第42話 ふぞろいな獣たち

 帝都の夜がネオンの海に溺れていた頃を、最早誰も思い出せない。指折り数える必要すらない。たったそれだけの年月なのに、今、『カガチ』が駆け抜けた帝都の夜は暗く静まりかえっていた。

 車窓の向こう、辛気くさい帝都を尻目にミエコは不満だった。

「それで……」と、倦んだ声を漏らした。

と龍が何の関係があるのよ」



 

 物憂げと不満の谷間は暗く、地の底には溶岩にも似た熱量が渦巻く。ミエコの気を察したヒノエは、静かに「さっきも言ったけどね」と、前置きをした。

「古代道教でいう所の龍脈は、確かにこの国、いえ……、全世界を覆っているの。国によって呼ばれ方は違うんだけど、古来より地を這う龍という喩えの通りよ。嘆かわしいけど、今のところ日本だと陰陽道や風水術の影響で、自分の運気や良い土地探し程度の話しかないわ」



「……その龍脈がおかしくなってる、と」

 姫の見立てよ、とヒノエが釘を刺した。

「まぁ、私も然う思ってるわ。ソロエの喩えに乗っかる訳じゃないけど、山川草木全てに意志があり、互いに、特に龍脈の影響を受けている。龍脈が荒れる場所は禍事――、大小様々な災害が起きる。痴情の縺れから火薬庫の大爆発まで、ね」

「言ってることは分かるわよ、ヒノエ。でもね、それを言うなら全世界が既に乱れてない?」



 日華事変、第二次欧州事変。この二つだけでも、地球の反対を繋ぐ大騒乱の線が浮かび上がり、世界中をが覆っている。もっとも、戦争とは無縁の国や植民地も存在しているのを分かった上で、ミエコは訊ねた。

 ヒノエは「その通りよ」と肯った。

「要は世界中で大波が立つほど荒れているのに、突出して三角波でも迫り上がったらわ。龍脈は互いに連動して揺らぐものだけど、それがおかしくなってるから、要諦を統制しなきゃいけないのよ。……もね」



 ひたり、と冷たい語感がミエコの耳に浸みた。

「暗黒の知啓団、ねぇ。……本当にそいつらなの? 龍脈を狂わそうとしてるって、本当なの?」

 級長の中宮が関わっていないことを切に祈りながら――。ヒノエは「姫の判断だと十中八九、ね。それを確かめに行くのよ」と、さらりと返した。



「……で、奴らの新しいアジトらしい場所が見つかったから行くのよ。あの異形といい、確認したいことは山ほど在るわ」とミエコは口の端を締めたと思ったら、「まぁ、伊沢達の説明じゃ分かりにくかったでしょうけど」と、彼らを鼻で笑った。



「それもそうね。崩れ弁士とコテコテ大阪人じゃ、デコボコ良いとこよ」

 片やミエコはうんざりした様子だった。目を瞑れば浮かぶのは、伊沢の下手な語り口を所々に遮ってくる意気軒高とした逆三角形大阪人であった。

「あれで帝都と大阪を管轄する支部長ですものね。世も末だわ」と、酷く馬鹿にしたところで助手席に座っていた志乃が「……お嬢様、人の悪口はそこまでですよ」と優しく諭した。続けてハンドルを握りながらマスターも口調を合わせた。

「然様で御座いますよ、ミエコ様。人のいないところで交わされる悪口というものは、巡り巡って口にした本人に返ってくるもので御座います。悪口は言わず、勿論、他人に言われないに越したことは御座居ませんから、日頃の行いには気をつけたい所で御座いますね」



 教育係の役を自然と熟している二人がミエコを諫めたが、その口の端は僅かに上がっているように見えた。マスターの悪口をソロエが言っていたわよ、と喉まで出かかった言葉を必死に飲み込んだミエコは話題を変えた。



「目的のビルって何なの?」

「元商社のビルよ。結構大きな会社だったらしいんだけど、肝心の商社が大震災で傾き、大恐慌でトドメを刺されて倒産。それから十年近く買い手もなくて蛻の殻。2、3年前に解体予定だったんだけど、解体工も徴兵が多くなって進捗がピタリと止まった……ってとこね」

「加えて申しますと、近隣の土地が空いているため、爆破解体を行うようで御座います。爆薬の装着工事も進んでいるとか」



「もしかしてだけど、……そのビル、

「その通りよ」

 と、口にした所で、『カガチ』が優しく停まった。気が付けば件のビルヂングの目の前だった。

「……特高はいないわね」

 以前のアジトと猿顔を思い出しながらミエコ達が降りると、「今回見つけたのは丸島さんよ」と呟いた。

「へぇ、どうやって」

「あの人、鼻が利くのよ。だし」

「そういう能力?」と訊ねたところで、『カガチ』の真後ろに付けるように、一台の同じ国産自動車が急停車した。運転席からはぎゅうぎゅうに詰まった丸島が、後部座席からは青白い顔を一層青白くさせた伊沢が、ふらふらと降車した。



「伊沢様、大丈夫ですか?」

 余りに具合の悪そうな伊沢に志乃が声を掛けると、「あぁ、大丈夫ですよ」と口元を抑えながら気丈に返した。

「思ったより丸島さんの運転が、……ね」

 うぷっ、と喉を鳴らして必死に耐えている。

「なんや伊沢はん、酔うたんかいな! あれくらいでぇ」

 とケラケラ笑った。



 老ノ坂の峠道でも酔わなかった伊沢を思い出しながら、ミエコは初めて伊沢が可愛そうだと思った。

「……で、ここね?」

 ミエコが一歩だけ前に出てビルヂングを見上げた。



 四階建てのビルヂングは大正年間に建てられただけあって、最新のモダンビルではないが、細かい和風の意匠を抜かせば、昭和15年の今でも遜色はなかった。ただ所々にひびが入り、窓硝子は全て撤去され、燃え尽きた灰のような風合いである。だが灰は燃え残りを隠し、意表を突いて燃え上がる。

 ビルヂングを前に、大柄な逆三角形男、青白い顔の芥川風の男、闇を纏う黒い巫女、丸眼鏡のメイド、銀糸煌めくモダン老紳士、そして可憐な少女が――、不揃いの得物を手に持ちながら、揃ってビルを見上げた。



「いるわね」

「くっさいのぅ」

 姿は見えずとも、肌に伝わる悪意の波に、ミエコは武者震いするのだった。

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