七面鳥の味

馬村 ありん

七面鳥の味

 欧米人がクリスマスにフライドチキンを食べないという話を聞いたのは、中学生の時のことだった。はっきりと覚えている。クリスマスを一週間後に控えた日のことだった。俺は、授業をサボって、ヒロシとケンとジョウジと四人、裏庭でタバコを吹かしていた。


 アスファルト色の空からは雪がチラホラと舞い落ちてきていて、学ランの隙間をぬってはいりこんでくる冷気に俺達は震えていた。それでも、誰も『寒い』とは言わなかった。そういう年頃だったのだ。


「クリスマスの夜に、ミーコとヤるぜ」

 ヒロシは言った。唇にくわえたタバコから煙がたなびいていた。

 間をおいて、俺とケンとジョウジは「すげえ」と言った。

 ほめられて有頂天になったヒロシは、頬を桃色にそめて、口元をニヤつかせた。

「すげえだろ」

「すげえ」

 こういうふうに言うと、ミーコとヒロシは恋人同士かと、思うかもしれない。実を言うと、ヒロシが片思いしているだけだった。そんなこと俺もケンもジョウジも知っていた。

 だけど、『そういうことは恋人づきあいしてから言えよ』なんて野暮なことをいうとヒロシの立場がなくなる。そうしたら、ヒロシは落ち込んでしまう。


「俺はアカネとヤルぜ」

 ケンが言った。

「すげえな」

 ヒロシも俺もジョウジも言った。

「へへ」

 ケンは照れた。

「俺はシズキとヤルぜ」

 俺が言うと、みんながほめた。ちなみに、シズキとは、後の高校時代に本当に付き合うことになる。それは、自分が同性愛者だと気づきを得る契機にもなる。


 ほめあうといい気分だった。

 すると、ころあいを見計らったように、ジョウジが口を開いた。

「ところでさ、クリスマスの夜はみんなのうちは何を食べるの? うちはフレンチレストランに連れて行ってもらうんだけど」

 ジョウジの父親は市会議員で金も地位もあったから、羽振りがよかった。おかげでジョウジは、ベロアのマフラーを巻いているし、その下足箱にはホーキンスのブーツが収まっていた(ちなみにホーキンスは三度盗まれ、三度買い直していた)。

「すげえ」

 俺は言った。ヒロシもほめたし、ケンもほめた。

「へへ」

 ジョウジは満足の笑みを浮かべ、タバコをふかした。


「うちは寿司。親父がスシローに連れて行ってやるって言ってた」

 ケンは笑顔を浮かべた。

 ヒロシはプッと吹き出した。ジョウジも吹き出した。

「クリスマスに寿司かよ」

 ヒロシは笑った。

「クリスマスのイメージじゃないよな、寿司って」

 ジョウジ言った。

「いいじゃねえかよ、別に寿司でも」

 ケンは、色白の顔を真っ赤にそめた。

 ヒロシとジョウジが笑う気持ちもわからなくはなかった。寿司は、クリスマスのイメージから程遠いところにある。


「別にいいんじゃねえかな。寿司でも。ごちそうを食べるのがクリスマスってものだろ? 寿司はごちそうだろ」

 俺がそういうと、ヒロシもジョウジも「確かに」と言った。助け舟を出した俺に、ケンはぱあっと笑顔を向けた。

 こんな意見が言えるなんて、当時の俺としてはずいぶん大人な態度だったと思う。

 なんせ、こんな風にケンがよろこんでいるのをだいなしにしたくなかった。毎日のように青あざを作って登校してくるケンが、笑顔を浮かべながら父親のことを話すのは初めてだったのだ。


「タカヒコは何を食べるんだよ」

 ジョウジが言った。

「うちはフライドチキン。ケンタッキーにパーティ・バーレルを予約してあるんだ」

 俺の表情は得意げだったと思う。なんせ楽しみにしていた。流動食しか喉を通らない現在とは違って食欲も旺盛だった。

「おおっ!」とケン。

「ケンタッキーか。やっぱりクリスマスと言えば、ケンタッキーだよな」とヒロシ。


「それさ、海外だと笑われるから」

 ニヤニヤしながらそう言ったのは、ジョウジだった。

 空から舞い散る雪の粒が大きくなってきた。緑色の雑草の上を、白いものがおおいかぶさっていた。

「なんだって?」

「欧米人からすれば、日本人が聖夜にフライドチキンを食べるのは馬鹿みたいに見えるってこと。わかるかな?」

 ジョウジは口元の筋肉に力を込めた。空気を吸い上げたタバコがジュワッとひときわ赤く燃えた。

「フライドチキンってさ、欧米人にはあんまり上等な食べ物じゃないんだよ。それをありがたがってる日本人ってバカみたいなんだよね」

 ジョウジの顔に浮かんだのは意地悪な笑顔だった。容赦ない口ぶりになってしまっていた。もしかしたら、みんなからほめられて調子に乗ってしまっていたのかもしれない。


「欧米人はクリスマスにケンタッキーを食べないのか?」

 ひろしが全身を震わせつつ言った。その体が震えていたのは怒っていたからではない。寒かったからだ(そもそも、この場で怒りを感じていたのは、俺だけだった)。

「食べないね」

「じゃあ、何を食べるんだよ」

 ケンが言った。

「それはね、七面鳥だよ」

「なんだそれ?」とヒロシ。


「めちゃくちゃおいしい鳥なんだよ。うちでは毎年食べてる。ニワトリよりも柔らかい。それから、ほんのりいい香りがする。華やかな味わいなんだ。パーティーを飾るにふさわしい味。まったくの美味なんだよ」

 ジョウジの言い方は大袈裟に聞こえた。シェイクスピア劇の役者みたいだった。七面鳥への愛をうたうロミオだった。国会議員となったいまも、ジョウジはディナーに七面鳥を食べていることだろう――いや、検察による脱税の追求に対応するため、いまはそれどころではないかもしれない。

「すごいな」

 俺達は口々に言った。


 俺は感心していた。いつの間にか、怒りは消えていた。それよりも七面鳥に興味を持った。気分の切り替えが早いのが今も昔も俺の美点のひとつなのだ。

「食ってみてえな」とヒロシ。

「そうだな」とケン。

「お前らも食いに行ったらいいじゃん」

 ジョウジはそう言った。みんなは無言になった。そんなに高い店に行ける家庭ばかりではない。そんなことをジョウジは承知しているはずなのに。

 それから、週刊プレイボーイの大島優子の水着グラビアへとヒロシが話題を変えたので、クリスマス・ディナーの話はそこで終了になった。


 俺の七面鳥への思慕はここで消えうせたわけではなかった。それは熾火おきびのように、脳みそのなかに残り続けた。まるでジョウジの熱意が感染したかのようだった。

 それでも、七面鳥を口にするのはそれからしばらく間を置くことになる。

 その年俺はフライドチキンを楽しんだ。きっとジョウジは宣言通り七面鳥を堪能したんだろう。

 ヒロシは何を食べたか分からないが、多分俺と同じくチキン料理でも食べたのだろう。その隣にミーコはいなかったはずだ(多分)。

 ケンだって、人生最後のクリスマスディナーを堪能したと思う(不幸なことに、その翌年の九月に親子もろとも交通事故で他界する。父親による無理心中とみられている)。


 俺が初めて七面鳥を食べたのは、それから五年後のことだった。大学生になっていた俺は、恋人と暮らすアパートでそれを食べた。

 クリスマス・イブの夜、買い出しから帰ってくると、ミツヒサの小さな唇に俺はキスをした。

「タカヒコ、ヒゲが痛いよ」

 ミツヒサはくすぐったそうに言った。

 俺達は燃え上がり、施錠するのも忘れて、玄関という場所で情熱的な行為にのめりこんだ。宅急便の配達員が来なかったのは幸いといえる。(クリスマスは日本では性愛の日として定着していると言ったら、欧米人は笑うのだろうか、それとも、あきれるのだろうか? 俺はどちらでもないと思っている。あくまで推測だが、少なくとも若い連中にとっては事情は同じなんじゃないだろうか)。


 一汗かいたあとで、ディナーとなった。ミツヒサは、惣菜のパックをつぎつぎと食卓に並べはじめた。イカとトマトのミートソース・スパゲッティ、ブロッコリーとエリンギのクリームシチュー煮、星型のクルトンが入ったシーザーサラダ。冷蔵庫には食後に食べるケーキが収まっている。何といっても、本日の目玉は七面鳥だった。

 地元のスーパーでは見かけたことがなかったが、驚いたことに東京都のスーパーでは当然のように売られていた。

『これ買おうよ』

 スーパーの店頭で、熱のこもった視線をミツヒサに向けた。

『ターキーかあ』

 ミツヒサはというと眉根をよせた。

『絶対おいしいって』

『どうかなあ』

 ミツヒサの抱えた買い物かごの中に、俺はパッキングされた七面鳥を突っ込んだ。


 ミツヒサがダイソーで買ったワイングラスにスパークリングワインを注ぐのを横目に見ながら、俺は七面鳥のパックをほどいた。てりやきのいい香りが漂ってきた。した直後だったのでお腹が空いていた。

 俺はかぶりついた。

「もう、食べるときは一緒に『いただきます』しようって言ったじゃない」

 ミツヒサは口を尖らせた。彼は育ちがよかった。だから俺と長続きしなかった。

「なんだこれ、かたい」

 タバコで黄ばんだ歯では太刀打ちができないほどだった。ようやく噛み切れても、歯と歯の間に肉のかけらが残った。香ばしい味わいなんてものじゃない。冷凍焼けを起こしたような臭みが口いっぱいに広がった。

「やっぱりね。おいしくないんだよ、ターキーって」

 ミツヒサは食べたことがあった。そして、その時の俺と同じ感想を持ったというわけだ。

 その時、俺は絶望を感じたと思う。

 長年夢見た味がこれとは。

 フライドチキンの方が絶対にうまいではないか。欧米人は味音痴なのか?


 七面鳥の名誉のためにことわっておくと、日本では飼育農家が少ないため、新鮮なターキーが手に入りづらいという事情がある。手に入ったとしても値が張る。それこそジョウジのような経済的に余裕がある人間じゃないとありつけない。そういうわけで、庶民の口に入るターキーはどれもおいしくないというわけだ。


 ジョウジのことを考えていたまさにその時、本人から電話がかかってきた。ただし、七面鳥の話は話題に上らなかった――なんせ、ジョウジが伝えてきたのはヒロシが覚醒剤取締法違反で逮捕されたというビッグニュースだったからだ。


 そして、俺はいま、病院のベッドで、隣の兄ちゃんがフライドチキンにかぶりつくのをみている。きょうはクリスマス。特別メニューというわけだ。

「タカギさんも食べたいよね、フライドチキン。かわいそうだね」看護婦が言った。「だから早く病気を治そうね」

 そう言って、味気ない流動食の載ったスプーンを俺の口元へと運んでくる。

 米の匂いがするどろどろの液体だ。飲み込む。のどが痛む。それでも耐える。

「頑張ったね!」

 看護婦はほめてくれた。


 二杯目の流動食が口に運ばれてくる。くたくたに煮えた野菜のかけら。また頑張って飲み込む。

 その時、スマートフォンが振動した。

 看護婦がテーブルの上から取ってくれた。メッセージが届いていた。ミツヒサからだった。

 ――はやく元気になってね、メリークリスマス。聖なる夜にタカヒコくんは何を願うの?

 ずいぶん前に別れた恋人になんと優しいことか。


 ――七面鳥が食べたい。

 膳がさげられた後、俺はそう返した。

 ――そういや、昔食べたね。

 冷や汗をかいた絵文字付きでミツヒサがメッセージを送ってきた。

 ――おいしいやつはおいしいはずだよ。

 ――元気になったら一緒にレストランで食べようね。

 ――そうしよう。


 その晩、夢を見た。俺とミツヒサは、ジョウジからフレンチレストランでのクリスマスディナーに招待された。

 その場には、ヒロシとケンもいた。二人は中学生の姿のままだった。

 赤く長いじゅうたんの敷かれた床を進んで、純白のテーブルクロスが掛けられた卓についた。

 ろうそくの火が揺れるテーブルの上には、香ばしい紫色のソースがかかった七面鳥。コック帽の男がギザギザのナイフで細かく切り分ける。ジョウジは得意げで、ヒロシとケンは指をくわえて見ていた。ミツヒサは無言でほほえんでいた。

 みんなで『いただきます』と言ってから、口に運んだ。うまい。あまりにも柔らかく、一口かんだ瞬間、雪のように消えてなくなるほどだった。

 俺はあっという間にたいらげた。

 ――メリークリスマス。

 誰かがそう言った。


 目が覚めると、まだ夜半だった。部屋は暗く、同室の男たちの寝息が聞こえてくる。夢を見た後、悲しくなることもあるが、この時はニヤニヤしていた。楽しい夢だった。味は覚えていない。夢のなかに置き忘れてきてしまった。それでも幸せな気分だった。

 ――本当に美味しい七面鳥を食べるまでは死ねないな。

 あたたかな思いを胸に、俺はふたたび眠りについたのだった。



終わり

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