お話はお仕舞い

天恵月

お話はお仕舞い

 引き出しの奥に幼い跡があった。十年も昔、僕が書き散らした原稿用紙だ。広い大陸を駆け回るありふれた冒険譚。その主人公は、当時仲の良かった子だ。

 そのときの僕は本の虫で、物語から学んだ美しい語彙以外にこれといった長所のない内気な少年だった。そんな僕と遊んでくれた唯一の友達が、美咲ちゃんという女の子だった。

 彼女は明るくていつも笑顔だったけれど、病弱だったから室内で大人しく遊ぶしかできなかった。窓の外を羨ましそうに眺める彼女に、広い世界で見てきた景色を一つ一つ話して聞かせるのが、僕の役目だった。病室にも響くさえずりの正体。真下から見上げる空の大きさ。廊下と違ってごつごつした道路と、そこに咲く小さな花。僕にとってはいつもの風景でも、彼女は目を輝かせてその話を聞いた。

「私の名前、美しく咲くって書くんだよ。私、美しく避けてるかな>」

 美咲ちゃんはいつも僕に笑顔を向けてくれた。路傍に咲く花のように。亡くなってからも、ずっと。

「美咲と仲良くしてくれてありがとう」

 美咲ちゃんのお母さんは、うるんだ瞳で僕に何回も「ありがとう」と言った。遺影の中の美咲ちゃんは、照れたみたいに少し物憂げにほほ笑んでいた。棺の中は大輪の花がぎっしりと敷き詰められていて、美咲ちゃんは少し窮屈そうに見えた。そして美咲ちゃんたちは火葬のために車に乗っていってしまい、僕は彼女たちを広い空の下で見送った。

「美咲ちゃんは煙になってこの空を飛んでいくのよ」

 母が僕を慰めるように言った。僕は広い空を飛び回ってはしゃぐ美咲ちゃんのことを想った。彼女は魔法使いのように箒に乗って飛んでいた。途中で鳥の群れに遭って「あの声って君たちのなんだね!」と話しかけたり、雲の中に突っ込んでしまい「空はこんなに広いのに!」とぷんぷん怒ったりした。そして飛ぶのに疲れた彼女はなだらかな丘の木立の影に寝そべり、小さく咲いた花を見つけて柔らかな笑みをこぼすのだ。

「もし僕が本を書いて、それを焼いて煙にしたら、美咲ちゃんは読んでくれるかな」

 僕がそう尋ねると、母は穏やかな顔で諭すように答えた。

「美咲ちゃんは優しいからきっと読んでくれるわ。折角送るのなら、ちゃんと面白い本にするのよ」

 それから僕は毎日毎日、原稿用紙と向かい合って自分の想像と格闘した。僕が頭を抱える度、原稿用紙の上で美咲ちゃんの歩ける世界が広がって、彼女の笑顔が明るく咲き誇った。授業中や宿題をしているときはこの世界で生きる美咲ちゃんのことを考えた。好奇心旺盛で人と喋るのが好きな美咲ちゃんはきっと英語も得意になっただろうとか、数式を覚えるために似たような問題を何回も解くのはきっと嫌いだろうなとか。考えても仕方のない事だったけれど、どうしても思いを馳せずにはいられなかった。

 だけど、美咲ちゃんのことだけを考えて原稿用紙に思いをぶつける毎日は、物語の完成と同時に彼女の旅が終わると気付いた瞬間に幕を閉じた。僕は美咲ちゃんの冒険が終わる事実を受け入れることができなかった。そしてぱったりと小説を書くことを止め、全く普通の学生生活を送るようになった。

 僕はありふれた大人になった。丁寧に折り線の入ったこの原稿用紙の束と比べて、僕はあまりにもよれよれだった。幼い僕の筆跡は今の僕よりも真っすぐだった。表現は稚拙で、言いたいことも上手くまとまってなくて、お世辞にも読みやすい文章じゃない。でもこの紙面に踊る荒れた文字は間違いなく、僕が美咲ちゃんへの愛情をもって、真剣に執筆に取り組んだ証だった、

 僕は原稿用紙を綺麗に畳みなおした。結局僕は美咲ちゃんに本を届けることができなかった。煙を起こす前に燃え尽きてしまった。煙を起こしても意味が無いのだと気付いてしまった。彼女はもうどこにもいない。僕の声に傾ける小さな耳は失われた。文字を一生懸命に辿る目も消えてしまった。空の上には吹き渡る風と、どこまでも続く虚無ばかりだ。

 この紙切れはもうどこにも行けない。僕の思いがぎっしり詰まった紙面は、飛んでいくには重すぎる。だから僕はこれを重石にするしかなかった。帰って来たとき、彼女のことを思い出せるように。

 幼い僕の愛情を思い出せるように。

「もうおしまい?」

 彼女の声が脳裏に蘇る。僕が話し終えたときの、寂しそうな表情と共に。

 僕は小さくなった原稿用紙を引き出しの中に仕舞った。乾燥した紙がささやきのような音を立てた。

 そして僕は日常へ戻っていく。幼い頃に亡くした友人のことなど忘れて、ただ仕事に踏み均される日々に。また彼女のことを思い出すときが来るまで、別れの涙はここに仕舞おう。

 お話はこれでおしまい。じゃあ僕はもう帰るから。またね、美咲ちゃん。どうかずっと、ずっとずっと、元気でいてね。約束だよ。

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