うみねこお父さんの受難

ノウセ

1章 うみねこお父さんの臨終

1-1 臨終の床


 コトコトと音が鳴るのはお鍋の音。吹いちゃいないかしら、焦げちゃいないかしらと音の所在の方へと彷徨って、台所まで来てみると、ハッと思い出すものがあり、しまったと思った時には元の場所へ戻っていた。どうやら抜けかかっていたらしい。


「もー、ほんと、困る〜」


 混濁とした意識の中で鍋の心配ばかりしていると、おっちょこちょいのチビ助の声がする。ああ、ヤレヤレ。あいつがまた何かをやらかしたのだ。心配性なのかもしれないが、ここは一つ親心ということで一声をかけてやろうと声を出そうとしたが無理だった。この身体にはもう呼吸のみの力しか残っていないようだ。

 目も開けられず、喋れないのであれば何もする事はなかった。仕方がないので息を吸い、息を吐き、息を吸い、息を吐きしていると意識は少しづつ明瞭に戻っていった。

 するとチビ助だと思っていた娘の姿は、次第に少しづつ大きく成長していき、––––‥‥ああそうだった。娘はもうすでに成人していたのだった。


「お鍋、止めてきたよ」

「ん、ありがと」


 聞き覚えのある若い男の声がする。気を利かしてお鍋の火を止めに行ってくれたのはやはり彼だったようだ。


「スズメちゃん、ちゃんと見てないとダメだよ」


 彼に初めて会った日のことはよく覚えている。長らく勘当していたはずの娘が突然現れて、なんと男連れで帰って来たのだ。真摯に娘をくれと頼み込む彼を、私は無言の態度で拒絶を決め込み「君にお義父さんなどと言われる筋合いはない」などと断じてしまった。その日の事を私は後悔しているよ。


「ん、そうだね」


 我が子ながら愚かな娘だ。今ではこちらの方から土下座して頼み込んで、もらってくれと頼み込むのに、彼には本当に失礼なことをしてしまった。

 確かジローくんと言ったね。君とはもっと元気な内に、よく話をしておくべきだった。意固地だったと反省するよ。残念ながらこの身体には声を出して話す力も残されていないようで、伝えることはもうできないが、君には感謝をしている。

 ‥‥そして、すまない。

 君にはその厄介なお荷物を押し付ける形になってしまい大変申し訳なく思っているよ。


「アレ‥? お義父さん起きたかな?」

「ううん、ダメだよ。ずっと寝てる‥‥‥‥」

 

 私は娘が1年ぶりに家に帰ってきたあの日の事を思い出す。 

 厳しく言いつけておいたはずなのだが、娘は勘当された身でありながら素知らぬ顔で(他人様の家へ)ドカドカと家に上がり込んできて、我が物顔で彼に家の内見をさせていた。彼がまずは挨拶をと言うのも聞かずにだった。私はしばし物を考えれず娘の傍若無人の振る舞いに亜然としていた。


「最近は食も細くなってきていたし、体力もずいぶん落としていたんじゃないかな」

「‥‥ここのところ釣りに行かないから変だとは思ってたけど」


 まさに開いた口が塞がらなかった。

 それはそうだろう。親として怒りと哀しみの入り混じった(あれほどの)苦渋の決断をして二度と帰ってくるな(!)と言い渡したのだ。あの出来事は親と子の関係に取り返しのつかない大きな傷をつける事件であり、現にそれから一年もの間、娘は私に連絡も一切よこさずにいたのだ。

 喧嘩別れをしたまま、もう死に目にも会えないだろうと私は覚悟していたのだが‥‥‥。(あれだけの啖呵を切ったのだ。娘の方もそれなりの覚悟があったのではなかったのだろうか? 違うのか?)

 その放蕩娘が何事もなかったようにひょっこりと現れて、家を荒らしているのである。目の前の状況に考えが追いつかないのは当然であろう。


「先々週の夜釣りのあたりかな。急に元気がなくなったの。お義父さんは寡黙な人だから、ちょっと僕も気づきづらかったよ。‥‥失敗したね。無視されているのは分かっていたから僕も色々と距離感を測って遠慮してしまっていたけど、それでも無理にでもお義父さんとしっかり話をしておけばよかった。もっと注意して体調のこととか気にかけておけばよかったよ‥‥」

「んー、気にしすぎ。いいのいいの。お父さんなんて基本的にほっとけばいいんだから。私なんてぜんぜん気にしてなかったよ。今日は釣りに行かないのかな。アレ? 今日も行かないの?? ぐらいにしか思ってなかったよ。だからジローくんのせいだけじゃないよ。あ、それと前も言ったけど、お父さんのアレは無口とか無視とかそういう次元の話じゃないから気にしなくていいよ」


 そういう訳で、私は目の前で好き勝手に繰り広げられる娘の所業にしばし呆然としてしまったのだ。

 だが思考が正常に働き出す前に、無意識には惨状の理解処理が行われていて、腹の底では少しずつ怒りの種火が燃え出そうとしていた。

 ようやく思いつくものがあり、一喝して家から追い出してやろうかと思った。

 そして口を大きく開け、喉から怒鳴り声が出かかった時だった。

 私は娘のお腹が大きくなっているのに気づいて、開けた口をさらに大きくして唖然としてしまったのだった。


「‥‥ん? やっぱりお義父さん、ちょっと起きたんじゃないかな?」

「そお?」

「‥‥‥‥ねぇ、スズメちゃん」


 妻が生きていたら、このような不埒な娘になんと言ったろうか。そもそも久しぶりに帰ってきたなら、親しき仲にも礼儀あり、まずは親の顔を見て挨拶が筋だろう。娘にはそういう常識がなってない。


「‥‥スズメちゃん、何かお義父さんに言っておかなければならないことはない?」

「‥‥‥‥うん」


 常識がないのは育てた家庭の責任だ。今した批判の言葉は、すぐさま自分の身に返ってくる。つまり育ちと悪さを指摘されたら、一般の常識を教えられなかった親の責任だろう。子供の頃に蝶よ花よで、私は娘を甘やかし過ぎてしまったのだ。


「お父さんに言いたいこと‥‥?」


 ろくに教育を施さず社会という野に放ってしまい、家をひとり出た娘の身を心配をするよりも、世間様に何か粗相を働いていないか、そちらの方を心配してしまった。

 常識がなくて娘が社会で、さぞかし苦労しただろうと身を案じるよりも、常識がないあのバカ娘が、さぞかし周りに迷惑をかけているだろうと、何かやらかしてはないだろうかという心配でいつもヒヤヒヤだった。

 このような教育の足らない娘を家から出してしまい、親として本当に世間様に面目ない。



 『漢、うみねこ。

  ここに世間様に対し平に謝ります!

  日本国民の皆さん!

  映えある大和の魂を引き継ぐ道徳民の皆さま方!

  私の娘が、不肖の我が娘が。

  大変なご迷惑をかけ。

  本当の、ほんっとーに、申し訳ありませんでした!!』



 ‥‥ヤレヤレ。こんなものでも生まれた時は、無垢で天使のように愛らしかった。あの頃は、この子の将来はどんな素晴らしいものになってくれるのかと、立派になったその姿を夢見て、私も人並みの親バカのように誇らしくなっていたよ。

 それが、‥‥いい歳をした子供のために恥をかかされ、頭を下げるような情けない親の一員に自分も加わろうとは思いもしなかった。


「あ、あった。いっぱいあった」


 挨拶もない。筋も通せない。本当に愚かな娘だ。だが私とて鬼ではない。腹の膨れた娘に出ていけなど言えまい。よほど怒鳴り散らしてやろうと思ったが、口をつぐんだ。

 勘当をしている事も、あえて掘り返さず口に出さなかった。

 –––私は許さんが好きにしろ!

 無言の態度で、私は娘にそう言い放ったのだ。


「もー、お父さんさー。お風呂の蓋、ぜんぜん閉めないしさー。トイレもオシッコそれたんならちゃんと床拭いといてよねー。もー、あの子たちと一緒なんだから、同じこと言わせないでよねー」

 

 親になる前、子を育てる苦労を知らない時は、可愛がりさえすれば良い子に育つと思っていた。親になった後もその考えは変わらない。私はできるだけ自分の子供は自由に伸び伸びさせてあげたかった。特に厳しく躾けたりしなくとも、不器用ながらも愛情を注ぎさえすれば、親の思いを知ってくれると思っていたからだ。それが仇になろうとは。

 ‥‥私は寛容でありすぎた。与えすぎてしまったのだ。

 過分な愛情により結果。我儘放題。傍若無人。親への恩など思いつく事もなく、感謝を知らない放埒な子が出来上がってしまった。


「それからあの子たちの送り迎えの時もさー。前トラブルあったんじゃん。なんで先生にちゃんと話してくれないの。お父さんが言ってること分かるの、はっきり言ってこの世で私だけだよ。もー、お父さんはさ。本当にどうしようもなくお父さんなんだよ。ほんとっ困るんだけど〜」


 ほれ、見たことか。こいつはいっつ〜もこうだ。

 娘はこのように自分のことしか言わない。こいつの駄々の為にに私がどれだけの小言を飲み込んできたのか。ヤレヤレ。親の寛容さも知らず、私の顔を見れば、文句ばかりのぐずるか拗ねるかの二択だけ。ヤレヤレヤレ。大きな駄々っ子とはよく言ったものだ。昔から膨れっ面がよく似合う子だよ。お前は。


「スズメちゃん、スズメちゃん、違うよ。本当は分かっているんだよね。これが最後になるかもしれないから、‥‥ね?」

「もー、それにどうして釣竿ばかりいっぱいウチにあるの? ねぇねぇ、居間に飾ってあるあの高そうなヤツ。起きないなら今度粗大ゴミに出しちゃっていいんだよね!」


 なんだと! それがこの世に生まれ落としてやり、碌にお前がものも満足に言えなかった時分から育て上げた恩ある親に対しての仕打ちか! お前は分かっているのか。あれはオーダーメイド品だぞ! 高いんだぞ!

 なんたる理不尽! なんたる邪悪さ!

 幼い時はなんとか力で抑えつけられてたいたが、親が衰え動けなくなった途端、横暴な本性を露わにするとは。

 老いとは悲しいものだな。このような性悪な娘には更生できる時に、パチンと一発でもかましておくべきだったのだ。私は甘すぎたのだ。寛容すぎたのだ。老いさばらえた弱々しい腕では、もうこの邪悪な娘を止められん。


 ああ、なんと嘆かわしい。

 わたしは教育を間違えたのだ。


「‥スズメちゃん。多分、いまスズメちゃんとお義父さんにとって取り返しがつかない大切な時間なんだよ。だから、ね。お義父さんと、ちゃんと話を、‥‥‥‥んん。でも、確かにちょっと多すぎるよね」

「でしょ、でしょ。何で釣り道具が一部屋に収まらないで、居間や玄関にまで進出しているの。もー、ほんとっ、ひっどーい。お父さんのせいで廊下なんてウチには存在しないんだよ。動線ぜんぶ埋め尽くされちゃってるしさ。アレをいい加減、どうにかしてもらわないと困るんだけど。ねぇねぇ、お父さん。聞いてるの?」


 

 ああ、なんと嘆かわしい。

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