天井裏で鳴る音

 重苦しい沈黙が漂うのを感じる。

 落合さんと出会ってから、ここまで緊張感のある空気を共有したことはない。

 同じオフィスで働いていた頃は業務に追われることもあったが、どんな時も笑みを絶やさない人だった。

 気を紛らわすように考えごとをしていると、落合さんが口にした「そのうち」というのがどれぐらいの時間を指すのか気になった。


 状況が読めない中、ただ何かが起きるのを待ち構えていると――。

 トン、と木の板にものを落としたような音が聞こえた。

 形容しがたい音を言い表すならば、ノックする感覚が一番近い。


 最初の音を皮切りに不規則なリズムで鳴り続ける。

 連続で聞こえたかと思うと静かになり、間髪入れずにまた音がする。

 天井裏で誰かが歩いているにしては軽すぎる気がした。


 ――新しそうな家に見えるが、ネズミなどの害獣が侵入してしまったのか。


 落合さんに向けるべき質問を吟味しながら、近くに田んぼがあるような土地柄で野生動物も多いだろうと判断を下した。

 

「……もしかして、ネズミでもいるんですか?」


 私が慎重にたずねると落合さんは弱々しく首を横に振った。

 それから何かを考えるような間をおいて、おもむろに口を開いた。


「加菜が怖がる理由は今でも分からないんだけど、僕も小木くんと同じように考えたんだ」


 そこまで言った後、落合さんは深くため息を吐いた。

 異変が生じてから今に至るまでの気苦労をにじませるような吐息だった。


「……最初はね、不良物件を掴まされたと思って怒れたもんだよ」


 天井裏の異音が止まぬ中、元同僚は遠くを見るような目で話を始めようとした。

 この音の正体が超常現象なのか何なのか分からないが、立ち話をするような状況ではないことだけは理解していた。


「ば、場所を変えましょうか」


 どうにか声を絞り出すと落合さんは頷き、私たちはリビングに戻った。

 先ほどの部屋から離れたことで平静を取り戻したのか、落合さんはコーヒーのおかわりを用意してくれた。

 そして、ソファーに腰かけて向かい合った状態で、話の続きを聞くことになった。


 落合さんは不動産業者に問い合わせても、満足な答えは得られないと考えた。

 そこで駆除業者を呼んで、天井裏を調べてもらった。

 理由さえ分かれば状況は好転すると思っていたのだ。


 しかし異常は見当たらず、現場で異音を耳にした駆除業者は「ただの家鳴りっすね」と怪訝そうな顔をして帰っていった。

 害獣の線が薄いとなれば、何者かの嫌がらせの線はないのか――。


 続いて落合さんは近隣住民のことをできる範囲で調べてみた。

 だがしかし、そんなことは意味がないとすぐに気づいた。

 互いの家と家の距離は離れているだけでなく、異変に気づいた時は引っ越してきてから一ヶ月程度しか経っていないのだ。

 

 あるいは落合さんの家が豪奢であるとか、セレブ感を出していて反感を買うという線もありえない。

 近所では周りの田んぼの所有者や地主が住んでいる家の方がはるかに立派なのだ。

 昨今の社会情勢を反映してか、近所付き合いもほとんどない。


 悩みを深めた落合さんは仕事関係で、誰かから恨みを買ってはいないかと考え始めた。

 自社の取り扱い商品を売る仕事のため、取引先と金銭のやりとりが生じる。

 取引先の中には法人だけでなく個人経営のところもあった。

 

 私自身、落合さんの人柄をよく知っているが、恨みの線は可能性が低かった。

 十年近い付き合いになるが、他人に恨まれるような人ではない。

 仮に逆恨みだったとして、こんな回りくどいことをするだろうか。


 ――こうして落合さんは疲弊して精神的に追いこまれた。


 こうなれば天井裏の音など関係ないと決めこもうともしてみた。

 それでも、娘の恐がる様子を見ては無視できないとなった。

 加菜ちゃんがもう少し大きければ、何がどう怖いか説明できただろう。

 まだ五歳の女の子に誰にでも分かるように話せというのは酷なことだ。


 私は落合さんの話を聞き終えてから、先日の大学生のことを思い返した。

 あの学生は観光地で羽目を外したことで恐怖に苛まれるようになった。

 一言でまとめるなら自業自得ということになる。

 しかし、落合さんの件は落ち度など見当たらない。


「……せっかくマイホームが手に入ったのに、難しい状況ですね」 

 

 こんな時に慰めの言葉に意味がないことは分かっている。

 それでも、かつての同僚が苦しむ姿を前にして、何も言わずにはいられなかった。 


「いや、いいんだ。仕事のこと、根掘り葉掘りたずねてすまなかった。小木くんならそっち方面に詳しいと思ったんだ」


「……落合さん。正直、私の力ではどうにもなりません。ああいった分野は仕事の一環で扱っているだけで、実際の中身はフィクションです」


 ここだけは線引きしておかねばと思った。

 落合さんを落胆させることになるとしても。 


「――ただ仕事柄、情報収集は得意なので、落合さんの力になってくれる方を探してみます」


 精一杯の譲歩、できる限りの協力はここまでだった。

 この状況を説明できる誰かがいれば――欲を言えば解決が理想だが――事態は上向くのではないだろうか。


「……ありがとう。それで十分だよ」


 落合さんは目尻にうっすらと涙を浮かべながら、今でも変わらないねえとこぼした。

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