小田原料理控え

湊 マチ

第1話 追放された料理人

江戸城本丸の奥深くにある御膳所。広々とした台所に響くのは、包丁がまな板を打つ乾いた音だけだった。炭火のくすぶる匂いが、調理場を満たしている。その中央で、坂巻新兵衛は黙々と鯛を薄造りにしていた。まるで紙のように透き通った鯛の身が、次々と器に並べられていく。緊張感に包まれる御膳所の中で、新兵衛だけは静かな集中を保っていた。


だがその内心では、重く圧し掛かる不安を振り払おうとしていた。今日の宴席は、将軍家の家臣たちが集まる重要な場。単なる料理ではなく、権力争いの道具として利用されることも珍しくない。それを理解していながら、新兵衛は「料理人としての誇り」を胸に、一皿一皿に心を込めていた。


新兵衛が最後の飾り付けを終えた時、御膳所の入り口に現れたのは家老の奥村修之進だった。奥村は目元を鋭く光らせながら、新兵衛の近くに歩み寄り、冷たく言い放つ。


「坂巻、新しい料理を作れ。」


新兵衛は手を止め、眉をわずかに寄せた。「新しい料理、でございますか?」

「宴席の料理はすでに献立に基づいて整えておりますが……」

穏やかに答える新兵衛に対し、奥村の声は鋭かった。


「余計な口を挟むな。これを使え。」

奥村は小さな布包みを新兵衛の前に置いた。その中身を見た瞬間、新兵衛の表情が変わる。


包みの中にあったのは、毒々しい紫色をした根。猛毒を持つ植物「鬼芋」だった。わずかに匂いを嗅いだだけでも、危険性が肌に伝わるような代物だ。新兵衛の眉間にしわが寄る。


「これを料理に使えと……?」


「煮汁に溶かし、汁物として出せ。それが殿の命令だ。」

奥村は冷然とした目で新兵衛を睨みつけた。


新兵衛はしばらく沈黙し、布包みを見つめた。その目の奥には、料理人としての信念と、命令に背く危険との間で揺れる葛藤があった。だが、彼の手はすぐに鬼芋から離れる。


「申し訳ございませんが、その命令には従えません。」


奥村の目が怒りに燃え、声を荒げる。「貴様、殿の命に等しいこの命令を拒むつもりか!」


新兵衛は毅然と奥村を見据えた。「料理とは、人を癒し、喜ばせるもの。毒を盛るために料理を作るなど、私の務めには反します。」


「ふざけたことを……!」奥村は刀の柄に手を掛けたが、その刃を抜くことはなかった。しばらくの沈黙の後、奥村は薄笑いを浮かべる。


「お前の誇りなど、所詮は虫けらのようなものだ。だがその誇りの代償は重いぞ。覚悟しておけ。」

そう言い残し、奥村は踵を返した。


翌朝、坂巻新兵衛の追放が正式に言い渡された。濡れ衣を着せられたわけではなかったが、「命令に背いた」という事実だけで十分だった。新兵衛は、御膳所での全てを失い、わずかな荷物を抱えて江戸城を後にした。


冷え込む江戸の夜、彼は町を歩きながら、自分の中で静かに整理を進めていた。繁華街の明かりや屋台の賑わいが、妙に遠く感じられる。


「料理が、人を殺める道具に使われるなど……。」

彼は小さく呟く。長年築き上げてきた料理人としての名声も、誇りを守るためには何の意味もなかった。それでも後悔はなかった。新兵衛にとって料理は人を傷つけるものではなく、救うものだという信念があった。


行き先は、故郷である小田原だった。小田原は海と山に囲まれた豊かな土地だ。新鮮な魚や野菜に恵まれた地ならば、再び料理人としての道を歩むことができるかもしれない。だが、背後に消えゆく江戸城の灯りを見ながら、新兵衛は予感していた。この追放が単なる終わりではなく、また新たな波乱の始まりであることを。


「俺の料理が、再び何かを巻き込むのだろうか……。」

胸の内にわずかな不安を抱えながらも、新兵衛は故郷を目指し、重い足を進めた。


江戸を追われ、小田原にたどり着いた坂巻新兵衛が選んだのは、港町の片隅にある古びた一軒家だった。潮風にさらされ、壁は所々剥がれ、屋根は歪んでいる。それでも、広い土間と台所があった。炭火台を置き、包丁を並べるには十分な空間だ。新兵衛は薄暗い台所の中央に立ち、かつての御膳所を思い出した。


「江戸ではあんなに整った場所で料理を作っていたのに、ここからまた始めるのか……。」

そう呟きながらも、新兵衛の目にはかすかな光が宿っていた。この場所で新たに店を構え、料理人としての人生をやり直す。これが今の自分にできる唯一の道だった。


この家を借りる話を進めていると、港町で顔馴染みの漁師たちが噂を聞きつけてやってきた。その中には、幼い頃から世話になった仁吉の姿もあった。仁吉は年季の入った網を肩に担ぎながら、笑い声をあげて家に入ってきた。


「おいおい坂巻! こんなボロ屋で本当に店をやるのか?」

新兵衛は肩をすくめ、「ここで地の魚や野菜を使った料理を出そうと思っています」と静かに答えた。


「そいつはいい! この辺の魚は新鮮だ。腕の見せどころだな。それで、店の名前はどうするんだ?」

仁吉が尋ねると、新兵衛は窓の外を見た。潮風が吹き抜け、港の匂いが鼻をくすぐる。


「『潮見亭』と名付けるつもりです。潮の香りを楽しんでもらえるような店にしたい。」

仁吉は少し驚いたような顔をしたが、すぐに頷いて笑った。「いい名前だ! じゃあ、俺たちが新鮮な魚を毎朝届けてやるよ。安心して料理を作れ!」


新兵衛の胸に温かいものが広がった。この港町に住む人々の協力があれば、もう一度やり直せるかもしれない。仁吉や漁師仲間たちの声は、自分が孤独ではないことを思い出させてくれた。


「潮見亭」の準備は決して簡単ではなかった。資金が乏しい中、新兵衛は家の修繕や厨房の整備に取り掛かった。漁師たちや近隣の商人たちが手を貸してくれた。仁吉は自らの船で余った木材を運び込み、「これで棚くらいは作れるだろう」と言ってくれた。他の漁師も、炭や古い鍋を譲ってくれた。


新兵衛自身も、手を汚しながら修繕を進めた。台所に古びた炭火台を据え付け、包丁を一本一本磨いた。江戸から持ち出したわずかな道具が、今や彼の全てだった。


一方で、仕入れのための市場通いも始まった。港の競り場には活気があふれ、漁師や商人たちの威勢のいい声が飛び交っている。新兵衛はその中で冷静に魚を選び抜いた。最初に仕入れたのは、新鮮なアジとぷっくりと太ったハマグリだった。


「さすが坂巻、目利きは変わらねえな。」

仁吉が隣でそう言って笑った。新兵衛は軽く会釈を返しながら、これらの食材でどんな料理を作ろうかと心を躍らせていた。


冬のある静かな夕方、「潮見亭」はひっそりと開店した。潮風が暖簾を揺らし、看板には手書きで「潮見亭」と記されている。新兵衛は厨房に立ち、包丁を研ぎながら最初の客を待っていた。


最初に暖簾をくぐったのは、仁吉だった。祝いの酒瓶を手に持ち、大きな声で言った。「坂巻、新しい門出だな! 祝いに一杯やろうぜ!」 それに続き、漁師仲間や近所の商人たちが次々と店に入り、座敷はすぐに賑やかになった。


新兵衛は静かに厨房に戻り、手際よく料理を作り始めた。まず出されたのは、アジのなめろうだった。アジの身を丁寧に叩き、味噌や生姜、ネギを加えて粘りが出るまで混ぜる。それを一口食べた仁吉が目を見開いた。


「これだ! これが坂巻の味だ!」

仁吉の声に周囲が湧き、次々と料理が運ばれていく。


次に出されたのは、ハマグリの酒蒸し。酒と昆布でじっくり蒸し上げたハマグリの香りが部屋中に広がる。これを食べた漁師の一人が、感嘆の声を上げた。「この味、江戸の店にも負けねえな。」


新兵衛は客の喜ぶ声を聞きながら、心の中で静かに自分を励ました。「これが新たな始まりだ。俺の料理が、人々を繋ぐ力になればいい……。」


夜も更け、店を片付け始めた頃、一人の男が暖簾をくぐった。薄汚れた羽織をまとった侍風の男だった。無表情で新兵衛を見据えるその目には、不穏な光が宿っている。


「ここが『潮見亭』か。」

男の低い声が店内に響く。


新兵衛は一瞬戸惑ったが、静かに答えた。「はい、こちらが潮見亭ですが……何か御用でしょうか?」


男は言葉を発することなく、懐から小さな包みを取り出して新兵衛に手渡した。中には銀貨が数枚と、一枚の紙が入っていた。その紙には、こう書かれていた。


「江戸より一週間後、使者が来る。それまで準備を怠るな。」


新兵衛の胸に、不穏なざわめきが生まれる。江戸を離れたことで、過去を断ち切ったつもりだった。しかし、それは甘い幻想だったことを悟る。


「俺の料理が……また波乱を呼ぶのか。」

新兵衛は包みを握り締めながら、重く静かな息をついた。

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