第1話
「返してもらうぜ、そいつは俺のもんだ!」
スコフィールド邸の裏手。
白髪の彼は謎の男に銃を向けた。
背が高くちょうど彼と同じくらい。顔の造形はどこか人形めいていて、不気味だが、たしかに美青年だと言える。神山と違って華奢ではなく、身体は大きく、すらりと伸びた脚は地獄を遊び歩いてもくたびれず、腕は本場のクリスマス・ツリーを一発で倒せそうなほどだ。脱いだらスゴイ系のオトコなのである。
その男に、白髪の彼はとあるものを奪われていた。
その、とあるものとは──。
1
今日がクリスマス・イヴであることを、
双木市で過ごすクリスマスはこれで何度目だろうか、と感傷的な気分になってから、お店で予約していたケーキのことを思い出す。
「今日の帰り行かないとな」
月浜署の屋上でひとりつぶやいて、咥えていた煙草を見やる。フィルターのぎりぎりまで赤いラインが迫ってきていた。携帯灰皿に突っ込んでジャケットの内側ポケットに入れると、そのまま中へ引き返した。
捜六(捜査六課)は
神山は〈特務捜査係〉──
神山が自分のデスクにつくと、昼休憩中だった
「まだ残ってたのか」
「青木さんもじゃないっすか」
「おれはもう帰るが」
「じゃ、俺も」
今日は非番であり、午前中には勤務が終わる。凄まじい眠気が襲いかかってくるが、いまではもう慣れたことだ。
捜六のシフトは四交替制であり、明日は公休である。運のいいことだ、と同僚には皮肉を言われた。捜六の場合、他のところとは違ってクリスマス・イベントがあるからと全員が出勤し、警備にあたるといったことはない。なにせ秘密機関なのだ。おまけに嫌われているため、そういった仕事は与えてもらえない。
ただし特務案件が発生した場合は問答無用で出勤となる。
世知辛いもんだ、と神山は思った。
地下駐車場に駐車していたシビックに、青木と一緒に乗り込んだ。これは神山が青木から譲り受けた自車である。捜査車両用にもう一台、グレーのシビック・セダンが駐車してあるので、もう馴染み深い愛車だ。今後、一生を過ごす相手かもしれない、とさえ感じている。
地下駐車場を出て、青木の自宅へ向かう。彼を送り届けるためだ。
「いやあ、悪いな。送ってもらっちゃって」
青木が言った。
神山はむっとして、
「電車賃がないって嘆いていたのはどこの誰ですかね」
「さてな。もう帰路についてんじゃねえか」
「たしかに」
白々しい、と神山は思った。
「ところで、おまえはどうすんだ?」
ウィンドウの外側で、颯爽と流れる風景を見ながら青木は訊いた。
神山はハンドルを切りながら「どうする、とは?」と訊き返すと、彼は振り向いた。
「そりゃあ、おまえ、今日はイヴだろう。
愛しのご令嬢と夜を過ごすんじゃないのか」
「あいにくそんな相手はいませんね」
「え」
「なんですか」
「まさか、まだおまえ手ェ出してないのかよ」
「そんな度胸、俺にあると思います?」
「情けねえな」
うぐっ、とダメージを受ける。
顔には出さないでおいた。
「青木さんはどうなんすか」
「おれか? おれはな、ああ、そうそう、おれはね、そうだ、おれはな──」
「酒ぐらいなら付き合いますよ」
「……娘が生きてたらぜったいおまえとお見合いさせてたぜ」
「拒否しますが」
「てめえ、うちの娘に不満でもあんのかよ!」
そんなわけで。
二十の男と五十の男は二人そろってクリスマスぼっちなのであった。
神山の場合、アリスとは関係が修復されたが、きっとクリスマスと一緒に過ごしてくれるタイプではない。彼女と一緒にいたいという気持ちは希薄だし、こだわりはなかった。
青木の場合は、ただ単に独り身なのである。久しぶりに学生時代以来の友人と会って、酒盛りでもしようかと考えている途中だったが、自分からわざわざ電話して誘うのはなんだか恥ずかしいので待機中だ。ようするに女々しい。
「別にいいさ」
青木は言った。
「おれのようなじじいに構ってる暇があるんなら、女と遊べ。
幸い、おまえさんにゃ相手がいるじゃねえか」
「だから、アリスとはそんなんじゃないですってば」
「だとしても、だ」
青木は神山の横顔を見据えた。
「一緒にいてやれ」
神山は、はっとした。
青木に一瞥を送ると、彼はとっくに窓のほうに視線を戻していた。まるでいまの言葉は独り言だったかのように、知らんふりをしていた。
「わかり、ました」
神山は渋々うなずいた。
すると隣で満足そうにくすっと笑みをこぼしていた。
2
青木を自宅まで送り届けたあと、神山はケーキ屋へ向かった。時間はそうかからなかった。店に到着すると、あまり馴染みのない雰囲気に足が竦んだ。まず財布にケーキの受取の際に使用するレシートを確認して、車から降りた。
建物を眺める。
童話に出てくるような洋風の様式で、案の定、中には数人いた。軒にはイチゴの色とチョコレートの色で織りなした庇があり、下には新作や人気商品をプリントしたのぼりが何本かあり、簡易的なテーブルセットがいくつか用意されている。
頭上の看板の名を見る。
〈シェ・ショコラ〉
アリスに教わったが、意味は簡単で『ショコラの家』というものらしい。シェ~という単語は『~宅』や『~の家』といった意味を指し、店名としては無難だが、とくに目立たない。
こないだアリスが、自分へのご褒美にとここのケーキを買いこんでいた。そのせいで体重が二キロほど増えて、血の気がさーっと引いていく様を見たのは最近のことだが、構わずここのケーキを予約した。
「こんにちは」
いまどき珍しいスライド式の二重ドアを抜けて、店主に挨拶をする。
「あ、いらっしゃいませ」
店主である中年男性が、厨房の窓越しににっこりと笑った。彼は無表情のままだと怖いが、笑うと子供のような人懐っこい印象を受ける。神山は親近感を抱いた。生まれつきの顔が怖いところが一緒だからだが、彼のように笑っても、下衆な悪人面にしかならない。
彼はカウンターに出てきて、軽く会釈をしてきた。
「神山さんでしたっけ」
「はい」神山はうなずく。
「お待ちしておりました。予約したケーキのお受取でよろしかったですか」
はい、とうなずき、神山はレシートを店主に見せる。隣の受付さんが困惑していた。まさか自分の作業を店主自らがやるとは思わなかったからだろう。
その視線に気づいた店主は、誇らしげな笑顔を浮かべて受付さんに言った。
「このお客さんはうちの常連さんだよ」
「え?」
「神山さん、前に会ったときは気づかなかったですけど、
あの子の恋人さんだったんですね」
「こ、恋人?」
「アリスちゃんですよ。
よくうちのケーキを買ってきてくれる数少ない常連さんなんです」
ああ、と神山は納得した。
「よくうちで話を聞くんです。
トウヤさんがどうたらって、もういっつも」
「い、いつもですか」
「ああー、あのめちゃくちゃ可愛い子ですよね!」
と、受付さんも思い出した様子。
アリスはたしかにここの常連だ。外のイートインスペースで食事をして、ケーキを買ってくるのが彼女のここでのルーティンである。
メイド喫茶で働いていた当時も、帰りがけによくここへ寄った、というのもアリスの言だった。
「どうも、いつもお世話になっております」
「いつもありがとうございます、と伝えてください」
店主が陽気に言う。
「ええ、もちろん。
ですが一つ、訂正したいのですが」
「訂正?」
店主と受付さん二人して首をかしげた。
「俺とアリスは恋人なんかじゃないです」
「ええ、まだ付き合ってないんですか」と店主。
「驚きですー」と受付さん。
神山がうなずくと、二人は互いに顔を見合わせる。
本当に残念そうなのが、ちょっとおかしかった。
──トウヤさんがどうたらって、もういっつも。
いつも……。
頬が少し熱くなるのがわかった。鼻先がむず痒くなって、指で掻く。この二人の前で素的な笑顔を振りまきながら、「トウヤさんがですね」「今日、トウヤさんが」「トウヤさんはもう、」と、切り出すアリスが浮かんだ。
どうせ、いつもの調子で毒舌ばかり吐くんだろうが……。
それでも、嫌な気はしなかった。
「大丈夫そうですね」
ふいに店主が言った。
そですね、と受付さんがそれに便乗し、大仰にうなずく。
「え、なにがですか」
「ケーキがいい出来になりそうだから、大丈夫だろう、と。
焦げているわけでも生焼けでもなさそうだし」
「はあ」
「ちょうどいい熱っぽさです」
「……?」
言っている意味がとうとうわからなくなった。
その後はスムーズにケーキを受け取る。ついでにショーケースの商品から、アリスがこないだ食べていたチーズケーキを二切れとイチゴモンブランを二つ買った。
きっと喜ぶだろうと神山は思った。
そして、いつの間にか彼の顔は、アリスが出来立てのケーキを前にしているときのような表情を模していた。彼自身は自分の笑顔を不出来だと評するが、そのときの顔は他の誰から見ても幸福そうな良い顔だと言えた。
ウキウキで店を出ようとする神山。
そのとき、後ろの二重ドアが開いていることに気がついた。閉めたはずなんだがな、と思うが、そのとき手許で違和感をおぼえた。
ケーキ専用の紙袋がごそごそと動いている。
最初見たときは自分の腕が動いたときや歩いているときの揺れでそうなったのかと思ったが、それはひとりでに動いているとこに気がついた。
だが、思い直したようにぴたっ、と止まる。
やはり気のせいか──
そう思ったとたん、紙袋からケーキボックスが飛び出した。凄まじい勢いで天井へ向かうが、ぶつかる寸前で綺麗に止まった。が、いまの勢いで中のケーキは見事な惨劇を生み出しているに違いない。
やがてそのボックスはゆっくりとドアのほうへ流れていく。
そのまま外に出て、左へ折れていき──、
「あ、こらっ!! 待ちやがれーッ‼」
遅れて反応し、外へ飛び出す神山。
周囲を見回すと、隣のビルの屋上へ向かっていくボックスが見えた。追いかけようとするが、踵を返して車に乗り込む。急いでエンジンを起動させて道路へ出る。違反にならない程度にスピードを上げようとするが、とても追いつけそうにない。
向こうのビル群の真上を跳ぶように移動する様はまるでウサギのようだが……。
「なんで飛んでんだよチクショウ!」
意味がわからねえ、と神山は毒づいた。
ケーキが角を曲がる。
神山も同じ方角へ行こうとするが、そこで十字路の信号が赤になった。急ブレーキをしてぎりぎりのところで停まる。後方からクラクションが鳴る。
「気ィつけろよ!」
ウィンドウから顔を出して、すみません、と大声で謝った。
心拍数が格段に上がり、息が乱れている。首筋に汗の流れる感触もあった。この短時間でどれだけ寿命を縮めたことか。
……え、ケーキ盗られたの?
沈黙。
ひたすら、沈黙。
青信号になって前に進んでも、沈黙。
そして。
「…………嘘だろぉぉぉぉぉぉぉぉ⁉」
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