江東の猛虎たち ~また小谷城が落ちた~

浜名浅吏

第一章 備前守長政編

第1話 佐和山城が落ちた

 城内の大広間に人が集まっている。

畳で一段高くなったところに壮年をそろそろ過ぎようという年齢の男性と、その息子だろうか、青年を脱し中年にさしかかろうという男性が座っている。


 そこから少し離れた場所に男たちが縦二列になって並んで座っている。

年齢は様々。隠居間近という者もいれば、つい最近元服しましたという者もいる。


 列になっている男たちの間に二枚の地図が広げられ、男たちが難しい顔で眺めている。


 一枚は畿内から東海にかけての広域の地図。そこにはそこを支配する家々の名が書かれている。

武田、畠山、徳川、織田、浅井、朝倉、上杉、三好、本願寺、赤松、別所、波多野、荻野、山名。

武田、上杉、朝倉、本願寺、比叡山に朱で丸が付けられている。


 もう一枚は中央に大きな斜め線のいくつも入った地図。ここ近江国とその隣国の地図である。

そこには双六の駒が置かれているのだが、南側には大量の黒い駒が置かれている。


 その中の一つ、佐和山城の駒が白から黒へと変更になっている。

城主の磯野丹波守が織田家に降伏してしまったのだ。


 もはや誰が見ても一目でわかる。

当家、浅井家の家勢は風前の灯火。



「当家を取り巻く情勢は皆が既に存じている事と思う。何とかしてかかる難局を乗り切り、この絶望的な状況から挽回する良き手立ては無いものだろうか? 皆の忌憚無い意見を聞かせてもらえぬだろうか?」


 上座に坐した若い方の男性、当主の備前守は皆を集めてそうたずねた。

男たちはある者は扇子を持ち、ある者は髭を撫で、またある者は額を撫でて二枚の地図を凝視する。


「武田軍の別動隊が美濃に攻め入ったと聞きます。織田家は必ずや眼前の兵を武田に向けましょう。その時こそ我らの反撃の好機かと。それを逃さず、朝倉軍と共闘し、横山城を奪還してしまえば、岐阜城と京との連絡路を途絶えさす事ができましょう」


 家老の一人、赤尾美作守がそう述べた。


 こいつは切れる時は良いのだが、回答が用意できぬといつもこうなのだ。したり顔で、さももっともらしき事を言っているように喋る。

だが、よくよく聞いてみれば何のことは無い、信玄公の活躍を祈りましょうと言っているだけである。

いったいそれのどこが案なのだ……


 しかも、城攻めの際は朝倉軍の力を借りましょうと言っているだけ。

確かに、当家の兵だけではたった一つの城も奪還できない。

だがそんな事はわざわざ言われずとも、この場にいる誰しもがわかっている。

浅井家が今突きつけられている悲しい現実など、目の前の地図を見れば一目瞭然なのだから。


「あの野村の敗戦さえなければ……あの時朝倉軍が他家の戦だからとあのように中途半端なことさえしなければ……そのくせ逃げ足だけは天下一品で」


 雨森弥兵衛尉は床に拳を叩きつけて憤った。


 こいつは先ほどそれがしが言った事を聞かなかったのだろうか?

それがしは良い手立ては無いかと聞いたのだ。

過ぎた事に対する愚痴など、酒でも飲んだ時にやってくれよ……


 するとそれを受けて海北善右衛門が同じように床に拳を叩きつけた。


「樋口だ! 三郎兵衛があの時、鎌刈城と共に織田に寝返らねば、かような事態にはならなかったのだ!」


 その善右衛門の一言がきっかけとなり、一同は、あれが悪かった、これが悪かったと、ここまでの失敗をあれやこれやと言い連ねた。

まるで自分のこれまでの判断誤りを責められているかのようで、備前守は胸の奥にチクリチクリと刺さるものを感じていた。


 毎回、評定で意見は聞いたのに。

その都度この者たちも賛同したのに。

にも関わらずこれだ。

本当に嫌になる。


 隣の父を見るも、父は地図を凝視し、ただただ顎髭をさすっているだけ。これだけ家臣たちが自分たちの判断誤りを責めているというに、その顔はまるで他人事。

父でなかったら、家臣たちの前でなかったら刺し殺してやりたくなるほどに殺意を覚える。


「玄蕃、そなたはどう思う? ここからどうしたらこの劣勢を挽回できると思う?」


 次弟の玄蕃頭に問いかけると、玄蕃頭は苦虫を嚙み潰したよう顔をした。


「今さら言っても詮無い事ですが、横山城が落ちたとて、佐和山城があったわけですから、例えば国友城を改修して兵を詰めさせるとか、あの段階で支援する手立てを考えれば良かったのではありませぬか? 何も朝倉殿に従って琵琶湖の対岸の比叡山に兵を送らなくても」


 玄蕃頭は父の顔をじろりと睨んだ。

横山城に代わる防衛拠点の整備、その際に出たのが国友村を守る城の改修の話だった。

だが、そんなものは焼け石に水だと言って父上が反対したのだ。

それよりは朝倉殿に従い比叡山の僧兵と共に織田軍の後方を脅かすべきだと言って。


 結果的には最大の軍事拠点だった佐和山城は見捨てられたと絶望し開城してしまった。


 父上は聞こえているのか聞こえていないのか、扇子でぺしぺしと肩を叩いて涼しい顔をしている。

こいつの首を取って、全てはこいつのやった事と言って織田に届けたら上総介殿は許してくれたりはしないだろうかという気さえ湧いて来る。


 末弟の新十郎が無言でじっとこちらを見つめていた。

元服してまだ二年、これまでこういった席で発言した事は無かったが、お家存亡の危機とあっては黙っていられないとみえる。

何か意見はあるかと声をかけてみた。


「今さら遅いかもしれませんが、織田殿に許しを請うというわけにはいかぬのでしょうか? 兄上の奥方は上総介様の妹御。交渉次第では諸将の所領安堵くらいは……」


 すると、阿閉淡路守が馬鹿な事言うなと一喝。どこの世界に一度裏切った者を許す者がいるのだと。

もはや我々は朝倉殿と共に最後の一兵になるまで織田に抗うしか道は無いのだと叱責した。


 その剣幕に新十郎はしゅんとしてしまった。


「そもそも何故朝倉家は金吾様が自ら出馬せずに、孫三郎殿に任せておるのだ! 孫三郎はこちらにお願いする時は金吾様の意向というくせに、こちらから何かを頼んでもそれがしの一存では決めかねるだものなあ」


 やってられぬと言って野村肥後守も床に拳を叩きつけた。


 そこからはもう大騒ぎであった。

各々が勝手に喋り出し、床に拳を叩きつけ、朝倉が織田がと喚きたてる。酒は一滴も入っておらぬというに全く持って収集がつかない。



 当家の評定は毎回最後はこうだ。

各々が好き勝手に過ぎた事をあれが悪かった、これが悪かったとまるで責任転嫁でもするかのように喚きたてる。


 それがしは何度もこう聞いているはずだ。これから当家はどのようにこの状況を挽回していくべきか良き手立てが無いか考えてくれと。

それなのにこれまで先の話をしたのは美作守ただ一人。

それすらも『きっと武田家がなんとかしてくれる』だ。



 これはもうどうにもならぬと判断した備前守はもう日を改めようという気になっていた。


 備前守はパンパンと手を打った。

するとそれまで雑然とぐだぐだ喋っていた諸将が一斉に静まり備前守の方を見た。

こういうしょうも無い号令にだけはすんなり従うのだから嫌になる。


「皆、今日はご足労かけてすまなかった。宴席の用意ができておる故、先に行って一献していてくれ」


 諸将はやれやれと皆腰を上げて、宴席へと向かって行った。



 お家の一大事なのに。

危急存亡の秋だというに。

まるで他人事。


 結局残ったのはたった二人。次弟玄蕃頭と末弟の新十郎だけ。

親戚たちですら宴席に行ってしまった。さらに言えば父の下野守も。


 備前守は顔の前で手を合わせてそれを額に当てた。

目を瞑りはあと息を吐き出す。

玄蕃頭も新十郎も押し黙っている。



 力が欲しい。あやつらを束ねあげる事のできる強き力が。

今さら悔いても詮無い事だが。


「兄上……当家は何でこんな事になってしまったのでしょうね」


 玄蕃頭が悲しい目をしてこちらを見てきた。


 そもそも当家には近江の支配者たる資格が無いのだ。


 当家は本来は近江の一国人に過ぎなかった。

北近江の半国守護であった京極家の被官であった祖父の新三郎がお家騒動を利用してのし上がったにすぎぬ。


 さらに言えば、その祖父新三郎ですら、浅井家の嫡流ではない。

三年ほど前に亡くなった蔵屋婆さんの婿になる事で浅井家を継いだだけである。


 祖父の時はそれらを全て黙らせられる実力があり、実績があった。

その溢れる将器に国衆は付き従ったのだ。


 だが残念ながらその将器を父下野守は持ち合わせてはいなかった。

さらに悪い事に祖父も京極家、南近江六角家、さらには越前朝倉家と全てに微妙な関係を築いた状態で亡くなってしまった。


 元々浅井家は国衆の頭取という雰囲気でしかなく、国衆もうちが弱っても別に見捨てれば良いという考えが根底にある。

それがわかっているからこそ、これまで必死に将器を大きく見せてきたというに。


「兄上、美作の言ではありませんが、今は公方様の外交手腕を信じましょう。武田家、上杉家という大物を突き動かした公方様の手腕を。さしもの織田家もあの二家には敵いますまい」


 新十郎は地図をじっと見ながら諭すように言ったのだった。

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