第2話 八重が懐妊した

 このような不安な状況でも男の性というか、しとねに妻が欠かせない。

不安であればあるほどそのぬくもりに癒されたくなる。


 外から雀のさえずりが聞こえる。朝日が眩しい。


 隣では妻の市が安らかな顔で眠っている。ほつれた髪が顔にかかり、それがなんとも色っぽく感じる。

 たしか二つ違いと言っていたから、今年で二十五になるはず。こうして改めて見てみると、出会った頃に比べ随分と色香が増しているように感じる。


 あの祝言から今年で八年。

 嫁いできた時は、まだあどけなさが残っていた。十八にしては少し幼顔かなと感じたのを今でも覚えている。先妻との嫡男万福丸を抱いた姿を見ても、母という風にはまるで見えなかった。


 あの頃はまさかこんな事になるだなんて思いもしなかった。市の兄である織田上総介と共に手を携えて家を守り通していけたら。そんな風に思っていただけであった。


 二人の間に子は二人。

 なかなか子宝に恵まれなかったが、一昨年女児が生まれ、昨年にも女児が生まれた。


 市は本当に慈愛に満ちた女子で、先妻との子、万福丸、万寿丸も我が子として変わらず慈しんでくれる。世の中には、先妻の子だからと亡き者にしようとするような女子もおると聞くに。

 ……朝倉殿の内儀のように。


「……あ、殿。お目覚めでしたか。おはようございます」


 薄目をこすりながら、着崩れた寝間着をそのままに市が挨拶した。

 小ぶりだが形の良い乳房が露わになっている。気のせいだろうか、少し前よりも大きくなったようにも見える。


 それにしても甘い声だ。そして、希少な香のようななんともかぐわしい香り。起きるのがもったいなく思えてしまう。


 ぐうと腹が憐れな悲鳴をあげる。

 市にも聞こえてしまったらしく、くすくすと笑い出した。


「あらあら、わんぱくさんだこと。すぐにあさげにいたしましょうね」


 市は寝間着を直すと、ささと寝所を出て行った。




 顔を洗うために井戸に行きつるべを引き上げた。小谷の山の紅葉した木々と共に、自分の顔が水面に映る。

 はて、自分はこんな顔だったであろうか?

こんなにも自分は下膨れた顔だったであろうか?


 ふと腹部を見て愕然とする。以前に比べ貫禄が出たとよく市が褒めてくれるのだが、こうしてみるとそうではない事を実感する。無駄な肉があちこちに付いるだけだ。どおりで最近何をするにもしんどいはずだ。


 小谷の山々を彩る栗の木が目に入る。

 そういえば昨晩は栗の混ざったご飯だった。あれは実に美味であった。そろそろ柿も出始める頃だろうか。




 顔を洗ってあさげを食べに広間に向かうと、すでに家人たちが起きて整列していた。弟の玄蕃頭と新十郎は来ているのだが、父の下野守が来ていない。弟たちと家人たちを見渡し、随分と席に空きができてしまったものだと感じ、少し陰鬱とした気分になる。


 このような乱世にあって家人の数が減るというのはやむを得ない事ではある。だが弟石見守の事を思うと今でも気分が落ち込んでしまう。


――兄上! ここはそれがしに任せて、真っ直ぐ小谷を目指してくだされ! 兄上さえおれば、浅井家は何度でやり直せます!――


 浅井家を頼みましたぞという叫び声が耳に残り、今でもふとした拍子に聞こえてくる。

 四人の兄弟の中で最も武勇に優れた石見守。そして、もっとも自分を兄上と言って慕ってくれた可愛い弟。

 自然と目頭が熱くなる。


 すると、今日のあさげはなんであるかなと素っ頓狂な声が聞こえてきた。最近ではもうこの声を聞くだけで頭痛がする。


「なんじゃ備前、朝っぱらからその陰気臭い顔は! 今頃は信玄入道が織田の違背いはい者や徳川の無法者を散々に打ち据えておる事であろう。何を心配する事があろうか」


 笑う門には福来るという言葉があろうと言って父は笑い出した。

 このように脳天気でいられたら、どれだけ幸せだったことか。家人たちも同様に考えておるのだろう。笑顔が引きつっている。


 そこに侍女たちがお櫃と膳を持ってやってきた。だが市と側室の八重がいない。市と八重はどうしたのかと侍女にたずねた。


「それが……あさげの用意をしている途中で八重殿が気分が悪いとおっしゃられて、寝室の方に」


 昨日はあんなにも元気だったのに?

 いったいこのほんの少しの間に何があったというのだ。そんな不安な表情する備前守に、侍女は優しく微笑んだ。


「心配なさる事は無いと思いますよ。はっきりした事は申せませんが、恐らくはおめでたかと」


 備前守の顔がぱっと明るくなる。玄蕃頭と新十郎が同時に祝辞を述べた。


「いやいや。まだおめでたと決まったわけでは無いからな。だが男児が生まれたとあれば、暗雲吹き飛ばすが如き素晴らしい報となるであろうな」


 今日は特別あさげが旨い!

 まるで口の中にかき込むように飯を頬張り、味噌汁でそれを流し込む。空になった茶碗を差し出すと、侍女はくすくすと笑った。




 あさげを食べ終えると、真っ直ぐ八重の寝所へ向かった。

 布団に八重が横になっており、傍らに市が座っている。八重は備前守を見ると寝床から起きようとした。


「良い、良い。侍女からおめでただと聞いたのだが、真か?」


 手で制すと、八重はまた寝床に横たわった。具合が悪そうな表情ではあるのだが、どこか嬉しそうでもある。その表情が質問に対する答えであっただろう。


「此度は無事生まれてくれると良いのですけど。前の子は途中で駄目になってしまいましたからね。もし此度も流れてしまったら申し訳なくて……」


 八重は少し寂しそうな顔をして下腹をさすった。そんな八重に市は大丈夫ですよと微笑む。下腹をさする八重の腕に備前守は手を置いた。


「もしかしたら前の稚児ややこは人知れずこの城を守ってくれておるやもしれぬではないか。いやそうに違いない。あの時、あんなにも元気にそなたのお腹を蹴っておったのだからな」


 そう言って八重をなだめる備前守の顔を市は一瞥した。

 あの日、稚児が流れたと知った時の備前守の顔を市は一生忘れる事はできないのだろう。まるでお家の終わりかのように落胆しきったあの顔を。


 市は少し真面目な顔をしてじっと備前守の目を見た。


「もし、わたくしに男児ができましたら、その子は兄上にとって甥御になります。そうなれば甥御可愛さに浅井の家を残してくださるかもしれませぬね」


 市は少しだけ微笑んだ。


 あの日、浅井家が織田家を裏切るという決断を下したあの日。下野守は市を斬れと命じた。だが備前守はその命だけは聞く事はできぬと拒んだ。

 斬れぬというならそれがしが斬る。そう言った下野守に、備前守は刺し違えてでも市を守ると言い放った。


 備前守としては、織田家に丁重に送り返そうというつもりであった。

だが、市はそれを拒んだ。私はもう浅井家の者だからと言って。



 確かに市が言うように二人の間に男子が生まれたら、上総介殿は浅井家を残してくれるかもしれない。所領替え程度の処分で。

 ただし、恐らくその場合、市とその子たちだけ助命され、自分も含め浅井家の者たちは皆殺しになるであろうが。

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