約束《後編》
『アムネシア』という人物について知ったのは、ネアが街を去っていった数年後のことだった。
ネアの帰りをあの塀で待っていると、『アムネシア』について知っているという人物が突然現れた。
ネア……『アムネシア』という人物は
彼女に記憶がないのは、力の代償が記憶と引き換えなのだということ。
そして彼女は今――――反動で深い眠りについているということ。
「……それを自分に話して、どうするんですか?」
「……彼女は最期まで、アナタの記憶と思い出を手放そうとはしませんでした。まぁ最終的には、顔も名前も思い出せなくなっていたようですが……余程アナタとの記憶や思い出は、彼女にとって大切だったのでしょう」
表情を変えずに淡々と言葉を発する目の前の人物を、今すぐ殴りたくなった。
「しかしそのおかげで、この世界もアナタも平和なのは事実です」
「彼女の犠牲の上に成り立った平和です……」
「その通りです……が、彼女が願ったのもまた事実です」
「……もういいですか?」
話していても埒が明かない。この人に怒りをぶつける前に、この場から少しでも早く去りたかった。
「……最後に一つ」
「まだあるんですか?」
「彼女との『約束』……叶うといいですね」
「……っ!」
頭の中で、何かがプツンと切れる音がした。
次の瞬間には、手の甲に硬い感触が伝わってきた。
生まれて初めてのその感触は、痛みとともになんとも言い表せない感情を呼び起こした。
その後自分は、目の前の人物に怒鳴りながら何かを言ったが激昂していてよく覚えていない。
覚えているのはその日、初めて人を殴ったことだった。
◇
それから数十年が経った。
自分が歳をとったということもあり、以前ほどあの塀に通う頻度は減った。
もう自分が生きている間で、彼女に会うことは無理なのかもしれない。だがそれでも彼女をあの塀で待つのは、あの時に会った人物の言葉もあるだろう。
「今日、会えなければ……諦めよう」
そう口にするのは、何度目だろうか。
口では諦めると言いつつ、足は自然とココへ来る。
そうやって何日も、何ヶ月も、何年も……そうやって数十年、今日まで通ってきたのだ。
今日も日が暮れ始め、帰路につこうと振り返る。
――――するとそこには、見慣れた姿があった。
昔と変わらない背丈に、変わらない髪。変わらない声で――――。
「こんばんは」
「キミは……」
彼女だった。
初めて意識した時、友人になった日。あの日、別れた日から……ずっとずっと――――。
「ネア……!」
変わらない、彼女だった。
嬉しくて、思わず手を伸ばす。
「良かった、無事――」
「アナタは私を知っているの?」
彼女の一言で、改めて気づいた。
『彼女は最期まで、アナタとの記憶を手放そうとはしませんでした。最終的には、顔も名前も――――』
――――そうだ。彼女はもう、自分を覚えてはいないのだ。
彼女へと伸ばした手の力が抜ける。
その手を掴んだのは、紛れもない彼女だった。
「……私、記憶がないのだけど……アナタを見てると、なんだか懐かしい気持ちになるわ」
彼女は掴んだ自分の手を、優しく包み込むように握る。
「私、誰かに……なにかを伝えないといけないって、ずっと思っていたけど……今、ようやく分かったわ」
目の前の彼女は、あの日『約束のおまじない』をした時の……自分の記憶の中の彼女と、同じく笑う。
「ただいま」
「あぁ……おかえり」
おかえり、親愛なるアムネシア。
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