雲雀荘の104号室
川崎燈
プロローグ
軋むような足音が響く。一歩ずつ、着実に、その音は大きくなっていく。そして、音とは別に鼻腔を刺激する強烈な鉄のにおいも漂う。湿った空気に混じるその匂いは、何かが決定的に壊された場所を示しているかのようだ。足音の中には、微かに混じる呼吸音があり、その不規則さが却って不気味さを倍増させていた。命を奪う"彼の者"が、確かにそこに存在している――それだけは紛れもない事実だった。
足音が響くと同時に、心臓の鼓動が早まる。何とか必死に口を手で覆い、微かな物音でさえも出すまいと体を硬直させる。この静寂において、音を立てるという行為は最早死へ向かうものでしかない。閉じられた部屋のクローゼットの中、”少女”はただこの瞬間が終わってくれと願うことしかできなかった。
(どうして、こんな目に合わないといけないのか。)
目の前で起きている現実から目を背けたかった。だが、軋む足音と鼻を刺激する鉄のにおいが、それを許さない。1秒が無限にも感じるこの瞬間、少女は”彼の者”の動向を伺う。”彼の者”は、部屋の中を歩き回っており、たまにその足音を止める。まるで、何かを探しているかのように。
この状況で幸いしているのが、夜でありながら部屋に灯りがないということ、そして”少女”の潜むクローゼットの前には成人男性ほどのサイズの”何か”が横たわっていたことである。少なくとも、この”何か”をどかさない限りはクローゼットを開けることは難しいし、灯りに関しても”彼の者”はライトの類はつけずに探し回っている。クローゼットがあることに気付かずそのまま去っていく可能性もあった。
……どれほどの時間が経過しただろうか。部屋にかけられていた時計の針の音さえも聞こえない、静寂と足音が支配する世界で、やがて、”彼の者”がクローゼットの前に立つ。大きな足音とともに。
クローゼットの隙間から聞こえてくる僅かな呼吸音と、隙間風の不気味な冷たさが、死を予感させる。もう、限界だ……
その瞬間、”彼の者”から大きなため息が聞こえる。湿った音が静寂に溶ける。止まっていた足音が再び動き出すが、その足の向かう先はどうやら別の方向のようだった。
(見つからなかった……?)
少女は若干の安堵を覚えながらも、”彼の者”が去るまでは気を抜かない。息を潜め、去っていくのをじっと待つ。
やがて、足音が遠のいていく。玄関の方からガチャリとドアを開けるような音がし、そこで足音は途絶えた。
生きられた、生き延びた、死ななかった。あとは朝が来て、このクローゼットから出してくれる人を待つだけなのだ。そう考えた瞬間、気づけば今まで覆っていた口から大きな息がこぼれる。ようやく、これで…
クローゼットの隙間から外を覗く。部屋は灯りがないせいでよく見えないが、足元には倒れ伏した"何か"――大切な、家族だった存在――だけは認識できた。その現実に、少女は再び体を縮こませ、クローゼットの中で涙を流す。その涙が枯れ果てるころ、ある疑問が脳裏をよぎる。
(……あいつはなにを探していたのだろうか。)
生存者を探していたのだろうか?それとも――違う目的が……?
再び、足音がこのクローゼットの前で大きく軋む。一度訪れた静寂を、一瞬で無に帰すかのように。一瞬で破られた静寂の中、全身の血が凍り付く。
「私はもう、見つかっている。」
その結論に至る頃には、すでに心臓の鼓動は止まっていた。
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