初めて愛した人
公爵は久しぶりに少女の夢を見ました。その時が近づいているのかもしれません。
心地よい記憶に浸りながら瞼を開けると、少年のやんちゃな瞳が顔を覗き込んでいます。公爵は驚きながら体を起こしました。すると少年は慌てて小部屋まで逃げていきます。
「どうかしたのか?」
「別に!」
「そうか」
怯えはあるものの寝ている間はよく側まで来ているようです。もうフォークを振り回すことはなく、吸血鬼を殺める力もないため、公爵は好きにさせていました。ただどこか小動物のような少年を見て、公爵の口元には自然と笑みが浮かびます。
「昼食は食べたのか?」
「…………」
「口に合ったか?」
「……お前は食べないのかよ」
「ん? 血を飲んで欲しいのか?」
「んっなわけ!」
公爵は喉を震わせて笑います。今の公爵は人間を食料としてしか考えていなかった血の気の多い時代を想像できないほど穏やかです。
「なんで飲まないんだよ。お前、ガリガリだろ」
「私のことが心配なのか?」
「そっ、そういう訳じゃなくて!」
相手が吸血鬼だというのに、少年は弱っている者を放っておくことができないようです。ただ公爵もその感情に身に覚えがあります。天にいる彼女が日向ぼっこが好きで、足が不自由になってからは見るに見かねてバルコニーに出るのを手伝っていました。
「人間は日光浴が必要なのだろう?」
公爵は少年をバルコニーに誘います。バルコニーに出る扉も重いもので、毎日開けてやろうと考えました。すると、少年が慌てたように公爵のマントを引っ張りました。
「出たら死ぬだろ!」
「……あぁ、私はそんな軟ではない」
「な……」
日差しの下に平然と出ていく公爵を見て驚き、少年はあんぐりと口を開けました。吸血鬼は日光を浴びれば消滅すると教えられていたのですから。
「下級や屍鬼は日に弱い。お前が言っているのは彼らのことだろう」
「じゃあ、どうやってやつけるっていうんだよ!」
「……私を倒すつもりだったのか」
「あっ、これは……」
公爵が少年の手元に視線をやると慌ててマントの裾から手を離しました。損得なしに咄嗟に手が出てしまうのでしょう。ちぐはぐな行動ですが、それが少年の優しさからくるものだと公爵はわかっています。
優しいという言葉を教わったのも彼女からでした。彼女が遺したものがしっかりと公爵の中に残っているのですから嬉しくてたまりません。
「この椅子を使うといい」
バルコニーの下が底の見えない崖になっていることに気付いておっかなびっくりしている少年を抱き上げて椅子に座らせました。性格も顔も似ても似つかない少年ですが、髪色と後姿は似ています。公爵が浸るのはそこにある思い出でした。
その日から公爵はゆっくりですが体力が落ちはじめたことを実感します。体は飢餓状態となり、しばしば少年が側にいるだけで血の匂いがするような錯覚に陥りました。少年の首に無意識に視線が向いていることもあります。満月の夜は特にそれが顕著でした。
限界だと、公爵は昔なじみの吸血鬼に宛てて手紙を送ります。少年を引き取るように依頼したのです。
「俺、他の吸血鬼の所に行くの?」
少年は不安そうです。公爵が恐れる対象ではなくなっているため、今更違う吸血鬼のところに行けといわれて戸惑うのも無理ありません。
「私はじき消滅する。そうすれば下級どもが押し寄せてくるだろう。彼らに食い散らかされるより、貴族に飼われる方がいい」
「く、食い散らかさ、れ……」
「稀血は貴重だ。悪いようにはされない。ただ飛び蹴りは控えるように」
「ぅぐっ」
共に過ごした時間は短いものでしたが、少年の性格は単純明快で、移った後の行動も予想ができます。
「どうしてそこまで死にたいと思うんだよ……」
「……恋人に会いに行くためだ」
「え? 恋人? 恋人いたの?」
「ああ。彼女はお前と同じ稀血だった」
五百年前、この屋敷にやってきたこと。彼女が人間であったこと、最後を看取ったことを少年に伝えました。まだ幼い少年には刺激が強い内容でしたが、公爵が語る口調から本当に恋をしていたのだと感じ取りました。
「死んで天で会えるかはわからないが、彼女との約束を果たせる」
「……そんな約束……俺なら好きな人には長生きして欲しいって思うけど」
公爵は少年の反応に目を細めます。
「……そうだな。お前は正しいのかもしれない」
「え……どういうこと?」
「私は偶然彼女の手記を見てしまった」
彼女が亡くなった後、公爵は知ってしまったのです。彼女が吸血鬼に対して憎しみしか持っていなかったことを。家族を殺され、偶然にも生き残った彼女は幼くして体を売ることを余儀なくされました。最終的に吸血鬼に飼われ、人生の全てを翻弄されたと言っても過言ではありません。公爵と交わした約束は復讐心から為されたものかもしれないのです。
「わかってるならなんで!」
「……初めて愛した人だからだ」
少年は言葉を失いました。何も言えることはありませんでした。代わりにぼろぼろと涙を零しました。公爵はまるで自分のことのように悲しむ少年を静かに見つめます。吸血鬼にはない感情を持っていますから、人間とは不思議なものです。
「お前……馬鹿じゃん……っ」
涙声でそういうと顔を隠すようにして少年は部屋へ戻っていきました。
公爵はどうして少年に打ち明けようと思ったのかわかりません。ただしばらくの間、少年が駆け込んで行った小部屋の扉をじっと眺めていました。
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