量子の守護者

風見 悠馬

数列の中の異常

量子コンピュータの冷却システムが奏でる低い唸り。それは深夜の研究室で、まるで古の時を刻む鼓動のように響いていた。速水理子は、半導体量子ビットの制御パネルに向かい、新たな解析プログラムを組み上げていく。


「60進数から2進数への変換、位相空間への写像...」


彼女の指がホログラムキーボードの上を舞う。スクリーンには、4000年前のバビロニアの粘土板から解読された数列が、青白い光を放って浮かび上がっていた。


「まずは基底状態でのパターン認識を」


理子は量子回路を組み立てていく。60進数で表された数列を量子ビットに変換し、重ね合わせ状態で並列処理する。従来のコンピュータでは数千年かかる計算も、量子の重ね合わせを利用すれば数分で完了する。


彼女は直感的にある種の違和感を覚えていた。バビロニアの数学者たちがなぜ60進法を選んだのか。その特異な選択の裏に、何か重要な意図が隠されているのではないか。


「次は位相推定アルゴリズムを...」


キーボードを叩く音が静寂を破る。する突然、スクリーン上の数列が、まるで生命を持ったかのように波打ち始めた。量子状態の干渉パターンが、予想外の規則性を示している。


「これは...」


理子は思わず身を乗り出した。画面に表示された干渉パターンは、現代の量子もつれを記述する方程式と、ほぼ完全な一致を示していた。


「美咲さん、ちょっといいですか」


隣の実験室で残業していた加藤美咲が顔を覗かせる。彼女の開発した量子パターン認識AIは、理子の研究になくてはならない存在となっていた。


「珍しいね、理子が人を呼ぶなんて」


美咲は理子の無駄のない性格をよく理解していた。この時間に声をかけるということは、相当に重要な発見があったに違いない。


「この数列、AIで解析してもらえますか?特に、量子もつれの相関パターンと比較して」


「ちょっと待ってね」


美咲がコマンドを入力し始めると、彼女の最新型AIが瞬時に解析を開始した。画面上で、古代の数列と現代の量子方程式が重なり合い、その構造的な同一性が視覚化されていく。


「これは驚くべきことだわ」


美咲の声が震えた。AIが示す結果は明確だった。バビロニアの数列は、量子もつれを記述する数式の基本構造を内包していた。それは単なる偶然では説明できない精緻さを持っていた。


「でも、どうやって古代の人々が...」


「そう、それが最大の謎ね」


理子は別のウィンドウを開き、世界中の古代遺跡から収集したデータの解析を開始した。もし彼女の仮説が正しければ...


「見てください」


スクリーンには次々と解析結果が表示される。エジプト、マヤ、インダス...古代文明の遺物から、同じような量子数学的パターンが検出されていく。


「美咲さんのAI、これらのパターンの相関性を計算できますか?」


「ええ、量子レジスタを増強して...」


美咲が新しいアルゴリズムを起動させると、古代文明間の数学的連関が、複雑な幾何学模様となって空中に投影された。それは人類の歴史に、誰かが意図的に残した足跡のようだった。


「これは、単なる偶然ではありません」


理子は確信を持って言った。量子コンピュータの冷却音が、まるで彼女の言葉に呼応するかのように、わずかに音を変えた。


「私たちは何か重要なものを見落としていたのかもしれない」


理子は画面に映る数列を見つめ直した。4000年の時を超えて、古代の数学者たちが残したメッセージが、彼女に語りかけているような気がした。


量子コンピュータの冷却音が、静寂の中でいつもより大きく響いていた。それは新たな発見の夜明けを告げる鐘のように聞こえた。

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