ケーキセットをモンブランで
「……とりあえず、今は考えるな」
ぼやけた視界の中、蓮司くんが低い声で言う。
「辞めてきたなら、もう忘れていいはずだ。忘れろ」
接客業の店員とは思えないくらい、そっけない口ぶりだ。だのに、不思議と落ち着く。「営業感」が、ちっともしないせいかもしれない。
ふたりはいつでも、私が何を言っても、ちゃんと聞いてくれる。お客さん相手の相槌、という感じじゃなくて、同世代の友達と話をしている感覚に近い。私の言ったことに対して、思ったことを素直に口に出してくれている、と感じる。時には反対の意見をぶつけてくることもあるし、ぞんざいに聞こえたりすることもあるけれど、それも含めて、ここでの話は心地いい。ふたりとも、私が投げた球をきちんと受け止めてくれるから。
私の話をまともに聞いてくれるのは、ぬいぐるみのうさことミミ吉を別にすれば、ここの店員さんふたり――蓮司くんと壮華くんだけだ。
「考え方を変えてみるのも、ありだと思うよ。今まではクビが怖くて、できなかったこともあると思うんだけど……もう、何も恐れなくていいんだ、って思えば気が楽かも」
壮華くんが、空になったマグカップを下げつつ言った。そういえば、今日はまだお金を払う注文をしてなかった。
「オーダー、いい? ケーキセット、今日は何があるかな」
訊けば、壮華くんが陽気に答えてくれる。
「いつものレアチーズケーキとチョコレートケーキと……あと本当は十月からなんだけど、秋限定のモンブラン、こっそりできてるよ。七葉さんならフライングも受け付けちゃう。蓮司兄さんには内緒でね!」
「……丸聞こえだぞ」
蓮司くんの呆れ声に、壮華くんとふたりで声をあげて笑う。広くはない店の中、内緒話なんてできるわけもないから、これは壮華くん流のわかりやすい冗談だ。先行お披露目の特別待遇感ともあいまって、気遣いが沁みる。
「じゃあせっかくだし、ケーキセットをモンブランで」
「はい、ではご注文を繰り返します。ケーキセットモンブラン、お飲み物はブレンドコーヒー。以上、承りました!」
言ってないコーヒーが自動で足されてるあたり、常連感があってちょっと気持ちいい。常連なんだから復唱も別にいらないと思うし、この時だけ敬語になる必要もないと思うんだけど、そこは壮華くんのこだわりかもしれない。二人が裏のキッチンへ消え、サイフォンの音がこぽこぽと鳴り出す。
まだ抱えたままだった鞄を、机の脇の荷物かごに下ろしながら、私は大きく息を吐いた。スマホを見ると、また妹からショートメールが入っていた。
『七葉姉、今日は送別会? そうだったらゆっくりしてきて。でも一言ぐらい返信はください。梢』
無視するとめんどくさそうだ。短く返す。
『今日は遅くなります。たぶん九時ぐらい。七葉』
送信ボタンを押しつつ首を振る。今は梢の名前を見たくない。あの子といると、自分の惨めさが際立つばかりだ。
あの子は甘えるのが上手い。
明るいし愛嬌があるし、家族にも同級生にも可愛がられてる。すぐに他人をあてにするのに、頼み事を断られてるところはほとんど見ない。皆、梢に頼りにされるのを喜んでるみたいだ……そういう私も、梢がにこにこ笑って「七葉姉!」と寄ってくると、断るに断れないんだけども。
ショートメールの画面を閉じようとすると、ほぼ同時に妹からの返信が来た。素早すぎる返信は、『楽しんできてね』の一言にケーキの絵文字付き。ほんと、可愛い妹だよ間違いなく。
絵文字を眺めていると、ちょうど蓮司くんがコーヒーを、壮華くんがモンブラン――本物のケーキを持ってきてくれた。香ばしい匂いを立てるコーヒーの横で、橙色のカップに、パスタみたいな細いクリームがぐるぐる巻いてある。てっぺんには艶やかなシロップ煮の栗が、ちょこんと乗っていた。
スマホで写真を撮った後、まずはフォークで側面を掬う。口に運ぶと、栗の甘味にほんのり洋酒の香りがついていて、濃厚でとっても美味しい。苦味の強いブレンドコーヒーと交互に口に入れると、感じる甘味がますます深くなって、手が止まらない。どうして甘いものって、苦いものと一緒にすると美味しくなるんだろう。
あっという間に、外側のマロンクリームも中の生クリームも食べ終えてしまった。栗のシロップ煮だけがひとつ、空になったカップの中に残っている。名残惜しくてフォークを刺せずにいると、蓮司くんが訊いてきた。
「栗は嫌いだったか」
「嫌いならモンブラン頼まないって。……食べちゃうのがもったいなくて」
「七葉さんっていつもそうだよね。ショートケーキの苺も最後まで残してるし」
壮華くんの言葉に、ちょっと恥ずかしくなる。モンブランの栗、ショートケーキの苺、クリスマスケーキのチョコプレート……食べる踏ん切りがつかなくて、食器を下げる係の壮華くんをいつも待たせてしまう。
「なんだかね、とっておけるなら、とっておきたいなって。……なんで、食べたらなくなっちゃうんだろうね」
「なくなったら、また作るから! 十月の間なら、いつでも食べに来て」
「あー、そうじゃなくてね壮華くん」
ぽつんと残った栗を見つめながら、溜息をつく。
「大事なものは、置いておきたいんだ。なくなっちゃったら嫌だから……梢が一緒にいると、勝手に持ってかれちゃったりするんだけどね」
「そうなのか?」
蓮司くんの言葉に、私は大きく頷く。
「残しといた苺、『七葉姉、これ嫌い? だったら食べたげるー』って持っていかれたりね。それで泣いたら、親に『お姉ちゃんなんだから、そんなことで騒がないの』って叱られたり……子供の頃からずっと、そんなんだよ」
おとなげなくこんな話までするなんて、今日は相当弱ってるな、と自分でも感じる。視線を上に向けると、蓮司くんと壮華くんは、兄弟揃って私を見つめてくれていた。
「大変なんだね、お姉さんって。僕は僕で、愛想のない兄を持って大変だけども!」
「……俺たちは何も取りはしない。好きなだけ、ゆっくりしているといい」
ふたりの言葉に、すうっと胸の内が軽くなる。
何も取らない。何も持っていかない。そのままにしておいてくれる。だから、この場所は落ち着くんだと思う。
微笑む二人を見ていると、なんだか不意に甘いものが欲しくなった。思い切って、シロップ煮の栗にフォークを刺して、口に運ぶ。
壮華くんの目尻が、幸せそうに下がった。
栗はこりこりして、糖蜜の甘さが芯まで滲みていて、クリームほどじゃないけど美味しかった。
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