005.セラフの聖槍
「ヴァリク様の護衛、ご苦労」
前から歩いてきたダリオンが、低い声でそう言うと、馬車を降りて装備を整える俺に視線を向けてきた。後方支援の任務を担うヘンリーは、いつもより少し長めに俺を見つめた後、笑顔を作って手を挙げる。
「ヴァリク様、無事に戻ってきてください。ダリオン殿も頼みますよ」
「……ありがとう、ヘンリー」
「承知した」
ヘンリーは乗ってきた馬車に乗り込むと、そのまま道を引き返していく。
後方支援の部隊に合流するためだ。
と言っても、前線部隊も後方部隊も、基本的には「ヴァリク」という破壊兵器の円滑運用にしか活動をしていない。ここ数年で、効率的な英雄の運用の為に、後方部隊所属の聖騎士には知られないよう、秘密裏に部隊編成が変えられていったらしい。
後方部隊は、前線部隊の長期滞在用の物資運搬と負傷者の治療の為のベースキャンプ運用が主な任務、前線部隊は「ヴァリク」の移動と「ヴァリク」の治療──と言っても基本的には鎮痛しかしてもらえない──が主な任務となる。
そして、魔の軍勢の討伐を一手に引き受けているのが「ヴァリク」──つまり、俺である。
山脈から吹き降ろす冷たい空気が肌を刺す。何度も深呼吸をしながら、手にした槍を見つめていた。刃が鈍く光を反射し、その輝きがどこか不気味に感じられる。
「ヴァリク様、準備を」
ダリオンの冷静な声が響く。俺は小さく頷き、ダリオンの後に続く。ダリオンの重い鎧が軋む音が耳に刺さる。
すでに用意された天幕の中に入ると、そこには自分専用の鎧が置かれていた。胸元に不気味な円形の穴が開いている。俺のためだけに作られたものだ。
手が震える。冷えた金属の感触が指先から伝わり、胸が締め付けられるようだった。それでも、無言で鎧を装着していく。肩を覆う金属板を装着し、胸元の穴に目を落とした瞬間、背筋に冷たい汗が伝った。
槍を握る手がさらに震えた。
これから先の苦痛を想像して、身体が震える。
「やるしかない……」
その呟きは自分に言い聞かせるようなものだった。
◆
「ヴァリク様、この先に魔獣共が集結しつつあるようです」
俺はダリオンが指し示す森の奥を見据え、コクリと頷く。
槍の刃先を、ゆっくりと胸元の穴に差し込む。最初は鈍い感触。しかし、それが肉を裂く音と共に内側へと侵入すると、全身に激痛が走った。
「……っ……ぁ……!」
酷く悲しげな顔をしたダリオンが、視界の端でゆっくりと後退るのが見える。
叫びを押し殺しながら、槍をさらに深く押し込む。胸の奥で何かが引き裂かれるような感覚。傷口から血がじわじわと流れ出し、鎧の内側を濡らしていく。刃先が心臓に刻まれた魔法陣に触れると、冷たい痛みが全身に広がり、次いで灼熱のような熱が胸を焼く。
目の前がぼやける。目を開けているはずなのに、視界が白黒に明滅を繰り返し、意識が遠のきそうになる。
だが、その瞬間、
殺してきた魔物たちの顔だ。
それは「魔物」として教えられてきた存在だったはず。しかし、幻覚の中ではいつもヴァリクに恨み言を言い、殺意を剝き出しにして罵ってくるのだ。地面からゴボゴボと湧き出すように現れた幻覚の様々な魔獣たちの血に塗れた顔が一斉にヴァリクを見つめ、口を開く。
「痛い」「許さない」「よくも殺したな」「なんでこんな死に方しなきゃいけないの」「痛い」「悪魔め」「許さない」「痛い」
声が次々と耳を打ち付ける。幻覚の中で、彼らの手が、鋭い鉤爪を持つ前脚が、足首を、太腿を、順番に掴んで身体を這い上がろうとしてくる。幻覚の有象無象の指先の一つがヴァリクの胸元の槍に触れそうになって、霞む視界の中でそれを振り払う。
「……っ、は……ぁ……っ……!」
魔術が発動しきらないと、この幻覚からも、この痛みからも逃れることは出来ない。息を荒らげ、槍をさらに押し込む。目の前が真っ白になり、吐き気が込み上げる。それでも、止めることはできない。痛みを通り越し、体が麻痺していくような感覚が全身を包み込む。
次の瞬間、魔法陣が完全に起動した。胸元から光が溢れ出し、背中に熱を感じる。何かが背中から突き破るような感覚に、思わず膝をつきそうになった。
羽根だ──光の羽根。しかし、それは決して美しいものではない。羽根が広がるたびに、血が鎧の隙間から滴り落ちる。鼻と口からも血が流れ、足元に真っ赤な水溜まりを作る。
苦痛に歪んでいたヴァリクの顔から、スッと表情が消える。
ヴァリクは、腰に下げた白銀の剣を引き抜いた。腕を伝って流れ落ちた血液が刃先まで伝い、刀身が鈍く光る。その瞳は、光の羽根に照らされながら、何も映していなかった。
その場に立ち尽くすダリオンは、ただヴァリクの背を見つめていた。声をかけることも、手を差し伸べることもできない。ただ、胸の奥に罪悪感が重くのしかかる。救おうとする資格さえ、ダリオンにはないのだ。
◆
ヴァリクの目の前に広がるのは、混沌とした戦場だった。巨大な魔獣が地を踏み鳴らし、その背に乗る
剣を逆手に持ち直し、ヴァリクは無言で前進する。恐怖も迷いもなかった。ただ、命じられた通りに
目の前に迫る魔獣の巨大な影。その鋭い爪がヴァリクに向かって振り下ろされる。普通ならば避けるべき一撃。しかし、ヴァリクは微動だにしなかった。
「……ッ!」
爪がヴァリクの鎧を叩きつけ、金属音が響く。胸元から血が流れ出すが、彼は表情一つ変えない。むしろその体はさらに前へ進み、大きく振りかぶって魔獣の胸に逆手に持った剣を突き立てた。
剣の刃先が魔獣の硬い鱗を貫き、その奥へと食い込む。瞬間、魔法陣が槍先から広がり、魔獣の体内で爆発が起きた。魔獣が断末魔の叫びを上げ、その背に乗っていた
剣は鎧の隙間に入り込み、肉を裂く。しかし、ヴァリクは一切反応を示さない。恐怖心が麻痺しているどころか、痛みさえも感じていないかのようだ。
明らかに動揺する
周囲の魔獣と
炎があたり一面を包み、敵は逃げ惑う。しかし、その混乱の中、ヴァリクは悠然とした足取りで進み続ける。どんな攻撃を受けようとも、決して止まらない。矢が肩に刺さろうと、火が彼の手を焼こうと、ヴァリクは無表情のままだった。
魔獣の背に乗る
落下するそれを見上げるヴァリクの瞳に、一瞬だけ何かがよぎる。だが、その感情はすぐに消え去った。無機質な動きで槍を振り抜き、
戦場にはただ、血と肉の匂い、そして絶え間ない破壊の音が響いていた。敵の残骸が散らばり、地面には赤い川が流れる。ヴァリクの鎧は返り血で真紅に染まっている。だが、その瞳には何も映らない。ただ魔法陣に刻まれた命令に従い、目の前の敵を殲滅し続けるだけだった。
──彼は「英雄」ではなく、「破壊の道具」そのものだった。
◆
視界に敵と認識できる存在の姿が確認できなくなって、ようやくヴァリクの停止していた理性がゆっくりと帰ってくる。じわりじわりと視界に色が戻ってくるのを感じ、よろよろと自陣の方向へ歩き出す。一歩一歩足を進めながら、胸に刺したままになっている槍を身体から引き抜いた。数時間もすれば、身体の真ん中に出来たこの穴も塞がるだろう。
「……ヴァリク様」
「ダリオン……迎えに来なくていいのに」
ダリオンが木の陰から現れる。ダリオンはいつもそうだ。危険だから遠ざかるように伝えても、危険地帯のギリギリで見守ってくれているらしい。
ダリオンは、全身を真っ赤に染めた俺を見て、眉間にさらに深い皺を作ってから背負っていた箱を下ろし、俺の前で蓋を開けて跪いた。
「……ありがとう」
小さな声でそう言って、誂えられたその箱の中に、胸に刺した槍──セラフの聖槍をそっと置いた。白銀の剣を腰の鞘に戻し、とぼとぼと力なく歩き、前線の聖騎士達の元へ帰るのだった。
その後ろ姿を見送り、ダリオンは先ほど自分が出てきた藪の中に足を進める。
幾分か進んだ先に、先程発見した負傷兵を見つけた。数歩分だけ匍匐前進で進んだらしいその男は、上半身を捻って横目で見つめてくる。その瞳には恐怖の色が宿っている。
「悪いな。ここには最初から、お前たちはいなかったことになっているのだ」
「や、やめ」
男の首を剣で薙ぎ払い、絶命させた。
問題の先送りであることは理解しているが、今はこうやって誤魔化していく以外に、どう対応すべきなのか、ダリオンだけでは答えを出すことはできなかった。
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