乾杯、ゴロー

風馬

第1話

田島修(たじま おさむ)は、アルコール依存症で荒れた生活を送る中年男性。友人もおらず、仕事も疎かになりがちな毎日。彼の唯一の楽しみは、酔いしれることだった。

ビールを開ける音、それに続く一口が、何よりの安らぎだった。だが、そんな孤独な日々に変化が訪れる。


ある晩、修の部屋に一匹のゴキブリが現れた。最初、修はそれを見逃すつもりだったが、すぐにその動きに気づき、追いかけ始めた。すぐに捕まえるつもりだったが、ゴキブリは思いのほか素早く、修は何度も失敗した。最終的に、虫籠に閉じ込めることに成功した。


虫籠の中でカサカサと音を立てて動くゴキブリを眺めながら、修は呟いた。

「お前、なんか図太いな。名前でもつけてやるか?」


すると、驚くべきことに、ゴキブリが低い声で答えた。

「俺の名前はゴローだ。殺さないでくれ、話し相手になってやるから」


修はその言葉を信じられなかったが、すぐにその声が自分の耳元で繰り返されるのを聞いて、思わず笑った。

「お前、まさか本当に話す気か?」

「話すさ。お前がいい相手になるまでな」


それから、修はゴローと不思議な会話を重ねるようになった。孤独だった日々に、奇妙な相棒が加わった瞬間だった。


その日から、修はゴローに米粒を与えるようになった。少しずつ与えると、ゴローはカリカリと音を立てて食べる。その姿に、修は少しずつ心を開き始めた。


「お前、意外と食べるな」

「お前だって酒ばっか飲んでるだけじゃねぇか」


ゴローは時折辛辣な言葉をかけるが、修はそれがどこか心地よく感じていた。

「でも、どうしてそんなに元気なんだ?」

「食いもんも、水もないところでも、どんな状況でも生きられるさ。でも、お前は違う。お前は酒に依存してるだけだ」


修はゴローの言葉を心に刻みながらも、いつも通り、ビールを一口飲んで、また自分の世界に引き込まれた。


ある晩、修は酔っていた。いつものように、ゴローが虫籠の中で動き回るのを眺めていた。ふと、思いつく。

「お前も飲みたくなるだろ?一緒に乾杯しようぜ」


彼はビール缶を手に取り、虫籠の中にほんの少しだけ垂らした。泡がシュワシュワと広がる。その音に、ゴローは一瞬ためらったが、やがてその泡を舐め始めた。

「どうだ、うまいか?仲間だな、ゴロー」


修は大声で笑った。酔いが回り、楽しい気分でその夜を過ごした。だが、その夜が思わぬ結末を迎えるとは知らなかった。


翌朝、修が目を覚ますと、虫籠の中でゴローが動かなくなっているのを見つけた。

「……ゴロー?」


ゴローはひっくり返ったままで、固まっていた。修はそれを見つめ、昨夜のことを思い出す。

「お前、あんな少しの酒で……死ぬのかよ?」


ゴキブリは、どんな過酷な状況でも生き延びると言われている。だが、ほんの少しのビールで命を落としたゴローに、修は強い衝撃を受けた。


「どうして……お前がこんな簡単に?」

修は、そっと虫籠からゴローを取り出し、庭に埋めた。その手は震えていた。ゴローの小さな体を包みながら、修は言葉をかける。

「ごめんな、ゴロー……」


その後、部屋に戻った修は、テーブルに残るビール缶を見つめた。あれほど手放せなかった酒が、急に恐ろしく感じられた。


「酒で俺も死んじまったら、ゴローに笑われるよな……」


修は呟き、最後にもう一度ビール缶を見つめた。それは、彼がこの先どう生きるべきかを考えさせるきっかけになった。彼は静かに決意を固めた。

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乾杯、ゴロー 風馬 @pervect0731

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