第34話 蟇蛙は何でも知ってる

『そうそう、目的を忘れちゃいけません。実はですね――』

 伊沢が淡々と子細を語る。いつもの調子とも、あの時に見せた影ある貌でもなく、ちようにあるような神妙な顔付きである。



 ――いつもこうならいいのに。

 ミエコの嘆息は言葉にならず、ヒノエがそれとなく察した具合であった。



『……成る程のぅ』

 多邇具久は鬱蒼とした木々の隙間から、天を仰いだ。

とがびとさがしとは気が進まぬのぅ。まだうら若き乙女なら――』

『た・に・ぐ・く・さ・ま』



 ヒノエの懐の中で短刀がチンと啼いた。

『わ、分かっておるわ。ちょっと待っとれ』

 文字通りがたらりと流れる中、咳払い一つに蛙は首を振る。

『ぐー、グー、キッ、キッ――』

 蛙の鳴き声ともつかぬ甲高い啼き声である。ぷーくぷーくと鳴嚢が膨れれ、瞼はしつかりと閉じられたまま、多邇具久はじっとしている。



 ――見ている分には可愛いわね。

 蛙の夜啼きは五月蠅いばかりと思っていたが、こう見ると愛玩動物のそれである。ミエコが苦笑いを浮かべたところで、多邇具久の声がピタリと止まった。



『ほー』

 突然頬が膨れた。

『中々やるぞい。

『……どういうこと?』

『上手くカモフラージュしているという事でしょう。しかしまぁ、神意や異能の追跡を妨害出来るとは、――ろくな教団じゃありませんね』



 伊沢の倦む言い方に同調するようにヒノエも溜息をついた。

『これでの線は完全に消えたわ。相手は私達と同じような異能集団か、魔の力でも借りてる連中よ。――厄介ね』

『か、顔が見えなくても、どんなのかは分からないの? 場所とかは?』



『逃げた咎人は2人じゃが――、男の子おのこ女子おなごじゃ。蕃国の蓑フードクロークを纏うておるが――、車で――、……むむむ、北東じゃな。確か最近出来たがあったのう。その直ぐ近くの家屋じゃな』

 かつぜん見開いた瞳に見いだすは犯人達の逃亡先。だが余りに抽象的だ。

『それだけじゃ流石に分からないわよ』

『――そうでもありませんよ、ミエコさん』

 伊沢が口元に扇子を当てながら首を傾げた。



はこ――きっと工場のことでしょう。私の記憶している限りですが、確か荒川近く、足立区でしたか? あそこには、さる財閥所有の工場が軍需工場に転用、増築された……というニュースを聞いた覚えがあります』

 あぁ、それなら、とミエコは頷いた。

『確か珍しく新聞報道されてたわね。総力戦を支える新工場――だったかしら。普通、軍関係なんて報道しないと思ってたけど……』



『こういうのはなのよ。あの大資本家、財閥も戦時体制に進んで国にちゃんと奉仕してます、協力しますってね。軍に向けつつ民間へのなら、そういうものでしょ』

『……ウチ神宮司財閥国策羅刹も協力してるんだけどねー』

 舌を出して戯けたミエコにヒノエが苦笑いした。



『兎も角も――、その付近にいるのですね? 犯人が』

『川のほとりというのも合っとるぞい。儂の見た通りなら、咎人どもの根城のようじゃのう。何人か武具を携えておるようじゃが――、まったくたいやからじゃ。近くから人ならざる面妖な気も感ずれば、益々妖しいのぅ』

『複数人で武装している……、ですか。目的か何かまでは流石にご存じないですか?』

 ぷくぷくと頬を膨らませる多邇具久が再び瞳を閉じた。



『分からん。――じゃが、いずよこしまな事には違いあるまいて。上古遥か古代より、ひそひそと隠れて武具を武具を揃えるなど、隠しておきたい心根の表れよ。信じ奉る何かは――、全く分からんが、恐らく天津神あまつかみ国津神くにつかみ共々の敵となろうよ』

『――分かりました。そこまで分かれば十分です』

 伊沢が飄々と頭を垂れた。聞きたいことは聞けたという合図だ。



『多邇具久様、それでは我々はお暇致します。度々参りますので、今後ともよしなに』

『そうか、もう帰るのか。達者でのぅ、黒き巫女に皆の衆』

 互いの一礼が交わされ、後は去るだけだ。

『アナタも元気でね。他の生徒は忘れても、私は覚えているから』

『ほっほっほ――』

『でもウチの生徒に舌を出したら…………』

『わ――、分かっとるわい!』



 ぴょこぴょこと撥ねながら反撥する多邇具久を尻目に、笑みを浮かべながらミエコ達は祠を後にした。林を抜け、見上げれば月が煌々と照り、まさに往時の空である。只違うと言えば、あの時に比べ夜寒が穏やかに、否、迫り来る秋の気配を肌身に感じさせる、寂しげな月夜だ。



『今日はここまでにしましょう。先に工場も下調べしなきゃいけないし』

『そうね』

 時計の針は既に十時を回っている。家に帰ったら諸々、十一時前くらいになるだろう。ミエコは僅かに覚えた眠気に目を擦り、改めて澄んだ月を見上げた。

 校舎の端に掛かる月――。

 混凝土の舳先に、影。

 



 パタパタと風に翻る、何か。

 奇妙な形の杖に似た――何か。

 遠くぼんやりとしか見えず、目を擦って改めて凝視すると――、其処に影はない。



「『今のは――』」

 思わず漏らした声に、先を進んでいたヒノエ達が振り向いた。

『どうしたの?』

『…………いえ、何でもないわ。見間違いね』



 夜の校舎、高等女学校の屋上、こんな時間に人が居るはずもない。しかも外套マントを翻す――姿など。



 ――テロリスト。

 ――外国人書生。

 ――暗黒の知啓団。

 ――デービッド。

 脳裏に瞬く言葉の洪水と、焼き付いた彼の笑顔が綯い交ぜに心を揺さぶる。



 確かめなくてはいけない。

 きっと数日後にはなるのだろうが、……、と念話にもしない呟きを心中深くに沈めながら、ミエコは校舎付近で待機している近堂の自動車へ足早に向かうのだった。

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