第2話
その塔の名は【シビュラ】と言った。
古の時代、七海を制した王が建造したものとされている。
しかしいつ頃からいつ頃にかけて建造されたかは分かっておらず、まるで世界の一番最初から、そこにあるかのように立っていた。
古代の王が自らの偉業を讃えるために立てた遺産。
その程度の認識しかなかった。
その塔の麓に街を形成して行ったヴェネト王国も、海洋国としてはイタリアに遥かに劣り、王都であるヴェネツィアも一見穏やかな水上都市、その程度である。
古の時代から単なるモニュメントでしかなかった【シビュラの塔】が火を噴き、三つの国を滅ぼしたことに関して、ヴェネト王国は完全に沈黙をした。
普通ならば各国から糾弾が行われるはずだったが、この不気味な沈黙に対して、各国は追及を行えなかった。
彼らも滅ぼされた大地を見たのである。
神の怒りのような、凄まじい殺され方を。
今や、ただ穏やかなアドリア海の貴婦人だと思われて来たたこの国の一挙一動に、各国の視線が注がれている。
真相を追求する意味もある。
友好関係を結び、あのシビュラという名の古の怪物をけしかけられないようにする、外交的な意味も。
ヴェネト王国は今や、欧州各国の社交場となった。
血腥い未来を隠蔽し、曖昧にする、虚飾の社交場に――。
◇ ◇ ◇
「ジィナイース様」
扉が叩かれる。
入って来た女官は、寝間着姿のまま窓辺に腰掛けている主を見て、驚いた。
「まあ。まだそんなお姿で。母君がお呼びでございますよ」
「……行きたくねえ」
「またそんな……」
「別にいいだろ。客は母上に会いに来てんだから。俺なんかいなくたって」
「そんなことはありませんわ。ジィナイース様も来月十六歳におなりになります。
今やヴェネト王国は欧州一の強豪国。各国の王家がジィナイース様の許に美しい姫を嫁がせたいと躍起になっておられますのよ」
「嫌だよ。躍起になって嫁いでくる姫なんか……」
外で花火が上がった。
「まあ。美しい花火。こんなに空も晴れて」
「嘘つけ。さっき雨降り始めてたぞ」
「ジィナイース様。王妃様がお呼びです」
別の女官がやって来た。
彼女は女官同士鉢合わせて顔を見合わせ「まあ」という顔を見せた。
「ご気分が優れないようなのです」
「まあ……それは大変ですわ。王妃様にお伝えしましょうか?」
そしたら飛んで来るじゃねーか。
彼は溜息をついて、身を起こす。
「……いいよ。行く」
どうせ断ることなど出来ないのだ。
◇ ◇ ◇
「まあジィナイース。よく来てくれたわね」
「母上。遅れて申し訳ありません」
「いいのよ。さぁこちらへ。御覧なさい、今宵も美しい姫たちが各国から貴方に会いに来ているのですよ。母も少し吟味しましたが、貴方は押し付けられるのが嫌いですから言うのはやめましょう」
押し黙る息子を王妃は振り返った。
「ジィナイース」
びく、と両肩が跳ねる。
「貴方の心配は分かるわ。王都ヴェネツィアはともかく、辺境はならず者が人の流れに乗せられてやって来て溢れていると聞きます。沖には海賊船が多発しているとか。けれど母がフランス・スペインの王と話したら、ご親切に護衛の海軍を派遣して下さることになったのです」
外交に親切など無い。利益があるから国は動くのだ。
「こうなってみると、自分で海軍など育てるのが、愚かに思えること。今や我がヴェネト王国はアドリア海で最も美しい宝石。各国が守ろうとしてくださるわ。ジィナイース。貴方は来年には病床のお父様から王位を継ぐのですから。今から各国の軍籍にいる方たちにはよくご挨拶しておくように。貴方がこの美しい宝石のような国を継ぐのよ。運命に愛されし子……」
王妃はやって来ると、優しく手を伸ばし息子の頬に触れた。
「……はい」
その時、優雅に流れていた階下の音楽が途切れた。
「なあに? 何事が起こったの?」
王妃は振り返る。
「神聖ローマ帝国の使者の方がご到着になったようにございます、王妃様。皇帝陛下の命令で、王都ヴェネツィアの守護に就かれる方々です」
ざわめいている。
王妃はそこから、中庭を見て、すぐに「まぁ……」と眉をひそめた。
「母上?」
「竜騎兵だわ」
中庭を見て、息を飲んだ。
次々と空から飛来して来る巨獣の姿。
竜は神聖ローマ帝国国内にしか生息しない。全て王家又は軍が所有し、野生に迷ったものは飼育を許されず、射殺が義務付けられている。この戦時に置いて、ある意味軍艦よりも有能な地上最強の動物を、他国に流出させない為である。
「何と恐ろしいものを。美しい王宮の中庭に直接飛来するとは、無礼な」
王妃は忌々しそうに彼らを見下ろした。
「あんなもの、王都の空を飛ぶことは許さないわ。私達はヴェネトの民。古の時代、最も偉大だった王の末裔なのよ。私達を空から見下ろすことが出来る者など、神だけ」
「妃殿下、神聖ローマ帝国よりフェルディナント将軍がお越しです」
兵が呼びに来る。
「気分が優れないから、会わないわ」
王妃は首を反らす。
「……そういうわけにもいかないでしょう。妃殿下。後日フランスやスペインからも使者が到着します。彼らに会い、神聖ローマ帝国の使者だけに会わなければ外交問題になります。皇帝の心境は悪くなりましょう」
参謀がそう言った。
「私に皇帝に気を遣え、と言っているの?」
美しい王妃が気色ばむと、参謀は静かに首を振る。
「外交を行うべき、と進言させていただいたのです。無論、全てを決めるのは妃殿下にございます。私は病床の陛下から、妃殿下をよく補佐するよう願われております。務めを果たしただけのこと。他意はございません」
「……ロシェル、小賢しいことを」
参謀が首を垂れる。
忌々しそうに彼を見遣ったが、少し考え、王妃は扇を畳んだ。
「いいわ。今日は貴方の助言に従ってあげましょう。けれど私は竜騎兵は嫌いです。駐留部隊にはくれぐれも貴方から忠告しておくことね。竜の翼は切り落とすか、釘で胴体に打ちつけておくようにと!」
◇ ◇ ◇
「ヴェネト王国王妃、セルピナ殿下。神聖ローマ帝国皇帝より、親書を預かりお持ちしました。神聖ローマ帝国のフェルディナント・アークと申します」
「まあ。よく来て下さったわ。あのようにおどろおどろしい魔物でお越しですから、どんなに恐ろしい方が来られたのかと思ったけれど、まさかこんな若い方だったとは。王宮の威光にも関わらず、我が美しきヴェネトの治安は急激に他国の者の手により、荒れ果てています。信頼させていただいてもよろしいのかしら」
皮肉と嘲笑を込めた王妃の言葉にも、フェルディナントは静かな表情のままだ。
「ご期待に沿えるよう、努力いたします」
「努力していただけるのでしたら、あれをどうにかしていただける? 私、竜は嫌いなのです。恐ろしい姿だし、火を噴くというわ。うっかり美しい庭が燃やされたら、悲しいのです」
「申し訳ありません。皇帝陛下より、戦略的に有意義な道具として、妃殿下にお使いいただくよう派遣されましたので。どうしてもお目障りになりますようならば、王宮には立ち入らせません。また、我が国の竜は品種改良をされていますので、あちらに揃えた竜は火は吹かない品種になっております。あれは軍馬と同じです。違いは飛ぶか飛ばないかだけ。
有事の際は必ずお役に立つでしょう」
「まあ。有事だなんて何て恐ろしいことを。この美しいヴェネト王国を誰が侵すというのです?」
「申し訳ありません。言葉に語弊がありました。
要するに、万が一街に何かあれば、遠慮なく妃殿下に使っていただけばいいのです。
あれは神聖ローマ帝国のものではございません。
三十騎の竜騎士、全て我が皇帝からヴェネト王と妃殿下への贈り物にございます。
我が国では竜は、神聖な生き物であると同時に、高い知能を所有し、幸運と勝利をもたらす至高の生物とされます。神聖ローマ帝国で最も高貴な動物をお贈りしたつもりでしたが、あまりにご不興であれば、本国に報せ、引き取らせましょう。
我が国の歴史において竜が他国に例え贈物としても流出したことは一度もございません。皇帝は喜んでいただけると確信してのことであったでしょうが、許よりこれは親睦の証。拒否なさっても何一つこちらの方が案ずる必要はないかと」
美しい王妃は眉を吊り上げた。
側で母の様子を窺っていた息子は、この場を外したくなるような空気を感じたが、彼女の激しい感情が吹き出すことはなかった。
「……。よく分かりました。親睦の証と思って下されたものを叩き返すのも申し訳ないわ。
ただし、悪戯にヴェネツィアの上空を飛ばしたりしないでください。ヴェネトの民は美しく優しいものを愛するのです。恐ろしいものが空を行き交ってたら彼らは安心して暮らせませんわ。王宮の立ち入りは遠慮してください。この王宮は病床の陛下もいらっしゃいます。あんな恐ろし気な声を聞いていては安らげませんもの」
「御意のままに」
フェルディナントが完全なる恭順を示したので、王妃はまあいいかと怒りの留飲を下げた。
「貴方には王都ヴェネツィアの守護を担っていただくのですから、紹介しておきますわ。
こちらが王太子のジィナイース・テラ。来月には十六歳になり、慣例により王位を継げる歳になりますから、来年には王は、譲位を考えておられます」
「そうですか。おめでとうございます」
フェルディナントは王太子の手を取り、臣下の礼をして、形式的に手の甲に唇を触れさせる真似をした。顔を上げると、王子とは目を合わせず、すぐに王妃へ目を向ける。
「騒々しく参りましたこと、お詫びいたします。ここにいると城の方々のお目障りになると存じますので、これで駐屯地に引き上げます。妃殿下、殿下。失礼いたします」
フェルディナントは二人に一礼すると、退出して行った。
「面白みのない男」
王妃はつまらなそうに言った。
「ジィナイース。来週いらっしゃるフランス、オルレアン公のご子息は、社交界の華と謳われる方よ。貴方は軍人などと関わらないでいいのです。なんと仰ったかしら?」
「ラファエル・イーシャ殿下にございます」
女官が応えると、王妃は上機嫌になる。
「そうだわ。稀に見る貴公子でいらっしゃるとか。オルレアン公は王弟に当たられる、高貴な方よ。そのご子息をこちらに寄せていただけるなんて、フランス王はなんて寛容な方でしょう。ヴェネト王国をどんなに重視していただけてるか、伝わってきますわ」
王妃が女官を引き連れて、出ていく。
翼の音と、嘶きが聞こえた。
中庭にいた竜が羽ばたき、雨空に去って行く。
「殿下。母上がお呼びです」
空を見上げていた王子は頷いて、歩き出した。
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