イワクツキなヒト

月見秋水

第0話 《刻潰し》


 恐らく、今の自分は二十八歳なのかもしれない。


 同時に、残された人生の時間は、一時間を切っている。

 その一時間で、俺は残り数十年の年月を体感し、死んでしまうのだ。

 ふと頭の中に過るのは、十三歳だった頃の自分。

 それはたった、数分前のこと。

 自分はまだ、確かに中学生だった。


 ***


「あなたは異常者よ、日陰玄人ひかげくろうと君」


 中学一年の冬、放課後。空き教室。

 全校生徒が下校した後の校舎は静寂に包まれていて、だからこそ、目の前に立っている彼女の声が痛いほど耳に響いた。


「……なあ、芳野よしの。お前はそんなことを言うためだけに、俺を呼び出したのか」


 幼さの残る声。声変わりが始まったばかりの俺の声は、濁った水のようだ。

 身長も低く、学生服の袖も余っている。まだまだ成長途中の、男子中学生。

 それと比べて、芳野レイカはとても大人びていて、蠱惑的で、魅力に満ちていた。


「あら? 愛の告白を期待しちゃっていたとか? ふふっ」


 俺をからかって笑う芳野から、慌てて目を逸らす。

 背丈も、胸の大きさも、顔つきも、艶やかなその声も。全ての男子生徒を虜にする美貌。思春期特有の下品な注目を浴びているのは、友達の居ない俺だって知っている。

 だけど俺は芳野に性欲を抱いたことはない。


 俺は、彼女が

 美女というよりは、魔女のよう。ミステリアスな雰囲気とその瞳に宿る自信を見て、何も持たない俺は、その度に劣等感と恥ずかしさを覚えていた。


「……有り得ないだろ。俺みたいな、空っぽの男子に芳野が告白なんて」

「そうね。あなたみたいに日々を虚無の心で生きていて、ただひたすらに時間を浪費しているだけの男子に、私のような美少女が心を奪われるわけないもの」

「そうかよ。見た目通りの自信家なんだな」


 芳野レイカは男女問わず人気があったが、同時に敵も多かった。

 良くない噂もたくさん聞いた。妬みと僻みだけで創作されたような噂だ。

 相手を貶めるだけの嘘や暴言。全てを受け止めたら、思春期の心に間違いなく修復できない折り目が付くだろう。真っ直ぐに伸び、清く生きても消せない痕が。


「だけど、そうね。あなたを魅力的に感じてしまう存在は、間違いなく居る。目に見えないだけで、いつだってあなたの影に潜んでいるのよ」

 紺色にも見えるような、長く鮮やかな黒髪を揺らしながら、芳野は言う。


「ストーカーってことか? 随分悪趣味な女子だ」

「あら。今時は女子に限らないかもしれないわよ? 愛に性別は関係ない。人とは違う、少し変わった人生を選ぶ人だって居るのだから」

「どちらにせよ、遠慮しておくよ。俺は普通の人生が一番――」


 世界が、大きく傾いた。

 いや、違う。

 視界が、激しく揺れたのだ。

 ほぼ同時に、身体の右半身に強い痛みと衝撃を覚える。

 転倒。急激な脱力感に襲われて、意識する間もなく床に倒れ込んでしまった。


「う、あっ……あ、あ」


 呻き声は出せる。だけど、それだけだ。脳内に浮かぶ言葉を、吐き出せない。

 呼吸は出来る。視界は明瞭だ。芳野の綺麗な脚が映って、数回の瞬きを繰り返すうちに今度は顔が見えた。


「大丈夫? まさかここまで……ううん。今は説明している『時間』は無いわ」

「よし、の。おれ、は」

「病気じゃないわ。脳震盪でも貧血でもない。あなたはすぐに、『時間』を失って取り戻す。その時にもう一度この場所で説明するから。だから」


 先ほどまで余裕を感じさせていた芳野の声に、焦燥が滲んでいた。

 だけど俺には、その不安を払しょくする術は無くて。

 瞼の裏に黒い帳が下り、世界は色を失った。


 ***


「……芳野!」


 再び気付いた時には、俺はその場に立ち尽くしていた。

 冬の空き教室。静寂に包まれた校舎。目を見開いて驚く芳野。

 失神していた時間は短かった。黒板の上にある丸い壁掛け時計を見ると、たった五分しか経っていない。


「やっぱり、これくらいの時間に来てくれると思っていたわ」

 芳野はやや怪訝な目で俺を一瞥してから、困ったように溜息を吐く。


「……どういうことだ? 俺とお前はさっきからこの場所に居て、話をしていたじゃないか。その途中に俺が倒れて」

「そうね。倒れて、『何事も無かったかのように立ち上がって、出て行った』のよ」

「は?」


 意味が分からない。俺はここに居る。空き教室のど真ん中で、芳野と向かい合っている。


「あなたがここで倒れたのはよ、日陰玄人君」


 告げられた言葉に、俺は小さく鼻を鳴らす。


「一年間記憶喪失だった、とでも言いたいのか?」

「ええ、そうよ。正確には、記憶喪失というより記録消失。あなたは傍目から見ればちゃんと毎日を過ごしていて、みんなと同じ時間を生きていたわ」


 冗談にしては退屈で、五分間倒れていた俺を騙すにはチープな嘘。

 だけど、芳野の瞳を見て直感する。彼女は、嘘なんて吐いていない。

 一つ、違和感を覚えた。何かを言い出そうとして、無意識に動かした右腕。

 普段通りの学生服。だけど、五分前とは違う唯一の変化。


「袖が、余っていない」


 漏れた声も、どこかおかしい。さっきまでの俺は、もう少し高い声だった。

 窓に映る自分の姿だって、やけに背が高い。芳野と同じか、それ以上だ。

 制服の内ポケットを漁って、そこから取り出した生徒手帳を見て……言葉を失った。


「二年生……? だって、そんな。俺は」


 学年もクラスも、五分前とは違う。手帳に貼られた顔写真も、別人に見える。


「日陰君。今から話をしましょう。とっても大切な話を」


 困惑に支配された俺の頭の中に、芳野の透き通った声が響く。


「……話、って? こんな空き教室で、何の話をしようって言うんだよ」

「あなたは記憶が無いかもしれないけど、実は先ほどまで猥談をしていたのよ。たった一年で私たちは親密な仲になっていたのに、それも忘れちゃうのね」

「空き教室で女友達と猥談する放課後とか、そんな青春忘れた方がいいだろ」

「友達、ね。それについても色々言いたいけど、とりあえず猥談はおしまい。今から私とあなたがするのは、怪談よ。ほんの少しだけ、日常から逸れた非日常のお話」


 芳野はゆっくりと俺に近づいて、耳元で囁く。


「まずはあなたの身に何が起きたのか、それを語りましょう」


 ***


「あなたはね、魅了されてしまったのよ」


 教壇の前に椅子を二つ並べ、俺と芳野は互いに向き合う。

 窓を背にして語る芳野に、間髪入れず尋ねた。


「魅了? 一体何に?」

「私という美しい一輪の薔薇に、ね」

「さて、家に帰って失われた一年を取り戻すか……」

「おっと、逃がさないわよ。薔薇の棘は誘われてやってきた草食動物を刺すためにあるのだから! あなたのような草食系男子をね!」

「綺麗な薔薇には棘がある、って言葉を体現している女子が実在するとは……」


 性質だけ見たら食虫植物だろう、というツッコミはさておき。

 それに棘ならもう、刺さっている。

 一年間の記憶喪失という棘は、平静を装っている俺の胸中に、不安という痛みを確かに滲ませ始めていた。


「楽しい冗談はこれくらいにしましょうか。日陰君の顔色を見る限り、そういう気分でもないでしょうし」


 そんな俺の心中を見透かしたレイカは、小さく笑って膝を組みなおす。

 両膝をくっつけ、その上に手を置いている俺とは対照的な、余裕の表れだ。


「あなたが魅了されたのは、《イワクツキ》と呼ばれるものよ」


 イワクツキ。


 その耳慣れない単語を聞いて、真っ先に浮かんだものは一つだ。


「……事故物件とか、呪われた道具とか、そういうものを表現する時に使う言葉、か?」

「いわくつき物件、なんて言うわよね。それとは違うわ。《イワクツキ》は超常的な物質や現象のこと。明確な定義はないの」

「良く分からないが、オカルトめいた何か……みたいな認識でいいのか?」

「オカルトという言葉で片付けないで欲しいわ。それに近い性質はあっても、本質は違うから。もっと純粋なもので、善意も悪意もない。人の思念や意識が姿形を変えて、具現化されたもの――、という説明が分かりやすいかしら」


 バカバカしい。都市伝説同好会でも作ったらどうだ。

 そう一蹴出来るほどの余裕は、今の俺にはなかった。


「これが虚言や妄想ではないことを、あなたは身をもって理解しているはずよね?」


 芳野の問いかけに、緩慢な首肯をするしかない。

 揺るぎない事実と得体の知れない謎。その答えを知るのは芳野レイカのみ。

 飛んだ時間、消えた記憶。俺の身に、一体何が起きたのか?


「話を続けるわ。あなたの身体を蝕んでいるのは、《刻潰しこくつぶし》という名のイワクツキよ」

「こく、つぶし」


 また聞きなれない言葉を反芻する俺に、芳野は頷く。


「そう、刻潰し。穀潰しごくつぶしという言葉は定職に就かず遊び呆けるような人間を表す言葉だけど、《刻潰し》は『時間を持て余している人間の時を喰らう』現象なの」


 ゆえに、刻潰し。

 芳野は立ち上がって、チョークを黒板に滑らせながらその名を刻む。

 刻。かつて使われていた時間の単位。ひと時。


「それは、お祓いとかで消滅させられないのか?」

「無理ね。《イワクツキ》は霊的なものじゃないから」


 わらをも掴むような思いで絞り出した言葉を、芳野は気安く振り払う。


「……でも、あなたにだって出来ることはあるのよ? だけどそれは、あなたにとって極めて難しいことだけど」

「ど、どういうことだ? どうすれば、俺の時間はその《刻潰し》とかいう、ふざけた現象に全てを奪われないで済む?」


 俺の顔は今、笑われてもおかしくないほどの焦燥に満ちているだろう。

 だけど彼女は茶化さずに、出会った時と同じ、真剣な眼差しと柔らかな声で俺に解決策を突き付けてきた。


「人生に命題を持ち、時間を浪費せずに生きる。それが《刻潰し》への対処方法よ」

「……そんなの」


 そんな提案に、返せる言葉もなく項垂れるしかなかった。

 軽い提案のはずだ。中学二年生が、当たり前に出来ることのはずなのに。


「あなたには無理よね、日陰玄人君。一年前にこの場で言ったように、あなたは異常者なのだから」


 何もかもお見通しなのか、どこまで俺のことを知っていたのか分からないが、芳野は気付いていたらしい。


 俺が真の意味でのであり、それがなのだと。


「私たちが中学一年の二学期に提出した、【冬休みの過ごし方】っていう、作文を覚えている? 担任が課した、何の意味もない退屈な提出物を」

「覚えている……はずだ」


 記憶は曖昧だが、生徒の作文を読むのが好きな担任教師が企画したものだ。最優秀者は内申点を加点するなんて、嘘くさいご褒美のために優等生たちが熱中していた。


「あなたの作文を読んだ時に、驚いたわ。寝て起きて、朝昼晩の三食を食べて、夜になったらお風呂に入って寝る。一切の余暇も遊びもない、そんな一日だったわね」

「は? だってそれが普通の男子中学生」

「いいえ、違うわ」


 レイカは俺の言葉を強い語気で圧し込んで、続けた。


「あなたは本当の意味で、空っぽの一日を過ごしているのだから」


 例えば、中学二年生の冬休みなら。

 早くも高校受験の為に毎日机に向かって、何時間も勉強をする。

 三年生に進級して間もなく開かれる、春の総体に向けて部活動を頑張る。

 趣味に没頭する。SNSやゲームに時間を割く。無意味に筋トレをしてみる。

 恋人や友達と遊ぶ。


 青春を、謳歌する。ただ、それだけでいい。


「あなたはそういうことを一切せず、本当の意味で時間を浪費しているだけ。娯楽と人との繋がりに満ちたこの現代では、信じられないくらい無為な人生よ」


 友達も、恋人も、所属する部活もグループもなく。

 趣味や好きな物もない。家族ですら、今は同じ場所で暮らしていない。

 でも、そんな人間は自分だけじゃないと思っていた。

 自分は浮いた存在じゃない。特別じゃない平凡だと、信じていたのに。


「あなたの一日は、他人と比べたら空っぽなの。ただ退屈な時間を苦痛だとすら思わない。何かに興味も感動も覚えない。過ぎ行く秒針を眺めるだけ。ある種の病だわ」


 病身的。芳野の言葉から連想した、自虐的な言葉遊びに笑いが漏れる。

 ああ、そっか。こんな俺だから――。

 異常者だから、異常な現象に巻き込まれたのか。


「俺の……十三年間は、ずっとおかしかったのか」


 十四年と言いかけて、既に一年は奪われていることに気付いて言い直す。

 今まで家族から変な子供と言われ、同級生と打ち解けられない理由が分かった。

 学校で詰め込まれた知識しかない子供なんて、そりゃ避けられるよな。


「ねえ、日陰君。あなたがこれから、そんな生活を続けたらどうなるか知りたい?」

「……は? 疑似体験でも出来るのか? それとも、《イワクツキ》とやらに蝕まれた人間の末路を教えてくれるのか?」

「その両方ね。後悔先に立たずと言うけれど、先に立ってくれる……役に立ってくれる、もう一つの《イワクツキ》をあなたにあげるわ」


 芳野はセーラー服の胸ポケットから、腕時計を取り出して俺の右手に巻いてくれた。

 漆のように黒い革のベルト。盤面も同じ漆黒で、数字だけは真っ白だ。


「その時計は《刻潰し》に対して、唯一の――」


 なんだ? 目の前の芳野が、水に溶かした絵の具のように滲み始めた。

 姿も、声も、彼女から僅かに香るスズランのような匂いも。

 何もかもが曖昧になっていく。


「日陰君、怖がらないで。あなたが覚えていなくても、あなたと私は」



 ずっと、同じ時間を共に生きていくから。


 その言葉を最後に、再び視界が暗転する。

 目に映る世界が、積み上げてきた時が、ゆっくりと崩壊した。


 ***


「……どこだ、ここ」


 再び動き出した俺の時間。広がった世界は、全く見覚えのない場所だった。

 どこかの学校、その校門前。両脇に植えられた立派な桜の木からは、花弁が舞う。

 春だ。数秒前まで感じていた、空き教室に漂う冷たい風は、もうどこにもない。

 鏡を探しても、ポケットに携帯電話を探っても、見つからない。


 誰か証明してくれ。俺が、日陰玄人が何歳で、何者なのかを。


「玄人君?」


 背後から声がして、振り返る。知らない声と、知らない顔。

 ブレザーの制服を着た少女の胸元には、『卒業祝い』と書かれた造花のバッジが留まっている。中学校の卒業式? いや、違う。


「高校生……なのか」


 彼女の顔にはまだ幼さが残っているが、僅かに大人のような色香と苦労が滲んでいる。

 栗色に染まった髪。薄く施された化粧。成長を終えた身体。

 理解する。俺は『』という時間を、《刻潰し》に一瞬で奪われたということを。


「どうしたの、玄人君? 顔色が悪いよ……? 卒業式、終わっちゃったけど、クラス会は行く? 良かったらその前に二人きりで――」


 僅かに紅く染まる頬と、恥ずかしそうに何かを言い淀む声を聞いて、俺は走り出していた。居たくない。ここには、俺の居場所はない。


 君は、俺にとっての誰なんだ?


「玄人君!」


 名前も知らない彼女の声が、遠くから聞こえた。

 知らない場所を走り続ける。

 俺が知らない世界で、俺が知らない俺を知っている人。俺だけが知らない時間。

 怖い。怖い。たった数秒で、俺の四年が消えてしまったことが、怖かった。

 気付けば涙が流れてくる。顔中をぐしゃぐしゃにして走る俺に、奇異の目と声が向けられても、足を止めることが出来ない。


 何あれ。失恋? 卒業生だ。感極まったのかな。若さっていいね。青春だなあ。


 桜の並木道を走り続ける。行く当てもなく、彷徨い続けていた時。


「う、ぐっ」


 強い衝撃を上半身に感じ、短い呻きを漏らしてから、自分が転んだことに気付く。受け身もろくに取れていない。見えないが、頬から血が流れているような気がする。


 だけど今だけは、この痛みが愛おしい。


 俺が生きていることを教えてくれる、唯一の存在証明だから。

 このまま時間が止まってくれても、それでいい――。


「待って、くれ」


 突然『』は、来た。


 二度も経験すれば、予兆だということは嫌でも分かる。

 全身の脱力感。音や光の遅延と混雑。視界が急激に滲むような感覚。

 ダメだ。やめてくれ。俺の時間を奪わないでくれ。どうして、どうして俺が。

 人生を必死に生きなかったから? 時間を浪費していたから? ただそれだけで?

 どんな権利があって、俺だけの時間を他の何かに奪われなきゃいけないんだ。


 返してくれ。助けてくれ。嫌だ、嫌だ、嫌だ。


 お願いだから。反省するから。もう。


 俺から、俺の世界を奪わないでくれ。


 ***


 次に意識を……『時間』を取り戻した時には、どこかの家に居た。


 新築なのか、壁や床から漂う材木の香りと、高そうな家電や革張りのソファが目に入る。絵に描いたような幸せの世界。人生に勝ち負けを決めるなら、間違いなく後者ではないと断言出来る。


「もう、こんなに時間が経ってしまったのか」


 その中で、壁掛けのカレンダーを見つけて愕然とする。


 十五年。


 俺が最初に《刻潰し》に時を奪われてから、途方もない年月が過ぎ去っていた。

 十三歳の時にこの現象に巻き込まれて、既に生きてきた時間よりも多く、イワクツキに人生を蝕まれている。


 あの日から、体感時間はたったの数分にも満たないというのに。

 どうしてだよ。単純計算で、俺の寿命はあと……一時間もないっていうのか。

 同じように意識を失って、一瞬だけ世界を知覚して、それの繰り返し。


 死ぬのか、俺は。自分の人生に意味も価値も、記憶さえもないままで。


 ふぎゃあ、うぎゃあ。


「……は?」


 隣の部屋から、何かの生き物の泣き声が聞こえてくる。


 違う。「何かの」なんて誤魔化しは、ただの現実逃避にすぎない。

 記録不可。十四年前……体感では数分前に言われた言葉を思い出す。


 だからこれは、俺の空白の時間がどうだったかという、憶測でしかない。

 高校を卒業して、大人になって仕事に就いて、金を稼いで、誰かと結婚して。

 そして、新しい命を授かったのだろう。

 家族として。親として。その命を守るために生きると決めて。


「……だけど、それをするのは『俺』じゃない」


 他人から見れば、俺は俺だ。宿る意識や意志なんて、誰にも分からない。

 糸の見えない傀儡と同じで、《刻潰し》が俺の時間を食いながら、日陰玄人の人生を使い潰しているだけだ。


 生きているのに、死んでいる。死んでいないだけで、生きているフリをしているだけ。


 俺を知り、救ってくれる人はどこにも居ないはずなのに。


「助けてくれ……誰でもいい。本当の俺を知る、誰か」


 中学生の頃にこの歪な現象の存在を教えてくれた彼女の顔とあの日を、思い出していた。



「ええ、いいわよ」



 項垂れている俺の背中に、温かさが広がっていく。

 振り向こうとするけれど、包み込むように抱き締めてくれる『彼女』が、それを許してはくれない。


「見なくていいわ。私が誰で、あなたが知っているヒトなのか、それは関係ないから。ねえ、玄人。あなたの右手を見て」


 言われるがまま、俺は右手に視線を移す。

 十代の頃とは違う、ムダ毛が増え、弾力や瑞々しさを失った手。

 だけど、それ以上に気になるものがそこには確かにあった。


 右手首。革が剥げ、金属部分が錆びた黒い腕時計。


 あの日、空き教室で芳野に貰った時計、もう一つの《イワクツキ》だ。

 あの頃の俺を……時を喰らいつくされる前の俺の存在を、証明してくれる贈り物。


「これって、もしかして」

「私があなたにあげたものよ。名は、《時掬いときすくい》。それが時間を失ったあなたを救ってくれる。きっと本当の意味であなたと過ごしたのは、中学二年のあの冬が最後だったのね」


 肩の辺りに、また違う温もりが伝わる。彼女が顔を埋めたのだろう。


「あなたにとっては一瞬でも、私にとっては……大切な十五年だった。長くて、だけど愛おしい時間。どう? 《イワクツキ》の怖さが分かったでしょう?」

「……付き合って、くれたのか? この悪夢のような体験に、十五年も」

「ううん。あなたにとっては悪夢でも、私にとっては夢みたいに素敵な日々だった。記録不可でも、あなたは私にたくさんの思い出を作ってくれた。でも、もう大丈夫」


 彼女は……俺の妻は、後ろから両腕を伸ばして腕時計に触れる。

 白く長い指が時計のリューズを引っ張って、その針を反時計回りに動かし始めた。


「これは巻き戻るべき世界よ。私にもあなたにも、本当の未来がある」

「待ってくれ……! ここで戻ったら、今まで積み上げてきた時間が――!」

「いいのよ。これはハッピーでもバッドでもない、無数の可能性の一つだから。私があなたを導いたように、今度はあなたが私を導いて」


 腕時計の盤面が、金色に輝き始めた。

 そしてその金色は一瞬にして絵の具のように固まり、空気中に粒子となって霧消する。

 天井に、壁に、床に、窓や外の世界にさえも溶けだして、絵画を一色で塗り潰すような、不思議な光景が視界を染めた。


「ねえ、玄人。まだ、ただの中学生でしかない……あの子によろしくね。それと、出来ることならあの子を幸せにしてあげて。あなたの時間を、注いであげてね」

「……ああ、約束するよ。俺の時間はもう、二度と無駄にしない」

「ふふっ。出会った頃は可愛い少年だったのに。素敵な男性になったわね、旦那様」

「あのさ……俺は君の顔を確認出来ないし、名前も聞いてもいない。だからこれはあくまで推測であって、願望なんだけど」


 そうであったらいいなと、そうであってくれと、心の底から願いながら。


 消えゆく世界と遡っていく時の中で、彼女に告げる。


「俺と共に生きてくれて、ありがとう――、レイカ」


 その言葉が『彼女』に……『今』の芳野レイカに届いた、その直後。


 口を閉じると同時に、世界は崩れた。

 消失の彼方へ進む世界は、いずれ逆行し別の世界へ再構築されていく。

 束の間に見た黄金色の幸せな未来は、絶対に忘れない。

 死ぬまで忘れてはいけない、二人の大切な「思い出」だ――。


 ***


「おかえりなさい、日陰玄人君」


 優しい声が聞こえて、俺はゆっくりと目を開ける。

 夕暮れの教室。埃っぽい空気。冷たい隙間風。柔らかな、微笑み。

 右腕を見ると、袖の余っていない学生服を着ていることに気付く。

 帰ってきたのか。《刻潰し》に一度時間を奪われた、中学二年の冬に。


「……ただいま、レイカ」


 安堵が全身を包んで、緊張を解す。力が抜けるとはこういうことか。膝から崩れ落ちようにして、俺は教室の床にへたり込んだ。


「あら? いきなり名前で呼ぶなんて、どういうつもり? 未来で楽しいことでもあった?」

「ああ。ほんの数分だけど、生きていて良かったと思えたことがあった」


 だけどあの時間と、あの場所。大切な人と交わした言葉は胸に秘めておこう。

 目の前に居る芳野レイカと、あの時俺を抱きしめてくれた女性は、同じだけど違う。


「レイカのおかげで救われて……それに、《イワクツキ》の怖さも理解した」


 痛感した。人の時間を蝕み、十数年が数分に変化し、記憶を奪う。

 自己の存在否定――、それがどれほど恐ろしい『現象』なのかを。

 あの長く短い旅を経て、俺はあることを決めていた。


「なあ、レイカ。お前は一体、何者だ? どうして《イワクツキ》に詳しいのか、そして何を成し遂げようとしているのか……教えてくれないか?」

「いいわよ。私にとってはたったの数分でも、その時間であなたが私への意識と見方、そして自分自身を省みるのには充分だったみたいね」


 レイカは俺の目を見つめる。綺麗な切れ長の目。情熱と冷静を宿したその瞳に、釘付けになってしまう。


「でも、それを知ったらあなたは二度とではなくなるかも。私の言葉を聞かなければ……日陰玄人は普通の人生を歩めるかもしれない」


 沈黙する俺に、レイカは語る。

 反省し、後悔し、真っ当に時間を使って人生を進もうと心に誓えば、《刻潰し》は効果を発揮しない可能性がある、と。


「そうすればあなたは《イワクツキ》ではない、ただの日常を生きていけるわ」

「いらない。そんな日常は、数分前の世界と何も変わらない」


 即答する。迷いはない。空っぽで虚無の塊だった俺が、もう一度この世界で生きていくために必要なことは、決まっている。


「俺はレイカの隣で生きていきたい。例えそれが、どれほど過酷で曰くが付き纏っても」


 レイカが望まないのなら、ただの親しい友人だっていい。

 レイカが望むのならば、彼女が為そうとしていることの、手伝いをしたい。


「俺が生きる理由は、レイカ自身なんだ。迷惑じゃなければ、隣に立たせてくれ」


 心に刻んだ誓いを、捧げる対象に向けて告白するのは恥ずかしかった。

 だけどレイカは照れもせず、茶化すこともせず、嬉しそうに笑い返してくれる。


「……ふふっ。私、未来であなたと一体どんな関係になっていたのかしら。だけど、そう言ってくれるのは嬉しいわ。日陰君」


 そしてレイカは語る。

 自分が何者なのかを。


「私は《イワクツキ》の破壊と回収を人生の命題にしているわ。どちらを行うかはその時々で変わるけど、不可思議な現象や物質に人生を歪められる人を、減らしたいの」


「それは、つまり……《イワクツキ》を憎んでいる、っていうことか?」

「いいえ、愛も憎も無いわ。単なる使命だから。今言えるのはそれだけね。もっと仲良しになったら、私の可愛いところも恥ずかしいところも、全部見せてあげるけど……」


 どうする? その目が俺に、最終決定を迫ってくる。

 だけど、答えは最初から変わらない。


「可愛くないところも、誇れるところも、俺に全部見せてくれ」

「仕方ないわね。だけどこれから私とあなたは、対等よ。私が笑えばあなたも笑って、私が泣けばあなたも泣く。そして私が脱いだらあなたも脱ぐ。それでいい?」

「これ以上なく、最高の関係だ。俺だって全部見せてやる。二人の生きる時間が一緒なら、それだけでいい」

「あなたが死ぬ時は、私も死ぬ。そんな究極でシンプルな関係を、結びましょうか」


 互いに手を差し伸べて、互いの声を聞き、互いの命を預ける。

 俺の人生は、本当の意味で今日ここから始まるのだ。


「これからよろしく、レイカ」

「これからよろしく、玄人」


 ***


 それが、あの冬の日に俺とレイカの間に起きたことだった。


 それからレイカと俺の付き合いが始まった。


 レイカは時に、趣味も何も無かった俺に流行やサブカルチャーの知識を叩き込み、時にはいくつかの《イワクツキ》と向き合い、過酷な受験勉強をし、高校生となった。

 二年間にたくさんのことを経験し、辿り着いた今日という一日。


 俺は俺のままで高校生になれて、本当に良かった。《刻潰し》に隙を与えないために、という理由もあるが……今は自分のために時間を『消費』する日々が愛おしい。

 その隣に芳野レイカが居てくれるから、というのも大きいだろう。


「さて、そろそろ行こう」


 新品の制服に袖を通し、姿見で自分自身と向き合う。

 すっかり成長期が終わって、袖を余らせる必要もなくなった。

 皮肉なことに進学先は《刻潰し》に奪われた未来で選んだのと、同じ高校だったけど。今度はそこに、信頼できるヒトが居てくれる。


 家を出て、通学路を歩き、その道中で待ち合わせていたレイカと合流する。


「おはよう、玄人。私を待たせるなんて、贅沢な時間の使い方をしているみたいね?」


 逆にあの日から殆ど見た目が変わっていないレイカが、俺と同じ制服に身を包んで意地悪そうに笑う。


「ああ。一分一秒を無駄にしないで生きているからな」

「私の一分一秒を無駄にした男がよく言うわ。正確には五分二十秒だけど。出会ったばかりの可愛い少年だったあなたは、女子を待たせる悪い男に成長しないと思ったのにね」

「俺は時間通りに来たのに責めが激しすぎる。ていうかお前こそ、珍しく時間前に来るなんて、そんなに俺と一緒に登校するのが楽しみだったのか?」

 意趣返しのつもりで放った言葉だった。だけど、レイカは。

「もちろん。あなたと同じ高校に通うの、とても楽しみにしていたから」


 先ほどとは違う、屈託のない笑顔をぶつけてきてつい怯んでしまう。

 顔が赤くなっていませんように。そう願いながら、俺は無言でレイカの先を歩く。


「あはは。あなたのそういう所、変わらないわね。悪い男になれとは言わないけど、女の子一人くらい軽くあしらえるくらいになってもいいのに」

「……誰のせいでこんな男子になったと思っているんだ」


 レイカには聞こえないように呟いて、俺たちは桜を纏った風の中を歩く。


 将来の目標も、尽くす趣味も、好きな異性さえも。

 何も無かった俺にたくさんのことを教え、与えてくれたレイカのために。

 今度はただ救われるだけじゃなく、彼女を救えるような人生にしたい。

 そんな祈りを胸に秘めて、今日という日を大切に生きていく。



 俺とレイカのイワクツキだらけの、新しい『時間』が、始まる。


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