忘却魔法と約束のおまじない

斐古

約束《前編》

 気づいた時には、一人で街を見渡せる塀の上に座っていた。


 自分の用事もあり、日をまたいで何度か彼女を見つけた。最初こそ一日中、塀の上に座っている『物好きなヤツ』としか思っていなかった。


 座っている彼女は微動だにせず、そのせいかどこか人を寄せつけない雰囲気を持っていた。

 そして日が経つにつれ、彼女のその姿は自分の中で徐々に『日常』へと変わっていった。


 だから彼女を『初めて見た日』が、いつだったかはあまり覚えていない。




 だがそんな彼女を『意識するようになった日』は、鮮明に覚えている。







 とある冬の昼下がりだった。


 連日続いていた雪がようやく降り止み、灰色の雲に覆われた空から少しだけ光が差し込んだ。


 ――――その光の先に、彼女がいたのだ。


 時間にすると、一分にも満たなかっただろう。だがその一瞬がまるで『この世界の全てだ』と錯覚してしまうほど、あの時の彼女は神々しく……とても美しかった。







 それから、彼女をよく目で追うようになった。


 晴れの日はもちろん、雨や雪が降れば傘をさし。朝から夕方まで……ずっと一人で一日中、塀の上に座っていた。


 彼女を目で追うようになってから、いくつか気づいたことがあった。


 彼女は一日中、街を見ているわけではなかった。ある日は読書を、ある日はスケッチを。またある日は鳥にパンを取られ……そのまたある日はうたた寝をして塀から落ちかけていたり。


 ……という姿を見て、彼女は自分が思っているよりもずっとマイペースで危なっかしい人なのかもしれない。

 そう思ったある日、思い切って彼女に声をかけてみることにした。


「あ、あの……」

「………………」


 聞こえなかったのだろうか。もう一度声をかけてみる。


「あの、さ!」

「………………」

「今日はいい天気だね!」

「………………」

「………………」

「………………」


 先程よりも大きな声で話しかけてはみたものの、彼女からの返事は無い。それどころか、完全に無視されている。

 それはそうだ。自分が一方的に彼女を知っているだけで、彼女自身は自分のことなど知らないだろ。


「………………」


 知り合いでもなんでもない自分が声をかけたところで――――。


「…………ねぇ」


 きびすを返して立ち去ろうとした自分の背に、小鳥のような声が問いかける。


「……もしかしてだけど、私に話しかけてる?」


 振り返れば、先程まで全く反応のなかった彼女が、自分の方へと上半身を向けていた。


「……あれ、違った?」

「えっ……あっ、そう!」


 慌ててそう答えると、彼女は「そう……勘違いじゃなくて良かった」と少し笑う、


「……ヒトに話しかけられたのは初めてで。無視したみたいになっちゃった。気を悪くしてしまったら、ごめんなさい」

「いや! 知らない人から話しかけられたら、自分も同じことするだろうし! こっちこそ、急に話しかけてゴメン……」


 彼女は首を横にふると、まるで隣に来ることを促すようにポンポンと塀を叩く。自分はおずおずと彼女に近づくと、隣に腰を下ろした。


「……私、アナタを知ってるわ。いつもあそこに居るでしょ?」

「自分を知ってるの!?」

「えぇ、ココは街がよく見えるから」


 彼女の思いがけない言葉に驚いた。しかしよく考えてみれば、自分から彼女の位置が見えているのだ。彼女から自分が見えていても、何もおかしくないのだということに気がついた。


「実は自分も、キミがいつもココに居ることを知ってて……」

「あら? 私がいつもココに居ると気づいていたの?」


 彼女が首を傾げて、自分は気づく。今、いかに自分が気色が悪いことを言ったのか……と。


「ご、ゴメン……」

「気にしないで。私だってアナタを知っていたのだもの、アナタが私を知ってても何も不思議ではないわ」


 彼女は何も気にしない素振りで「奇遇ね」と笑う。


「そういえば、自己紹介がまだだったわね。私の名前はアムネシア。ネアと呼んで。アナタは?」

「自分はリコード。周りからはリコって呼ばれてるよ」

「そう、リコ……覚えたわ。よろしくね、リコ」


 彼女から差し出された手に、少し戸惑いつつも自分の手を差し出して握る。




 その日、自分は彼女――ネアと友人になった。

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