下着しか勝ってないから、今度一緒に選んでくれる? 彩野ちゃんと一緒に選んだって言えば、まだ紬も心ひらくかもしれない」

「もちろんもちろん、喜んでおともしますとも」

 ありがとう、と万璃子がすっかり化粧の取れた素顔で顔をほころばせた。女二人で、ふうふうと息を吐きながら、いつまでも汗を流した。


 天井の高い、木組みの一軒家のフレンチレストランが結婚パーティーの会場だった。ペンションと言い、木とか暖かい雰囲気の場所が彼女の好みなのかもしれない。付き合いは長くても、建物の嗜好を知る機会はなかったのでなんだか新鮮に思った。

「彩野! 遠くからわざわざありがとう。そのワンピースも似合ってるね、いいじゃんか。さすが、自分に似合うものをよくわかってる」

 身体の線にぴたりと沿い、骨格ごと浮かび上がらせるような細身の黒いマーメイドドレスに身を包んだ美冠さんが出迎えてくれた。パートナーである高階さんは明るいブルーにチェック柄という、ポップなデザインのタキシードで、雰囲気がちぐはぐなのが面白い。

「ありがとう。これ、うちのお店のラインのワンピースなんだ。いいよね」

お祝いの席に選んできたのは、陽にあたると金色にも見える、光沢のあるサテンのカップつきキャミソールドレスだ。足首まですっぽり隠れる丈で、思い切って素肌にかぶって、羽織りをせずに出席した。背中を見せた方が活きるデザインだし、「ドレスコードはないから。白いウェディングドレスでも大歓迎」と美冠さんから焚きつけられていた。

「うん、カジュアル過ぎずドレッシー過ぎずでちょうどいい。わたしにも一枚見立ててよ」

まかせて、と軽く彼女にハグした。「ちょっと、暑いじゃん」とすぐに文句が飛んできたけれど、自分以上の力強さで抱きしめ返された。

「美冠さん、すっごい綺麗。よほど島根の暮らしが肌にあってるんだね」

 以前より灼けた肌と、ややぱさついた、ところどころ脱色した金髪が彼女のはすっぱな雰囲気とマッチしていた。重そうなくらい大きな紅色の石を耳たぶにぶら下げている。東京にいた頃は、彼女の派手さはどこか鎧をまとうようにも見えたけれど、今は心からの嗜好でメイクや装飾を選んでいるような気がした。開放的な雰囲気を羽みたいに背負っているからだろうか。

「ん、そうね。なんの娯楽もない町だけど、景色がすこーんと抜けてて、気持ちがいいところだよ。そういえばあんたも今京都に住んでるんだよね? 大阪より合うんじゃない」

「んー……そうだね。のびのび生きてるよ。どこ歩いても景色に山と川があるのって、贅沢なのかも。地元もそんな感じだしなあ」

 パーティーは立食式で、パートナーの高階さんが簡単に挨拶したのち、自由にワインやフレンチを楽しんだ。美冠さん以外の知り合いは当然いなかったものの、「そのドレス可愛いですね、どこで買われたんですか」と彼女のデザイナー仲間だという女性二人組に話しかけられて、美冠さんにまつわるエピソードを語ったり、ノアノラの下着を紹介したりした。「へー、Instagramフォローしてるところだ。下着以外も取り扱ってるんですね」と興味を持ってもらえたのでつい営業トークに力が入ったところで「ちょっと」と肘で腹のあたりを突かれた。美冠さんだった。したたかよっているのか、顔色には変わりないものの、持っているワイングラスの中で、赤ワインがひどく揺れていた。

「ねえ、めっちゃ飲んでない? 美冠さん、主役だからってよっぱらいすぎ。早いよ」

「うるせえな。いいからちょっとこっちおいで」

 やけに艶っぽい声で手招きされて、女性二人組に会釈して美冠さんの後ろをついていく。彼女が着ているドレスも背中が深くまで剥き出しで、ラメをはたいているのか陽射しを受けて肩甲骨が白くきらきらと瞬いていた。自分もこのワンピースを着る時は鎖骨と背中にラメ乗せようかな、などと思いながら光る背中を追いかける。会場を出て、渡り廊下に出て曲がり角を曲がると、ベンチのおいてある小さなスペースがあった。壁一面が硝子窓になっていて、小さな中庭が覗ける。真ん中で枝葉をどうどうと伸ばし葉をたっぷりと蓄えた大樹は、桜だろうか。

「ここ、中庭が綺麗なんだよね。面してる部屋がないからわざわざ出ないと見られないんだけど、それも含めていいなと思って、この店予約した。一年前だったかな」

 ベンチに人魚のように腰かけて美冠さんが呟く。あー煙草吸いたい、と言うので「外出る? 今持ってるよ」とバッグを指して見せると目を見開いたのち「え、彩野って吸うんだ? 意外」とけらけら笑われた。

「んー……光介と別居して、シェアハウスに移った時あたりから吸うようになった。ストレスがすごくて、あと、スナックでも吸ってる女の人多かったからね」

「そういうことねー」ドレスに匂い着くけどまあいいよね、と呟いて立ち上がるので、外へと着いていった。非常ドアのそばにちょうど灰皿があったので「やりい」と美冠さんがうきうきとそばへ寄る。

「あんまり本数吸わない方だけど、美冠さんと一緒に吸いたいなってよく思ってたよ。それがまさか結婚のお祝いの場で叶うとは」

「だねー。いいんじゃない、今の彩野だったら、なんか背伸びして吸ってるとか、おとこの影響で吸ってる感もないし」まあわたしは昔の女にならったクチだけど、と美冠さんが指で挟んだ煙草にライターで火を点けながら呟く。

「今日言うのもへんだけど。わたしね、とうとう離婚するんだ。夫が、別の女性と子供を持ちたいみたい」

「あそー。なんだかんだ彩野たちはぬるっと添い遂げるパターンだと思ってた。独身に戻るんだ? まあいいじゃん、楽しいよ、それはそれで」

「ありがと。うん、あんまり落ち込んではない。まあそうだよねって感じかな」ライターを受け取って自分の煙草に火を点ける。深々と肺に煙を溜める。「むしろ夫のこと……やっと手放してあげられたな、って。子供が巣立つ親みたいな心境?」

「じゃああんたにとって旦那は雛?」

「向こうにしてみたらわたしの方が雛だったと思うけどね。まさか自分が離婚するとは思ってなかったな」

 けれど、ここ数年はそんなことの連続だったかもしれない。思ってもみないような選択肢が人生に現れて、果敢に勇気が要る方を体当たりで選んできた。学生の頃の自分がいまの彩野を見ても信じないんじゃないだろうか。その想像はいくらか痛快でもあった。

「高階はね、わたしがバイセクシュアルであることに最近まで気づいてなかったの」

「へ?」

 突然の語りに思わず声が出る。「ごめん、言い方ミスった」と美冠さんがひらりと手を振った。酔っているように見えたけれど、口調は思ったよりも落ち着いている。「女性と付き合ってたことも知ってたんだけど、そういう、両方と付き合える人をバイって言うことを知らなくて」

「へ、へえ……そんな人いるんだ」

「そういう人もいるよね~くらいにかなり大雑把に捉えてたみたい。かつ、わたしがバイって知っても態度が変わらなくて、そこがいいと思って、結婚した」

 うまく呑み込めずに黙っていると、「要するに属性萌えの人じゃないってわかったってことよ」と美冠さんが続けた。「バイってさ、正直、それだけで男女問わずもてるし一定の人から囲まれるのよ。なんというか、ハーフはもてるとかそういう話。珍獣扱いとも言えるけど。だから、いいなと思ったらすぐ性的マイノリティですよ~ってわざとすぐ腹見せっていうのかな、あけすけに話してみたりするわけ」

「ふうん。そういえば、そうだね。わたしとも、初対面の時にs教えてくれたもんね……」

「それはあんたがあからさまにわたしに対して警戒してたからね。まあ、当然だと思うけど。ストレートの同性と仲良くなる時に手っ取り早いから若い時は特によくそうしてた」

 若干の気恥ずかしさを覚えたものの、いったんはうなずいて聞いておく。確かに、マイノリティとして生き目を抜いてきた彼女からすれば、その性質に対して過剰に反応しない人は稀有に思えるだろうし、有難みすらあるのかもしれない。

「わたしさ、こんなだから、口悪いとか態度デカいとか、よく言われるんだけど」

「うん。あと意地悪」それはあんたにだけだよとにやっと笑うので、もう! とかたちだけ抗議しておく。

「なんというか、そういうキャラとか役回りを期待されることが多いから……メディアのゲイのイメージが毒舌家とか物怖じしないでギリギリの発言をする、みたいなのがみんなの中にあるからかな。わたしもそれに寄せてたわけ。でも元々は引きこもりの人見知り体質だから、誰かにずばずば言う、みたいなのは演出としてそうしてた部分もあるのよね」

 ふうっと煙が彼女の口から天へと伸びていく。ミュシャのポスターのように、白い煙がうずまきながら立ち昇ってけぶる。

「でもあの人にはそんなの通用しないし、というよりもそもそもは必要ないわけ。そんな人会ったことなかったから、彼でやめにしようかなって」

 斜に構えたような言い草だったけれど、照れているのかやたら髪を撫でつけていた。そっか、と柔らかな声が出た。

「おとなっぽい人だから美冠さんとフィーリングがあったのかな、って思ってたけどそういう理由だったんだね。自然体でいられる人なんだ」

「まあ、回りくどい言い方したけどそういうこと。まあ、いい歳のおっさんだけどあとで話してみてよ。あんたのこと、わたしの友だちで一番の冒険者だって説明したら随分食いついてたから」

「わたしが? 冒険者?」思わず声を上げてのけぞってしまう。「違う?」と美冠さんがひょいと肩眉だけ持ち上げてみせる。

「少なくともわたしにはそう見えるよ。初めて会った時は、なんつーか、人生イージーモードのかわい子ちゃんって雰囲気であまっちょろそうな子だなと思ってたけど、掘れば掘るほどどんどん道をこう、かき分けてくからさー。見てて気持ちよかったよ。島根に来たのはじぶんにあってたとは思うけど、大阪に心残りがあるとしたら彩野くらいだったから」

 目が合いそうになるとふいとそっぽを向かれた。言われた言葉が、半紙が水を吸い上げるようにじわじわと染みていく。ありがと、と抱きつく。彩野はいちいちドラマティックなんだって、といなされながらも、数秒間抱きしめて互いの体温を感じ取っていた。

「ま、慌ただしい滞在だとは思うけどパーティー楽しんでね。ほいじゃ、わたしメイク直してくる。主役が抜けちゃあ盛り下がるからね」

 美冠さんがひらりと手を振ってさっさとドアの向こうへと消えていった。追いかけようとしたけれど、なんとなくやめて、もう一本煙草に火を点けた。ちりちりと指先まで刺激が小さな稲妻のように瞬時に駆ける。煙草が似合う女になるなんて思わなかったな、と苦笑いしながら窓の反射に映った淡い自分の姿と目を合わせる。

悪くない。かつての、〈あまっちょろ〉かった頃の彩野からすれば、今の自分が立つ場所はいばらの道なのかもしれないし、けもの道なのかもしれない。上等だよ、なんて不遜に吐き捨てる肝の太さはまだ身につけていないけれど――でも、そう遠くないうちにそんなおとなになるような気もしないでもない。現に、昔の自分に、喫煙者になることや離婚にいたることを吹聴したところで、絶対に信じないだろう。

こんな道を通ることになるなんて、とのけぞりながら、笑いながら、びっくりしながら、それでも果敢にそこへ足を踏み込む。おそれやおびえがないわけではない。でも、底が透けて見えるような浅瀬にいつまでも小舟を浮かべてその場でくるくる旋回しているだけの生き方は、もう、自分は良しとしないだろう。舟が沈んで、溺れてしまうことが怖くないわけではない、けれど――ひらきなおって力を抜いてみれば、あるいは冷静になってみれば、水面にぷっかりと浮かんだり、水底に足をつけて立ってみることだってできるのだと、自分はもう、わかっている。

ゆらゆらと白い煙が青いあおい空へと昇っていく。その先は見えない。自分が吐いた煙が完全に宙へ霧散するのを待ってから、煙草の箱を鞄へしまった。

パーティーが終わったら、島根を観光している万璃子と合流して、一緒に京都へ戻ることになっている。いい雰囲気のカフェを美冠さんに聞いて、お茶をしてから新幹線に乗ることにしよう。昨日、研究職に戻らないのかと身勝手に問い詰めてしまったことを謝って、仕事にかぎらず何か手伝いが必要なことがあればなんでもやらせてほしいと言おう。それから、どこかでノアノラのスタッフへのおみやげも買いたい。何よりも――自分の道しるべをつくってくれた幹さんには、それとは別で贈りものを時間がゆるすかぎり探してみよう。新幹線の中で手紙を書くのもいいかもしれない。長い文章を書くことは苦手だけど、絵葉書を選んで、そこに言葉を添えるくらいならいくらでも書けそうだ。いや、やっぱり書きだしたら言葉があふれだしてしまいそうだから、ちゃんとした便箋と封筒を買って、腰を据えてしたためた方がいいかもしれない。

ふつふつとあぶくのようにしたいことがあふれて止まらない。楽しい。ずっとこんな気持ちで生きられるわけではないと、経験則で知っていても、たった今はゆるやかに身が浸していたかった。名画の中のおひめさまが、小川をゆるく花とともに流れていくみたいに。

【恋文書くから、あとで手紙の作法教えてくれる?】

 万璃子にメッセージを送る。意味不明なメッセージに、形のいい淡い眉をひそめる様子が浮かんで胸がくすぐったくなってきた。ししし、といたずらっぽく笑う。いとしい友人の門出を祝うために、ドアを大きく開けて、陽に満ちた部屋へと戻った。

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彩野 @_naranuhoka_

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