足先
白瀬はつか
第1話
家を出ることは叶わなかったけれど、以前一度だけ、雪に触れたことがある。滑りの悪い障子を開けて、縁側に座って、恐る恐る足を地面につけた。ほてった体にちょうどいい冷たさがふわりと広がって、くしゃみを一つ。たちまちお手伝いさんが部屋に入ってきて僕は布団に戻された。のちに地面を見てみると、不恰好に溶けた穴がぼんやりと薄い影を作って、陽の光が庭全体を包んでいた。
「こん地面のところで寝れたらどれだけじゃろか」
池を覗いているような気分になって顔を地面に近づける。汚れなき純水のかけらたちは僕のことなんかこれっぽっちも映してはくれなかった。
「りんさん」
ちょっと声を張ってお手伝いさんを呼んだ。すぐに部屋の障子が開いてりんさんが入ってくる。
「坊ちゃん、お身体が悪いのですからどうか温かい布団でお休みになってくださいまし」
「りんさん、体が熱いから布団になんか寝てられないよ、僕はこん雪んとこに寝っ転がりたい」
頼んでもダメだった。りんさんは悲しい目をして首を振って、
「京子さまの命ですゆえ」
と僕をそっと立たせて布団に戻るよう促した。
「ねえりんさん、僕はもうそげん長くはないのやろう?」
「坊ちゃん、それでもだめなんです。どうかお身体が元気になってからにしてくださいまし」
もう何度も聞いた。涙ぐむ母の声と、淡々としたお医者さまの声。僕の身体も教えてくれている、もうじき僕の灯は消えることを。
「坊ちゃん、りんはおもゆを持って参りますから、どうか布団にいてくださいましね」
出ていってしまった。庭の障子はぴたりと閉じられて、ござのすんとした柔薄い匂いと、雪らが息を潜めている気配を感じた。おとなしく布団に戻って、冷たくなった足を布団の中で擦り、手のひらを頬に当ててじっとしていた。
「坊ちゃん、入りますよ」
少ししてりんさんがおもゆを持って入ってきて、でも僕はそのとき寝たふりをしていたから、布団の頭のところに置いてまた出ていった。障子がとん、と合わさる音がしたのち、僕はゆっくりと瞼を動かした。
おもゆをすっと食べて、庭の障子をまたすっと開けて、雪を見つめた。雪はやっぱり汚れなき純水のかけらのまま、息を潜めている。受け入れてはくれない。でも僕はやっぱりどうしても、触れたくて、身を投じてしまいたくて、温かいおもゆとほてった身体で、どうにか、どうにかその感覚を感じたくて…。
そうして僕は、雪に呼ばれて、陽の光さす庭に体を横たえた。
「嗚呼寒い、冷たい、痛いなあ。でも、温かいなあ」
思わず漏らした声は掠れて、柔らかい風に運ばれて遠くに行った。幸せだった。このまま、もう少しだけ。
「ああ、しあわせじゃあ」
足先 白瀬はつか @__shirosem
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