あの冬に花のように美しい雪に恋をした。

佐藤 扇風機

第1話 雪花

あの冬、私は雪に恋をした。


 人に話せばきっと笑いの渦に巻き込まれるであろう。

 だが、私にとってはあれは確かに恋であった。

 雪と呼ぶしかない儚き存在との短い恋。誰にも理解されるはずがないのに、それでも私はあの冬を思い出してしまう。雪が降るたびに。


 年の瀬が迫った寒い朝だった。私は雪が好きだったので誰も歩いていない雪道を開拓していた。山間部に生まれ育った私は、いつもと同じように雪景色の中をぶらつくことが多かった。特に用があるわけでもなく、ただ雪を踏み締める音だけを頼りに歩く時間が好きだった。

 ときに溝にハマり、ときに足が抜けなくなり、ときに足を滑らせてもこの時間が好きだった。


 家にいても、居場所などなかった。


 両親が他界してから、私は親戚の家に引き取られた。年上のいとこが二人いる家だ。彼らは悪い人間ではない。親戚の誰よりも、きっと私を気遣ってくれているのだろう。けれど、私は彼らと一緒に食卓を囲むたびに、どこか居心地の悪さを感じていた。


 彼らは家族で、私は他人だった。


 一緒に暮らし始めてから2年が経つというのに、その距離は埋まらなかった。


 夕食の時間になっても、私は自分の部屋に閉じこもることが多かった。下から楽しそうな笑い声が聞こえてくると、知らず知らずのうちにヘッドフォンを耳に押し付けてしまう。自分がその輪の中に入れないことを、責める資格などなかった。ただ、そこにいない方が楽だったのだ。


 そんな私にとって、雪の中を歩く時間だけが唯一の逃げ場だった。


 雪が降りしきる山道を歩いていると、不思議と気が休まった。誰にも会わず、誰にも邪魔されず、ただ白い世界に溶け込んでいく。雪が降り積もる音だけが耳に残る。

 だからこの時間が好きだった。


 私が雪に恋をした日。その日は雪がしんしんと積もっていた。雪が地面で溶けることなく次々と積もっているそんな日であった。それは灰色に覆われ、暗く、そして静寂に包まれていた。そんな白い世界を独り占めしているような感覚が好きで私はいつもとは違うルートを回ることにした。

 


 そのときだった。

 目の前に雪で作った椅子に座る少女の姿があった。少女といっても当時の自分とほとんど変わらないように見えていた。 私は思わず立ち止まった。こんな山の中で足跡一つもつけずに来れるわけがない。そしてどこから現れたのか、存在にしているのか。まるで少女は雪の中から出てきたように少女の姿は不自然で心配するほど白く、儚げだった。


 髪の毛は真っ白で雪に溶け込むように風に揺れていた。

 肌も透き通るように白く、雪が人の形をして現れたように少女はそこにいた。


「どうしてこんなところに?」


 気づけば口が勝手に動いていた。

 少女は驚いたように目を見開いたが、すぐに優しく柔らかく微笑んだ。


「あなたが呼んだから。」

 彼女の声は冷たい空気の中でまるで鈴の音のように響いた。その声に、不思議と胸が高鳴るのを感じた。


「呼んだ?」


「ええ。あなたが寂しそうにしていたから、来たの」


 寂しい、という言葉が胸に刺さった。私は目を逸らし、足元に積もる雪を見つめた。寂しいだなんて、そんなことは自分でも気づいていなかった。


 けれど、その時すでに私は、目の前の少女のことが頭から離れなくなっていた。



 私はその日から毎日雪道を歩くようになった。でも、雪が降っていた日以外の日に彼女は現れなかった。

 逆に言うと彼女は雪が降る日には必ず現れた。

 そして彼女の姿が雪が積もるたびに成長していた。


「名前は?」

「名前など無いわ。」

「じゃあ僕が名前をつけていい?」

「ええ。」

「それじゃあ……雪花せっか。雪の花と書いて雪花。」

「素敵な名前ね。」

 彼女は嬉しそうに微笑んだ。

 


 雪が降り始めると、心が落ち着かなくなる。山道を歩く足取りが自然と速くなるのは、彼女に会いたい気持ちを抑えきれなかったからだ。


 彼女の姿を見つけると、胸の奥がじんと温かくなった。冷たい空気の中に佇む彼女の姿は、美しく、そして儚い。


 彼女と過ごす時間は短い。けれど、その一瞬がどんな時間よりも愛おしかった。


 雪花の姿を見つけるだけで、心が満たされる。彼女の言葉ひとつひとつが、私の胸の奥に降り積もっていく。


 気づけば、私は彼女に恋をしていた。


 

「雪花はなぜ、ここにいるの?」

 

「私は雪だから。」


「雪……。」


「ふつうは私の姿は人には見えない。でもあなたには見えたのね。」


「なんで?」


「きっとあなたが寂しい人だから。」


 彼女は静かにそう言った。その言葉に、私は返す言葉を失った。


 自分が寂しい人間であることを、私は誰よりも知っていた。

 


 年が明け、雪の日々が続いた。雪花との時間は、私にとってなくてはならないものになっていた。


「……寂しさは悪いものかな。」


 「いいえ。寂しさは人を繊細にするものよ。でも、あまりにも深い寂しさは、人を壊してしまうわ。」


 私は雪花を見つめた。


「僕は壊れてしまうのかな。」


「そうね……今のままでは、いずれは。」


「君がそばにいてくれたら、壊れずに済むのかな。」


「かもしれないわ。でもね、私は春が来たら消えてしまうのよ。」


 その言葉を聞いた瞬間、心臓が強く締め付けられた。


「春が来たら、君はいなくなるの?」


「ええ。私は雪だから、雪が溶ければ消えてしまうの。」


 私は何も言えなかった。


 もし彼女が消えたら、私はまた独りに戻るのだろうか。


 雪花がいるこの時間が、いつまでも続けばいいと心から願った。


 彼女と過ごす時間が、私を満たしてくれる。


 彼女が微笑むだけで、心が救われる。


 それが叶わぬ願いだと知りながらも、私は彼女に恋をせずにはいられなかったのだ。


 やがて春が近づいた。


 雪花の姿は少しずつ小さくなり、姿が現れる時間も短くなった。雪が溶けるたびに彼女が遠く行ってしまったと感じるような気がした。


「春が来ても、また冬になれば会えるんだよね?」


「……たぶん、もう会えないわ。」


「どうして?」


「雪は毎年降るけれど、同じ雪は降らないもの。あなたが今のままなら、私はもう現れないでしょう。」


「それじゃあ……どうすればいい?」


「寂しさを手放して、前を向くことね。」


 雪花の言葉は、胸の奥に深く突き刺さった。

 「君の深い事情は知らないけれど君は大丈夫だと思うよ。自分に自信を持ってみて。これあげる。」

そう言いながら氷で作られた花をくれた。

その花とても冷たく、でも美しく飲み込まれそうだった。

「ありがとう。」それしか言えなかった。


 自分が雪花が好きだと言う感情を口にすることはなく春が訪れた。私は彼女のいない山道を、ひとりで歩いた。


 もう彼女が現れることはないかもしれない。


 それでも、冬が来るたびに私は彼女を思い出すのだ。雪が降る日は、彼女がいたあの場所へ足を運ぶ。雪の中に彼女の笑顔を探しながら。そして、あの気持ちをいつか伝えることができるように。

そう思いながらいまだに溶けない氷の花を眺めた。


 それが、私にできる唯一のことだった。

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