『戦場に架けた橋の幽霊』

十夢矢夢君(とむやむくん)

戦場に架けた橋の幽霊

戦場に残る橋の幽霊


 八十年ほど前――。 大日本帝国は太平洋戦争へ突入し、南方アジアへ侵攻した。


「微笑みの国」と呼ばれる常夏の国、タイの地にも軍靴の響きが届き、戦史上、悪名高き「泰緬鉄道」が建設された。


 劣悪な環境の中で倒れた兵士、捕虜、そしてその無数の命の影は、今も川辺に沈黙している。


 泰緬鉄道は、タイとビルマ(現ミャンマー)を結び、さらにインドへと進軍するための戦略的路線であった。


 だがその建設は、熱帯の密林と灼熱の太陽の下、伝染病と飢えに苛まれながら進められた。


 日本兵も捕虜も、鉄槌を振るうたびに命を削られ、やがて多くが土に還った。

 

 川辺には彼らの呻き声が染みつき、夜風に混じって今も漂っているかのようだ。


 八十年の時は流れ、アジアに平和が訪れ、タイと日本の友好も結ばれて久しい。


 私はこの「微笑みの国」で暮らし、ある日、友人に誘われて、泰緬鉄道に関わり、命を落とした日本兵たちの慰霊祭へ赴くことになった。


 自分にとっては、週末の観光旅行程度にしか考えていなかったが…


 ―場所はタイ西部のカンチャナブリ県。


 バンコクから車で約三時間、現在のミャンマー国境に接する自然豊かな土地である。


 観光地として賑わう市街地の外れの川沿いに、ひっそりと「桑井川神社」が佇んでいた。


 そこは、かつての鉄道建設で、命を落とした日本兵の魂を祀る日本の社である。


 夕刻に到着した私たちは、散歩がてらに夕暮れの境内を歩いた。


 薄暗い木々に囲まれた境内にある、大小の石碑に刻まれた祈りの言葉が胸を締めつける。


 どの碑にも「平和」「慰霊」の文字が刻まれ、戦争の残酷さを静かに訴えていた。


 やがて夜の帳が降りて、遺族や関係者と共に前夜祭のような食事会が始まった。


 タイ料理と酒が並び、笑い声が境内に響く。


 だがその賑わいの空気の中に、目に見えぬ冷たい気配が潜んでいるように感じられた。


 私は煙草を吸うため席を離れ、神社の横を流れるクワイ川のほとりへ降りた。


 三日月が川面を淡く照らし、静寂が広がる。


 仲間の談笑が土手の上から微かに聞こえるだけ。


 私は川岸の大きな岩の上に腰を下ろし、煙を吐きながら、月明かりに照らされた黒緑色の川の流れをぼんやりと見ていた。


 ――英霊たちも、この水面を眺めながら祖国や家族、愛する者たちを想ったのだろうか。


 そのとき、背後から草を踏む音。


 誰かが降りてきた気配。


 煙草仲間が降りて来たのだろう…


 次の瞬間、シャツを二度、強く引かれた。


 いきなりシャツを引っ張るなんて、先に声を掛けてくれてもいいだろう…


 私は、そんな無礼な輩が誰だろう、と振り返った。


 ――そこには誰もいない。


 暗く静止した空間だけがそこにある。


 私は急に寒気を感じ、気のせいだろうと思い、煙草を消して仲間のテーブルへと戻った。


 席に戻ると、社主の年配の男性が通りかかった。


 私は、霊感もないし、幽霊もみたことがない。


 しかし、さっきの川べりでの出来事は、どうにも納得がいかないほど奇怪な出来事だった。


 私は少し恥ずかしい想いで、初老の社主へ訊いた。


「あのぉ、先ほどこの土手の下で煙草を吸っていたのですが、誰かにシャツを引っ張られたのですが…これって…?」


 社主は少し微笑んで言った。


「それは英霊さんだよ。君の煙草が欲しくて『俺にも一本くれ』とシャツを引っ張ったのさ」

 

 私は恐怖よりも先に、何故だか急に申し訳ない気持ちになり、


「そうでしたか、煙草を欲しがられていたのですね。気づきませんでした、すみません!」


 心からそう思った。


 私は川辺に戻り、さっきまで座っていた岩の上に、火を点けた煙草を三本置いた。


 煙はまるで、人が吸っているように赤く燃え、紫煙が川面へ向かい、滑るように流れていく。


 私は手を合わせ、祈りを捧げた。


「さっきはすみませんでした、さぁ、煙草をどうぞ…」


 煙草の煙が目に染みたのか、私の眼には涙が溢れていた。


 こんな南の国の果てのジャングルで屍となり、祖国の地を生きて踏むことのなかった先人たちの心中を思うと、胸の奥がじんと熱くなった。


 ――だがその胸の高まりは、次の瞬間、ひやりとした冷気に変わった。


 背後で、また草が擦れる音がした。


 今度は一人ではない。


 二人、三人……いや、もっとだ。 複数の足音が、湿った土を踏みしめながらこちらへ近づいてくる。


 私は振り返る勇気が出ず、ただ川面を見つめた。


 三日月の光が揺れ、黒い水面に細い道を描いている。


 薄暗い土手のその道の向こうから、かすかな声が聞こえた。


「……日本へ帰りたいのだが……」 「……ここは何処なんだ……」


 それは風の音に紛れ、川の流れに溶け、しかし確かに人の声だった。


 幾つもの声が重なり、まるで遠い昔の営みが蘇ったかのように、川辺に満ちていく。


 私は震える手で煙草をもう一本取り出し、火を点けた。


 その火が、ふっと揺れた。 まるで誰かが息を吹きかけたように。


「……俺にも一本……くれ……」


 耳元で囁かれたその声は、先ほどよりもはっきりしていた。


 私は思わず振り返った。


 そこには、影があった。 月明かりに照らされ、ぼんやりと浮かび上がる一人の兵士の姿。


 軍帽をかぶり、腕には赤十字の腕章…衛生兵なのか。


 彼の身体は、風に揺れる木の葉のように透けていた。


 彼は私の手元の煙草をじっと見つめていた。


 痩せこけた頬、乾いた唇。


 私は震える声で言った。


「……どうぞ。ゆっくり、吸ってください」


 するとその兵士は、かすかに微笑んだように見えた。


 その瞬間、私の足元に置いた煙草の火が、ひとりでに赤く燃え上がった。


 まるで誰かが深く吸い込んだかのように。


 紫煙がふわりと立ち上り、川面へ流れていく。 その煙の中に、彼の姿が溶けていった。


 青白く光る川面を見つめる私の耳元でひとつだけ、はっきりとした声を聞いた。


「……ありがとう……」


 私はその場に膝をつき、深く頭を垂れた。


 涙が止まらなかった。


 恐怖ではない、哀しみでもない。


 ただ、彼らの無念と、静かな感謝が胸に響いたのだ。


 川面を渡る風が、そっと私の頬を撫でた。


 それはまるで、彼らが最後に触れていった手のように、優しかった。


 テーブルに再び戻った私は、もうその出来事については胸の奥に閉まっておいた。


 社主の眼だけが私に微笑んでいた。


 やがて他の人々も酒や煙草を供え始めた。


 既に土手の下の川岸は小さな宴会場と化してしまった。


「どうか皆さんで楽しく飲んでくださーい」


「大役、ご苦労様でしたぁ!」


 ほろ酔いの仲間たちの声が響き、軍歌を歌う年配の者。

 

 私は一人、テーブルに残った冷めたビールを一気に飲み干した。


 ふと見上げると、大木の幹に別の若い兵士の姿があった。


 薄汚れた軍服に軍帽、草履を履き、宴を見守るように手を翳している。


 その足元には年少の兵士が「俺にも見せてください」と言わんばかりに、若い兵士の足首を掴んでいた。


 薄い白黒のフィルムを被せたようなその姿は次第に鮮明になった。


 二人の兵士の瞳には、宴を羨むような、懐かしむような温かさが宿っていた。


 耳を澄ますと、低い声が風に混じって聞こえた。


「宴会、楽しそうだなぁ…」


 日本から来ていた、遺族の一人が静かに語った。


「ここに眠る英霊たちは、祖国を思いながら散っていった。だが彼らは決して孤独ではない。こうして私たちが祈りを捧げる限り、彼らは生き続ける。」


 その言葉に胸が熱くなった。


 私の前に、怪異のように現れた兵士の姿も、煙草を欲した声も、すべては鎮魂の願いに応えるためだったのかもしれない。


 翌朝、神社での慰霊祭が始まった。


 式典に先駆けて、参列者全員で日本国歌の斉唱が始まった。


 境内にはおよそ百五十名ほどの人がいたが、私は最後列で起立し背筋を伸ばし、国歌「君が代」を歌い始めた。

 

 耳を澄ませば、私の後ろの林の中からも、合唱する声が木霊していた…


 祖国のために命を懸けた英霊たちに――敬礼!


(完)

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