ご報告
石田徹弥
ご報告
先日のクリスマスイブ。
十年ぶりに恋人ができた僕は、彼女に会いに銀座の街を急いでいた。
彼女と出会ったのは今年の春、虫歯の治療で訪れていた歯医者の歯科助手だ。
映画好きな彼女は、僕の鞄から覗いていた「オッペンハイマー」のパンフレットをきっかけに話しかけてきた。
はじめは映画の話だけだったが、やがて彼女はパーソナルな話も打ち明けてくれるようになった。
歳は二つ下の三十七歳。一度離婚を経験し、小学生の子供もいるという。しかし親権は元夫にあるらしい。詳細は知らないが、元夫の実家が力を持っているらしいと彼女は語った。
そういった話を僕が親身に聞いていたからか、あちらから映画に誘ってくれた。十年ぶりのデートだった。そしてあれよあれよという間に付き合うことになったのだ。
他業種のかたとお付き合いすることに最初は戸惑いもあったが、夏を過ぎるころには長年連れ添った夫婦のようにゆるやかな時間を共にしていた。
僕は彼女に結婚を申し込もうと思う。
三か月前に予約した銀座のある鉄板焼きの店。そこで僕は彼女に告白をすることを決めていた。
さすがはイブの銀座。どこもかしこもカップル、カップル。彼ら彼女らを覆うようにイルミネーションが輝いている。
そういえば、僕もカップルか。などと、頭の中でくだらないことを呟いて一人笑った。
店に着くとちょうど彼女も到着したところのようで、店前でばったり顔を合わせた。こういう偶然が僕たちには多い。そういうところも結婚を決めた一因なのかもしれない。
鉄板焼き屋は人気店で、すでに満席だった。予約しておいて本当に良かった。
「とってもいい匂い。おなかペコペコ」
彼女は手を僕の手に回しながら無邪気に言った。
幸せだ、という顔を彼女に作る。緊張がバレないように。
食事は楽しく進んだ……ように見えていればいいのだが。
当然、内心は心臓が張り裂けそうだ。ポケットに忍ばせた婚約指輪が、まるで時がたつごとに重くなっていくように感じた。
デザートが運ばれた。四角いプレートに、小ぶりなスイーツがいくつも載せられている。僕としてはもっとがっつりとしたものが食べたかったが、彼女は喜んでいるようで、僕の気も楽になった。
よし。
彼女がティラミスを口に頬張ったと同時に、僕はポケットに手を入れて箱を取り出すと、彼女に見えないようにテーブルの下に隠す。
「ねえ……」
喉がからからだ。喉が震えるとはこのことだと実感しながら声を振り絞る。
「話があるんだけど」
彼女は少し驚いた表情を浮かべた後に、何かに気が付いたかのようにゆっくりと笑みを浮かべた。
何か成功する予感を感じた。今、僕の世界に色が付き始めた。
だが、先に声を出したのは彼女だった。
「死体は見つかった?」
途端、体中の血が凍り付いたようになった。背中が折れるような痛みを感じた。
今、彼女は何と言った?
僕は口元だけにどうにか力を入れて固い笑みを作る。
「えっと、なんて?」
彼女はなおも笑みを崩さないように、今度は少し僕の方に身を乗り出した。長い髪が肩から落ちて、甘い匂いが僕に流れた。
「十年前、あなたが殺した彼の死体は、見つかった?」
その言葉に、あの光景が脳裏を駆け巡った。叫び声、雷のような光、おびただしい血、そして僕は泣いている。
「覚えてる? ううん、忘れるわけないよね」
彼女は表情を変えずにじっと僕を見つめる。
困った。ため息を吐く。婚約指輪の箱を手の中で転がす。
どうして。
どうして、この女は知っている?
俺は頭の中に火を灯し〝いつもの〟顔を作った。
「なにが目的だ」
「わからない?」
「金か」
「お金なんて持ってないでしょ、売れないクリエイターなのに」
この女……。
「なら警察か?」
「私はただの歯科助手」
「あいつの知り合い?」
「どうかしら」
俺はじっと彼女を見つめた。
目的がわからない。だが、間違いなく知っている。俺のことを。
いや、俺がやったことを。
ウエイターがやってきて水を注いだ。グラスに照明が入り込む。
綺麗だった。
俺はまた一度、大きなため息を吐いた。
「十年ぶりだったんだ。好きな人ができたのが」
「好きよ、私も」
じっと俺を見つめたままの彼女の目。真意は読めない。本当かもしれないし、嘘かもしれない。
だが今、それは大事なことだろうか。この女は知っている。その時点でこの恋は終わったんだ。一度は諦めていた俺の幸せ。老いを感じ、仕事と比例して金も、そして希望もすり減っていく日々。そんな日々が、もう一度息を吹き返すんじゃないかって希望を持っていたんだ。
けど、希望は持つべきじゃなかったのだ。
喉を潤すためにグラスを口に運んだ。
彼女はまた俺に体を近づけた。
「私は知っている。彼の死体の場所を」
思わず俺はグラスを取り落とした。大きな音を響かせてグラスが割れた。
それでも俺は彼女の顔から眼を逸らすことが出来なかった。
「嘘だ」
俺が今日一番震えた声で答えると、彼女がハンドバックを取り出して、中に手を入れた。
中から取り出されたのは、錆びた名札だった。
松原雄二の名と、実小原第一研究所所長の肩書。
名札には、ほとんど黒に近い飛沫がこびり付いていた。
記憶が一気に引き戻される。
あの時、確かに俺が殺した。間違いなく、奴の頭を吹き飛ばしたんだ。
あの時の感覚が蘇った。火薬と硝煙、そして血の臭い。そして肉片の飛び散る音と、口に入り込んだ血の鉄の味。
「私はあなたの味方」
ウエイターが急いでやってきて、割れたグラスを掃除し始めた。
彼女は気にもせず立ち上がった。
「行きましょう」
彼女が歩き出す。
「待ってくれ!」
彼女が振り返る。周りの客もこちらに注目した。周りからすればクリスマスイブに痴話げんかしたカップルに見えるだろう。だが、そんなこと今はどうでもいい。
「俺は……」
彼女が笑った。初めてデートしたときと同じように、無邪気な笑顔で。
「まだやりなおせるかもしれないわ。私も、あなたも」
彼女はほんの一瞬だけ表情を崩した。
それ以上は振り返ることなく彼女は出口へ向かった。
俺は大きく息を吸って、立ち上がった。
手にしていた婚約指輪の箱をポケットに仕舞うと、「おつりはいらない」と掃除を続けるウエイターに言って、財布の中身を全てテーブルに置くと、出口へ向かった。
まだクリスマスは終わっていない。
俺の人生もまた、始まるのだから。
ご報告 石田徹弥 @tetsuyaishida
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