第35話 滾る殺気って落ち着かないわねぇ

『あーあ、夏休みの最後なのにこれ任務なの?』



 墨を零したような闇の中、ぽつぽつと人工灯の輝き瞬く夜半である。近くを流れる荒川は波間に闇を湛え、落ちれば永遠に浮かび上がれないと思うほどに黒い。帝都の空を覆うどんよりと厚い雲を車窓から見上げ、深々と溜息をついた。

 乙女の嘆きは若さの証明。青春の根源、純朴な情動の対価は――華々しくあるべき。その思いが強ければ強いほど、ミエコの落胆は言葉となって脳髄から溢れ出た。



『そんな甘いこと言ってると怪我するわよ』

『分かってるわよ……』

 伊沢の調査は思ったより早かった。あれから二日、自宅に届いた命令書――伊沢が発信したものだが、それによると『暗黒の知啓団』なる邪教団体は、を持って破壊工作、或いは技術、工作物の奪取を目論んでいるという。

 しかしそれすらも曖昧である。



『出来てまだ1年程度らしいですが、一定規模の組織になっているようです。猿渡さん曰く、構成員は多くても百名程度との事ですが、特定のおやしろがある訳でもなく、教義らしい書もなく――、そもそもを崇めているかも分からない』

 

 


『そんな訳分からない奴らが、言霊石を盗んで人を殺したっていうの? 狂信的なハズなのに、その根幹が分からないなんて……』

『それを明らかにするために行くのよ。さ、降りた降りた』

『はーい』



 4人乗りの羅刹公用車「カガチ」からバタバタと3人が降りる。普段使いの国産自動車AA型と違い、天井後方部分がぷっくりと膨れている。天井と言えば円形のレールが、くっきりと金属の輝きを帯びる。車体後方部から見れば、まるでちよんまげのようである。

『皆様、お気を付けて』

 毎度運転手を務める近堂マスターは、視線を交えることなく柔和な笑みを浮かべていた。

『ありがとう。――その装備九七式車載重機関銃を使うことがないことを祈るわ』

『私もでございますよ、ヒノエ様』



 伊沢の判断である。強盗殺人事件であること、異能集団の可能性が高いことを考慮して、戦闘可能な態勢で調査に向かうことになった。いざとなれば異能だけでなく、直接的な武力行使――銃火器の出番も覚悟したのだ。



『まー、予備で付近のともがらにも2、3人来て貰ってますが、多分大丈夫でしょう』

 肌を撫でる生暖かい風に肌が僅かに粟立つ。伊沢の楽観とは裏腹に、揺れる断髪を掻き上げながら、ミエコは薄手ジャケットのポケットに手を突っ込み、目標の建物を遠く見遣った。



 確かに近くに広い、大規模な工場がある。高い混凝土コンクリート璧に覆われ、中では何が製造されているかは一目には不明である。既に就業時間を終えているとはいえ、人の気配は十二分に感じる程に灯りが付いている。

 その壁の手前――。

 真っ直ぐな通り、T字路の突き当たりにある一軒家。取り立てて特徴の無い二階建ての家屋である。一階二階ともに灯り無く、工場とは対照的に人の気配を全く感じない。



『――嫌な気配ね』

 車から降りて真っ直ぐに歩き始めたところでヒノエが呟いた。

『どういうこと?』

『ミエコには見えないだろうけど、……まるで蜘蛛の糸。キリキリと空気を裂くような皺みが凄いわ。……何かあったわね』



 ミエコが改めて凝視したが、勿論何も見えない。ヒノエの千里眼――、いや、人の見えている情景を言葉で伝えることは難しい。いったい彼女にはどう見えているのか。それとない疑義はなまぬるい風に吹かれて消えた。



『殺気がたぎってて落ち着かないわね。でも――、それにしては

 ヒノエが眉を釣り上げたのを見て、伊沢が胸元に手を突っ込んだ。

『まぁ、ちょいと式を打っておきますか。闇夜の鴉がちよう良いでしょう』

 黒衣のスーツから滑り出した2枚の人形は――、まるで意志を持っているかのように風に乗り、ふわりと闇夜に消えた。卒然、鴉の鳴き声が辺りに響き、遠く遠くへ飛び立っていった。



けど――、まぁ良いわ。で? 何がおかしいの?』

 段々と家屋が近づいてくる。往来は不思議なほどに少なく、喧騒は遥か闇のヴェールの向こう側である。

『建物に数人――、気が立ってるようね。ばかりだわ。それに外で見張ってる人間が幾人かいるわ。明らかに警戒してるわ』



 言われてみれば――。

 歩いているのはスーツ姿の男達だけで、辺りを見渡したり、同じ場所を行ったり来たりしている不自然極まりない動きである。

『あの人達が邪教徒……な訳ないわよねぇ』

 フードもクロークもない。どう見ても街中に居て違和感のない男達である。肩肘張った厳つい体つきであることを除けば――。



 ミエコの疑問に伊沢が答えようとした時である。

「お、おいおい――」

 、声をかけられた。

 聞き覚えのある軽妙な声。男の割に甲高く、丸みを帯びた声調は猿のイメージ通りである。T字路に差し掛かる直前、ビルヂングの狭間からぬるりと顔が現れた。



「あんたらなんでこんな所に……?」

 ぷかぷかと煙を顔に纏わせながら、猿渡が驚きの顔をミエコ達に向けていた。

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