棺桶の中は

富升針清

第1話 私 (1)

 昔から、母と折り合いが悪かった。


 その一言だけで、私という人間の説明には十分なものだった。

 あと数ヶ月で三十に差し掛かる私の顔は、化粧っ気もなくのっぺりしていて美しくもない。だけど、体の発育だけは良く自分だけではなく母もそこを酷く忌み嫌っていた。そして、私とは真逆の妹を酷く溺れるように愛していた。

 妹と比べられるだけの人生だった。

 妹は西洋人形のように可愛らしく、そして我儘という名の天真爛漫を纏った私にとっては悪魔のような妹だった。

 妹が悪いわけではない。妹のように出来ない私が悪いだけ。子供の頃はそう思い込んでは、必死に親に目を向けてもらうためだけに、学業にも運動にも精をだした。しかし、年を越すにつれてそれが如何に無意味かを思い知らされる。どれだけ頑張っても、何に一番になっても、何処で私が何をしても、両親の目は私に向くことはなかった。

 高校を卒業し、私は誰にも行き先を告げることなくあの村を出て、一人で生きていく事を決めた。

 あの夜、おやすみなさいの言葉がいつものように返ってこなかった夜から、私はあの村にを踏み入れることはなかった。そして、当たり前のように親からの連絡もない。

 恐らく、私がいなくなったことに気付いていないのだろう。家族は十数年が経とうとしている今でも。伽藍堂な私の部屋にまだ私が寝ていると思っているかもしれない。

 私は生きていたのに。

 一度も見向きをしなかった家族はそれすら知らなかったのかもしれない。

 なら、知らないままでいい。

 これからも、ずっとずっと。そう思っていたのに。

 ある日の昼下がり、鳴らないはずの私の携帯が揺れる。

 私には友人は愚か、知人と呼べる人もいない。誰からもかかって来るはずがない携帯電話。

 その携帯が揺れている。

 私はその現象に驚きを隠されなかったが、それ以上に驚いたのは発信先の名前である。

 携帯の画面には『母』と書かれていたからだ。

 一体、何故。今頃になって。様々な気持ちが浮かんでは弾けて消える。どうしよう。私が手を伸ばせずにいる間にも、着信は続いて行く。

 私は思い悩んだ末、電話に出る事にした。

 しかし、それは母の声ではなかった。


『サトコお姉ちゃん』


 電話の向こうからは妹の声がした。

 少しだけ、残念な気持ちが湧き上がるかと思えば、ホッとした気持ちが私の肩を下がらせる。


「ミヤコ?」


 忘れたかった妹の名前を呼ぶ。


『ああ、良かった。繋がった。久しぶりだね』


 ミヤコの声は十数年音信不通だった姉にかけるには随分と軽すぎるように私は感じた。

 たったことんなことでも、私の気持ちが沈んでいくのがわかる。

 ああ、やっぱり。

 私が居てもいなくても変わらないのか。


「なにか用?」


 チクリと胸に刺さる痛みを隠すように、早く電話が切れることを願いながら冷たい言葉が出る。


『そうそう、電話かかってよかった。普通だったら電話番号変えるのに変えてないのびっくりしちゃった。私だったらすぐ変えるのに。本当お姉ちゃんっぽいね』


 何故彼女はこんなにも、私にとって嫌な言葉ばかり並べられるのか。

 痛みは嫌悪に変わって行く。


「用がないなら切らせて。今、職場なの」


 嫌味を言うために、わざわざこんな平日の昼に電話をかけてきたのか。

 無邪気ではなく、最早無神経だ。


『あ、仕事中だった? 仕事あるんだ。ごめんね、考えてもみなかったから』


 家を出て十数年間の私がどんな生活を送っていたのかさえ、妹は考えてもみなかったらしい。

 これには腹立たしさを通り越して、呆れと憐れみが沸いてくる。

 私だってそうだ。妹の今の生活なんて想像がつかない。こんな昼間に無神経に何も考えずに電話が出来る環境とは一体どんなものなのだろうか。

 色々な可能性よりも先に碌でもないという単語しかあがってこないのだから。


「用がないなら切るね」


 自意識過剰かもしれないか、何処か小馬鹿にされている口調と態度に私は自分でも驚くほどの冷たい声を出す。

 家にいたことろは、決してこんな声を妹に向けはしなかった。いや、出来なかったと言うのが正しいだろう。

 報復も親からの視線も、何処にも逃げ場のなかった私は怖かったのだ。しかし、今は逃げられない恐怖なんて何処にもない。逃げた先に私はいるのだから。

 そう思うと、私はあのころよりも強くなったのかもしれない。


『えっ。えっ。なんで? あ、そっか。仕事なんだっけ。ごめんごめん。お姉ちゃんと話すの懐かしかったからついつい違う話しちゃって。ちゃんと用事があって電話したんだから、切られたら困っちゃうよ』

「そう。なら早くしてくれる?」


 ずっと困ってればいいのに。

 意地悪な私は、そう思って目を細めた。何か助けてくれという内容だろうか。

 妹がやらかしたことの尻を拭え? 実家の資金繰りがよくないから金を出せ? それとも、誰かの介護役を押し付けようとしているのだろうか。

 勿論、そんなことを言われてわかりましたと実家に帰る気なんてない。

 そんなことは断わると、電話を切ってお望み通りその足で携帯電話番号を変更してやる。

 もう今日のやり取りで私の中に残っていた家族への気持ちは完全に切れてしまったのだから、思い残すことはなにもない。

 お姉ちゃんっぽいところを残す必要すら。


『わかったって。あのね、お母さん死んじゃったの』


 それは十数年ぶりに私に電話をかけてくるよりも軽い口調だった。


「……なんて?」


 その軽い口調に見合わない内容に、私は耳を疑うよりも早く妹を疑った。

 なにか悪い冗談? 私をおどろかせるために言った?

 しかし、そんな疑いはなんと無意味なものだっだろうか。


『私もよく知らないんだよね。そろそろ死ぬってお医者さんには言われてたんだけど、私お母さんが死んだ時は寝てたし、朝方起こされて知ったからさなんでって言われてもよくかわんない』

「ほ、本当にお母さんが亡くなったのっ!?」


 私は周りの視線も気にも留めず、のんきな妹に大きな声をだした。


『うん。葬儀会場にいるし、死んだんだと思うよ。私は脈とか測ってないから、絶対とかはわかんないけど』

「そんな話をしてるわけないでしょっ!? そろそろ死ぬって、お母さん病気だったの……?」


 そんな話、聞いていない。

 いや、私が実家と、いや。母と連絡を取らなかったから? そんなことになっていたなんて知らない。

 だって、十数年前の母は元気だったじゃないっ!

 そう叫ぼうとして、はっと私は口を抑えた。

 そうだ。私はわざと考えないようにしていたのだ。数十年とは、それを簡単に変えてしまう程の時間だったという当たり前のことを。

 そして、心のどこかではそうなる日が来ることを常に考えていたことも。

 それは私がずっと願っていた私に謝り涙を流す母の姿よりも、随分と簡単な現実だもの。


『みたい。お父さんからなにか言われたけど、難しくてよくわかんなかった』

「……そうなの」


 あれだけ母に愛されていた妹は、まるで小学生のまま時が止まったような言葉を簡単に私の前に並べている。

 母の死に対して自分が思って以上にショックだったよりも、妹の時間が止まっていることに途方もないやりきれない気持の方が今は大きかった。


『で、おばさんがお姉ちゃんに明日の夜お通夜だった伝えろって私に怒って来たんだけど、どうすればいい?』

「え? どうすればって……」

『わかんない。そう言われて、忙しそうにどっかいっちゃったし』

「それって……、帰ってこいってこと……?」


 そう言われたのではないのか?

 私が聞き返すと、妹は驚いた声をあげた。


『えっ! なんで? だって、お姉ちゃん今お母さんが死んで嬉しいでしょ? そんな気持ちで帰ってこられても、私もお父さんも迷惑じゃない? 家族が死んだんだし』


 妹の言葉に、思わず口が閉じる。

 そうだ。

 私は母と折り合いが悪かった。

 母は私のことを愛してくれていなかった。

 私も母のことを愛せなかった。

 でも、嬉しいだなんて……。それに、家族が死んだのは私も同じなのに……。

 そう思った瞬間、カッと怒りなのか、それとももっと別のなにかなのか。自分でもよくわからない感情の熱風が私の心を包み込む。


「……帰るわ」

『えっ? 本当に?』

「ええ。明日の朝ぐらいに祭儀場へ向かうと思うから。宿泊も近くのホテルを取るわ」

『家に帰ってこないの?』

「なんで?」


 だって、私の家族ではないんでしょ?

 売り言葉に買い言葉だとわかっているのに、苛立ちが収まらない。

 本当はあんな村に帰りたくない。母の死をまだ受け入れれない。けど、そこまで蚊帳の外にされるいわれはないだろう。

 いかない方がいい。このまま携帯番号を変えて二度と妹に近寄らない方がいい。私の人生のためにも。

 そんなことはわかっているのに、妹の思いの通りになるのがどうしても我慢ならないのだ。

 こんなにも怒りが、憎しみが蓄積されていたなんて、今まで私でさえ知らなかったのに。


『なんでって……、可哀そうだから?』


 それは一体なにに対する憐れみなのか。


「……貴女よりはマシよ」


 私は忌々しい声をあげて携帯を切ると、そのまま何事もないように仕事に戻った。

 今から新幹線に飛び乗ってもあの村に続くバスの最終には間に合わない。

 間に合ったところで、母は死んだのだ。

 私は、母の顔を思い出す。

 決して私を見てくれなかった母。

 決して、愛を与えてくれなかった母。

 いい思い出などなにもない。

 けど、母の声も顔をいつまでも思い出せれる。

 私の中に悲しみはなかった。

 しかし、絶望は確かにあった。

 きっと私は、母の遺体の前で泣くことも出来ないのだろう。

 絶望と悲しみは、違うのだ。

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